« November 2024 | Main | January 2025 »

2024.12.27 Twitter(X)から転載…眠らせていた『北条時頼と源氏物語』の原稿をNoteで連載しようと思いつき、試行錯誤の結果こちらのブログにアップして、そうしたらこれを『華鏡』と合体させて一冊にするのがいいと思いつくまで。光る君への最終回が終わった直後からの長い転載です。

12月12日

唐突ですがNoteを始めようかと 料理していて突然思いつきました 私にはまだ発表していない原稿がたくさんあります 華鏡が終わったらとか逐次華鏡に組み入れてなどいろいろ考えていましたが どうも華鏡は膨らむばかりで終息が見えない なのでそれらの原稿をどこかで発表できないかしらと考えたら

 

不意にNoteがいいのでは? と 今迄kindle一本でやっていこうとばかり頑なに思っていました でも 光る君への呪縛がはずれたらその頑なさも緩んだみたい笑 まだやり方とかなにもわかっていませんが これから調べて登録して原稿を載せていこうと思います まず「北条時頼と源氏物語」からかなあと

 

「北条時頼と源氏物語」は結構長い作品です いつかkindle出版したいと考えていました 時頼と源氏物語というと唐突な組み合わせに見えますが 六代将軍宗尊親王を鎌倉に招聘したのが時頼です そして蘭渓道隆と建長寺との関係も同時進行します そんな原稿 読んで頂けると思うと楽しみになりました

 

六代将軍宗尊親王の時代に源親行の『尾州家河内本源氏物語』と仙覚の『西本願寺本万葉集』がつくられました 華鏡最終章の着地点です

 

「北条時頼と源氏物語」のデータを確認したら当時挿入した系図がありました こういう内容の原稿です という意味でポストさせていただきます ①安達氏 ②北条氏 ③将軍家と執権家 ④藤原道家と鎌倉の関係

 

12月13日

建仁寺の勅旨門はかつて平重盛邸にあった館門を移築したもので扉や柱に矢の疵があり平家の時代の痕跡です 「北条時頼と源氏物語」の原稿を見直していて 第一章時頼六波羅で誕生の項にこの記述が 一応完結した原稿なのでそのままNoteに載せようと思ったのですが 十年前の原稿にはやはり推敲が必要に

 

今日は終日「北条時頼と源氏物語」の原稿見直し 藤原定家は有名人だけど源光行はあまり知られてない 時頼は認知度はあっても巷的に魅力ある人物とは思われてない そういう人たちばかりの原稿のどこが面白いか危ういだけしかないのだけれど この原稿に浸っていて私には至福の時間でした

 

この原稿 今これを書けといわれても書けない 書こうとしても資料から見直さなければならないし その資料さえどこに埋もれているか やはり今この原稿自体を大切にしなければと思いました 定家と光行が出るのは青表紙本源氏物語と河内本源氏物語について書いたから 定家の青表紙本源氏物語ができた

 

時に時頼は京都で生まれたばかり 時頼の両親の六波羅探題北方時氏と松下禅尼夫妻は定家と仲が良く交流していました もしかして夫妻が赤ちゃんだった時頼を抱いて定家を訪ねたりして そこにできたばかりの青表紙本源氏物語があったら 夫妻と時頼は鎌倉人で最初に青表紙本源氏物語を見た人になります

 

そんなことを想像しながら書いているから楽しいんです

 

積翠園はかつて平重盛の邸だった小松殿の庭園が現存する庭園です 私が訪ねた時はまだ武田病院の中庭でした 今は病院が取り壊されてフォーシーズンホテルになっています 庭園は壊されずホテルになっても見られているそうです 北条時頼と源氏物語の旧原稿にはこんな写真が挿入されていました

 

12月14日

oteに挙げる予定の『北条時頼と源氏物語』第一章時頼・六波羅で誕生の項の原稿見直しをほぼ完了 今日中にアップしたくて頑張ったのですが無理でした笑 18章あるから毎日一章としても18日間 見直しに二三日かかるとしたらその倍か3倍 年内には終わりませんね まさかこんな事になるとは

 

写真の絵葉書は平家納経提婆品 この第一章は時頼が四歳まで京の六波羅で育っていて そこはかつて平家一門の邸宅があって そこはかつて河内本源氏物語の源光行が平家に仕えて暮らしていた所 ということで平家納経の絵葉書を出してみました

 

思いがけずこんなところで定家光行ふたりの青表紙本源氏物語と河内本源氏物語についてのお浚いをすることになるなんて思っていませんでしたが 十年前はこの視点で必死だったんですね 仙覚の小説に移行して忘れ去っていたことでした 初心に返れて新鮮です 華鏡にもきっといい影響になると思います

 

12月15日

おはようございます 写真は京都東山の麓にあった積翠園 かつての平重盛邸 小松殿の今に残る庭園です 2011年に訪ねた時は東山武田病院の中庭でした 今は廃院になってフォーシーズンズホテル京都になっています 北条時頼と源氏物語の原稿第一章でこれを書いて 原稿は昨夜もう完全と思ったのにあと

 

一回と思って見なおしたら突然今迄と違う文章で訂正が入ってびっくり これが書けるようになったんだ と嬉しかったです どんなに頑張ってもかつての筆力が戻らない だから書けただけの原稿で間に合わせるしかない という状況がずっと続いていました 仙覚の小説を始めてからです 無理して書いて

 

いたんですね 時頼と源氏物語の原稿は書きたくて書いていた だから見直していて楽しいし至福でした 何より文章に躍動感がある 十年も前のだからそれ以降解明できたことも組み入れて そんなことをしていたら突然文章が湧き出でるように 過去の原稿って当時の勢いを取り戻す最適な方法ですね

 

写真は鎌倉の夜の海 Noteの件ですが私事で全然とりかかれず深夜になって皆様の記事を拝見したり公式での仕様を読んだりしているのですが 使い始めればブログやX同様慣れると思います でもなんだかXと似た感じの交流が前提にあるようで 私みたいに完全に作品だけアップしていくというのは違うみたい

 

作品だけを載せていくとなるとやはりkindle出版になるのかなあ など考えています と 今 ふと思ったけど FBページになら載せられるかなあ・・・ 第一章を仕上げてみて このまま全章をNote用に仕上げるなら kindle出版に漕ぎつけられます 鎌倉の夜の海は今の心境です笑

 

12月16日

「『北条時頼と源氏物語』第一章 北条時頼・六波羅で誕生」をブログに載せました

 

FBページ【仙覚取材ノート】に投稿してみたのですが そのアドレスをこちらにコピーできないので ブログに載せてみました 「ブログを更新しました」で毎回皆様に見て頂いているので ブログでの連載が落ち着くかも

 

12月17日

おはようございます 唐突ですが突然悟りました 私は竹西寛子さんみたいな文学者になりたかったのでした それが『尾州家河内本源氏物語』に出逢ってしまったために論文を書き今は仙覚という小説まで 随筆家としての文章を書く機会がなかったから苦しかったんですね 北条時頼と源氏物語が楽しいのは

 

束縛のない状況で自由に書いていたから論文でもなく小説でもない ではなんだろうと考えて そうだ 竹西寛子さんの世界だ! と思い当たったのでした Noteの件で迷走しましたが 新しいSNSは止めます ブログ一本に絞って時頼と源氏物語を完走させ まとめてkindle出版にします 新しいmixi2も考えた

 

けど 以前投稿していたmixiでは素敵な相互さんもたくさんいらしたのに突然規約改定になって 投稿した記事の著作権はmixiのものと 即座に撤退しました 今度の2はその辺りどうなのでしょうね でももう決めました ブログオンリーと 今日は時頼の第二章ファーストレディ松下禅尼にかかります

 

写真は上東門院彰子さまの経箱 円仁の如法経を比叡山横川に埋納するプロジェクトに協力された時のものです 光る君へではここまで描かれなかったけど 国母たる自身は国の安寧を祈るものと厳しく心に刻み付けられていたみたいで好きなエピです 『北条時頼と源氏物語』第二章ファーストレディ松下禅尼

 

の旧原稿を見直していたらこのエピが書かれていました 十年も前の原稿だからどんなことを書いていたかすっかり忘れていて こういう逸話は覚えているのですがどこに書いたか覚えてなくて 今見たら ここだった! となっています笑 松下禅尼は経時時頼というふたりの執権の母ですから国母という立場

 

が同じ上東門院彰子さまを崇敬してました これも無住の『雑談集』にあるエピです 松下禅尼が彰子さまを知っていたのが不思議ですが これは六波羅探題北方時氏の妻として六年間在京し ファーストレディとして京の公卿らと対等に暮らしていたのですから 当然源氏物語も読んでいたでしょうね

 

松下禅尼というと徒然草で障子を張るつましい老尼のイメージしかない方が多くいられると思いますし 私もそうでしたから ファーストレディとしての彼女の存在を知ったときは驚きでした その驚きの新鮮なままに書いたのがこの第二章です

 

12月18日

もうずっと頭から離れないので呟くのですが 北条時頼と源氏物語の筆法で仙覚の小説を書いていたらとっくに完成してたかも 随想はある意味自動筆記 紫式部の源氏物語にもそれを感じます だからするすると書ける でも小説はツクリモノ 私はそこに作為を感じてしまってダメ 華鏡 書き直したい位

 

源氏物語の文章は現代語でいうとですます調と思う 決して だ の断定にはならない 私はですます調だと自然に書けるし流れていくのですが 仙覚の小説はですます調では歴史の主人公で男性だからそぐわないし 玄覚の語りと決めたからどうしても だ で書くしかなくそうしていました だから苦しくて

 

12月19日

松下禅尼は頼朝のご落胤説がある安達景盛の娘です 私が住む三鷹は徳川家の鷹狩場でしたから 土地の名家にはご落胤説のある家が残っています そこのお嬢さんと一緒に仕事をしていた時 そのご落胤説が如何に彼女にとって栄光で憧れだったかをまざまざと見ました 源氏物語に憧れた更級日記の作者が

 

こうだったのだろうなと思って見ていましたが 松下禅尼の生い立ちを知って彼女を思い出し 松下禅尼もまた頼朝のご落胤の娘という自分に陶酔する少女時代を過ごしたのではないかと 後年六波羅探題北方の妻となって在京し 京の公卿や宮中の方々と交わり 藤原定家と交流して 源氏物語を読まなかった

 

訳はないんですよね しかも彼女が在京していた時に定家の青表紙本源氏物語が完成しています 北条時頼はその時代に生まれて定家一家と交流していた時四歳でした 時頼と源氏物語はこんなにも密接に因果関係で結ばれています

 

そういえば16日は鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭でした 800年絶えず続けられているとか 頼朝について調べていたころ何回か通い寒風に堪えての幽玄な世界に魅せられました 北条時頼と源氏物語の原稿第二章ファーストレディ松下禅尼を見直しています みんな過去のことになって今は総まとめでしょうか

 

今ごろになって松下禅尼を振り返るなんてと もうみんな忘れ去ってしまった過去のような気分です だからこそ発掘した原稿を大事に公開させてあげなくてはと思います

 

北条時頼と源氏物語は家族も知らない原稿で 今日初めて今やってるのは華鏡ではなくこれなのと話したら驚かれて どうして本にしておかなかったの?と 私も今にして思えばそうなのですが 当時は鎌倉の源氏物語の活動で大変でしたからとても気がまわる状況ではなく ただただ書いていて楽しかった

 

北条時頼と源氏物語第二章ファーストレディ松下禅尼 ほぼ見直しが終わりました 明日プリントしてもう一回見直しをして そうしたらアップします 読んで頂いてどうかわかりませんが自分で見直していて本当に楽しい 久しぶりです原稿に向かっていてのこの嬉しさ

 

写真はその第二章ファーストレディ松下禅尼の項の参考文献 この頃こういうのばかり読んでいた と こんなところさえ懐かしく楽しい この原稿を思い出してよかったです たぶん私自身が蘇っています

 

12月21日

『北条時頼と源氏物語』第二章ファーストレディ松下禅尼は 時頼の母松下禅尼の六波羅探題北方妻としての華やかな時代の中で 『源氏物語』を通して中宮彰子を知り 同じ国母としての立場から尊敬するという内容です 「第三章 第三代執権泰時と北条時頼」はこれから推敲に入るのですが 年内にアップできるでしょうか

 

光る君への中宮彰子さん 見上愛さんがとても好きでした あの方に演じて頂いて最高でした 光る君へでは描かれませんでしたが仏教への信仰が篤く 原稿ではそれを書きました 写真はその彰子さんの造った美しい経箱 道長の金峯山に埋納された経筒とともによく展覧会に出られます

 

「第三章 第三代執権泰時と北条時頼」では竹御所が登場します 竹御所は四代将軍頼経の正室ですから執権が泰時の時代だったんですね 父は二代将軍頼家 初代頼朝には勝長寿院 三代実朝には大慈寺 なのに父には菩提を弔う寺院がないと泰時に命じて建立に奔走させるのが痛快です 正室の権威を借りて

 

『北条時頼と源氏物語』の原稿はもう十年も前に書いたものだから 起承転結を時代として覚えているくらいで詳細をすっかり忘れていることが判明 自分で書いたのにと驚いています それで推敲のために原稿を開いて こんなことを書いてたんだ! とか これ ここに書いていた! とその度にびっくり笑

 

12月22日

『北条時頼と源氏物語』第二章松下禅尼をブログにアップしましたが ふと 当時の天皇はどなただったかしらと気になって検索 後堀河天皇でした 六波羅探題北方は天皇の警固にもかかわりますから 松下禅尼の夫時氏が仕えたのは後堀河天皇 承久の乱で後鳥羽院順徳院が流され

 

仲恭天皇が廃されて即位されたのが 高倉天皇皇子のそのまた皇子の後堀河天皇 この辺り歴史に疎いからうっかりどの天皇の御代かを入れ忘れてました 新古今集とか文学的事件とかかわった天皇は把握できているのですが 松下禅尼は後堀河天皇朝廷の女御さま方々と親交してたのですね

 

12月23日

写真は光る君への紫式部が中宮彰子さんに新楽府の進講をしている画面 終わってしまったのが嘘のようで懐かしいですね 北条時頼と源氏物語の原稿第二章に松下禅尼が彰子さんを敬愛していたことを書きながら この進講エピも入れました 今日は第三章三代執権北条泰時の旧原稿を見直しているのですが

 

この時代に仙覚が登場するのでそれも書いています なにしろ仙覚と時頼の父時氏が同じ比企の乱の年生まれなんです で 必要上仙覚をさらっと入れたのに 入れたらこれもこれもとどんどん湧いてとてもさらっとにはならない そしてさらっと終わらせられないなら・・・となった時 え! もしかして

 

これ 華鏡の第三部 終章にできるのでは? の思いが湧いてしまいました 目下四代将軍頼経と竹御所が結婚したところを見直しています 今後新たに華鏡終章を書くとして この時頼の原稿ほど綿密に時代を書き起こせるとは思わない 今迄できるとばかり思ってたけど もうこれは書けないです

 

光る君へ 終わってしまって改めて映像が美しかったなあと 一年間平安絵巻を通しで見られて至福でした そして思うのは次に是非 万葉集 でこれをやって欲しいと こんなに源氏物語や枕草子和泉式部日記蜻蛉日記更級日記が視覚に入って生きてくるなら 大伴家持橘諸兄聖武天皇光明皇后もそんなふうに

 

そういえば柿本人麻呂が主人公のドラマってありました? 梅原猛さんの水底の歌 あれがドラマになったら面白いのに 梅原猛さんは京都駅の新幹線改札内ですれ違ったことがあります でも水底の歌を読んだのはその後で 紫文幻想を読まれた鎌倉ペンクラブの方が水底の歌を彷彿とするんだよなあと仰って

 

12月25日

『北条時頼と源氏物語』第三章第三代執権北条泰時を年内にブログにアップしてしまおうと頑張っています 写真は建長寺様の牡丹 季節が違うけど華やかな雰囲気として気分昂揚に

 

この原稿の見直しをしていることで本来の自分の文章が甦ってきています 華鏡の原稿 あとは人称の解決だけ

 

遅筆だけど 遅筆過ぎるけど 私にはこの累積された時間がとても大切に思えてきました

 

急いでブログに『北条時頼と源氏物語』第三章 第三代執権北条泰時と北条時頼 をアップしました ワインを飲んだあとでふつうならダウンしてしまっているのですが とにかく早く手放したくて なので見直しが必要なところもあるかもです(文字の検証レベルで大筋に違いはありませんのでご容赦を)

 

写真は鎌倉市宇都宮逗子御所跡の宇都宮明神 四代将軍頼経の御所でした 清川病院の脇を入った奥にあります この章は竹御所と頼経の結婚がメインで そこに仙覚が絡んできます

 

12月26日

大変なことを思いついてしまいました 第三章までブログにアップした北条時頼と源氏物語の原稿 それに今迄書いていた仙覚が生まれるまでの華鏡の原稿を前につけて編集したら 華鏡として一冊になるのでは と 華鏡は第一章に紫式部の源氏物語を入れ始めたから終わらなくなっているのでそれを排除して

 

紫式部の源氏物語については別の一冊として 源氏物語の写本についてまとめます そうすれば今迄悩んでいた語り手の人称問題が解決するし 人称は 玄覚の語りで始めてるから男性視点で書かなくてはならず それが苦しかったのだけれど 時頼の原稿なら玄覚の語りでも大丈夫 やってみます

 

私の中では仙覚の世界と紫式部の世界が同時にあって 仙覚と万葉集を書くのは男性言葉で客観的に書ける でも紫式部の源氏物語を書くと私自身の思いが溢れてくるから男性言葉では無理 それで華鏡第一章が迷走して停滞していたのでした 紫式部の源氏物語への憧れは華鏡では書けないと悟りました

|

2024.12.25 『北条時頼と源氏物語』第三章 第三代執権北条泰時と北条時頼

『北条時頼と源氏物語』          

第三章 第三代執権北条泰時と北条時頼

 安貞二年(一二二八)の十二月三十日。その日は朝から雪が降りつづいていました。そんななか、将軍頼経が突然思い立って騎馬で竹御所を訪ねます。その供奉人のなかに北条実泰がいました。のちに金沢文庫の創設者となる北条実時の父です。そしてもうひとり、後年、「河内本源氏物語」を完成する源親行がいます。

 この年、実泰は二十一歳、親行は三十七歳です。このとき実時は五歳。経時は実時と同い年ですから、五歳の経時と三歳下の時頼が京の六波羅で走りまわって遊んでいるころのことです。

 実泰は二代執権義時の子です。母が伊賀氏で、義時が亡くなったとき、伊賀氏の変が起きました。その結果、伊賀氏は配流。将軍候補にかつぎだされた一条実雅が罪人となって帰洛させられ、親行が勝手に実雅に従って上洛して幕府の怒りに触れ、所領没収・幕府出仕停止の咎にあったことは「第一章 北条時頼・六波羅で誕生」に書きました。

 そのとき、経時と時頼の父時氏が六波羅探題北方に赴任したばかりで、この事件の処理にあたったのが最初の仕事になったのでした。

 おなじ伊賀氏を母とする政村ともども、実泰は事件の連座に戦々恐々とします。けれど、三代執権となった異母兄の泰時は事件を意に介さず二人の弟を受け入れました。以降、政村・実泰兄弟は泰時の腹心として重用されていきます。

 京に上って定家と会い、逼塞していた定家に若い刺激を与えて『源氏物語』の書写を思い立たせ、「青表紙本源氏物語」の完成へと貢献した親行も、いつのまにか鎌倉に戻り、幕府に復帰しています。これは、嘉禄元年(一二二五)七月の政子死去による恩赦があったのではないかと推測されています。

 この時点で「河内本源氏物語」の校訂はまだ父光行の手にあり、親行が本格的にそれを引き継ぐのは、八年後の嘉禎二年(一二三六)、四十五歳になってからです。

 親行は頼経の歌の師として仕えていました。親行は少年時代から光行に厳しく源氏学者になるべくしつけられていますから、この当時すでに若手の源氏物語研究者として仰がれていたことでしょう。

 実泰が親行とどの程度親交があったかわかりませんが、一緒に供奉しているのですから顔見知りではあったでしょう。

 二歳で下向した頼経はもう十一歳になっています。

 頼経が雪のなかを騎馬で向かった竹御所は、二代将軍頼家の娘で、母は比企能員娘の若狭局でした。

 頼家と若狭局のあいだにできた一幡が三代将軍に就くと、外戚としての北条氏の権威が比企氏に移ってしまいます。それで北条氏は比企氏を討ちます。比企能員以下、若狭局も一幡も含めて比企氏は滅びます。それが建仁三年(一二〇三)に起きた比企の乱です。その結果、実朝が三代将軍になりました。

 この年生まれの竹御所は、女子であり赤子でもあったために殺されずに済み、祖母政子に引き取られ、大蔵幕府に隣接する政子の御所で育てられることになりました。

 建保七年(一二一九)、実朝が頼家息の公暁によって暗殺されます。そして、四代将軍になるべく、二歳で京から下向して来たのが九条道家息の頼経でした。たった二歳で両親から引き離されて。鎌倉では政子が育てながら、将軍の代理を勤めていくことになります。政子が尼将軍といわれる所以です。竹御所は十七歳になっていました。

 ここにおいて、政子のもとで、竹御所と頼経がおなじ屋根の下で暮らすことになります。

 竹御所は天涯孤独の、人質同然という身の、おなじ境遇の頼経を不憫にも愛おしくも思い、弟のように慈しんで世話をしたことでしょう。表向き政子が育てるといっても、実質母親代わりだったのは竹御所でした。当然、ここに、運命共同体の二人には二人にしかわからない心の交流が生まれます。

 が、嘉禄元年(一二二五)の八歳のとき、頼経は新しくつくられた宇都宮辻子御所に移され、竹御所から離されます。翌嘉禄二年(一二二六)、今度は竹御所が竹御所自身の邸を与えられて移っています。

 十歳にも満たない少年にとって姉同然、母親同然の、唯一甘えられる女性から引き離されたことは、会いたくて寂しくてたまらなくなって当然でしょう。『吾妻鏡』には頼経がしょっちゅう竹御所を訪ねる記事があります。安貞二年の記事もその一つです。

 

 寛喜二年(一二三〇)三月、時頼が四歳のとき、時氏が六年間の六波羅探題の任を終えて下向すべく京を出立します。

 このとき、経時は七歳でした。夜明け前から先陣が発ち、夜明け後に直垂姿の時氏が家来三百騎をしたがえて出発するその行列に、経時も小さい馬に乗って加わったといいます。松下禅尼は檜皮姫をみごもっていて、時頼はその松下禅尼と一緒に駕籠に乗っていたのでしょう。

 時氏の下向は、泰時が、次期執権となる時氏をそばに置いて経験を積ませるという期待を背負ってのことでした。

 が、時氏は旅の途中、今の愛知県豊川市にある宮路山において病気になってしまいます。重病だったらしく、四月に鎌倉に到着したのですが、松下禅尼や泰時らによる懸命の看病の甲斐もなく六月に亡くなります。亨年二十八歳でした。時氏が生まれた檜皮姫の顔を見たかどうかはわからないといいます。

 松下禅尼は出家し、このときから松下禅尼と呼ばれるようになります。禅尼は経時と時頼を連れて、実家である甘縄の安達邸に帰り、以降、二人は祖父泰時と松下禅尼によって育てられることになります。

 泰時は経時を次期執権とするべく特別なはからいを持って育てます。が、時頼にそれはありませんでした。泰時の兄弟への教育の違いは顕著でした。高橋慎一朗氏は『北条時頼』にこう書かれます。「時頼はあくまでも庶子であり、この時点で兄経時との立場の差は歴然としていた」と。

 十二月、頼経が竹御所と結婚します。将軍、十三歳。竹御所、二十八歳。という十五歳もの年の差を乗り越えての結婚です。その不自然さゆえに、従来これは政略結婚とされてきました。が、すでに書いたように二人のあいだには二人にしかわからない心の交流があります。二人は二人がひとつになることで自分たちを天涯孤独に陥れた人たちに対抗できる強さを得ようとしたのです。

 私見ですが、おそらくこれは竹御所の意志です。二歳のときから竹御所の愛情のもとで育った頼経には、竹御所がふつふつと心に秘めていた北条氏への復讐心がすり込まれています。二歳からですから純真無垢のままになついて、竹御所のいうことならなんでも素直に疑いもなく聞き入れるように育っています。頼経も可愛かったでしょうね、このころは。竹御所にとって結婚はその報復の第一歩。いわば前哨戦の狼煙でした。

 将軍の正室になった竹御所は、将軍家の権威を背景に、それまで隠し持っていた比企氏としての行動を開始します。

 竹御所は政子に後継者として育てられ、御家人たちからも唯一源氏の血を継ぐ女性として崇められて、政子亡きあとは立派に後継者の役を勤めていました。けれど、北条氏のなかで生きるかぎり、例え両親を殺した相手と思っても、その感情を微塵たりとも表に出すことは許されませんでした。

 が、将軍の正室といえば北条氏を凌駕します。竹御所はその名のもとで、まず最初に、全国に散らばっていた比企氏残党の帰省を許したのでした。

 このとき、後年鎌倉で万葉集を研究することになる仙覚が、潜伏先から故郷の比企に戻りました。

 仙覚は比企能員息の時員の子で、比企の乱のとき、母親の胎内にいて、母親が能員の館がある比企に逃れ、そこで生まれ育ちました。比企氏残党の男子と知られると殺されるために、その後上洛したりしながら素性を隠して生き延びていたのを、竹御所の指令で戻れたのでした。

 

 次に竹御所と頼経がしたのは寺院を建てることでした。

 頼朝には勝長寿院と永福寺が、実朝には大慈寺というみずから建立の寺院があるのに、比企氏とともに抹殺された頼家には菩提寺すらありません。

 北条氏のなかで暮しているあいだ、それを悲しくも理不尽にも思っても、政子にも叔父たちにも言葉にすることが憚られました。ですから竹御所は、いつかわたしが、の思いをずっと心に秘めていたのです。

 頼経と結婚してすぐに竹御所は頼経とはからい、寺院の建立を幕府に命じました。将軍頼経の御願寺を建てるという主旨とセットにして。

 『吾妻鏡』にその経緯が記されていますが、思いがけない二人の申し出に幕府が困惑して、場所の選定などあたふたと陰陽師に尋ねたり調べさせたりして右往左往するようすがみてとれます。

 執権は泰時です。読んでいて思ったのですが、善政で知られる泰時です。そして、比企の乱の首謀者は時政と政子です。竹御所の復讐心は北条氏に向けられてはいますが、泰時に罪はないのです。読んでいると、泰時が二人に応えようと懸命になっていることが伝わってきます。それまでの北条氏とはなにか一線を画しています。泰時だったら比企の乱を起こさなかったかもしれないし、逆に時政だったら二人の寺院建立の要望を無視したでしょう。

 貞永元年(一二三二)に頼家の菩提寺が大慈寺境内に完成します。

 この年、泰時が御成敗式目を完成させています。泰時は将軍家の寺院建立の要求に奔走しながら、一方でこういう事業を成し遂げていました。経時は九歳、時頼が六歳の時のことです。

 御成敗式目は、承久の乱で上京し、そのまま六波羅探題の任について在京した泰時の経験から、必要を感じて編み出されたといいます。混乱しきった乱後の処理で大変だった泰時が、しっかりした法律の必要を感じてのことだったといいます。泰時は京で明恵上人と親交していて、御成敗式目には上人の精神が反映しているそうです。

 鎌倉武士泰時と『夢記』の明恵上人との交流は意外ですが、それも泰時が六波羅探題として上洛していたからのこと。ことの発端は、承久の乱のあと、栂尾の山中に京方についた落人が多くかくまわれているとの噂を聞き、安達景盛が赴いて明恵上人を捕縛し六波羅に連行したことでした。

 明恵上人が徳の高いことで有名な僧であることをすでに聞き知っていた泰時は驚き、知らなかったとはいえと、景盛の失態を重々に詫びます。それに対する上人の言葉に感動した泰時は、以来、何度も栂尾を訪ね上人と法談を重ねる仲になったのでした。

 そして景盛も上人に深く帰依します。

 明恵上人は無心の人です。

 天下を治めるには? と問う泰時に、上人は、「国の乱れる原因は慾心にある。貴殿がまず慾心をすてられたならば、天下の人もその徳に誘われよう。天下の人の慾心深ければ、その人を罪に行うことなく、わが慾心の直らぬ故と、まずわが身を恥じられよ」と答え、これが御成敗式目に生きたのでした。

 明恵上人は仏眼仏母という、真っ白な蓮台に座し、真っ白な衣をつけた、真っ白な肌の菩薩像を信奉していました。仏眼とは真理を見通す仏の眼、それがすなわち悟りを産み出す母という意味の仏画だそうです。

 幼くして両親を亡くした明恵上人は、その仏画を母として慕って信仰していました。泰時が法談に訪れた栂尾高山寺にはその仏眼仏母像がかかっていたはずですから、幾度となく泰時も拝したでしょう。その仏画の前で上人からこの像の教理を聴いたかもしれません。

 時頼が泰時に養育され、さまざまなしつけを受けたとき、明恵上人の話は当然出たでしょうし、そのとき仏眼仏母の白い仏画のことは、時頼の心に残ったかもしれません。

 後年、建長寺を時頼が創建し、開山に迎えた蘭渓道隆が宋から持参してきた繊細な宋画の宝冠釈迦三尊像を見たとき、あるいは時頼の胸を、泰時の語った明恵上人の仏眼仏母像のことがよぎらなかったことはないとはいえないだろうと思います。

 明恵上人はこの年の一月に亡くなっていますから、泰時が自身の教えを込めた政令の制定をしたことを知ることなく逝かれたことでしょう。それでも時頼には、泰時を通して、景盛娘の松下禅尼を通して、明恵上人の教えが伝わっていることでしょう。

 

 天福二年(一二三四)六月、北条実時が十一歳で、父実泰から小侍所別当の役職を継ぎます。これは重職だから少年の実時には無理という御家人たちの反対を押し切り、泰時が自分が後見をするからと保証して継承したのでした。

 『吾妻鏡』での実泰の辞任理由は病気でした。が、京で定家が『明月記』にこう記します。

 

  天福二年七月十二日

   さる二十六日朝、義時朝臣の五郎男(実泰)が誤って腹を突き切り、
   幾度となく意識を失ったとのことである。このことを、狂喜の自害
   と伝える人もいる。今も、験者が祈祷を続けているとのことである。
   また、小怪異や妖言もささやかれている。

 

 事実は実泰がこのような状態だったから小侍所別当を辞任したのでした。それが二十六日。そして実時が継ぐのが三十日です。その席で御家人たちの反対があったのも、こういう事情を危惧しての意味もあったかもしれません。

 金沢文庫図録『北条実時』では、これは『吾妻鏡』の伝えない情報で、真相は明らかでないとします。けれど、冒頭にみたように実泰と親行の近しさと、親行と定家の関係をみれば、これは親行が定家に知らせたものとして間違いないでしょう。

 

 七月、懐妊していた竹御所が難産で亡くなります。『吾妻鏡』の記事より、

 

  七月二十六日
   御台所(竹御所)が御産所(北条時房の邸)に移られた。供奉の人々
   は数人であった。時房の邸宅に移られた後、子の刻になって産気づか
   れた。廷尉藤原定員が鳴弦役の人を召し、十人が参った。それぞれ
   白の直垂に烏帽子。
  七月二十七日
   寅の刻に御台所が出産された。子どもは死んで生まれられた。
   御加持は弁僧正定豪という。御出産の後に苦しまれ辰の刻に亡くなら
   れた。御年は三十二歳。この方は正治の将軍源頼家の姫君である。
  八月一日
   北条弥四郎経時が小侍所別当に補任された。これは陸奥太郎北条実時が
   竹御所の御葬儀を奉行されたので憚りがあり、しばらく出仕できない
   ためという。

 とあるように、子どもも死産でした。

 産所となった邸の時房は、時政の子で二代執権義時の弟です。泰時にとっては叔父ですが、一門の年長者であり、御所で政子に育てられた竹御所にとっても常日頃接する身近な人でした。が、一門の年長者ということは、竹御所にとっては親の仇北条氏を代表する第一の人物だったかもしれません。

 そして、時房の側からしたら、将軍の正室になったとたん、北条氏に対して牙をむくような行動をし出した竹御所を見逃すわけはなく、油断できないと警戒していて当然と思います。

 わたしは、竹御所の薨去に対して、もしかしたら殺されたのでは? の思いを捨てきれずにいます。比企の乱とおなじで、比企氏に外戚の権威が移るのを防ぐために北条氏が起こしたのが比企の乱です。竹御所が頼経の子を産んだら、やはり北条氏の地位が揺らぎます。一般には頼経との結婚は、北条氏と将軍家を結びつけるための政略結婚とされていますが、『吾妻鏡』にみるかぎりどうもそうは読み取れません。

 時房は蹴鞠を得意としていて、頼家が比企能員邸で蹴鞠をするときの常連でした。が、比企の乱のあと、連座の咎にあっていないことから、時房はスパイとして送り込まれていたという説があります。

 こういう時房邸が産所と決まったと知ったときの竹御所の心境は如何ばかりだったでしょう。もしかしたら、もうわたしは二度と外の景色を見られないと、覚悟して臨んだのではないでしょうか。

 そのころ、外では、頼経の御願寺五大堂の建築が進行中でした。

 頼経様の五大堂をわたしは見たい……、竹御所はそう思って産所となった時房邸の門をくぐったのではないでしょうか。そして、それは叶いませんでした。

 

 竹御所の葬儀を奉行したのが小侍所別当に就任したばかりの実時でした。それで、触穢のために一時任を離れ、経時が代わりに就きます。これは、べつの人間を任命すると、そこから役がその人物の家系に継がれていくことになるのを避けるための措置でした。事実、しばらくして実時は復職します。

 頼経は竹御所の出産に幕府が鎌倉の僧に祈祷させたにもかかわらずこのような結果になったことに絶望して、京から高僧を呼び寄せ、以後、将軍御所では幕府とは関係のない独自の宗教世界が行われます。それは京を基盤とし、密接につながる旧仏教でした。これが後年、時頼をして旧仏教世界とはかかわりのない禅宗に帰依していくきっかけになりました。

 頼経は竹御所の菩提を弔うために比企谷に新釈迦堂を建て、そこに住持として仙覚を呼び寄せました。比企で生まれた仙覚ですが、十六歳のとき、『万葉集』の研究者たらんと志して上洛し、順徳天皇の北面の武士になっていました。北面の武士ではありますが、『八雲御抄』をあらわすなど文学面でも造詣の深くいられましたから、『万葉集』に秀でた仙覚とは気が合ったようです。それで、仙覚は、順徳天皇中宮である立子をつうじて、立子と姉弟である九条道家に目をかけられる存在になったのではないでしょうか。これはわたしのまったくの推論ですが。

 頼経が、新釈迦堂の住持に仙覚を呼び寄せたのは、道家の指示だったとわたしは思っています。

 嘉禎元年(一二三五)二月、頼経の明王院五大堂が建立され、一切経の供養が行われました。その一切経の書写・校合に親鸞が呼ばれて参加しました。親鸞が六十余歳のころといいます。そしてここに時頼が登場するのですが、時頼は九歳です。松尾剛次氏『知られざる親鸞』にそれが紹介されています。

『親鸞聖人正明伝』より引用します。

  聖人、六十余歳、北国関東の教勧成就して都へ登たまう。相模国江津と
  云所に暫く滞留ましましき。是より鎌倉も遠からず、殊に始より教化の
  縁もあれば、時時にかよいてすすめたまう。其折ふし、鎌倉北条家一切
  経を書写し、校合慶讃の法会あり。是は数多の知識を請じて修する法会
  なり。このとき親鸞聖人は卓抜の智者なるよし沙汰ありければ、招請して
  文字章句を選の宗匠とす。(中略)北条武蔵守泰時の時なりとかや。
  泰時はじめは修理亮と号せり。此法会の時は聖人六十一、二歳なるべし。

 この記事に『吾妻鏡』の明王院での一切経法要を重ねられたのが峰岸純夫氏で、「鎌倉時代東国の真宗門徒」で明らかにされました。『吾妻鏡』より引用しますが、嘉禎元年は八月まで文暦二年です。

  文暦二年二月十八日
   弁僧正定豪が本坊で一切経を供養した。導師は興福寺東南院法印公宴、
   呪願役は大蔵卿法印良信である。将軍九条頼経も結縁のために出御なさ
   れた。輿に乗られた。武藤左近将監が剣の役を務めた。相州(時房)、
   武州(泰時)以下も供奉した。

 このあと、峰岸氏はおなじく親鸞の鎌倉での一切経校合を記す『口伝鈔』に、親鸞と時頼が会話を交わしたエピソードがあると紹介されます。

  この後に執権の催した宴席で、後の北条時頼(関寿殿九歳)との魚鳥を
  食する時に袈裟を着用するか否かの問答があり、生類を解脱せしむるため
  着用して食するのだという解説をおこない関寿殿を納得させたという話が
  続く。それに感銘した利発な関寿に対して、その「器用」をたたえると
  いう時頼への賛歌でしめくくられている。

 『口伝鈔』は親鸞の曾孫の、浄土真宗本願寺第三代覚如の撰述になる親鸞の教えです。北条氏撰の『吾妻鏡』でないところに少年時頼への賛歌が残されていることに畏敬を覚えます。

 これをみると、少年時から時頼はこうした宴席に同席して政務にかかわるような社会の事情を伝聞でなく自分の眼で見、聞いて、体験し、その時々で自分の意志で当代きっての智者として宴席にはべる親鸞に質問したりしています。

 ここに時頼が執権に就いたあとに生きてくる帝王学の基礎があるのでしょう。

 この一切経事業に参加したあと、親鸞は帰洛し、京で最期を終えるのですが、それは幕府が発布した念仏者禁制が帰京の原因ではないかと松尾氏は指摘されます。七月の発布ですから、一切経事業より半年後。それまで親鸞は鎌倉に留まっていたのでしょうか。だとしたら、幼い時頼を感服させるような親鸞の影響を、戒律に厳しい明恵上人を信奉する泰時が恐れての発布ということはないでしょうか。

 少なくとも、半年もあれば、学究の徒、求道の人、の質があれば、時頼のような少年はもっと教えを乞いたいと通うこともあったと思います。

 

《参考文献》

上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

村井章介『北条時宗と蒙古襲来』日本放送出版協会

現代語訳『吾妻鏡9 執権政治』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡10 御成敗式目』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡11 将軍と執権』吉川弘文館

池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』

峰岸純夫「中世東国の真宗門徒」

松尾剛次『知られざる親鸞』

金沢文庫図録『北条実時』

織田百合子『源氏物語と鎌倉』

|

2024.12.21 『北条時頼と源氏物語』第二章 ファーストレディ松下禅尼

『北条時頼と源氏物語』

第二章 ファーストレディ松下禅尼

 元仁元年(一二二四)、鎌倉で二代執権北条義時が亡くなり、初代六波羅探題北方として在京していた子息の北条泰時が三代執権に就任すべく鎌倉に戻ります。入れ替わりに泰時の子息時氏が鎌倉を発って京に入り、二代六波羅探題北方に就任しました。

 このとき時氏はのちに松下禅尼と呼ばれることになる新婚の妻を伴っています。赴任したその年に四代執権となる経時が生まれ、四年目に五代執権になる時頼が生まれました。

 六年務めて鎌倉に戻るのですが、そのとき松下禅尼は檜皮姫をみごもっていました。檜皮姫は鎌倉に到着してから生まれていますから、道中、松下禅尼は辛かったでしょうし、周囲の気遣いも大変だったと思います。

 松下禅尼は、『徒然草』に障子を切り張りして見せるつましく賢明な女性として描かれ、いかにも鎌倉らしい地味なイメージで世に知られています。けれど、それはあくまでも出家しているからのこと。四十代後半か五十代で、年齢的にももう第一線から身を引き静かに暮らしている時期だからこそのことです。

 時氏に従って上洛した時はまだ二十代。しかも最初の出産から三人目をみごもるまでといった、女性として最高潮の美しい時。しかも、彼女は六波羅探題北方の妻。執権探題という、六波羅での最高責任者の妻です。いわば京にあって、鎌倉方の最高権力者の妻。いってみれば、彼女はファーストレディなのでした。彼女が望むと望まないとにかかわらず目立つ存在。注目されたでしょうし、羨望視もされたことでしょう。

 そして、彼女自身はといえば、京の最高峰の文化のなかで、最高峰の教養を身につけ、最高峰の雅を生きる宮廷の方々やお公家さん方と、そしてその背後に控える京の女性陣と、鎌倉方を代表してひけをとらずに接していかなければならない立場でした。

 例えばですが、時頼を出産した時に立ち会った医師は、和気清成という、天皇の診察をする侍医だったといいます。時頼は天皇の侍医にとりあげられて生まれたのです。このことひとつでも時氏の立場のほどが知られます。そして、その妻たる女性の地位のほども。いかに公家社会の方々と深くかかわっていたか。そして、重きをおかれていたか。松下禅尼のこの時代の暮しのようすは推して知るべしと思います。

 それで、これから、その推して知るべしをしてみることにします。

 まず、松下禅尼こと時頼母の出自ですが、彼女の父は安達景盛です。

 安達景盛といえば、そう、あの源頼朝のご落胤説のある景盛です。

 

 話は遡りますが、源頼朝が伊豆に流されていたとき、乳母だった比企尼が二十年間仕送りをして支えました。その恩に報いて頼朝は幕府を開いたとき、領地に帰っていた比企尼を鎌倉に呼び寄せ、比企谷を与えます。比企尼はそこに館を構え、領地からともなってきた甥の比企能員に家督を継がせて一緒に住みます。今の妙本寺が建つ谷戸です。

 比企尼には丹後内侍という長女がいて、彼女は頼朝より少し年長と思われますが、乳母子ですから幼い頼朝の遊び相手、筒井筒のような関係の女性です。

 それが平治の乱で頼朝の父源義朝が敗れたための突然の別れ。十四歳で頼朝は伊豆に流されます。

 残された丹後内侍は、どういった関係でか平教盛の養女になり、二条天皇に女房として出仕します。内侍省に配属されて務めたために丹後内侍と呼ばれるようになりました。二条天皇の内裏では歌会が盛んで、わが袖は塩干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかはくまもなし、で有名な歌人二条院讃岐がいました。歌は残っていませんが、丹後内侍もまた無双の歌人だったそうです。

 けれど、丹後内侍は、二条天皇の早い譲位・崩御にあって宮中をさがり、惟宗広言と結婚します。そして、のちに島津忠久と呼ばれることになる忠久をもうけました。

 治承三年(一一七九)に忠久が春日祭使の行列に供奉していることが『山槐記』に記されていますから、伊豆で頼朝が挙兵する治承四年(一一八〇)の直前まで、丹後内侍は京で暮らしていたことになります。いつ鎌倉に下向したかわかりませんが、忠久をともなっての下向。ということは、広言と離婚してなのでしょうか。この忠久の父が広言というのは、最近では通字から、実の父親は惟宗忠康ではないかといわれます。

 いずれにしても、そうまでしての下向。たぶん、比企谷を与えられた比企尼が鎌倉に呼び寄せたのでしょう。ともにふたたび頼朝さまを守りましょうと。かつて最愛の仲だった頼朝さま、もう会えないと思っていた頼朝さまにふたたび仕えられる……、丹後内侍の決断は早かったと思います。

 下向した丹後内侍は政子に仕えます。が、狭い鎌倉の同じ幕府の御所のこと。いつしか、頼朝との愛の再燃になって……

 と書くと、いかにも小説じみてしまいますが、『吾妻鏡』にはそうとしか解釈できない記事があります。

 丹後内侍は安達盛長と結婚しています。それは、みごもった丹後内侍を政子から離すための頼朝の措置だったのではないでしょうか。それで、伊豆の流人時代から仕えている腹心の盛長に丹後内侍をあずけた。盛長がすべてを呑み込んで受け入れての体のいいカモフラージュ結婚だった、とわたしは思います。

『吾妻鏡』から幾つかの条を引きます。

 

  文治二年六月十日 
        夕方に激しい雷雨があった。今日、丹後内侍が甘縄の家で病気に
        なったので、頼朝はこれを見舞い、密かにそこに渡られた。
        小山朝光、東胤頼の他には御供をする者はいなかったという。

      六月十四日 丹後内侍の病気が治った。このところ病気だったので
        頼朝は願を立てられていたところ、今日、少し安心されたという。
  建久六年十二月二十二日
        頼朝が藤九郎盛長の甘縄の家に入られた。今夜はそこに泊まられたという。

 

 文治二年六月に丹後内侍が病に伏したとき、心配した頼朝が雷雨をおしてまで甘縄の盛長邸に見舞いに訪れた。そのときの従者は気心の知れたただの二人。しかも、ほかには誰もと念を入れた書きよう。お忍びです。

 そして、丹後内侍が病んでいるあいだ、頼朝は心配で心配でならず、願を立てて回復を祈り、快癒の報を受けて安堵したという記事です。

 ほぼ公的な鎌倉武士の歴史書である『吾妻鏡』にこの記述は異常です。いささか妖し過ぎると思いませんか?

 建久六年十二月二十二日の夜の記事も妖しいですよね。

 しかも、『吾妻鏡』のこの年の記事は、この条が最後。公的な歴史書の建久六年の棹尾を飾る記事がこれ? といった呆気にとられる終わり方です。

 しかも、『吾妻鏡』はそのあと三年分が欠巻で、明けて正治元年(一一九九)正月には頼朝が落馬で亡くなっていて、頼家が将軍についている、といった状況のなかですから、建久六年の棹尾どころか、頼朝の最後の記事でもあるわけです。

 これはどういうことでしょう。

 思うのですが、幕府の人たちのあいだでは、頼朝と丹後内侍の関係は周知の事実だったのでしょう。誰も語らずとも誰もが暗黙の了解という。そして、頼朝の愛が純粋に混じりっ気のない真実なのを御家人たちも感じているから、ほかの愛人問題とは別格にして見守っていた。だからとりたてて記事として『吾妻鏡』に載せることはないが、それでも頼朝の真情溢れる丹後内侍との交情は世に残したいという思いが、こういう変則的な唐突ともとれる記述になって残った。ということではないでしょうか。

 松下禅尼の父安達景盛は、この丹後内侍と盛長とのあいだに生まれました。ここまでの事情を鑑みて、景盛のご落胤説はあって当然。有り得る話です。

 後年、安達氏は、泰盛の代に霜月騒動にあって滅びますが、その滅ぼされた理由が、泰盛の子息宗景が「頼朝の血を引く者として源姓を使おうとしたから」でした。さすがに景盛や泰盛はご落胤のことを秘して語らずですが、一族のなかには立身出世を目指してそう名乗ろうとする人物があったのです。

 松下禅尼は、景盛の娘としてそういう家庭に育ちました。

 彼女の生年はわかりませんが、夫の時氏が比企氏が滅ぼされた比企の乱の年の生まれですから、その前後でしょう。比企の乱では忠久が比企一族として連座に遭っています。そして丹後内侍を連れて薩摩に下りましたから、松下禅尼は丹後内侍を直接には知らずに育ちました。

 が、霜月騒動の原因にみるように、安達家では、景盛のご落胤説はずっと語り継がれていました。松下禅尼は、それを聞いて育ちました。なにしろ頼朝の記憶がまだ色褪せない時代です。彼女にとって丹後内侍は祖母。丹後内侍からみると、彼女はなんと、孫なのです。お祖母様は、頼朝さまの想い人……、の思いは少女時代の松下禅尼にどれほど深く浸透し、憧れを募らせたことでしょう。それが松下禅尼の人格形成に影響を及ぼしていないことはないと思います。

 松下禅尼は、盛長と結婚した丹後内侍が住み、そこに通う頼朝を迎え入れたその家で生まれ育ったのでした。

 

 寛喜二年(一二三〇)三月、時氏は六年間任を務めた六波羅探題北方を辞し、鎌倉に帰ります。二十八歳になっていました。高橋慎一朗氏『北条時頼』によると、泰時が次期執権になるための経験を積ませるよう呼び寄せたそうです。

 出発は粟田口からでした。騎馬行列を従えての威風堂々としたその光景を、藤原定家息の為家が見ていて、それを定家に報告し、定家が『明月記』に書き留めました。それは、『北条時頼』によると、

 

  夜明け前に先陣が出発し、時氏本人は夜明け後に直垂を着て馬で出発。
  つきしたがう家来は三百騎ほどであり、七歳になる経時も小さい馬に
  乗ってしたがったという。四歳の時頼については『明月記』には記述が
  ないが、父母とともに鎌倉へ下ったのは確かである。

 

という状況でした。

 泰時は六波羅探題滞在時に定家と交流がありました。定家は人に対して気難しいといわれますが、六波羅探題のトップであり、明恵上人と親交があり、のちに御成敗式目を制定することになるほどの人格者泰時に、礼をもって接したようです。

 上横手雅敬氏『北条泰時』に、「定家は泰時の歌道の師匠として、相当に泰時と親しかった模様で、定家が出家した時にも、直ちにその旨を知らせている」とあります。出家の報せの「直ちに」は、個人的に強い絆があってのことで儀礼でないことを感じさせます。定家編纂の『新勅撰和歌集』に、泰時は三首入集しているそうです。

 そういう仲だったなら、当然、後任で赴任する時氏夫妻について、定家に泰時からよろしくの挨拶がいっていたことでしょう。時氏夫妻も着任早々挨拶に出向いたことと思います。その交流があったから、鎌倉への出立時、高齢で早朝の見送りは無理な定家に代わって為家が行ったのでしょう。定家はこのとき六十九歳でした。

 時氏が赴任した翌年、定家は「青表紙本源氏物語」を完成させています。時氏夫妻が訪ねたとき、定家が家中の女子を集めて書写させていた現場に立ち合わなかったとも限りません。さらに、六年間も交際をつづけていたなら、時氏夫妻が「青表紙本源氏物語」を見たり読んだりする機会は当然あったでしょうし、そうしたら時氏夫妻は鎌倉人として最初に「青表紙本源氏物語」を見た人になります。

 そして、夫妻が、幼い時頼を抱いて定家を訪ね、時頼が「青表紙本源氏物語」に手をのばしてさわろうとするのを、松下禅尼が、だめよ、と言って触らせないようにしたちょっとしたできごとがあったかもしれません。

 時頼と『源氏物語』の因縁はこんな小さなときからはじまっていました。

 わたしが時氏夫妻の定家との交流にこだわるのにはわけがあります。

 無住の『雑談集』には、前回ご紹介の、時頼がお堂や仏像をつくって遊ぶ子だったというエピソードにつづいて、松下禅尼が上東門院を尊敬していたという記述があります。以下、ご紹介します。

 

  故松下禅尼は有難き人にておわしける。上東門院女院の御事を常に慕ひ
  申されて、我もかくありたきとて、仏法を信じ行ぜざる者は召し使はれず。
  彼の女院人を頼むと云ふは、身も心も同じやうなるこそその姿なる。
  我は仏法にすきたる者なり。仏法を愛し信じ行ぜざざらん者、召し使ふ
  べからずと仰せられて、身内の人・男女皆仏法者なり。

 

 松下禅尼は上東門院を慕い敬っていて、自分もそうありたいと願い、女院がそうだったように仏教を信じない者は召し使わなかったから、身内に仏教者でないものはいなかったそうです。

 上東門院とは、『源氏物語』を書いた紫式部が仕えた藤原道長の長女で一条天皇の中宮彰子。後一条天皇、後朱雀天皇というお二人の天皇の母、すなわち国母です。

 松下禅尼が上東門院を思慕した根底に、松下禅尼自身が将来執権の母になる自覚があったからでしょう。事実、四代執権経時、五代執権時頼という二人の執権の母になります。

 世の中広しといえど、国を背負って立つ人間の母という責任ある立場になる女性は限られています。おなじ心配や不安を共有できる人は周囲にいません。孤独です。そのなかで、時空を越えて、精神の規範としてこの人ならと思う先達に巡り合ったら、それこそ嬉しくなって信奉するでしょう。

 この上東門院という人を松下禅尼に教えたのが誰か。定家と交流があったのなら、それは、もう、定家でしょう。

 定家が「青表紙本源氏物語」を見せるなどして『源氏物語』の話題をし、それから紫式部の話になり、彼女が仕えた上東門院の話になったら、松下禅尼は『源氏物語』よりも紫式部よりも上東門院のほうに気持ちが行った、という具合だったのではないでしょうか。

 それから、松下禅尼は、在京中にできるだけ上東門院に関する知識を集め、得て、そうして鎌倉に帰ったのでしょう。

 上東門院のことは、『紫式部日記』や公卿の日記からうかがうしか現代では知り得ませんが、松下禅尼は宮中の方々やお公家さんと交流していますから、もっと多様に、彼女が心酔するほど深く、情報を得られたと思います。

 なにしろ彼女は六波羅探題北方の妻、ファーストレディです。彼女が知りたがっていると聞けば、こぞって、京中のお公家さんたちや様々な人たちが教えてくれたでしょう。

 たぶん、松下禅尼の得た上東門院に関する知識は、現代の私達が知る範囲を越えていたことと思います。そして、もっと人間がじかに感じられるような身近な話だったと思います。そうしたなかで、松下禅尼は上東門院の仏教への深い帰依に接したのでした。

 無住は僧侶ですから、彼女の仏教に対する信仰心だけをとりあげて書き残しましたが、もとはといえば『源氏物語』に端を発したのでした。

 上東門院は賢い女性で、道長が専横を振るおうとするのを冷静に引き止めたり、意見を言ったりしたといいます。

 紫式部は中宮彰子に、白楽天の『新楽府』を進講しています。

『新楽府』とは『白氏文集』のうちの独立した二巻で、「古く漢代に行われていた楽府(詩ノ形式名)にならって、天下の治政の乱脈や世相の退廃を風刺批判して天子に諌言し、その改革を求めた風諭詩」だそうです。増田繁夫氏『評伝 紫式部 ―世俗執着と出家願望―』で、

 

  式部が彰子に講義しようとしたのは、文集のうちでも当時人々にもて
  はやされていた「感傷詩」の類ではなくて、こうした天子への風諌を
  めざした、漢文学の正統理念を受け継ぐ新楽府だったのである。(中略)
  これは中宮彰子という人の評価にも大きく関わる問題である。彰子もまた
  式部のその新楽府の講義に応えるだけの十分な知的好奇心と意欲をもち、
  中宮の地位にある自分は治世にも心すべきであることを自覚していたこと
  を示す。

 

と、書かれます。この上東門院の「中宮の地位にもある自分は」という自覚が、同じ立場にある女性として松下禅尼の琴線に触れたのでしょう。

 上東門院の仏教信仰の遺品に、宝相華唐草文様で埋め尽くされた美しい金銅製の経箱があります。

 これは長元四年(一〇三一)の覚超という僧侶の如法経供養、すなわち比叡山横川如法堂の円仁の法華経を守るために銅筒をつくって、弥勒菩薩がこの世に出現するまで埋納しようという運動に、上東門院が協力したものです。

 上川通夫氏「摂関期の如法経と経塚」によると、「上東門院は深重の願を発し、如法書写法華経一部を横川如法堂に安置し、大師本願に結縁しようとしていた」そうです。

 覚超の銅筒は大正時代の一九二三年に発掘され、その際に銅筒に納められていた上東門院の経箱も一緒に出土したのですが、昭和に入った一九四二年に経箱が展覧会に貸し出されているあいだに横川に落雷があって、銅筒は焼失。経箱だけが奇跡的に残ったというものです。

 上東門院の願文は、「慈覚大師の如法経の誓ひに志を同じうせん」という、衆生済度に勤しむもので、

 

  この世の紙・墨して書き、仇なる構へして納め奉れば、浅き人の目には、
  朽ち損なわれ給ふと見る時ありとも、実相の理は常住にして朽ちせず、
  諸々の功徳を備へたるものなり。

 

とあるそうです。

 上川氏は書いていられます。「上東門院は、物理的な朽損をことさら問題にしておらず、理念の実体化を重視している。後文には、清浄な我が志により、この書写経は七宝の経巻となって弥勒の世にまで伝えられると述べていて、盲信による現実と理想の混同ではなく、自覚的な価値理想への信念であることが伝わる」と。

 願文の署名は「菩薩比丘尼」。上東門院は万寿三年(一〇二六)に出家しました。三十九歳でした。

 松下禅尼が帰依した上東門院の仏教信仰は、このように個を超えた、国母という立場の自覚による、衆生済度という大きな理念をもつものでした。

 後年、時頼は建長寺を建立しますが、それまでの頼朝以来の寺院建立の理由の多くが、戦によって亡くなった人々の菩提を弔うためであったのを超え、「建長寺は、国土全体を視野に入れて天皇と将軍のための祈祷を司る、幕府の宗教施設であった」というものでした。

 これは、なんとなく上東門院の願文に似ています。

 なにも強引に結びつけようとするのではありませんが、「身内は皆仏法者なり」とまでに徹底して仏教信者である松下禅尼に育てられた時頼です。それとなくこういう考え方が身に沁みついていたのでしょう。

 上東門院 ― 松下禅尼 ― 北条時頼は、意外過ぎる精神の系譜ですが、案外、時頼の本質をついているのではないでしょうか。

 

【参考文献】

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館

森幸夫『六波羅探題』続群書類従完成会刊

市川浩史『吾妻鏡の思想史 ―北条時頼を読む―』吉川弘文館

増田繁夫『評伝紫式部 ―世俗執着と出家願望』和泉書院

上川通夫「摂関期の如法経と経塚」関西大学東西学術研究, 46

図録『藤原道長の遺産 ―経塚からのメッセージ―』群馬県立歴史博物館

現代語訳『吾妻鏡3 幕府と朝廷』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡6 富士の巻狩』吉川弘文館

無住『雑談集』

|

2024.12.17 『北条時頼と源氏物語』第一章 北条時頼・六波羅で誕生

『北条時頼と源氏物語』

第一章 北条時頼・六波羅で誕生

 土地はかつて住んだ人々の思いを記憶しており、時代を経て、正しく受け継いでくれる人物があらわれると、気配となってその人に乗り移ります。

 京都の東山山麓にある六波羅は、源氏物語さながらに、華麗な王朝文化を築いた平家一門の方々の邸宅が建ち並ぶ、栄華の極みのような一帯でした。

 そこには平清盛の邸宅泉殿をはじめ、弟頼盛の池殿、重盛の小松殿など、一門の邸宅は大小あわせて五千二百あまりあったそうです。

 平家が都落ちするとき火を放って去ったために、現在、六波羅蜜寺を残すだけで往時の姿をうかがえませんが、地名にそれが残っています。清盛邸跡の北御門町・南御門町、頼盛邸跡の池殿町、門脇中納言教盛邸跡の門脇町など……

 建仁寺は鎌倉幕府になってから、第二代将軍頼家が建立した寺院ですが、それは平家が滅亡したあと、六波羅の地が鎌倉幕府の所有になったためです。なので、往時の六波羅を偲ぶには、建仁寺を目印とするといいでしょう。

 その建仁寺を最北として、南に六波羅蜜寺があり、それから南下して三十三間堂の手前までが六波羅一帯でした。中心部は六波羅蜜寺がある北側で、清盛の泉殿は六波羅蜜寺の西、鴨川に接する市街地側にあったようです。

 六波羅蜜寺と三十三間堂の中間くらいに、以前、東山武田病院という病院があって、その庭園が重盛の小松殿の今に残る庭園ということで訪ねました。積翠園といいます。わたしが訪れたのは二〇一一年でしたが、その後病院は閉鎖され、二〇一六年にフォーシーズンズホテル京都となってオープン、池は残され公開されているようです。

 旧東山武田病院は、巨大な石垣の塀の奥に病院棟が建つ要塞のような病院でした。今なお現存する重盛邸の庭園ということに驚いて訪ねた積翠園は、病院の中庭で、外からは見えません。それで、病院の受付に申し出ると、どうぞと言われ、待合室を通りぬけて見せていただきました。

 一歩中庭に出ると、そこは時間が止まっているかのようでした。背後にはガラス張りの奥に待合室が見える病院の大きな建物が建っているのです。でも、さざ波ひとつ立たない緑色の池の面を見ていると、平家の方々が生きて暮らしていたころの時間がそっくりそこに淀んでとどまっているかのようでした。

 遠くの東山を背景に、こんもりと木々の生い茂る中島がある、それは静かな広い池でした。昔、平家の方々はここに舟を浮かべて遊んだことでしょう。舟には楽人が乗り、公達たちもまじって雅に管絃に興じたことでしょう。すうっと、茂みの奥から今にも舟の舳先が滑り出してきてもおかしくない気のする、そんな空間でした。

 重盛は平清盛の嫡男です。子息に維盛・資盛という兄弟がいます。兄の維盛は後白河法皇五十歳の祝典で青海波を舞い、光源氏の再来と称賛されたほどの美しい公達でした。弟の資盛は文学青年で、若くして歌合を主宰しています。その歌合に集った公達たちも優雅だったことでしょう。そんな息吹が気配のようにただよう庭園……

 と、突然、目の前を一羽の鳥が飛んで過ぎました。青鷺でした。青い羽の色がさながら公達たち直衣の色に見えました。縹色です。平家の公達が応えてくれた、そんな気がしました。

 建仁寺の勅使門は、これもまた重盛邸にあった館門を移築したものだそうで、扉や柱に矢の疵があります。平家の時代の生々しい痕跡です。

 六波羅蜜寺の境内には、この一帯が平家の六波羅第だったことと、その後の鎌倉幕府による六波羅探題だったことを記す石碑があります。

 この六波羅で、源光行が生まれ育ったのでした。鎌倉でつくられた『源氏物語』の写本、「河内本源氏物語」の校訂をはじめた人です。

『源氏物語』は紫式部が書きました。けれど、紫式部自身が書いた原本は残っていません。現在わたしたちが読むことのできるのは、昔の人が書き写してくれた写本があるからです。『源氏物語』の写本は、「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」と、それ以外の別本系の三つに分類されます。

「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」を二大写本といいます。「青表紙本源氏物語」は藤原定家の校訂で、京都でつくられました。「河内本源氏物語」は、源光行・親行親子の校訂で、鎌倉でつくられました。

 光行の家は、代々平家に仕えていました。祖父季遠は清盛の父忠盛に仕える青侍でした。叔父は『平家物語』に登場する清盛の側近中の側近、源判官大夫季貞です。父光季は中宮識の役人で、建春門院滋子や建礼門院徳子の儀礼に奉仕しています。

 光行自身も、十八歳のとき、福原京造営に駆り出され、後徳大寺実定や源通親、吉田経房といったそうそうたる上卿のもとで測量を手伝っています。この人脈がのちのち光行の人生を彩ることになります。

 六波羅には平家に仕える家人の家も建ち並んでいましたから、光行の家もあったことでしょう。その光行が鎌倉で「河内本源氏物語」の校訂をしたのは、平家が滅亡したあと鎌倉に下ったからでした。

「青表紙本源氏物語」を校訂した定家は光行より一歳年長です。ふたりは定家の父藤原俊成について『源氏物語』を学びました。おそらく光行に俊成を紹介したのは後徳大寺実定でしょう。実定は俊成の甥です。実定自身、俊成から『源氏物語』の写本を借りたりしています。

 俊成は歌人ですが、『源氏物語』の泰斗でもありました。歌合の判者をしたとき、「源氏見ざる歌詠には遺恨の事なり」と述べ、それから『源氏物語』を読むことが歌人にとって必須になったのでした。

 俊成は平家歌壇における権威でした。都落ちの際に薩摩守忠度が引き返し、俊成を訪ねて、「もし勅撰集の撰者になったら、一首なりとも入れてほしい」と、自選した家集をあずけて去った話は有名です。俊成はその気持ちを汲み、『千載和歌集』を編んだとき、読人知らずとして、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の歌を入れました。朝敵となった忠度の名前を出すのははばかられたからでした。

 定家も若い世代の公達と交流していましたから、同世代の平行盛にやはり歌をあずけられ、『新勅撰和歌集』を編んだとき、「流れての名だにもとまれ逝く水の哀れはかなき身は消えぬとも」を入れました。

 元暦元年(一一八四)、一の谷合戦で忠度・経正が戦死します。経正は平家歌壇きっての歌人でした。

 文治元年(一一八五)、壇ノ浦合戦で、教盛・知盛・経盛・資盛・行盛といった方々が西海に沈んで果てました。この年、定家は二十四歳、光行は二十三歳でした。

 みずからの知り合いの、しかも文化の恩恵を浴びるほどに享受させていただいた方々の、刻々ととどいてくる過酷で非情な情報、しかもそれを耳にしながら自分ではどうすることもできずにただ聞くだけ、どれほどの無力感と焦慮と絶望にふたりはさいなまれたことでしょう。

 ですから、そのふたりがつくった「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」、平家の王朝文化を身に沁みて知っているふたりによる『源氏物語』の写本は、その後制作された多くの写本と厳然として違います。二大写本といわれる所以です。

 六波羅の地に六波羅探題が設けられたのは、頼朝・頼家・実朝といった源氏三代将軍が終わったあとの第四代将軍頼経・第二代執権北条義時の時代です。承久元年(一二一九)に実朝が暗殺され、九条家から二歳の頼経が将軍として迎えられます。鎌倉幕府は幼いその頼経を擁して、執権による主導で政治をうごかしていきます。源氏という貴種だからこその将軍だったはずと怒ったのが後鳥羽院でした。

 承久三年(一二二一)、後鳥羽院が承久の乱を起こします。が、呆気なく敗れ、鎌倉方の勝利に終わります。関東軍を率いて在京していた北条泰時がそのまま残って、六波羅探題北方初代の任についたのでした。泰時は義時の子です。南方は北条時房、義時の弟でした。

 六波羅探題には北方と南方があり、北方が重要職でした。なので、北方の任につくことは、京都における鎌倉幕府の代表、トップです。北方の政庁があったのが清盛邸のあった六波羅の北側一帯、南方の政庁は名のとおり南側一帯でした。

 承久の乱から三年経った元仁元年(一二二四)、鎌倉で義時が亡くなります。泰時は鎌倉に戻り、代わりに泰時の子息北条時氏が出発。ここに北条時頼の六波羅との縁が生じます。時氏が時頼の父なのです。

 この間の慌ただしい一連の流れを『吾妻鏡』でみると、

 

  六月十三日  義時、没

    十七日  泰時、京都出発

    二十六日 泰時、鎌倉到着

    二十九日 時氏、鎌倉出発

  七月     伊賀氏の変露顕

    十七日  時氏、京都到着

    二十三日 伊賀氏の変で罪人となった一条実雅、鎌倉を出発

         源親行が幕府の許可を得ずに実雅に従って上洛

  八月一日   泰時、執権就任

    十四日  実雅、京都到着

    二十九日 義時後妻の伊賀氏、伊豆に配流

         伊賀氏の舎弟らを時氏が預かる

  十月十日   実雅、越前配流決定

    二十九日 実雅、越前に出発

  十一月九日  伊賀氏の舎弟ら、鎮西に出発

    十四日  源親行、幕府出仕停止と所領没収

    不明   藤原定家「青表紙本源氏物語」制作開始

 翌嘉禄二年

  二月     藤原定家「青表紙本源氏物語」完成

 

と、なります。

 七月に伊賀氏の変が起きています。この変は、亡くなった義時の後妻の伊賀氏が、次の執権に我が子の政村をつけ、娘婿の一条実雅を将軍にしようと企てた変です。

 これは北条時政と政子が比企氏を討った比企の乱と同じ構図で、伊賀氏を追放するための実際にはなかったかもしれないといわれる変ですが、とにかくここで第三代執権は政子が推す泰時に決まりました。

 一条実雅は、一条能保の子で公卿です。実朝の右大臣就任祝賀の式に参列するために京から派遣されて来て、鶴岡八幡宮での実朝暗殺現場に立ち合っていました。そのまま実雅は鎌倉にとどまり、義時と伊賀氏のあいだにできた女性と結婚。義時の娘婿になっていました。

 実雅が下向したとき、光行の子の源親行が京から従って来ていました。そして、親行も実雅同様に鎌倉にとどまります。この親行が、後年、光行の「河内本源氏物語」の校訂を引き継いで完成させます。が、それはずっとあとの時代、第六代将軍宗尊親王の代になってからのことです。

 親行は、伊賀氏の変で罪人となった実雅が京都に送られるとき、また従って上洛します。が、それは幕府の許可を得ずに勝手に起こした行動でした。それが義時の逆鱗に触れ、幕府出仕停止・所領没収の処分を受けます。

 親行にしても、罪人の実雅に勝手について行けばそうなることはわかっていても従った、そこに後年、「河内本源氏物語」を完成させた暁に記した識語にみるロマンティスト親行の片鱗がうかがえると思うのですが。

 このとき、六波羅探題としてはたらいたのが就任早々の時氏です。時氏は二十二歳。実雅と一緒に上洛した伊賀氏の舎弟をあずかって鎮西に配流する任を帯びます。

 実雅はすでに越前に配流が決定して出発していました。おそらく親行はそれを見とどけて鎌倉に帰ったのでしょう。到着して、幕府出仕停止・所領没収の目に遭ったのでした。

 この時期に、たまたまでしょうか、定家が「青表紙本源氏物語」の書写をはじめて三ヶ月後に完成します。

 定家は承久の乱の直前に後鳥羽院の勅勘を得て出仕を止められ、自宅に籠もって古典籍の書写に集中していました。

 ここからはわたしの推測ですが、そういうときに親行が上洛してきました。定家にとって兄弟のような仲の光行の子。しかも、定家は親行を信頼していて、自身の『拾遺愚草』の清書を頼んだこともあります。おそらくこの親行の上洛時、定家は親行と会い、光行が鎌倉で『源氏物語』の校訂をはじめたことを聞いて発奮したのでしょう。

 光行が平家滅亡後に鎌倉に下ったのは、吉田経房により、朝廷と鎌倉幕府をつなぐ使命を帯びてのことでした。当初頼朝に仕え、頼朝没後の頼家の代になったころ、「河内本源氏物語」の校訂にとりかかったようです。

 定家の名前があまりに偉大で、「青表紙本源氏物語」の制作もその偉大さゆえに定家の積極的・自発的な業績のように思われていますが、定家にしても人間です。このとき、定家はもう老年の境遇になっていて六十二歳。親行はそうそうたる活躍期の三十七歳です。若い親行の力は定家を甦らせました。

 勅勘の憂き目に遭い気力を失っていておかしくない時期。そこに親行が来たのですから刺激を得たとして当然でしょう。

 親行が鎌倉に帰ったあと、定家は新しい境地で家中の女子を集めて『源氏物語』の書写に着手しました。「青表紙本源氏物語」の陰に親行あり! です。

 そして、六波羅探題就任早々の時氏の仕事に『源氏物語』の影あり! です。

 これって、案外、象徴的なのでは? と、思います。

 時頼が生まれたのは、それから三年後の安貞元年(一二二七)五月。じつは、時氏には着任早々に経時という、のちに第四代執権になる長男が生まれていて、いずれ第五代執権になるといっても、時頼はまだその可能性が全くない次男です。

 時氏は経時を後継ぎにするための特別な育て方をしますが、時頼にそれはありませんでした。このあたり、皇子でありながら、臣下に下って生きるしかなかった光源氏と同じ境遇です。

 この、時頼が嫡男でない悲哀を知って育ったことが、のちの時頼の人格形成に大きな意味を持つとわたしは思います。なぜなら、こういう境涯は驕る人格を作りませんから。かえって、往々にして、なぜ? なぜ? をみずからのうちに深く問うくぐもった思いを持つ人間に育つのではないでしょうか。

 ともあれ、時頼が生まれたのは、かつて平家が栄華を誇り、「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」をつくった定家と光行が、華麗な王朝文化のなかで青春を謳歌した地、六波羅でした。

 その六波羅で、時頼は、時氏が任を解かれて鎌倉に帰るまでの四年間を過ごします。小松殿の庭園だった積翠園、矢の跡が残る館門、それは時頼が目にした光景です。その土地を、小さな時頼が駆けまわって遊んで過ごしました。

 無住という梶原氏出身の武士だった人の『雑談集』に、時頼のこういうエピソードがあります。

 幼いころ、時頼は仏像やお堂をつくって遊ぶのが好きだった。乳母父の御家人たちはそれを見咎めて、武士の子なら武士らしく弓矢をこそ練習すべきと止めさせようとした。それを聞いて泰時が、「なぜ止めるのだ。私は夢で知ったのだが、この子は釈迦のために祇園精舎を建てた大工の棟梁の生まれ変わりなのだ。だから理由あることなのだ」と言った。果たして、時頼は、成長して建長寺を建てた。

 と、できすぎのような話ですが、こういうエピソードが残るような資質を幼い時頼がすでに持っていたのでしょう。

そして、ここからわたしは無住の『雑談集』に付け加えたいのですが、幼いころ、時頼は、『源氏物語』のゆかりの地に足を踏みつけて遊びまわった。地の霊が乗り移って、果たして後年、鎌倉に『源氏物語』ブームの最盛期をもたらす宗尊親王を呼び寄せた。

 と、如何でしょうか。

 

■参考文献

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社選書メチエ

森幸夫『六波羅探題の研究』続群書類従完成会

西川幸治・高橋徹『京都千二百年(上)』草思社

京都造形芸術大学『京都学への招待』角川書店

現代語訳『吾妻鏡9 執権政治』吉川弘文館

無住『雑談集』

|

2024.12.14 Twitter(X)から転載…一年間堪能させて頂いたNHK大河「光る君へ」もいよいよ最終回を迎えます。思う事いろいろありましたが勉強もさせて頂きました。なにより装束建物調度など平安絵巻のビジュアルが美しく貴重で素晴らしかったです

12月7日

今日は紫式部学会だったようでTLに流れてきて懐かしかったのですが 会場が毎年東大で 行くと写真のような憧れの回廊みたいな建築に遭遇するので行くのが楽しみでした 行かなくなってもう何年経つでしょう たぶん二度と行かない そんなふうにどんどん自身に邁進することで社会が狭まってきています

 

ノートル=ダム・ド・パリ再開のニュースがTLに流れてくるので100de名著ノートル=ダム・ド・パリを読み返しています ユゴーは大聖堂の壁に刻まれた「宿命」の文字に激しく胸打たれ いったい誰が書いたのだろうとこの物語を書いたと 2018年の放送でちょうど私が仙覚について考えていた時でしたから

 

私もその宿命の語に揺さぶられ 仙覚の小説の根幹にあるのは宿命なのだ と悟ったのでした エピグラフにしたこともあります(今は外しましたが) 読み返して改めてこの小説の凄さユゴーの凄さに感じ入っていますが その宿命の文字 再開の大聖堂にまだ残っているのでしょうか

 

TLに大聖堂の写真が流れてくると必ずRPさせて頂くのはそれがあるからでした 新しい大聖堂はもうユゴーの大聖堂とは違う? など思いながらTLを見ています

 

12月9日

おはようございます 光る君へが本当に終わりに近づいているのですね 一年間なんて素晴らしい平安絵巻を見せて頂いたことでしょうとしみじみ 今日はもう以前のように余韻に浸ることもなく私の中では終焉総括に入っているから気持ちはすでに華鏡に移っています 動かなかった原稿が動き出しています

 

12月10日

華鏡 書き進んでいた原稿を遡って醍醐天皇の項に醍醐天皇の大井川行幸を入れました これは仙覚の得た万葉集の題詞が歌より低く書かれるようになったのは白河天皇の辺りからで 白河天皇は醍醐天皇を信奉していて大井川行幸も踏襲したと小川靖彦先生のご著書にあったからで 私の万葉集探訪はここから

 

始まったのでした 紫文幻想には書いてあって それを二番煎じみたいにまた書くのはと避けてあって 華鏡はそうした枷みたいなものにがんじがらめになって進まないでいたのでした 光る君へが終盤になって枷がはずれて動き出したら あ 大井川行幸は入れるべき! と心が動き出してきたのでした

 

写真は京都嵐山の大井川 宇多天皇に誘われて行った醍醐天皇の大井川行幸も秋でした こんなふうに綺麗だったのでしょう この行幸は醍醐天皇が菅原道真の怨霊に怯えて身体を崩していたのを心配した父帝宇多天皇が誘ったもの 醍醐天皇の虚弱性にふと母胤子と似た体質かと気がついたのが今日の収穫

 

12月11日

おはようございます 先週の光る君への最後 道まひと倫子さんの関係に 高倉天皇と小督と建礼門院徳子さんの関係が浮かんで 一方は心を打つのに私は光きみに共鳴できない どう違うかと考えていて徳子を書かないから平家物語は文学として昇華しているのだと 倫子を書くのはTVドラマだからなんですね

 

光る君へはすべて装束から建物御簾調度に至るまで本格的で 兼家に絡む詮子さんも含めての政治情勢も緊迫して見応えあったし 今回の刀伊の入寇も なのに私が時々見たくなくなるのはこの倫子さんバージョンと賢子さんバージョンが入る時でした それがTVドラマバージョンだったと気がついて得心

 

源氏物語を書いた紫式部の話というので私は無意識のうちにTVドラマに文学を期待してしまっていました どうりで紫式部が源氏物語を書いた神髄が描かれきってなかった(私はとてもここに不服でした) 最終回が迫ってやっとその勘違いに気づくなんてと疎いです 写真は京都嵯峨嵐山にての小督庵です

 

12月12日

おはようございます 写真の絵葉書は最下部が藤原行成筆和漢朗詠集 中の薄緑が西本願寺本三十六人家集伊勢集 左のグレーが古今和歌集 上に乗せてあるのは西本願寺本三十六人家集貫之集 この貫之集は頂いたお便りで裏にご文面が書かれています 頂戴した時嬉しくて宝物になりました

 

私は国宝源氏物語絵巻に心酔しているのでよみがえる源氏物語絵巻の番組でゲスト出演された時のご反応で ああ この方は源氏物語をリスペクトされてない とわかっていましたが ビジュアルがとにかく価値ある番組なのでずっと観てきました でも 最終回 それを前にしてご本人のコメントでそれを

 

言われてしまったら 白けて 一年間見てきたのは何だったのだろうというくらいに白けています 昨日のツイートの文学とTVドラマの違いを最終盤にきて見せつけられるなんて

|

2024.12.6 Twitter(X)から転載…大河「光る君へ」は紫式部の史実から離れた大宰府篇になりました。紫式部の史実を追って書いている華鏡ですからずっと視聴は呪縛のように苦しかったのですが、これで気持ちがとても楽に。最終回まであと二回、私の華鏡はやっとここから動き出します

12月1日

おはようございます 発掘して頂いた過去ツイート 初出仕の時のまひろの装束の色から光る君へではまひろは紫の上なのだと推測しました 娘の賢子が出仕するようになっての今はもっと深い紫の装束 旅に出た装束も素敵で魅入っています まひろには紫の上がずっと通底している そう思います

【8月26日の過去ツイート】そしてまひろの初出仕のときの装束 やはりあれは圧巻の色味 他の方々の色味の軽いきらびやかなシーンに一人だけ深みが そしてそれは光源氏最愛の紫の上の装束葡萄色 まひろの装束にだけ意味が込められています 光る君へで道長まひろは光源氏と紫の上なんですね

 

今日は残り少ないあと三回のうちの一回 紫式部の史実からかけ離れての大胆な恋愛ドラマが繰り広げられそうなので楽しみ それまで華鏡の原稿に専念します 史実に即した紫式部バージョンが終わりやっと華鏡に集中できるようになりました

 

源氏物語の女君たちの中で派手なところのない紫の上 人気投票でも抜群とは言い難い存在なのにその紫の上を根幹に据えてのドラマでした 最愛の人なのに正妻になれない どんなに思っても手に入れられない苦しみ それがテーマだったんですね

 

写真の絵葉書は国宝源氏物語絵巻御法巻 五島美術館所蔵です 今更考えなくても源氏物語の主役は紫の上なんですね なのに長い物語の中では他の華やかな女君たちに気圧されて目立たない 光る君へでも兼家とか詮子とか脇の俳優さん方の壮大な歴史ドラマの中でまひろは傍観者でしかなく主役なのに無言が

 

多かった 何度主役なのに と思ったことでしょう が ここにきて これ以上手に入らない人の傍にいる意味はなんなのでしょうと突然の爆弾宣言 耐えていた思いが噴き出しました 浮舟を読んで空蝉のバリエーションだと以前呟きましたが 空蝉自体が紫の上のバリエーションだったんですね 紫式部には

 

身分が低いばかりにどんなに思いがあっても才能に溢れていても正妻になれない忸怩たる思いがある 源氏物語の成立上 空蝉を書いたから紫の上の構想ができたという流れになり 本編を書き終わっても解決しない問題を浮舟に託した そういう成立順序が見えると思います

 

写真は@福岡鴻臚館 今日の光る君への隆家は清々しかったですね あんなに胸ときめかせて見ていた都の宮中がとても窮屈に思えてしまいました でも 周明 深い思いを抱きそれに耐えている人の美しさ 今日の周明の仕種 眼差し すべてのシーンが目に焼き付いてしばらく忘れられそうにありません

 

データ整理していて出てきた画像 腰越の生涯学習センターで鎌倉の蹴鞠について講演した時のもの 鎌倉の蹴鞠は鎌倉の万葉集と源氏物語の歴史と同時進行なので 主軸を鎌倉将軍として初代頼朝から六代宗尊親王まで そこに絡む執権や文化人を並行させて図示しました 飛鳥井家が蹴鞠の家 そこに定家や

 

光行の源氏物語 仙覚の万葉集が入ってくるのですが 目下書いている華鏡前編は万葉集と源氏物語のそもそもの歴史 なのでこの図に入るよりずっと以前 早く本編のこの図の世界にとりかかりたいです 光る君へがあと二回で終わるけど もう見ないで専心したいという気も(たぶん見てしまうけど)

 

もう一枚ご紹介 仙覚は比企氏ゆかり ということで仙覚を調べるのに随分比企の地域をまわりました 知り合った比企の方に案内していただいたり 比企の方々のご好意がなかったら今の私はありません だから比企の方々のためにも仙覚の小説を完成させたいんです そして 比企は 埼玉県の真ん中です

 

12月2日

やっと文章が動き出しました 華鏡の原稿 紫文幻想と被る時代を書いているので 同じことを書きたくないと思うあまりに 読み返して随分乱暴にいろんなエピソードを省略していることに気づいて反省 昨日のツイートの阿衡の紛議の入れ忘れもそうですが 今日はやはり高藤と列子のエピも入れないとと

 

列子の美しさをどう表現するか ただ美しい人としか文章が動かなくてずっと進まないでいました 列子は紫式部の祖母の祖母 美しい人だったと今昔物語にあります それで思ったのですが 紫式部は日記からも窺い知れるように内省的な暗い性格だからあまり美人ということを言われずもてなかったようだと

 

でも 私は前から感じているのですが 作家自身が「美しい人」でなかったらあの源氏物語は書けないと 結構作品には作家自身のそういった意識って作風に密着します で 祖母をとおして列子の血筋と今夜再び考えて やはり紫式部は綺麗な人だったと

 

12月3日

いきなり増えた全十巻 瀬戸内寂聴訳源氏物語ですが本棚にまだ収容できなくて平積み状態 函の絵が綺麗でこのまま眺めていてもいいかと ふと空蝉を読みたくなって平積みから取り出しました 帚木帖ですね 紫式部は空蝉に何を込めたのだろうと 源氏物語は光源氏が亡くなった美しい母の面影を求めて

 

女性遍歴をする物語ですが ふっとただ母を恋うだけの物語だろうかという疑念が兆して空蝉を 紫式部自身の経験として相当な秘めた思いがあったのではないかと 廣川勝美先生のご著書に一番重要かつ危ないことは書かない とあったのを思い出しました 書いてはいけないから思いを昇華させる為に物語に

 

仮託して書いた もしそれが事実なら相手は誰だろう ただの相手ではあり得ないとしたら具平親王? 近藤富枝先生に『紫式部の恋』というご著書があってそれは具平親王でした 読み返してみたいけど そんなことを考えていたらこんな時間になってしまいました

 

12月4日

吉祥寺コピスのクリスマスツリー 渋いけど素敵でした 昨夜は仮寝して起きたら韓国の戒厳令で緊迫したTLに驚き目が離せなくなって原稿に手がつけられませんでした その分醸造が進んで今入力してプリントまで 紫式部の秘めた恋の可能性について書きました

 

12月5日

『光る君へ ART BOOK』を買ってつくづく綺麗だなあと眺め入っています 内容は昨年末に刊行されたガイドブックを熟読して挑んだ視聴そのままだから それを生身の俳優さんたちが実際に演じて来られたのを見ている不思議 濃縮された一年がぎゅっと詰まっていて感慨深いです

 

光る君へ 先週の大宰府篇から史実の紫式部を離れているので 私としてはこれは完全な創作と割り切れて気分がとても軽快 それでやはり放映が私にはきつく呪縛だったのだなあと 一年間見てきたから試行錯誤がいろいろあって今があるのだけれど やはりもう純粋に私ひとりの世界に戻りたいです

|

2024.11.30 Twitter(X)から転載…大河「光る君へ」も、瀬戸内寂聴訳源氏物語浮舟帖読了も、私なりに『源氏物語』に関しての終着を得、やっと華鏡の原稿に集中できるようになりました。やっと・・・

11月25日

瀬戸内寂聴訳で『源氏物語』を再読し 夢浮橋まで読了して 改めて宇治十帖の底知れぬ凄さに圧倒されて見た今回の光る君へ いつもより深く感じ入りました 読了後から原稿に戻れる状態に入っていたのにやはり見てしまうと影響される 月曜日の今日は結局終日皆様のコメントを追って折を見てはTL

 

写真は2008年宇治市源氏物語ミュージアム 薫が宇治の八の宮の姫君 大君と中の君が琵琶と琴を合奏しているところを垣間見ているシーンです

 

11月26日

おはようございます 光る君へは昨日更級日記の作者のキャストが発表されて思ったのですが それはすでに紫式部の没後 という事は光る君への最後は道長の死でも紫式部のでもなく 更級日記の作者が源氏物語を読む事は后の位に着くより憧れ と書いた程に源氏物語は愛でられていたという有終の美を飾る

 

のかと というのもこの大河のキャスティングはわかりやすくて 見た目に清々しい俳優さんをキャスティングされている役はかなり重要なポスト 昨日発表された更級日記の作者の女優さんは可愛らしい上に清々しくて素敵 この方が源氏物語を読むシーン 楽しみですね

 

武蔵野市カトリック吉祥寺教会前の街路樹 久しぶりに吉祥寺に出たので撮ってみました 紅葉の華やかさにはまだまだですね

 

井の頭公園の雑木林も紅葉はまだまだ 倒木になぜか惹かれます でもここに以前かしらと 気がつかないでいただけかも知れないけど

 

11月27日

2012年撮影の修学院離宮です 浮舟が籠った小野の里 光る君へで宇治十帖を読み返してよかった 光る君への放映が発表されたのは 私が鎌倉の万葉集を撤退して源氏物語に移行し始めた時でした 鎌倉の万葉集が鎌倉殿の13人とかぶるので逃げたんです笑 なのにそこに光る君へ もう逃げられないから

 

影響されないよう覚悟して視聴を だから最初は鎧をまとっての視聴でした でも道まひの廃屋辺りからの美しい映像に引き入れられて見ていました なんといっても美術スタッフさん装束担当の方々の渾身の映像美 そういう中で私の鎧も解けて源氏物語を再読 原文でなく瀬戸内寂聴訳というのもよかった

 

今回のまひろの「手に入れられない方の傍にいることに何の意味があるでしょう」は辛かったですね そして 美しい 源氏物語はここに終結するしそれが人生なのでしょう 私も宇治十帖を読んでその思いを噛みしめています そして とにかく 読んでよかった

 

やっと光る君へを抜けて私自身の世界 華鏡 に戻れる気がしてきました 影響されないようにしようしようと気持ちのなかでどんなにか踏ん張った一年だったでしょう 私の紫式部感と光る君へは根幹のところで抵触していないことが途中でわかって余裕ができました ここまでくるのに結局一年かかりました

 

プリンターが壊れて新しくしたらプリント面がとても綺麗 同じ原稿とは思えないほど ちょうどいいので最初から見直そうと全部プリントし直しました そうしたらもうここまでは完璧と思っていた最初の方に数行入れることになり どれほどこの一年集中力を欠いていたかが思われました 光る君へで

 

11月28日

TLを見ると気持ちが引きずられるので今朝は見ずに昨夜プリントした華鏡の原稿を読んでいます 瀬戸内寂聴訳源氏物語でひたすら浮舟を読んでいたように これからはそうしようと で 写真のここにきて ん 為時 となり 光る君へで為時の母が出たら私の華鏡のある意味主役の紫式部の祖母が出たのにと

 

改めて華鏡を読み返していて思うのだけれど 紫式部は幼い時に母を亡くし祖母に育てられた と ここまでは従来言われてきて 紫式部を語る時はいつもここから後 光る君へでもその祖母たる為時の母は出なかった そして為時は散位だから紫式部は受領階級の娘 でもその紫式部を育てた祖母は右大臣の娘

 

そう 紫式部を育てた祖母は右大臣の娘なんですよ これがどういうことかというと 光る君へをご覧になっていた方なら察しがつくと思いますが F4クラスの家柄の娘です そういう人に育てられた紫式部がただの受領階級の娘意識ではないと思うし 源氏物語が書かれた背景にそれは大きかったと思います

 

そうそう 書き始めるときりがないのでこれだけにしますが 紫式部を育てた祖母の父 右大臣藤原定方にはたくさん娘がいて 長女は醍醐天皇の女御になっています つまり祖母は姉妹に女御になった人がいる・・・ これがどういうことかというと絶対紫式部の源氏物語に影響している と私はみます

 

11月29日

やっと音楽に気をとられることもなくTLに引きずられることもなく 終日頭の中で華鏡の原稿を考えている状態になりました 世の中は利権で考えるとわかりやすいですね 私もいろいろ嵌められたり裏切られたりの経験をしましたが 考えてみるとずっと精神論で考えていた でも 結局は利権がらみだったと

 

捉えたら腑に落ちるものがありました 私は文学賞と鎌倉の源氏物語問題とで二回その経験をして だから紫文幻想に藤原北家の他氏排斥事件を気持ちを込めて書けたのだけれど でもまだ権威とか権力争いとかの精神論的次元でした 今選挙絡みやその他事件を見ていて 利権 で判断すると一目瞭然に

 

華鏡の原稿を見直していて これは北条氏に滅亡させられた比企氏ゆかりの仙覚の生涯を基軸にする小説だから 昏迷を深める魑魅魍魎としたTLの世情から学びながら どこまで私は書けるだろうと心配になってきています

 

11月30日

華鏡の原稿 やっとなんとか今迄の原稿に手を入れ荘子女王の項に入れそうになってきました 華鏡はもともと第一部紫文幻想「紫式部の源氏物語への道」第二部万葉幻想「仙覚の万葉集への道」という構想だったのですが 紫文幻想を出したら何かそぐわなく改めて華鏡として最初からやり直している原稿です

 

それで書いていると紫文幻想に重なるものだから 同じ事は書きたくないので詳細を省いたり纏めたりで 今迄の原稿を見直してたら結構乱暴な展開 藤原北家の他氏排斥事件に阿衡の紛議が抜けていたり 見直していて ん? これではなぜ宇多天皇が基経を憎んでいるかわからないと思って気がつきました

 

そんなふうにして手を入れてやっと荘子女王の項に 紫式部が道長に出仕する以前に荘子女王のもとで女房経験があったとして書き進めます 荘子女王は村上天皇の女御で紫式部の祖母の姪 紫式部の父為時を弟のように面倒みています 荘子女王は具平親王の母 従来説では具平親王が庇護したとされてますが

|

« November 2024 | Main | January 2025 »