2024.8.27 Twitter(X)から転載…大河「光る君へ」ではいよいよ紫式部が中宮彰子の女房として出仕。ドラマが後半に入りました。それを見て思ったのは、まひろ(紫式部)の出仕装束。これが『源氏物語』で光源氏が最愛の紫の上に贈った装束の葡萄(えび)色とは!
8月21日
風景と共感覚より: 心をこの世ならぬ所に誘う月の光に対しては、王朝人は多くの場合、月影と表現した。光源を明らかににし、あたりをあざやかに、直接的に明るませる光とは違って、影は薄絹を通過してきたかのように何処か朧で、それ故かえって想像力を刺激するものを持ち、しばしば心の奥処にまで射し
込んで来ては、この世ならぬ世界を現出させた…… 鎌倉の源氏物語の活動で精力を使い果たし 枯渇した身で求めていたのがこういう文章でした 知識ではない情感の文章 知識の文章の奥にある行間の文章 新しい出版物に求めても求め得なくて絶望的気分だったのですが 原点に還ればよかったんですね
8月23日
たまたま見ていた過去データでの仁和寺 2011年8月23日 この日は立命館大学での私にとってはじめての研究発表 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』についての発表でした 吉海先生仁平先生にはお世話になって今も記憶に 合間を縫って訪ねた仁和寺にて回廊を撮った写真です
このツイートはちょうど13年前の今日 まさかこの研究発表をテーマに小説を書くことになるなど思ってもいませんでした この時二つの写本の制作者は六代将軍宗尊親王と結論づけて これは華鏡(三)に書きます その後二回目の研究発表をして 会場は関東学院大学でしたが「仙覚は誰か」がテーマでした
この時担当して下さった村瀬憲夫先生にもこれを小説に書きますとお伝えして仙覚の小説「華鏡」を始めました 三回目の発表がコロナ禍直前の2019年で岐阜の聖徳学園大 仁平先生が担当して下さって会場には一回目でお世話になった吉海先生も 一回目を思い起こすようで円環的終了として感慨深かったです
8月24日
風景と共感覚より: 情念は物語の根底を貫く軸である。日常の秩序と抵触する情感が、まさに「思ひ」として男の心のうちに燃え、それに対して女の「思ひ」が如何に答え、あるいは抗うか、ということが根幹となって物語の中に描かれる。それを巡って、秩序としての社会の情況が、あるいは救済としての自然
が描かれてゆく。しかし、社会が、その具体的側面を明らかにして描かれることはない。また、行為というものが情念以上の意味をもって描かれることも少い。社会的存在としての人間への働きかけは稀薄であり、行為を支える肉体への関心も薄い。それらへの関心と描写は中世という時代を際立たせる説話や
軍記物語の世界を待たねばならない…… ←私の小説の原点はこの高橋文二先生の『風景と共感覚』だから 当然鎌倉の源氏物語として『尾州家河内本源氏物語』と出会う前で その研究と鎌倉での活動に入ってすっかり高橋先生の世界から遠のいていました 今 ここに戻ってきた感がとても嬉しい
研究や活動は情念の世界とほど遠く それに20年前後の歳月をそれこそ全身全霊をかけて費やしてきたのですものね 枯渇するわけでした笑
風景と共感覚より: 文学というものが事実性との関連において説かれることの多い、また虚構といっても、ノンフィクションに対する作りもの、つまり、作り話としてのフィクションを意味することの多い私たちの時代にあって、(源氏物語賢木巻の)野宮の別れの場面におけるが如き、心の救済と鎮魂に関った
切実な願望と祈りとも言ってよいものに支えられた虚構世界のありようは、大変判りにくいものになっているように思われる。 ← これ 目下原稿を書いていての私の現代の文学との齟齬感を言い表して頂いていて こういうことを感じられる方ってやはり古典に根ざした感性にしかないだろうと
華鏡を書いていて 心の底で 現代の小説に馴染んだ方々にこれが通じるだろうかと時々疑問に思います でも 私は尾州家河内本源氏物語と西本願寺本万葉集が鎌倉でできたことの それに携わった方々の功績を世に残すことを使命として書いているのだから止めるわけにいかないと いつも思います
8月25日
光る君への予告を見たのですけれど やはりまひろの出仕装束がいい 今まで詮子倫子明子定子ききょう とそれぞれに合った美しい装束絵巻が繰り広げられてきたけど どれもそれらは現代の感覚であつらえられて軽い色味 でもこのまひろの深い色 源氏物語の根幹に根ざし物語が本物になって来た感じです
やはり源氏物語世界は中宮彰子が存在する世界 まひろの装束の深い色味が中宮彰子の存在を際立たせ 双方の存在を有意義なものとする そういった重層感がこれから毎週見られるんですね 楽しみです
【発掘して頂いた過去ツイート】
思いがけず これだ! となったご考察を拝読 源高明を検索していてみつけたのでした 秋山虔先生「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ」 漢語といえば二つの概念の複合した二字漢語のように 漢語が複合力が強いのに対して和語は劣弱 その和語の熟成した平安中期の女流文学で 源氏物語において
複合語が異常に多い あがめかしづく あつかひおこなふ あらがひかくす 等々源氏物語特有の複合語 和語動詞は日常語的なのに対し 複合動詞は一種ひきしまった非日常的なことばになる そうした複合動詞は日本書記を出典としていて 日本書紀など漢文で書かれた国史や漢籍に骨の髄までなじむことに
よって独自の造語能力が養われたのではないか と 凄く凄く得心です 私が源氏物語の文体はなんか違う どこか違う なにかはわからないけど読むとす~っと入ってくる と思った源泉がここだったのですね 一条天皇の日本記をの言葉は 一条天皇が源氏物語を音読してもらって耳で聞いていたからと
8月26日
昨夜の光る君へ 充実していて破綻がなくまだ余韻に浸っています 演出は黛りんたろう氏 私は黛氏は先週の源氏物語誕生の回に起用されると思っていて タイトルに別の方のお名前を見た時はちょっと落胆 そして今週まひろの出仕の回への起用 制作陣様方には源氏物語誕生より出仕が重要なんだなあと
安倍晴明の最期の場面 こんなに美しい映像でした これはやはり黛りんたろう氏が起用されたまひろと道長の廃屋での最初の情事の場面と一緒 あのときも月の光が鱗粉となって降り注いでいました 黛氏の今回の起用は安倍晴明を送る意味でも重要だったのでした
そしてまひろの初出仕のときの装束 やはりあれは圧巻の色味 他の方々の色味の軽いきらびやかなシーンに一人だけ深みが そしてそれは光源氏最愛の紫の上の装束葡萄色 まひろの装束にだけ意味が込められています 光る君へで道長まひろは光源氏と紫の上なんですね

