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2024.8.31 Twitter(X)から転載…光る君へとコラボの「歴史探偵」のこと。そして、『華鏡』がやっと動き出しました。紫式部と具平親王の関係を巡って考えていたら・・・

8月27日

写真は光る君への後の紀行で紹介された六条院モデルとされる源融河原院跡ですが たまたま間違ってダウンロードした藍美喜子氏「紫式部と六条宮・具平親王」を え、何? といった面持ちで拝読していたら 六条院のモデルは具平親王の六条にあった千種殿ではないかと 千種殿説はたしか角田文衛氏も

 

書かれていたと思うけど あの時は具平親王が六条宮と呼ばれていることを知らなくて通過してしまっていた でも 六条御息所とか六条院とか「六条」に強い拘りを感じると 六条宮の千種殿説は俄然興味深く浮かび上がりますね このご論考 道長とのことも書かれていて光る君へと重なる部分もありました

 

明日の「歴史探偵」予告にあった一条天皇に差し上げるための源氏物語の豪華な本 河添房江先生が紹介された王朝継ぎ紙研究会で制作されたそう カルチャーで半年通ったところだから懐かしいです 主宰の近藤陽子先生は近藤富枝先生のお嬢様 近藤富枝先生が始められた会を継いでいられます

 

写真の葉書は平成25年の時の作品展のご案内 今年もあるらしいけど脚の不調がまだ治らず行かれません 行ったら豪華本制作のお話など伺えるのにとても残念 この教室 それぞれが思い思いに料紙を制作していてまるで内裏での女房生活みたいな感覚でした

 

8月28日

こういうご本がありました 近藤富枝先生監修・王朝継ぎ紙研究会『源氏物語ーその愛とかなしみー 王朝継ぎ紙による五十四帖』 2008年の刊行でした 中はとにかく全部ご紹介したいくらい素敵です

 

藍美喜子氏「紫式部と六条の宮・具平親王」がなんか気になって読み返しています(何が気になっているのかもわからないから尚更気になって) 源氏物語六条院のモデルとされる河原院と藍美喜子氏がの拘る千種殿の地図 千種殿のすぐ北東に夕顔邸があります この地図ではなにがしの院は千種殿

 

藍美喜子氏: 源氏物語は、六条の宮邸(計四町の広大な邸宅であった)の豪華さが人々の耳目に馴染んでいた時期の物語である。多くを語らずとも、同時代の人々に六条院と言えばすなわち六条の宮邸、という地名の映発が感じ取られたと推定することはごく自然ではないかと思われる。

 

具平親王は近藤富枝先生の『紫式部の恋』でお名前を知り関心を持ってきました 藍美喜子氏は紫式部は宣孝を亡くしたあと具平親王邸に出仕していたのではないかと推察されます 中宮彰子に出仕するまでの 源氏物語を書き始めて評判になった頃の紫式部です 光る君へを見ていると家計の為にという考え方

 

がいとさんのセリフにあって それならこの期間具平親王邸に出仕していたとしてもありうるかなあと その頃道長と親王は頻繁に交流していてそんなことから頼通と親王の娘隆子の縁談がまとまるのですが 紫式部日記にある道長の そなたの心よせ有る人 の文章を今更にどう解釈するか 謎

 

歴史探偵光る君へ 楽しみにしていたのだけれど予期した以上に充実して 写本研究に従事している身としてはもうこれからあり得ないだろう内容の盛りだくさんでした 私としてはやはり冒頭の千葉県飯沼山圓福寺様所蔵の鎌倉初期の源氏物語写本幻巻 どんなふうにして伝来したのでしょう 表紙が豪華です

 

王朝継ぎ紙研究会の近藤陽子先生 私が受講したのは鎌倉の活動に入ってしまい半年で辞めたからもう十年以上前 なのに全然お変わりなくいらして素敵でした 教室では上級者から入門したての私まで全段階の方が一緒に制作してたから 私が必死に継ぎ紙をしてるのに 和紙を染めたり 箔押しをされたり

 

上級者さん方の制作を横目に いつか私もあれをしたいと憧れていました 特に染め紙をしたかった 鎌倉の活動が終わったら復帰するつもりだったのにあんなに長引くとは思ってもいませんでした でも ほんと 紙っていいですね こうツイートしていても胸が高鳴ります

 

鎌倉初期の源氏物語写本を所蔵されていた千葉県飯沼山圓福寺様を検索したら 源氏物語だけでなく伊勢物語徒然草など毎月寺宝展を開かれるほど所蔵されていてびっくり 歴史探偵放映の記念に幻巻が展示されるそうだけど 若菜巻も持ってらっしゃる 伝来ではなく蒐集されての所蔵でしょうか

 

昨夜の圓福寺様所蔵源氏物語幻巻 書体がとても美しく鎌倉初期の写本だけれど平安時代の面影を残していると 私は仏像も万葉集の写本もなにもかも平安時代の作風が好きで 時代が降るとなんでも無骨になっていくのが嫌で だからこちらの書体の優雅さに惹きつけられました

 

文字は時代によって変化していくと 昨夜番組でも語られていました

 

写本の書体についての話があったので尾州家河内本源氏物語はどうだったかしらと 八木書店様の影印本チラシを出してみました 鎌倉中期だけれど美しい書体でそれで私は憧れたのだったけどと やはりそう力強い筆跡ではなく美しいです この写本は大型本だけれど長方形 昨夜の論だと高貴な層の写本です

 

8月29日

昨夜の歴史探偵光る君へ 道長が2000枚もの高価な紙を用意したから紫式部が源氏物語を書けたというお話 作家のエモーショナルな力あっての文学という事が学者の方には思考の範疇に入らないのだなあと思って納得していません 拘っていた藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」のご論考 まさに重なる

 

のでTVに映った年譜をノートに書き入れてみました 彰子が中宮になった翌年に宣孝が死去 それから数年後に紫式部が彰子のもとに出仕 その数年間に番組では道長が書くことを依頼したとありますが 藍氏ご論考ではこの時期紫式部は具平親王邸に出仕していたのではないかと それが紫式部日記のそなた

 

に心よせのある の謎めいた文章 紫式部は具平親王側の人なんですね 具平親王は紫式部の祖母の姪で村上天皇女御の荘子女王の皇子です 寛和の変で失脚した為時を庇護しています 具平親王近くにいた紫式部は容易に紙を入手できたはず さらに長い源氏物語 一気に2000枚が必要なんてことないはずです

 

御堂関白記に道長は数年間のこの時期 具平親王と頻繁に交流していて それで子息と娘を結婚させるまでの仲に 具平親王側の紫式部がなぜ道長邸に出仕したかが謎ですが すでに具平親王のもとで源氏物語を書いていて その評判で中宮彰子に仕えるよう依頼したとした と考えるといいのでしょうか

 

あ これだと 道長は面白い物語を書く紫式部という女性を具平親王から聞いて知ったとなりますね ドラマでは公任から聞いたとなっていましたが でも 具平親王邸での文学サロンには公任がいましたから 公任から聞いたでも合ってる? なんか繋がりそう その文学サロンの場が千種殿です

 

藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」で紫式部は宣孝の死後具平親王邸に出仕していたのではないかとあり その頃道長と具平親王が頻繁に交流しているので 或は道長は具平親王から紫式部の話を聞いて中宮彰子への出仕を思い立ったかと思ったのですが 中野幸一先生『紫式部日記』の年譜で確認したら

 

それは無理で 中野先生も具平親王家への出仕の可能性は考えていられて それは紫式部という伺候名から推測して為時が式部省の役職であった越前赴任以前だろうと 道長と具平親王が頻繁に交流していた頃にはもう紫式部は源氏物語を書き始めていたから 道長が具平親王からそれを聞いただろうことは可能

 

外の大雨の音を気にしながら 紫式部の具平親王家への出仕の可能性を探っていました 順調に書き進めていた華鏡でしたが 荘子女王の項に至って筆が止まり悩んでいたのでした 藍美喜子氏ご論考できっかけを頂き 自分で作った年譜との照合を終えてだいたいの目処が 思いがけない展開になりました

 

具平親王家への出仕は そこに母君の荘子女王がいられます 村上天皇の女御だった方に20代前半に出仕したとしたら…… 源氏物語の女主人公の殆どが村上天皇の後宮の女御がモデルという事がどういうことを意味するか 自明と思います

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2024.8.31 Twitter(X)から転載…光る君へとコラボのNHK「歴史探偵」、一条天皇に献上される『源氏物語』の豪華な写本を巡って貴重なお話が満載。王朝継ぎ紙研究会様による復元も試みられて至福の番組でした

8月27日

写真は光る君への後の紀行で紹介された六条院モデルとされる源融河原院跡ですが たまたま間違ってダウンロードした藍美喜子氏「紫式部と六条宮・具平親王」を え、何? といった面持ちで拝読していたら 六条院のモデルは具平親王の六条にあった千種殿ではないかと 千種殿説はたしか角田文衛氏も

 

書かれていたと思うけど あの時は具平親王が六条宮と呼ばれていることを知らなくて通過してしまっていた でも 六条御息所とか六条院とか「六条」に強い拘りを感じると 六条宮の千種殿説は俄然興味深く浮かび上がりますね このご論考 道長とのことも書かれていて光る君へと重なる部分もありました

 

明日の「歴史探偵」予告にあった一条天皇に差し上げるための源氏物語の豪華な本 河添房江先生が紹介された王朝継ぎ紙研究会で制作されたそう カルチャーで半年通ったところだから懐かしいです 主宰の近藤陽子先生は近藤富枝先生のお嬢様 近藤富枝先生が始められた会を継いでいられます

 

写真の葉書は平成25年の時の作品展のご案内 今年もあるらしいけど脚の不調がまだ治らず行かれません 行ったら豪華本制作のお話など伺えるのにとても残念 この教室 それぞれが思い思いに料紙を制作していてまるで内裏での女房生活みたいな感覚でした

 

8月28日

こういうご本がありました 近藤富枝先生監修・王朝継ぎ紙研究会『源氏物語ーその愛とかなしみー 王朝継ぎ紙による五十四帖』 2008年の刊行でした 中はとにかく全部ご紹介したいくらい素敵です

 

藍美喜子氏「紫式部と六条の宮・具平親王」がなんか気になって読み返しています(何が気になっているのかもわからないから尚更気になって) 源氏物語六条院のモデルとされる河原院と藍美喜子氏がの拘る千種殿の地図 千種殿のすぐ北東に夕顔邸があります この地図ではなにがしの院は千種殿

 

藍美喜子氏: 源氏物語は、六条の宮邸(計四町の広大な邸宅であった)の豪華さが人々の耳目に馴染んでいた時期の物語である。多くを語らずとも、同時代の人々に六条院と言えばすなわち六条の宮邸、という地名の映発が感じ取られたと推定することはごく自然ではないかと思われる。

 

具平親王は近藤富枝先生の『紫式部の恋』でお名前を知り関心を持ってきました 藍美喜子氏は紫式部は宣孝を亡くしたあと具平親王邸に出仕していたのではないかと推察されます 中宮彰子に出仕するまでの 源氏物語を書き始めて評判になった頃の紫式部です 光る君へを見ていると家計の為にという考え方

 

がいとさんのセリフにあって それならこの期間具平親王邸に出仕していたとしてもありうるかなあと その頃道長と親王は頻繁に交流していてそんなことから頼通と親王の娘隆子の縁談がまとまるのですが 紫式部日記にある道長の そなたの心よせ有る人 の文章を今更にどう解釈するか 謎

 

「歴史探偵」光る君へ 楽しみにしていたのだけれど予期した以上に充実して 写本研究に従事している身としてはもうこれからあり得ないだろう内容の盛りだくさんでした 私としてはやはり冒頭の千葉県飯沼山圓福寺様所蔵の鎌倉初期の源氏物語写本幻巻 どんなふうにして伝来したのでしょう 表紙が豪華です

 

王朝継ぎ紙研究会の近藤陽子先生 私が受講したのは鎌倉の活動に入ってしまい半年で辞めたからもう十年以上前 なのに全然お変わりなくいらして素敵でした 教室では上級者から入門したての私まで全段階の方が一緒に制作してたから 私が必死に継ぎ紙をしてるのに 和紙を染めたり 箔押しをされたり

 

上級者さん方の制作を横目に いつか私もあれをしたいと憧れていました 特に染め紙をしたかった 鎌倉の活動が終わったら復帰するつもりだったのにあんなに長引くとは思ってもいませんでした でも ほんと 紙っていいですね こうツイートしていても胸が高鳴ります

 

鎌倉初期の源氏物語写本を所蔵されていた千葉県飯沼山圓福寺様を検索したら 源氏物語だけでなく伊勢物語徒然草など毎月寺宝展を開かれるほど所蔵されていてびっくり 歴史探偵放映の記念に幻巻が展示されるそうだけど 若菜巻も持ってらっしゃる 伝来ではなく蒐集されての所蔵でしょうか

 

昨夜の圓福寺様所蔵源氏物語幻巻 書体がとても美しく鎌倉初期の写本だけれど平安時代の面影を残していると 私は仏像も万葉集の写本もなにもかも平安時代の作風が好きで 時代が降るとなんでも無骨になっていくのが嫌で だからこちらの書体の優雅さに惹きつけられました

 

文字は時代によって変化していくと 昨夜番組でも語られていました

 

写本の書体についての話があったので尾州家河内本源氏物語はどうだったかしらと 八木書店様の影印本チラシを出してみました 鎌倉中期だけれど美しい書体でそれで私は憧れたのだったけどと やはりそう力強い筆跡ではなく美しいです この写本は大型本だけれど長方形 昨夜の論だと高貴な層の写本です

 

8月29日

昨夜の「歴史探偵」光る君へ 道長が2000枚もの高価な紙を用意したから紫式部が源氏物語を書けたというお話 作家のエモーショナルな力あっての文学という事が学者の方には思考の範疇に入らないのだなあと思って納得していません 拘っていた藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」のご論考 まさに重なる

 

のでTVに映った年譜をノートに書き入れてみました 彰子が中宮になった翌年に宣孝が死去 それから数年後に紫式部が彰子のもとに出仕 その数年間に番組では道長が書くことを依頼したとありますが 藍氏ご論考ではこの時期紫式部は具平親王邸に出仕していたのではないかと それが紫式部日記のそなた

 

に心よせのある の謎めいた文章 紫式部は具平親王側の人なんですね 具平親王は紫式部の祖母の姪で村上天皇女御の荘子女王の皇子です 寛和の変で失脚した為時を庇護しています 具平親王近くにいた紫式部は容易に紙を入手できたはず さらに長い源氏物語 一気に2000枚が必要なんてことないはずです

 

御堂関白記に道長は数年間のこの時期 具平親王と頻繁に交流していて それで子息と娘を結婚させるまでの仲に 具平親王側の紫式部がなぜ道長邸に出仕したかが謎ですが すでに具平親王のもとで源氏物語を書いていて その評判で中宮彰子に仕えるよう依頼したとした と考えるといいのでしょうか

 

あ これだと 道長は面白い物語を書く紫式部という女性を具平親王から聞いて知ったとなりますね ドラマでは公任から聞いたとなっていましたが でも 具平親王邸での文学サロンには公任がいましたから 公任から聞いたでも合ってる? なんか繋がりそう その文学サロンの場が千種殿です

 

藍美喜子氏「紫式部と六条の宮具平親王」で紫式部は宣孝の死後具平親王邸に出仕していたのではないかとあり その頃道長と具平親王が頻繁に交流しているので 或は道長は具平親王から紫式部の話を聞いて中宮彰子への出仕を思い立ったかと思ったのですが 中野幸一先生『紫式部日記』の年譜で確認したら

 

それは無理で 中野先生も具平親王家への出仕の可能性は考えていられて それは紫式部という伺候名から推測して為時が式部省の役職であった越前赴任以前だろうと 道長と具平親王が頻繁に交流していた頃にはもう紫式部は源氏物語を書き始めていたから 道長が具平親王からそれを聞いただろうことは可能

 

外の大雨の音を気にしながら 紫式部の具平親王家への出仕の可能性を探っていました 順調に書き進めていた華鏡でしたが 荘子女王の項に至って筆が止まり悩んでいたのでした 藍美喜子氏ご論考できっかけを頂き 自分で作った年譜との照合を終えてだいたいの目処が 思いがけない展開になりました

 

具平親王家への出仕は そこに母君の荘子女王がいられます 村上天皇の女御だった方に20代前半に出仕したとしたら…… 源氏物語の女主人公の殆どが村上天皇の後宮の女御がモデルという事がどういうことを意味するか 自明と思います

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2024.8.27 Twitter(X)から転載…大河「光る君へ」ではいよいよ紫式部が中宮彰子の女房として出仕。ドラマが後半に入りました。それを見て思ったのは、まひろ(紫式部)の出仕装束。これが『源氏物語』で光源氏が最愛の紫の上に贈った装束の葡萄(えび)色とは!

8月21日

風景と共感覚より: 心をこの世ならぬ所に誘う月の光に対しては、王朝人は多くの場合、月影と表現した。光源を明らかににし、あたりをあざやかに、直接的に明るませる光とは違って、影は薄絹を通過してきたかのように何処か朧で、それ故かえって想像力を刺激するものを持ち、しばしば心の奥処にまで射し

 

込んで来ては、この世ならぬ世界を現出させた…… 鎌倉の源氏物語の活動で精力を使い果たし 枯渇した身で求めていたのがこういう文章でした 知識ではない情感の文章 知識の文章の奥にある行間の文章 新しい出版物に求めても求め得なくて絶望的気分だったのですが 原点に還ればよかったんですね

 

8月23日

たまたま見ていた過去データでの仁和寺 2011年8月23日 この日は立命館大学での私にとってはじめての研究発表 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』についての発表でした 吉海先生仁平先生にはお世話になって今も記憶に 合間を縫って訪ねた仁和寺にて回廊を撮った写真です

 

このツイートはちょうど13年前の今日 まさかこの研究発表をテーマに小説を書くことになるなど思ってもいませんでした この時二つの写本の制作者は六代将軍宗尊親王と結論づけて これは華鏡(三)に書きます その後二回目の研究発表をして 会場は関東学院大学でしたが「仙覚は誰か」がテーマでした

 

この時担当して下さった村瀬憲夫先生にもこれを小説に書きますとお伝えして仙覚の小説「華鏡」を始めました 三回目の発表がコロナ禍直前の2019年で岐阜の聖徳学園大 仁平先生が担当して下さって会場には一回目でお世話になった吉海先生も 一回目を思い起こすようで円環的終了として感慨深かったです

 

8月24日

風景と共感覚より: 情念は物語の根底を貫く軸である。日常の秩序と抵触する情感が、まさに「思ひ」として男の心のうちに燃え、それに対して女の「思ひ」が如何に答え、あるいは抗うか、ということが根幹となって物語の中に描かれる。それを巡って、秩序としての社会の情況が、あるいは救済としての自然

 

が描かれてゆく。しかし、社会が、その具体的側面を明らかにして描かれることはない。また、行為というものが情念以上の意味をもって描かれることも少い。社会的存在としての人間への働きかけは稀薄であり、行為を支える肉体への関心も薄い。それらへの関心と描写は中世という時代を際立たせる説話や

 

軍記物語の世界を待たねばならない…… ←私の小説の原点はこの高橋文二先生の『風景と共感覚』だから 当然鎌倉の源氏物語として『尾州家河内本源氏物語』と出会う前で その研究と鎌倉での活動に入ってすっかり高橋先生の世界から遠のいていました 今 ここに戻ってきた感がとても嬉しい

 

研究や活動は情念の世界とほど遠く それに20年前後の歳月をそれこそ全身全霊をかけて費やしてきたのですものね 枯渇するわけでした笑

 

風景と共感覚より: 文学というものが事実性との関連において説かれることの多い、また虚構といっても、ノンフィクションに対する作りもの、つまり、作り話としてのフィクションを意味することの多い私たちの時代にあって、(源氏物語賢木巻の)野宮の別れの場面におけるが如き、心の救済と鎮魂に関った

 

切実な願望と祈りとも言ってよいものに支えられた虚構世界のありようは、大変判りにくいものになっているように思われる。 ← これ 目下原稿を書いていての私の現代の文学との齟齬感を言い表して頂いていて こういうことを感じられる方ってやはり古典に根ざした感性にしかないだろうと

 

華鏡を書いていて 心の底で 現代の小説に馴染んだ方々にこれが通じるだろうかと時々疑問に思います でも 私は尾州家河内本源氏物語と西本願寺本万葉集が鎌倉でできたことの それに携わった方々の功績を世に残すことを使命として書いているのだから止めるわけにいかないと いつも思います

 

8月25日

光る君への予告を見たのですけれど やはりまひろの出仕装束がいい 今まで詮子倫子明子定子ききょう とそれぞれに合った美しい装束絵巻が繰り広げられてきたけど どれもそれらは現代の感覚であつらえられて軽い色味 でもこのまひろの深い色 源氏物語の根幹に根ざし物語が本物になって来た感じです

 

やはり源氏物語世界は中宮彰子が存在する世界 まひろの装束の深い色味が中宮彰子の存在を際立たせ 双方の存在を有意義なものとする そういった重層感がこれから毎週見られるんですね 楽しみです

 

【発掘して頂いた過去ツイート】

思いがけず これだ! となったご考察を拝読 源高明を検索していてみつけたのでした 秋山虔先生「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ」 漢語といえば二つの概念の複合した二字漢語のように 漢語が複合力が強いのに対して和語は劣弱 その和語の熟成した平安中期の女流文学で 源氏物語において

 

複合語が異常に多い あがめかしづく あつかひおこなふ あらがひかくす 等々源氏物語特有の複合語 和語動詞は日常語的なのに対し 複合動詞は一種ひきしまった非日常的なことばになる そうした複合動詞は日本書記を出典としていて 日本書紀など漢文で書かれた国史や漢籍に骨の髄までなじむことに

 

よって独自の造語能力が養われたのではないか と 凄く凄く得心です 私が源氏物語の文体はなんか違う どこか違う なにかはわからないけど読むとす~っと入ってくる と思った源泉がここだったのですね 一条天皇の日本記をの言葉は 一条天皇が源氏物語を音読してもらって耳で聞いていたからと

 

8月26日

昨夜の光る君へ 充実していて破綻がなくまだ余韻に浸っています 演出は黛りんたろう氏 私は黛氏は先週の源氏物語誕生の回に起用されると思っていて タイトルに別の方のお名前を見た時はちょっと落胆 そして今週まひろの出仕の回への起用 制作陣様方には源氏物語誕生より出仕が重要なんだなあと

 

安倍晴明の最期の場面 こんなに美しい映像でした これはやはり黛りんたろう氏が起用されたまひろと道長の廃屋での最初の情事の場面と一緒 あのときも月の光が鱗粉となって降り注いでいました 黛氏の今回の起用は安倍晴明を送る意味でも重要だったのでした

 

そしてまひろの初出仕のときの装束 やはりあれは圧巻の色味 他の方々の色味の軽いきらびやかなシーンに一人だけ深みが そしてそれは光源氏最愛の紫の上の装束葡萄色 まひろの装束にだけ意味が込められています 光る君へで道長まひろは光源氏と紫の上なんですね

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2024.8.23 Twitter(X)から転載……大河「光る君へ」で『源氏物語』が誕生しました!! その余韻をまだ引きずっています

8月21日

『駒澤國文』に載せて頂いた「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって」は 平家全盛の時代に青春時代を送り 公達たちとの交流で自らの文学を深めた藤原定家・源光行の二人が 源氏物語さながらだった平家の方々への鎮魂を込めて写本を作ったという内容の論文です

 

そうしてできたのが「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」なのですが それをドラマ仕立てで書こうとしているのが華鏡 が 光る君へで紫式部が漢籍を駆使しているのを見て 光行は漢籍を嗜んだ人なのでそこに着目した ということも書き入れなくてはと思いはじめて それが目下のところでした

 

それに夢中になって危うく当初の「秘めた慰藉」の部分を忘れるところだったのを 昨日からの高橋文二先生との思い出をツイートしながら思い出しました 長く書き続けているとこういう危ういことばかり しっかり取り組んで今後はもう光る君へからも影響されることなく書き進めたいです

 

TLで頂いたコメントを拝読して)『風景の図像学』を知らなくて調べてからと思いつつ時間が経ってしまいました。ちなみに、まだです。『風景と共感覚』は私が最初に拝読した高橋文二先生のご著書で、共感覚の語に惹かれてでした。物凄い影響を受けて書いた小説が新人賞を頂き、高橋先生に織田さんの文章は確かに僕に似てるけど、って。

 

『風景と共感覚』を読んでいます やはり高橋文二先生のご文章はいい やはり私の原点 鎌倉の源氏物語の活動で精力を使い果たし枯渇しきって自分の文章を見失い 『白拍子の風』というかつての原稿に手を入れてその感覚を取り戻してもまだ枯渇部分が残っていて でもこの原点回帰で取り戻せるかも

 

あとがきより: あるいは寝つかれぬ枕辺の闇の中に、白い襤褸の塊のような桜の大樹が浮かび上がって来て、風の音のような耳鳴りに共鳴して揺れ、魂の奥処の暗い水面を揺するのである……

 

風景の慰藉と浄化より: 靭負の命婦の弔問の場面がなぜ「野分だちて」とか「夕月夜のをかしきほどに」といった自然の点景を借りて、まずは語り出されていかなければならないのか。実家の荒涼としたありさまが、「月影ばかりぞ八重葎にも」と自然の景観を先立てて描写されていかなければならないのか。

 

8月22日

予告のまひろの装束の色 今迄の予告では黄色系統だったのでまひろの定番カラーは黄色?と不満でした でもこの画像 これから登場されるシーンでしょうけど紫の上の葡萄色 びっくり!

参考【光源氏が愛する紫の上のために選んだ色【葡萄色(えびいろ)】京都のいろ・師走 家庭画報第23回】

 

8月23日

光る君へ まひろが藤原公任邸で講師をしている件 どうして? と最初はびっくりしたのですが やっと ああそういうことかと気がつきました 公任は紫式部の祖母の姪の子だから紫式部とは縁戚 祖母が仲介したと考えれば唐突ではないですね パリ五輪前の最後の回から引きずっていた唐突感が解けました

 

祖母は高齢だから生きていての話ですけど 越前に行くまでは存命でした 添付は昨年の今頃『歴史研究』第714号に載せて頂いた「藤原公任と寛和の変」 紫式部の祖母と公任の関係を書きました 公任邸での講師の件 これを踏まえて頂いた?と思ったり

 

源氏物語が誕生した先週の光る君へ 源氏物語のような文学が依頼されて書けるものではないと思うから爆誕に歓喜するTLについていけずにいました なのに今週後半になってもまだ心に残って麗しくいられるのは 道長とまひろの来し方行く末をきちんと見つめる二人の場面がえんえんと描かれていたから

 

枕草子誕生の描かれ方が最高だったので 源氏物語誕生はあれを超えられないのでは?と危惧していて まひろに言葉が降ってくるシーンにはやっぱりとがっかりしたのですが 時間が経つにつれわかってきました 枕草子は表層の文学だから当事者を外観的に麗しく映像化できた 対して源氏物語は深層の文学

 

だから場面的な映像化はできない そのために道長とまひろの対面場面でえんえんと心を交流させて源氏物語誕生への機運を作った 源氏物語誕生の回の道長まひろの来し方行く末を見つめるその時間こそが誕生を描いていたんですね だから心に残って余韻に余りありの状態なんですね

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2024.8.21 Twitter(X)から転載……大河「光る君へ」で『源氏物語』が誕生しました。私も『華鏡』で目下紫式部が『源氏物語』を執筆するに至った祖母との関係を書いていますので興味深く、この回の放送が終わるまで執筆を中断して見守っていました。で、終わったのでその感慨を

8月15日

華鏡 源氏物語の項がまだ終わってないのに終わりが見えて来たから ふっと 一生守って差しあげる・丹後内侍 という丹後内侍の項の見出しが浮かびました これから白河天皇を書いて二条天皇を書く その辺りでの登場 源頼朝が生涯愛した女性です 写真の絵葉書は源氏物語歌合絵巻断簡 石山寺蔵です

 

8月16日

趣味の園芸を見ていたら源氏物語の花というコーナーがあって 橘 この橘が書かれているのが花散里の巻で 花散里の姉が麗景殿の女御 麗景殿といえば村上天皇女御の荘子女王 紫式部の祖母の姪で 紫式部の恋人と小説で書かれたこともある具平親王の母 花散里の姉との関係をふっと考えてしまいました まだ絞れないけど ちょうど華鏡が「後中書王の母・村上天皇女御荘子女王」を書くところなので気になって

 

8月17日

おはようございます 光る君へがいよいよ源氏物語執筆の回となって私としては考えること多しでいます こうなる前に華鏡前半を刊行しておきたかったのですが 観ていると考えさせられること多々で それを反芻しているうちに時間が経ってしまいました 結局この回を見て私なりの立場をつかめということ

 

和泉式部の登場を見てもそして三郎まひろ直秀の当初から事実と無縁でただ紫式部の時間軸をなぞった上のドラマと割り切ればよかったのですが やはり無視しきれないのは仕方ないですね ただここのところ私自身の見解が確立してきていて 放映後の反響がどうであれ揺るぎなくなりました 心の鍛錬終了笑

 

華鏡は史実を軸にした物語の立場で書き進めてきました そうしたらTLで武蔵野書院様から『歴史物語は物語である』という書が刊行されたと知りよほど購入したく思いましたが 今はもう書いて完成させる時間を優先するしかないです 栄花物語の後半など歴史書というより小説ですものね 心に残っています

 

8月18日

仙覚は自らのことを慈覚門人仙覚と記します 時代が違うから直接会って教えを受けたわけでもない円仁への敬慕 私はそれをなぜかなあと考えてきっと少年時代に連れられて九歳の円仁が入って修行した大慈寺を訪ねているのだろうと 栃木県ですから仙覚が育った埼玉県からは行きやすかったでしょう

 

円仁は栃木県岩舟の出身で大慈寺はその近くです 訪ねたら碑に開祖が行基とありました こんな関東の奥地にも行基がと驚いたのでしたがこの一帯には下野薬師寺があり戒壇院も設けられていたとか 仙覚の円仁への思慕は華鏡(二)に書きます TLに行基が流れてきて懐かしく思い出しました

 

8月19日

TLに流れてきて思い出させて頂いた高橋文二先生。子育てをしていた二十代の頃から鎌倉の源氏物語の活動を始めるまで二十年以上もの歳月を先生のお講義を拝聴させて頂いてお話は耳に馴染んでいます。この耳に馴染むという感覚をとても大切と思うのは文二先生との時間の蓄積を本当に大切と思うからです

 

源氏物語が誕生した今回の光る君へ ドラマとして楽しませて頂いたし コメントで皆様の源氏物語誕生への歓喜も拝見して 終日私なりに思うことをまとめなくてはと考えていました 目下私は華鏡に源氏物語誕生秘話として紫式部を育てた祖母(為時母)が右大臣の娘で近親に四人も女御がいるから それを

 

聞いて育った紫式部だから書けたという説で書いています 初めて源氏物語を読んだ時から これは歴史や有職故実を調べて書けるものではない 日常的にその環境の中の人でなかったら書けないと思っていて 受領階級の娘がなぜこんな宮廷文化を?がとても不思議だったのですが 祖母の存在で謎が解けました

 

8月21日

おはようございます 懐かしく思い出しているのですが 初めて論文を書かせて頂いたのが高橋文二先生でした 早稲田の大橋一章先生、山口昌男先生、廣川勝美先生、小嶋奈温子先生方と「風土と文化」という学会を立ち上げられて会員にして頂き 京都での第一回の大会から参加させて頂いていて ある時

 

論文を書いてみませんかと 自由に書いていいですよと それで書いたのが「冷泉為相と武州金沢称名寺」で 風土と文化第三号に載せて頂きました それをご覧になって金沢文庫長でいらした真鍋俊照先生が僕にも書いてよと それが「北条実時と『異本紫明抄』」で そうしたら高橋文二先生が これがあれば

 

社会人入学の資格を満たすからと大学院の聴講に誘って下さったのでした 高橋文二先生が退官されるまでの二年間でしたが貴重な機会を与えて頂いて今でもあの時があったからと心に刻まれています 聴講生なのに発表させて頂いたり 『駒澤國文』のご退官記念号には「『源氏物語』二大写本に秘めた慰謝」を

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2024.8.14 Twitter(X)から転載……パリ五輪が終わり世の中が静かになって『華鏡』の原稿に集中できるようになったら、俄然思考が動き始めて書くモードになってきました、ほっと笑

8月10日

鎌倉の源氏物語として源光行を書いていた時東北の震災があり 鎌倉の万葉集として仙覚を書いている今南海トラフへの危惧 あの時も思ったけど 源氏物語など古典は千年残ったけど こう世の中が不安では光行や仙覚の功績を残したとしてこの先どれほど引き継がれていくか とても危うい気が

 

8月11日

使っているPCのネットが不調で久しぶりにHDDに繋いである古いPCXを開きました 懐かしいので保存してある過去データを見たら解釈学会夏の大会で釧路に行った時の写真が 今年の大会は近場の武蔵大学が会場なのですが傷めた脚がまだ万全でなく不参加 懇親会も吉祥寺でいつも歩く場所なのですが

 

8月13日

オリンピックという喧騒が去って久しぶりに心地よく原稿に集中して夜を明かしました どんなに見ない聞かないを通しても喧騒で空気自体が澱んで必死になって透明になろうと頑張るほどそれは透明から遠のく オリンピックが終わったら自然に集中できました ふうっという思いです

 

『華鏡』は 5.比翼の鳥、連理の枝・村上天皇女御芳子が済んで 6.宮中の和歌所・梨壺の五人 に入っています これはもう以前書いてあった部分だから構成のし直しで気楽 梨壺の五人の統括者藤原伊尹が紫式部の祖母の姪恵子女王を妻にしたことから 祖母は伊尹家の女房に入ったのでした

 

オリンピック前は 6.は村上天皇女御の荘子女王を書こうと筋立てていましたが どうしても気が乗らず喧騒にもあって停滞 いっそ荘子女王を外そうと試みたら順調に進むようになりました 荘子女王はいずれ挿入します

 

8月14日

おはようございます 『源氏物語』は帝と女御の話が主軸だよ そこに帝と女御になれなかった主人公がいて紫式部は思いを彼らに託して書いた というフレーズが浮かんでやっと思考が流れ出しました 紫式部には祖母の祖父に四人も女御のいる家系ですから 女御 が重要なんです

 

『源氏物語』の冷泉帝が気になっていて 史実で本当か嘘かわかりませんが気の触れた天皇とあまりいい印象がなく伝わっている帝なのに 『源氏物語』では爽やかな帝 そこに紫式部の意味があると思うのは冷泉天皇の母懐子は紫式部の祖母の姪恵子女王の娘なんですよね いわば紫式部にとって身内の帝です

 

と そんなところに意識が流れていて ようやく やっと 動き出しました

 

さっき『源氏物語』は女御と呟いて そうしたら突然河内本源氏物語をつくった源光行が頭の中でぐるぐるし出して なぜ光行が河内本源氏物語に着手したかを光る君へで紫式部の漢籍の素養に敬意を示して というふうに目下華鏡の流れを書いていたのですが 女御 で思い出しました 光行にとってそれは

 

建礼門院徳子 光行の終生心にかけた憧れの女人です 平家に仕えた一門の出で 光行の父は中宮職の役人でした 建春門院滋子や建礼門院徳子に担当です 徳子入内の年 光行は多感な少年でした 父親から話を聞いて憧れを募らせたとして当然でしょう その徳子が悲劇の人に 光行にとっての源氏物語です

 

それを書こうと思ってもう何年も前から初期紫文幻想として書き始めていたのですが いろんなことが降り重なって 光る君へから頂くパッションもあり 最近は漢籍と長恨歌とに特化してしか考えられなくなっていました ずっと以前の初期紫文幻想では徳子を井上靖『敦煌』の西夏の女のように書こうかなど

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2024.8.8 Twitter(X)から転載……高校時代夢中になって読んでいた『和泉式部日記』を改めて読み、やはりいいなあ、と和泉式部の美しい文章にほれぼれ。天変地異の異様さと世の急変、もろもろの殺伐とした世情のさ中にあって心癒されました

8月1日

和泉式部日記は学生時代夢中になって読みました もうこれ以外なにも要らないと思うほど 社会人になって自分の中の奔放な部分を封印しなければならない生き方の中で和泉式部日記は合わず紫式部日記が理解できての今です だから昼寝した夢に和泉式部が出たときは心の底から驚きました 封印はしたけど

 

忌避していたわけではなかったと でもそれは光る君へのキャスティングのお蔭 光る君へのキャスティングは独特ですね 色気 ということの基準が従来のというか通常の感覚と全然違う さわやかです 成熟した女性にならないタイプばかりの女性陣 反対に大石静さんは柄本佑さんに物凄い色気を感じて

 

いられる 鎌倉の方にキャスティングが発表されたとき道長は柄本佑さんですってと言ったら えっ? と驚かれました 僕はお父さんの柄本明のファンだけど道長ってイメージじゃないよねと 泉里香さんの和泉式部 深いところで刺さりました 和泉式部日記を読み返したくなっています

 

8月2日

正直のところ光る君へは和泉式部を登場させないと思っていました なぜならまひろが負けてしまうから なので配役が発表されて出るんだ!と思ったときはびっくり でも泉里香さんという配役を見てそんな杞憂は吹き飛びました 泉里香さんのキャラに恋多き女のイメージはなくさわやかで知的な美しい女性

 

これなら男性にモテるでしょうといった感じ モテるということが色香でなく知的ということも要因がある世界が平安文学なんですね それの具現がこれからはじまる 光る君へが楽しみになりました 先日呟いた私の心に刺さった画像 それを先ほどRPさせて頂きました 深いところでまだ引きずっています

 

8月3日

夢よりも儚き世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに 和泉式部日記の冒頭です 大好きでした この続きの 木の下暗がりもてゆく の下りが特に好きでした 紫式部日記に気持ちを変えて 秋の気配入りたつままにとどちらが好きか決めかねて悩んでいた学生時代 だから和泉式部日記は源氏物語ほどには

 

研究書を読んでいません ただとにかく好きだったという思い出 私事に追われてツイートもままならないけど 頭の中はずっと和泉式部でいっぱい 完全にもう私の中では紫式部を凌駕してしまいました 感性の問題なのでしょうね 光る君へを見ていて そして私自身が仙覚の小説に苦心惨憺していて欠けて

 

いると感じていたもの それが感性の問題でした 生の根源からの自然な発動 和泉式部にはそれがあるんです そして紫式部の源氏物語にもそれがあるはずなのに 光る君へではそれが描かれない 誰のためにとか誰かに勧められてとか 枕草子も最初はまひろが勧めてた 和泉式部はどう描かれるのでしょう

 

8月5日

おはようございます 昨日の光る君へ 和泉式部が登場して俄然世界が変わりました 枕草子を和泉式部が面白くないと 源氏物語を引き立たせるためのセリフにしても物事の本質を極める物語と表層の出来事を感性で描く随筆との違いを和泉式部の存在で描くなんて上手いなあと 私も枕草子は読めない口です

 

泉理香さんの和泉式部 楽しかったです 奔放ということをロックな和泉式部に仕立てて 現代ではわかりやすい表現なんでしょうね 私が思う和泉式部と違うのでこれはこれと楽しむことにしました 私にはかつて短歌評論の菱川善夫先生に頂いた 媚を売るだけで貴顕の愛を得られるものではない の言葉が

 

ずっと脳裏にあって 二人もの貴顕に愛された和泉式部にはそれだけの表面的な奔放さと違う深い精神性があると思うのです 昨日のロックな和泉式部ではお相手の親王様の程度まで類推してしまいますよね

 

紫式部の祖母の祖父藤原高藤は 若い時鷹狩りに出て急な雷雨に遭い 一同とはぐれて土地の豪族の家に雨宿りをしてそこの娘と一夜の契りを交わします その後数年を経て再会した時娘には幼い女児がいて それがあの夜の契りの子と 高藤は驚き娘と女児を自邸に連れ帰って大切にします 成長して女児は

 

宇多天皇の女御に 胤子です 紫式部の祖母の父定方の姉だから祖母にとっては伯母 胤子が産んだのが醍醐天皇です 紫式部の系類にはこうした方々がいます 光る君への次回の予告で道長が賢子に君は幾つ?と聞き 賢子が6歳と答えるのを見て 高藤を思い出しました 高藤が雨宿りした宮地弥益の家は

 

現在勧修寺となり 勧修寺は定方が建てました 近くに醍醐寺があるのもそういう関係からです 源氏物語が醍醐天皇の御代と匂わされているのは紫式部の意識の中に高藤のエピが色濃くあったからのはず

 

8月6日

おはようございます 和泉式部日記は学生時代に好きで読んでいただけなので光る君への皆様のコメントからいろいろなことを教えて頂いています 赤染衛門の大江家と縁戚だったとか ああ だから清少納言のような随筆でなく物語的日記が書けたのだなあなど 物語を書くということで改めて私も勉強し直し

 

たくなって ここは踏みとどまって華鏡に専念しなさいという心の声と エーコの小説の森散策を読み返したいうずうずした思いとの拮抗で終日過ごしました ネルヴァルのシルヴィーを読み返そうかななどまだ闘っています 月曜日は前夜の光る君への余韻に引きずられます笑

 

それにしても泉里香さんの和泉式部 鮮やかですね とても新鮮 今迄の光る君へのもったりとした暗さが払拭される勢いがありました なんでしょうねこの感覚

 

8月7日

和泉式部日記を読み返しました 夢中になって読んだ高2以来の再読 最初は遊びだった親王が和泉式部の真情に触れ身近に置いておきたいと本宅に住まわせるまでの男女の機微 親王が和泉式部のどこに惹かれたかのはっきりした転換点があって それが和泉式部の感性に触れた部分 親王が月を見て式部も

 

同じ月を見ているだろうと歌を贈ると式部は見ていなかったと返す その意表を突く感性が面白いと日々一緒にいたいとなる 和泉式部の女性としての魅力は和泉式部の歌そのものの魅力と一緒なんですね 打てば響く当意即妙の感性 これはたまらない魅力です

 

日記は親王と式部の歌のやり取りで展開し ほぼそれに月が関わる 逢瀬は夜だからと言ってしまえばそうだけど 月を介して心を通わすという二人の感性自体が美しい でも これ 光る君への道長とまひろですよね もしかして光る君へ自体和泉式部日記を踏襲してる?って思ってしまいました

 

和泉式部日記を読んで思ったのですが 現代の小説だと私はと書く主語を女はと書いている これ 高2で読んでいた時も違和感あったのを思い出しました 気になって蜻蛉日記を見たらこちらは主語らしきものを全く書かない 全部「我の」思いだから書いてなくても自然に読める 更級日記もそうでした

 

源氏物語はというと誰々はと全部三人称単数 源氏物語はがっちり物語としての構成ができている 和泉式部日記の書かれたのがどの作品の後先か調べてないのでわかりませんが 和泉式部は日記を三人称単数的な書き方にしようとしてますね 私はというところを女はと突き放して書いて ではこの女はを

 

省略したら蜻蛉日記や更級日記のようになるかというとならない 構文的には源氏物語です 高2の時の疑問を思い出してこんな呟きをしてみました 論文に書かれた方がいられるかもしれないけど 今のところ和泉式部日記は研究的に追うつもりなくいます

 

8月8日

和泉式部の文章は美しいです: 草の色さへ見しにもあらずなり行けば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆる風に、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべき露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らで、やがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず、人はみなうち

 

とけ寝たるにそのことと思ひ分くべきにあらねば、つくづくと目をのみさまして、名残りなううらめしう思ひ臥たるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる。人はかくしもや思はざるらむ、いみじうたへがたき心地して、まどろまであはれ幾夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして、とのみして明かさむよりは

 

とて、妻戸をおしあけたれば、大空に、西へかたぶきたる月の影、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空の気色、鐘の声、鳥の音一つに響きあひて、さらに、過ぎにし方今行く末のことども、かかる折はあらじと、袖のしづくさへあはれにめづらかなり。

 

和泉式部日記から一節を引用させていただきました 悲しい苦しい恨めしい不安というもろもろの感情をこのように書く 現代はただ悲しいとかのひと言でしか言えない或いはそれだけでいいと思う ような感情表現の書き手と受け取る側の平安時代との差 殺伐とした現代にあってこういう文章は至福です

 

世の中の急変のもろもろに私事もあってしばらく華鏡に専念できずにいましたが 和泉式部日記に感性を癒されてやっと復帰できそうに 和泉式部の文章は紫式部の源氏物語に似ている気がします 和泉式部を奔放といえば人目を引くかもしれないけど それ以上に繊細と

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2024.8.6 Twitter(X)から転載……光る君へが後半に入って第30回の8月4日放映回から和泉式部が登場、キャラが粒だって斬新で光る君への世界が一新しました

8月1日

和泉式部日記は学生時代夢中になって読みました もうこれ以外なにも要らないと思うほど 社会人になって自分の中の奔放な部分を封印しなければならない生き方の中で和泉式部日記は合わず紫式部日記が理解できての今です だから昼寝した夢に和泉式部が出たときは心の底から驚きました 封印はしたけど

 

忌避していたわけではなかったと でもそれは光る君へのキャスティングのお蔭 光る君へのキャスティングは独特ですね 色気 ということの基準が従来のというか通常の感覚と全然違う さわやかです 成熟した女性にならないタイプばかりの女性陣 反対に大石静さんは柄本佑さんに物凄い色気を感じて

 

いられる 鎌倉の方にキャスティングが発表されたとき道長は柄本佑さんですってと言ったら えっ? と驚かれました 僕はお父さんの柄本明のファンだけど道長ってイメージじゃないよねと 泉里香さんの和泉式部 深いところで刺さりました 和泉式部日記を読み返したくなっています

 

8月2日

正直のところ光る君へは和泉式部を登場させないと思っていました なぜならまひろが負けてしまうから なので配役が発表されて出るんだ!と思ったときはびっくり でも泉里香さんという配役を見てそんな杞憂は吹き飛びました 泉里香さんのキャラに恋多き女のイメージはなくさわやかで知的な美しい女性

 

これなら男性にモテるでしょうといった感じ モテるということが色香でなく知的ということも要因がある世界が平安文学なんですね それの具現がこれからはじまる 光る君へが楽しみになりました 先日呟いた私の心に刺さった画像 それを先ほどRPさせて頂きました 深いところでまだ引きずっています

 

8月3日

夢よりも儚き世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに 和泉式部日記の冒頭です 大好きでした この続きの 木の下暗がりもてゆく の下りが特に好きでした 紫式部日記に気持ちを変えて 秋の気配入りたつままにとどちらが好きか決めかねて悩んでいた学生時代 だから和泉式部日記は源氏物語ほどには

 

研究書を読んでいません ただとにかく好きだったという思い出 私事に追われてツイートもままならないけど 頭の中はずっと和泉式部でいっぱい 完全にもう私の中では紫式部を凌駕してしまいました 感性の問題なのでしょうね 光る君へを見ていて そして私自身が仙覚の小説に苦心惨憺していて欠けて

 

いると感じていたもの それが感性の問題でした 生の根源からの自然な発動 和泉式部にはそれがあるんです そして紫式部の源氏物語にもそれがあるはずなのに 光る君へではそれが描かれない 誰のためにとか誰かに勧められてとか 枕草子も最初はまひろが勧めてた 和泉式部はどう描かれるのでしょう

 

8月5日

おはようございます 昨日の光る君へ 和泉式部が登場して俄然世界が変わりました 枕草子を和泉式部が面白くないと 源氏物語を引き立たせるためのセリフにしても物事の本質を極める物語と表層の出来事を感性で描く随筆との違いを和泉式部の存在で描くなんて上手いなあと 私も枕草子は読めない口です

 

泉理香さんの和泉式部 楽しかったです 奔放ということをロックな和泉式部に仕立てて 現代ではわかりやすい表現なんでしょうね 私が思う和泉式部と違うのでこれはこれと楽しむことにしました 私にはかつて短歌評論の菱川善夫先生に頂いた 媚を売るだけで貴顕の愛を得られるものではない の言葉が

 

ずっと脳裏にあって 二人もの貴顕に愛された和泉式部にはそれだけの表面的な奔放さと違う深い精神性があると思うのです 昨日のロックな和泉式部ではお相手の親王様の程度まで類推してしまいますよね

 

紫式部の祖母の祖父藤原高藤は 若い時鷹狩りに出て急な雷雨に遭い 一同とはぐれて土地の豪族の家に雨宿りをしてそこの娘と一夜の契りを交わします その後数年を経て再会した時娘には幼い女児がいて それがあの夜の契りの子と 高藤は驚き娘と女児を自邸に連れ帰って大切にします 成長して女児は

 

宇多天皇の女御に 胤子です 紫式部の祖母の父定方の姉だから祖母にとっては伯母 胤子が産んだのが醍醐天皇です 紫式部の系類にはこうした方々がいます 光る君への次回の予告で道長が賢子に君は幾つ?と聞き 賢子が6歳と答えるのを見て 高藤を思い出しました 高藤が雨宿りした宮地弥益の家は

 

現在勧修寺となり 勧修寺は定方が建てました 近くに醍醐寺があるのもそういう関係からです 源氏物語が醍醐天皇の御代と匂わされているのは紫式部の意識の中に高藤のエピが色濃くあったからのはず

 

8月6日

おはようございます 和泉式部日記は学生時代に好きで読んでいただけなので光る君への皆様のコメントからいろいろなことを教えて頂いています 赤染衛門の大江家と縁戚だったとか ああ だから清少納言のような随筆でなく物語的日記が書けたのだなあなど 物語を書くということで改めて私も勉強し直し

 

たくなって ここは踏みとどまって華鏡に専念しなさいという心の声と エーコの小説の森散策を読み返したいうずうずした思いとの拮抗で終日過ごしました ネルヴァルのシルヴィーを読み返そうかななどまだ闘っています 月曜日は前夜の光る君への余韻に引きずられます笑

 

それにしても泉里香さんの和泉式部 鮮やかですね とても新鮮 今迄の光る君へのもったりとした暗さが払拭される勢いがありました なんでしょうねこの感覚

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2024.7.31 Twitter(X)から転載……七月尽。光る君へはこれから紫式部が出仕して中宮彰子さんの世界。私はこれが観たくて待っていました。華鏡にも気分が影響しています笑

7月28日

パリ五輪開会式の余韻をまだ引きずっています ノートルダムドパリからジャンヌダルクまで歴史や文化を余す所なく演出されて 100分de名著の表紙に 叶わない思いが人間を動かす とありました 改めてそうありたい 仙覚の思いでもあるので

 

ユゴーはノートルダム大聖堂の壁に彫り込まれた宿命の文字に激しく胸打たれこの小説を書き出したそう ちょうど私も仙覚の小説に取りかかっていたから その宿命の語こそ仙覚だと 以来私の心にずっとノートルダムドパリがあります

 

パリ五輪開会式に思ったのは国の知性引いては治世はいかに為政者の文化度によるものかと カジモドにはびっくりしましまがその見下ろす視野の中にジャンヌ・ダルクまでの歴史が繰り広げられる 歴史や文学を余す所なく見せてくれました 東京五輪のとき 私は源氏物語をこんなふうに使って欲しかった

 

光る君へが見せてくれている装束や文化の華を華麗に演出する知性が日本にはないんですね 羽生結弦さんが安倍晴明をされた 意識次第ではできるのにまだ日本といえば江戸 みたいな感覚 光る君へでそれが一掃されてほしいです

 

7月29日

おはようございます 華鏡は4.絵に描ける楊貴妃の容貌と5.比翼の鳥連理の枝を終わりました 紫式部の祖母は右大臣定方の娘ですが 定方の父髙藤は内大臣だったんですね 今迄気がつかなくてただ髙藤とばかり書いていました 内大臣の家なら と今さらに得心しました

 

水遣りした時に入ったのか玄関に虻がいて刺されました ヤバいと思ってTLで読んでいた虫刺されには熱湯を数分 その間に家族がネットで調べて刺されたところを絞って出すと 絞っても出ない位に軽くて助かりました ステロイド系の薬がいいというので塗ってもう数時間 痛みも腫れもなくホッとです

 

7月30日

今回光る君へは見てないけど TLに流れてきた中宮彰子の藤壺 定子の遺児親王を光源氏に見立てた解釈で抱く画像 誰にも心を垣間見さすことなかった彰子が幼い親王を膝に乗せて初めて穏やかな笑みを見せる 素敵でした それが大和和紀さんのあさきゆめみしにあった図柄と いいですね!

 

中宮彰子は大成するから偉大すぎて 一条帝に愛され尽くして早逝した悲劇の定子のようには憧れの対象になりにくく それで一条帝にも定子のようには愛されなかったなど理不尽に言われ続け ずっと私はそれを受け入れられなかったのですが 光る君へは彰子さんをこうして内面から描いて素敵です

 

地震があったんですね 震源地東京23区 とTLに見て検索したら西荻窪駅前 えっとなりました 中央線で吉祥寺駅の隣です 全国的視野で見たらほぼ直下 しかもM4.7 震度3 起きていたのに動いていて気がつきませんでした 家族に聞いたら怖かったと それくらい揺れたらしいです

 

7月31日

今日で七月も終わり 光る君へも折り返しで紫式部の出仕に近づき私が観たい画面のドラマになっていく 昼寝したら和泉式部が出てびっくりしました ああ こんなふうに今迄と違う光る君へと期待しているのだなあと やはり思ったのですが 宇津保物語と比しての中納言ではダメ の言 私には正解です

 

これからは中宮彰子さんがメインの世界 今迄とは違ったトーンのドラマになってゆく 楽しみです と打っていたら雷鳴が 雨も降り出しました PCを閉じて次に開くときはもう八月ですね

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