2024.8.31 Twitter(X)から転載…光る君へとコラボの「歴史探偵」のこと。そして、『華鏡』がやっと動き出しました。紫式部と具平親王の関係を巡って考えていたら・・・
8月27日
写真は光る君への後の紀行で紹介された六条院モデルとされる源融河原院跡ですが たまたま間違ってダウンロードした藍美喜子氏「紫式部と六条宮・具平親王」を え、何? といった面持ちで拝読していたら 六条院のモデルは具平親王の六条にあった千種殿ではないかと 千種殿説はたしか角田文衛氏も
書かれていたと思うけど あの時は具平親王が六条宮と呼ばれていることを知らなくて通過してしまっていた でも 六条御息所とか六条院とか「六条」に強い拘りを感じると 六条宮の千種殿説は俄然興味深く浮かび上がりますね このご論考 道長とのことも書かれていて光る君へと重なる部分もありました
明日の「歴史探偵」予告にあった一条天皇に差し上げるための源氏物語の豪華な本 河添房江先生が紹介された王朝継ぎ紙研究会で制作されたそう カルチャーで半年通ったところだから懐かしいです 主宰の近藤陽子先生は近藤富枝先生のお嬢様 近藤富枝先生が始められた会を継いでいられます
写真の葉書は平成25年の時の作品展のご案内 今年もあるらしいけど脚の不調がまだ治らず行かれません 行ったら豪華本制作のお話など伺えるのにとても残念 この教室 それぞれが思い思いに料紙を制作していてまるで内裏での女房生活みたいな感覚でした
8月28日
こういうご本がありました 近藤富枝先生監修・王朝継ぎ紙研究会『源氏物語ーその愛とかなしみー 王朝継ぎ紙による五十四帖』 2008年の刊行でした 中はとにかく全部ご紹介したいくらい素敵です
藍美喜子氏「紫式部と六条の宮・具平親王」がなんか気になって読み返しています(何が気になっているのかもわからないから尚更気になって) 源氏物語六条院のモデルとされる河原院と藍美喜子氏がの拘る千種殿の地図 千種殿のすぐ北東に夕顔邸があります この地図ではなにがしの院は千種殿
藍美喜子氏: 源氏物語は、六条の宮邸(計四町の広大な邸宅であった)の豪華さが人々の耳目に馴染んでいた時期の物語である。多くを語らずとも、同時代の人々に六条院と言えばすなわち六条の宮邸、という地名の映発が感じ取られたと推定することはごく自然ではないかと思われる。
具平親王は近藤富枝先生の『紫式部の恋』でお名前を知り関心を持ってきました 藍美喜子氏は紫式部は宣孝を亡くしたあと具平親王邸に出仕していたのではないかと推察されます 中宮彰子に出仕するまでの 源氏物語を書き始めて評判になった頃の紫式部です 光る君へを見ていると家計の為にという考え方
がいとさんのセリフにあって それならこの期間具平親王邸に出仕していたとしてもありうるかなあと その頃道長と親王は頻繁に交流していてそんなことから頼通と親王の娘隆子の縁談がまとまるのですが 紫式部日記にある道長の そなたの心よせ有る人 の文章を今更にどう解釈するか 謎
歴史探偵光る君へ 楽しみにしていたのだけれど予期した以上に充実して 写本研究に従事している身としてはもうこれからあり得ないだろう内容の盛りだくさんでした 私としてはやはり冒頭の千葉県飯沼山圓福寺様所蔵の鎌倉初期の源氏物語写本幻巻 どんなふうにして伝来したのでしょう 表紙が豪華です
王朝継ぎ紙研究会の近藤陽子先生 私が受講したのは鎌倉の活動に入ってしまい半年で辞めたからもう十年以上前 なのに全然お変わりなくいらして素敵でした 教室では上級者から入門したての私まで全段階の方が一緒に制作してたから 私が必死に継ぎ紙をしてるのに 和紙を染めたり 箔押しをされたり
上級者さん方の制作を横目に いつか私もあれをしたいと憧れていました 特に染め紙をしたかった 鎌倉の活動が終わったら復帰するつもりだったのにあんなに長引くとは思ってもいませんでした でも ほんと 紙っていいですね こうツイートしていても胸が高鳴ります
鎌倉初期の源氏物語写本を所蔵されていた千葉県飯沼山圓福寺様を検索したら 源氏物語だけでなく伊勢物語徒然草など毎月寺宝展を開かれるほど所蔵されていてびっくり 歴史探偵放映の記念に幻巻が展示されるそうだけど 若菜巻も持ってらっしゃる 伝来ではなく蒐集されての所蔵でしょうか
昨夜の圓福寺様所蔵源氏物語幻巻 書体がとても美しく鎌倉初期の写本だけれど平安時代の面影を残していると 私は仏像も万葉集の写本もなにもかも平安時代の作風が好きで 時代が降るとなんでも無骨になっていくのが嫌で だからこちらの書体の優雅さに惹きつけられました
文字は時代によって変化していくと 昨夜番組でも語られていました
写本の書体についての話があったので尾州家河内本源氏物語はどうだったかしらと 八木書店様の影印本チラシを出してみました 鎌倉中期だけれど美しい書体でそれで私は憧れたのだったけどと やはりそう力強い筆跡ではなく美しいです この写本は大型本だけれど長方形 昨夜の論だと高貴な層の写本です
8月29日
昨夜の歴史探偵光る君へ 道長が2000枚もの高価な紙を用意したから紫式部が源氏物語を書けたというお話 作家のエモーショナルな力あっての文学という事が学者の方には思考の範疇に入らないのだなあと思って納得していません 拘っていた藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」のご論考 まさに重なる
のでTVに映った年譜をノートに書き入れてみました 彰子が中宮になった翌年に宣孝が死去 それから数年後に紫式部が彰子のもとに出仕 その数年間に番組では道長が書くことを依頼したとありますが 藍氏ご論考ではこの時期紫式部は具平親王邸に出仕していたのではないかと それが紫式部日記のそなた
に心よせのある の謎めいた文章 紫式部は具平親王側の人なんですね 具平親王は紫式部の祖母の姪で村上天皇女御の荘子女王の皇子です 寛和の変で失脚した為時を庇護しています 具平親王近くにいた紫式部は容易に紙を入手できたはず さらに長い源氏物語 一気に2000枚が必要なんてことないはずです
御堂関白記に道長は数年間のこの時期 具平親王と頻繁に交流していて それで子息と娘を結婚させるまでの仲に 具平親王側の紫式部がなぜ道長邸に出仕したかが謎ですが すでに具平親王のもとで源氏物語を書いていて その評判で中宮彰子に仕えるよう依頼したとした と考えるといいのでしょうか
あ これだと 道長は面白い物語を書く紫式部という女性を具平親王から聞いて知ったとなりますね ドラマでは公任から聞いたとなっていましたが でも 具平親王邸での文学サロンには公任がいましたから 公任から聞いたでも合ってる? なんか繋がりそう その文学サロンの場が千種殿です
藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」で紫式部は宣孝の死後具平親王邸に出仕していたのではないかとあり その頃道長と具平親王が頻繁に交流しているので 或は道長は具平親王から紫式部の話を聞いて中宮彰子への出仕を思い立ったかと思ったのですが 中野幸一先生『紫式部日記』の年譜で確認したら
それは無理で 中野先生も具平親王家への出仕の可能性は考えていられて それは紫式部という伺候名から推測して為時が式部省の役職であった越前赴任以前だろうと 道長と具平親王が頻繁に交流していた頃にはもう紫式部は源氏物語を書き始めていたから 道長が具平親王からそれを聞いただろうことは可能
外の大雨の音を気にしながら 紫式部の具平親王家への出仕の可能性を探っていました 順調に書き進めていた華鏡でしたが 荘子女王の項に至って筆が止まり悩んでいたのでした 藍美喜子氏ご論考できっかけを頂き 自分で作った年譜との照合を終えてだいたいの目処が 思いがけない展開になりました
具平親王家への出仕は そこに母君の荘子女王がいられます 村上天皇の女御だった方に20代前半に出仕したとしたら…… 源氏物語の女主人公の殆どが村上天皇の後宮の女御がモデルという事がどういうことを意味するか 自明と思います