2024.11.13 Twitter(X)から転載…NHK大河「光る君へ」で紫式部の執筆が本編を終え宇治十帖に入るので、瀬戸内寂聴訳で読んでいる『源氏物語』も宇治十帖に。紫式部は宇治十帖をなぜどんなふうにして書いたのだろうがずっと頭から離れません
11月6日
深夜にツイートした源氏物語鈴虫巻の閼伽棚の文章は 五島美術館所蔵の国宝源氏物語絵巻にあります この絵で閼伽棚に水を注いでいるのは女房で 出家した女三宮は左上の柱の陰に じつはこの絵の女三宮は裳をつけていて それで裳をつけるのは女房だから女三宮ではないといわれてきました そう言って
しまえばそうなのですが 折角この場面を絵にしながら じゃあ女三宮はどこ?と探しても不在 でも柱の陰の女性は気品あって閼伽棚の女房とは別格 そんなことでずっと違和感を覚えていたのですが 深夜検索した中で倉田実氏が出家した女三宮は仏に対して仕える身だから裳をつけていておかしくないと
そうなら納得!と やっと長年来の曖昧さがとれて晴晴れしました 学界でどうなっているかはわかりませんが 私は倉田実氏の説で違和感が瓦解しました
11月7日
写真は藤田美術館蔵国宝紫式部日記絵詞
瀬戸内寂聴訳源氏物語橋姫より: その頃、世間からはすっかり無視されてしまい零落なさった古い宮さまがいらっしゃいました。故桐壺院の八の宮で、光源氏の君とは異腹の弟宮に当たられます。母方なども高貴な歴としたお家柄で、一時は、東宮にお立ちになりそうな
噂などもありました。それだけに時勢が変わり…… 原文: そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり。母方などもやむごとなくものしたまひて、筋ことなるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて…… ←一気に宇治十帖を読んでしまおうと思いました それで宇治十帖最初の巻橋姫を その冒頭です
函も口絵の絵も豪華で サイズが大きく活字も大きい瀬戸内寂聴訳源氏物語がやはり読みやすくこちらで一気にと思います それで冒頭を原文と対比させたのですが 今迄八の宮を光源氏の異腹の弟とあまり認識していなかったのでびっくり で 原文を見たらその文章はない 瀬戸内寂聴訳にはこうした配慮が
11月8日
徳川美術館所蔵国宝源氏物語絵巻橋姫より: 姫君のお部屋に通う透垣の戸を、薫の君が押し開けてご覧になりますと、お部屋の簾が短く巻き上げられて、月に霧がたなびいている美しい空を眺めているお付きの女房たちの姿が見えます。中略。部屋の奥にいる姫君の一人が、柱に少し隠れて坐って、琵琶を前に
置いて、撥を手でもてあそんでいます。中略。その横に物に寄りかかっているもう一人の方は、琴の上に体を傾けて…… ←国宝源氏物語絵巻の中でも有名な段 琵琶が大君 琴は中の君です 大君が撥で月を招いたりして遊んでいるところを 宇治の八の宮(姫君たちの父)を訪ねてきた薫が垣間見しています
国宝源氏物語絵巻は名古屋の徳川美術館と東京の五島美術館にあります 五島美術館は今は田園都市線になっていますが 前は大井町線といって 私の実家から一本で行かれたので 学生時代に秋の特別展示には毎回通っていました だからとても目に馴染んでいます 徳川美術館にも何度か行ったし
昨夜瀬戸内寂聴訳源氏物語で橋姫を読んでいたら 突然 国宝源氏物語絵巻で見慣れたシーンの文章になってびっくり 突然 絵巻のあの絵が浮かんだのです 源氏物語は何度も読んでいるし 絵巻も見てる なのに文章が絵巻の絵となって浮かび上がった経験は初めて とても新鮮でした
11月9日
おはようございます 国宝源氏物語絵巻ではなんといっても御法巻が重要と思うのですがこちらは五島美術館所蔵です 実家からすぐ行かれる所だったから何回見たでしょう 宇治十帖を読んでいるから 御法巻はもうご紹介できないと思い 取り出しました 御法巻は詞書の料紙が凄いです
宇治十帖を読んでいると作風が違うから紫式部ではない別人説がありますが それは作家というものを知らない単なる理で考える人ですね 呆れます それより紫式部がなぜというかどんなふうにしてこの物語を書くに至ったか それが知りたくて昨夜からまた論文などを読みたくなっています 光源氏の本編
では姫君たちのモデル論とか該当する時代など考察が沢山あって作られ方が見えましたが 宇治十帖でモデルというと横川の僧都の源信くらい 浮舟のモデルって誰だろう 何をきっかけに造形されたのだろう ばかりが頭の中をぐるぐるです笑
秋霧の晴れぬ雲居にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ 源氏物語椎本より薫の歌 宇治十帖橋姫が終わって椎本に移りました 本編の紫の上が亡くなった後の幻巻のような椎本 大君中の君二人の父八の宮が亡くなったあとの時の移ろいの章でした それにしても本当に紫式部の筆のなんと細やかなこと
まだ当分浮舟は登場しないけど 宇治十帖に入って紫式部はなぜどうやってこの宇治十帖物語を思いついたのだろう が ずっと不思議で心にかかっていて そんな思いで読みに入ってどこかにその答えを引き出す何かがないかしらと隅々まで見渡しても物語自体が堅固でますます式部の凄さに圧倒されました
宇治の描写が精細で川風など臨場感があり 紫式部は絶対宇治を訪ねてますよね 越前に行ったのとは違う風景感季節感 道長の山荘だから何かの折には行く機会があったとして不思議ではないけど 春夏秋冬一年分の季節感は何度も行ってる? などいろいろ思いました
メモ: 紫式部 32歳中宮彰子に出仕 その頃までに源氏物語が評判になる程書く 36歳彰子敦成親王出産紫式部日記 40歳彰子皇太后式部引き続き出仕 41歳実資の彰子訪問取次訳・この頃までに源氏物語全編完成か 42歳紫式部没す←紫式部が宇治十帖を書く前に宇治をロケハンした可能性を探ったのですが
本編はほとんど宮中が舞台なので中宮彰子に出仕したりの見聞で書けたとも思うのですが 宇治十帖は読んでみて宇治の土地勘や季節の臨場感でそこで過ごした人ならではの描写にこれは想像で書けるものではないという思いが募りました 検索しても宇治十帖論ってあまり無いし……
そういえばウィキに参考文献が載っているはずと見たら 全部 宇治十帖は紫式部が書いたか別人かの論文ばかり 以前 宇治十帖は仏教感が強いとか読んだけれど そうした内容に関する論文ではなく 紫式部がなぜどうやって書いたかを考察する論文があったら読みたいのですが
11月10日
斎藤正昭氏『紫式部伝』は私が最も信頼をおく紫式部の評伝です このご著書に紫式部の祖母が藤原伊尹家の女房とあって私の構想が固まりました それでまた宇治十帖の執筆状況をどう書かれているか確認すると興味深いご考察をされています 宇治十帖は一条天皇を亡くした中宮彰子のために書かれたと
斎藤正昭氏『紫式部伝』より: 彰子の悲嘆ぶりを目の当たりにしていた紫式部は彰子の心を癒すべく『源氏物語』の執筆に励んだのではなかったか。これまで同様、巻の完成ごとに、おそらく彰子の御前で発表された『源氏物語』は、彰子の心の安定に一役買ったことであろう。
この状況! 光る君へで傷心の定子の心を癒すべく ききょうが春はあけぼの と 一枚一枚書いてはそっと差し入れていたあの美しいシーンそのまま 光る君へで源氏物語でもああいう美しいシーンを描いて欲しかったのに描かれなくても事実としてあったんですね
【メモ: 紫式部 32歳中宮彰子に出仕 その頃までに源氏物語が評判になる程書く 36歳彰子敦成親王出産紫式部日記 40歳彰子皇太后式部引き続き出仕 41歳実資の彰子訪問取次訳・この頃までに源氏物語全編完成か 42歳紫式部没す←紫式部が宇治十帖を書く前に宇治をロケハンした可能性を探ったのですが】←このコメントに斎藤正昭氏『紫式部伝』から付加すると 32歳彰子に出仕までに帚木三帖 36歳土御門殿での冊子作りまでに藤裏葉 39歳一条天皇崩御後から宇治十帖 41歳夢浮橋で源氏物語全編完成
宇治十帖が突然書き出され しかもその間ずっと彰子の女房として仕えたまま どこにも紫式部が宇治に泊りがけのロケハンをしただろう時間は見出されません 時々自宅に下がり出仕を促されてもなかなか出仕しなかった辺りで宇治を訪ねているかも
宇治十帖を考えていたら平等院が浮かび上がり そういえば道長は万葉集に造詣が深く 平等院の経蔵に万葉集が そして訓点を付ける作業の古点次点&仙覚の新点のうち 次点を付けている これ 華鏡ではパスしようと思っていたのですが やはり一章設けようと思います
11月11日
おはようございます 鎌倉にお住まいでいられる学会の先生からお電話を頂戴し 仙覚の小説はもう出たんですか?と 大分長く時間がかかっているから送って貰ってないかと思って電話したのだけどと ありがたくてここのところ独りで詰まっていたから気持ちが晴れやかになりました 頑張ります
先週の光る君へで宇治十帖に辿り着き やはり見るのもいいなと視聴を再開したのですがでももう離脱しようと決めました ここからどんどん人事の世界になってゆき 源氏物語の崇高さと離れるから このドラマはいいのだけれど根本のところで作家紫式部を捉えてない それをこれから掴みに華鏡に籠ります

