2024.10.29 Twitter(x)から転載…『源氏物語』の根幹は、求めて得られない思いを抱えて生きることの切なさ、必死さ、現実との乖離、にあるかと・・・。求めて止まない永遠の憧れ
10月25日
ブログを更新しましたがすっかり瀬戸内源氏の世界に嵌まってしまいました すべて華鏡を書くという目的のためなのですが ここにきて函の絵の美しさに魅了され別な世界が広がっている感 源氏絵は私は国宝源氏物語絵巻しか目になかったのですが珍しくこちらの絵には惹かれています
瀬戸内寂聴訳源氏物語御法より 「宮さまが大人になられたら二条の院にお住みになって、この西の対の前の紅梅と桜を、花の咲く季節には、忘れず見てお楽しみなさいね」とおっしゃいますと、三の宮はこくんとうなずいて、紫の上のお顔をじっと見つめていらっしゃいましたが、涙がこぼれ落ちそうなので、
立ち去っておしまいになりました……三の宮は匂宮 病床に伏す紫の上が気分のいい時に可愛がっている匂宮に私がいなくなっても思い出して下さいねと語るこの場面 匂宮も可愛いし大好きな場面です 昨夜桐壺巻の終盤に光源氏が母桐壺更衣の里第だった二条院を与えられるシーンを読んで二条院についての
論文を探して読みました 二条院のモデルが二条后高子の邸宅だったと読んだのを思い出して そうしたら私の中では紫の上の終焉と同時に二条院への関心も一緒に消えていたのですが 後年匂宮が住み 宇治の中君が住む その舞台が二条院なのでした 全く認識なくて唖然笑
瀬戸内寂聴訳源氏物語帚木を読み終えたのですが 後半の空蝉の部分 先週原文を読んだばかりなので原文の良さがまるで感じられないことにびっくり 紫式部の漢籍由来の歯切れのいい転調のところでうっかり ここだ! といつもぎくっとなるところでならなくて気がつきました これって現代語訳だと
どなたの訳でもそうなのかも知れませんね 紫式部の原文がはらむ恐ろしいほどの韻律の良さ それはもう紫式部自身の体質であって意味として訳せるものではない 原文に戻ろうかしらなど思わないでも でも瀬戸内訳は本のサイズからして大きく読みやすいので当分これで過ごします
10月26日
昨夜拝読した帚木の感想 解説で瀬戸内寂聴先生は面白いと書いてられるけど私には全然面白くなく でも今までざっと読んでいただけの内容を初めてきちんと読みました わかりやすかったし帚木は現代語訳で読むのがお勧めです 読みながら考えていたのは紫式部はなぜこんな会話を書けたのだろうという事
源内侍もモデルがあって読んですぐあの人だとわかるから彼女は以来出仕できなくなったとか 帚木ほどの会話を想像で書けるわけないから情報入手は当時父為時が参加していた具平親王の文芸サロン? そこでの会話を為時から聞いて紫式部は書いたのでしょうか まさか二十歳前の紫式部が参加していたなど
ありえないし そんな若い女性がいたら一連のあのような会話にならなかったでしょうからやはり父からの伝聞 年譜で帚木が書かれた時期と為時など周囲の状況を考えると 具平親王サロンがモデルでしかないとなるのですが 漢詩を作る真面目な場としか思っていなかったからまだ受け入れがたいです笑
10月27日
おはようございます 仮寝して起きて片付け物をして空蝉を読んだらこんな時間 帚木を読んで瀬戸内寂聴先生とは源氏物語への見解というか見る価値観が違うのを認識しましたが 空蝉での訳語が そう使う? と疑問に思う箇所が何回も その都度原文を確かめたくなるのですが止めて読み通しました
昨夜から華鏡に書こうとして何をどう書いていくべきかわからず悩んでいたものが見えてきました それは有機的必然の語に始まりました ふっとそれが浮かんだ時 ああそうか私はそれを忘れていたと 物語は書く人の心の中の有機的必然により自動発生するものと私は思っているし それが私の書く姿勢です
仙覚の小説を書くという理から始まった華鏡にそれはなく 義理人情という他からの使命感しかなく だからそれは理でしか書けず それが苦しかったんですね 瀬戸内寂聴訳源氏物語を読むことで心が掘り下げられて やっと私の側からかの書く視点が見えてきました
TLに流れてくる源氏物語や光源氏についてのいろいろな方のご視点 氾濫するそうした情報を頂きながら学ぶこと多かったしだからここまで来れた訳だけど ここにきて決定的にこれは違うと思うことが出てきて 華鏡に書くのはこれだ! となりました そうしたら有機的必然の語が浮かんだのでした
瀬戸内寂聴訳源氏物語空蝉より:一方、あくまでつれない女も、一応さも平静そうに思いを抑えこらえているものの、どうやら思いの外に深く真実らしいお気持が身にしみるにつけ、もしこれが夫のいない娘の頃だったならと、今更、過ぎ去った昔を取りかえしようもないままに、源氏の君への恋しい気持が忍び
きれなくなり、いただいたお手紙の懐紙の端に、人知れず書きつけるのでした。 空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびに濡るる袖かな /(原文)つれなき人も、さこそしづむれど、あさはかにもあらぬ御気色を、「ありしながらのわが身ならば」と、とりかへす物ならねど、忍び難ければ、この御畳紙
片つ方に、空蝉の羽におむ露の木がくれてしのびしのびに濡るる袖かな ……昨夜読んだ空蝉巻の最後がとても好きで引用しました そうしたらふっと原文と比べてみたくなり続けたらこのように 寂聴先生の訳は凄く平易な言葉使いで状況がよくわかる 寂聴訳だからこその情感の伝わり ってあるんですね
10月28日
ずっと瀬戸内寂聴訳源氏物語を読んでいますが 読みながら考えていることは源氏物語は求めても得られない思いを抱えている人にしかわからないものがあるということ 求めて得られないから永久に求め続ける 光源氏にとってそれが母の面影だったということで それが倫理的に許されるかどうかは別の話
紫式部は母方の祖に二条后高子がいます 文学少女だった紫式部が伊勢物語を読んで高子に憧れなかった訳がない もしかしたら永遠の憧れの女性だったかも 源氏物語にはよく手習が書かれますが その最初が紫の上に対する光源氏 私は早くに父を亡くしているからそのシーンは初めて読んだ時から胸キュン
で永遠の憧れのシーンです それが最近蘇って ん? 紫式部も早くに母を亡くしているから手習のようなことにその思いを込めた? と気づいた時 二条后高子が業平に盗み出されるシーンが若紫に重なったのでした 求めて得られない思いを知らない満ち足りた人生の方はそれをロリコンと言ってしまうけど