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2025.1.31 Twitter(X)から転載……タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』の見直しを終えて

1月28日

私事でなかなかタウンニュース鎌倉版コラム『鎌倉と源氏物語』のブログへのアップができませんでしたが やっと更新 気分いいです とはずがたり二条の登場回はこれで終わり 次回から仙覚が登場して鎌倉の万葉集の話になります 写真は建長寺様 鎌倉禅研究会終了後の西陽を浴びた伽藍です

 

なんかとても大変な一週間でした 今朝はまだ乗り切れるか不確かだったけど今はもう大丈夫 生きていることは大変だけど そういうことのない日々を過ごしたく思うけど それがあるから書くことが深まる 書く人は業が深いです 野生のアイリス 拝読したいのを抑えていたけど華鏡を一旦置いている今

 

思い切って購入しました 家族が寝静まって封を開いて取り出して 帯の訳者あとがきよりを読んだら胸が詰まって これ 私だ と 書けない日々を過ごしてきてやっとここに来て書けそうになっている そんな時にこのご本 大切に読ませていただきます

 

なんか ふと タウンニュース鎌倉版コラムの見直しが終わりそうになってきて 華鏡に戻りたい気が満ちてきているような

 

1月29日

先程ブログにアップしたタウンニュース鎌倉版コラム『鎌倉と源氏物語』の第28回に書いた埼玉県比企郡小川町にある穴八幡古墳です 『新編武蔵風土記稿』増尾村の項に詳細があるのですが この古墳の入口に宗尊親王の文字があったと 古墳自体は古いものですが 中世鎌倉時代の誰がここにそんなことを

 

この辺り 目下書いている『華鏡』の最終部分です 宗尊親王の文字を張り付けたのは・・・も類推して書きます 仙覚の没年に近いころだから この辺り古墳から歴史への興味が湧いた私には鎌倉よりはるかにロマンの色合いが強くて早くここまで辿り着きたいです笑 写真はここから見おろした小川町遠望

 

朝 タウンニュース鎌倉版コラムの件で比企のことを呟いてから比企への郷愁が蘇って終日心豊かに過ごしました それにつけても対照的に浮かび上がるのが鎌倉 当時も例えば高峰顕日が権力と繋がる鎌倉の仏教界を嫌って那須雲巌寺に籠もったとか 夢窓疎石がどんなに覚山尼から要請を受けても横須賀の

 

泊船庵から出なかったとか 鎌倉の権力支配は顕著だった たぶんその傾向は今もあって それで私は利権構造というものを見たし学んだわけだけれど 比企は対照的にそういったものが一切ない 守邦親王もそれで守られたのでしょうし 晩年の仙覚も大変だった生涯の最後を比企で過ごして幸せだったと思う

 

仙覚の生涯を主軸にして鎌倉の源氏物語と万葉集を書く華鏡ですが やはり生涯の最後だから最終章は比企 何回通ったかわからないくらい訪ね歩きましたが 撮った写真に思いを重ねてまた華鏡の世界に戻ろうと思います 明日コラムの最終回をブログに載せたら

 

1月30日

おはようございます タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』最終回をブログにアップして気分が晴れ晴れしています 1月に入って始めたこの連載見直し 鎌倉の活動で擦り切れて書けなくなる前の生き生きしてた当時の感覚が手に甦って楽しい作業でした 終わるのが惜しいと思っていましたが

 

さすが最終回は自分でいうのも変ですが有終の美 これからの作業に向けての遠望が湧いて清々しいです 写真は比企郡都幾川にある慈光寺様からの帰り 山岳寺院なので下山する途中の参道から見える山並みです この山並みを見るのが好きでした 仙覚も見た光景です

 

タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』の見直しを終えたらすぐkindle出版しようと思っていましたし 或いは引き続き『北条時頼と源氏物語』もブログにアップしようかとも考えたのですが 生き生き書いていた当時の感覚が甦ったらもう寄道はしないで『華鏡』に戻ることにしました それで

 

最終原稿の形態がブログにアップした記事なのでそれをまとめて保存 そんなふうな整理をしていたら慈光寺の地図が出てきたのでご紹介します 朝ツイートした山頂の慈光寺からおりてくる途中に見える山並みの写真は鐘楼開山堂とある所から下りてくる途中です 小川町はこの山の向こう側の麓です

 

山頂に慈光寺の西側に並んである霊山院は 栄西の弟子栄朝が開山の禅宗寺院です 訪ねた時は花の盛りで歩く道筋も桜の花びらで敷き詰められて真っ白 慈光寺からおりる参道にも桜並木があります もうじきその季節ですね 気持ちのいい清々しい写真をどうぞ ご覧のとおりいつ訪ねてもいつも一人でした

 

『華鏡』は「光る君へ」の放映前から書いていて 尾州家河内本源氏物語の話だから源氏物語をそれとなく忍ばせて書いていたのだけれど 鎌倉の蹴鞠の師飛鳥井雅経の妻が鎌倉の人で源氏物語を知らず 源氏物語って何ですの? と雅経に問う そこまで書いて えっ! 私自身明確に源氏物語とは何かの答え

 

を持っていないと それに気づいて書くのが止まっていた時に光る君へが始まり 見ながらずっと源氏物語とは何かの答えを私自身明確に掴めるまでに見入っていたから一年間翻弄されていたのでした その答えがなんとなく見えて来たのが放映の終盤 そこから翻弄されている気分から抜けられたのでした

 

タウンニュース鎌倉版コラムにかかっている時は忘れていましたが 華鏡に戻ったらその箇所に遭遇 そうだった こういう流れの中で華鏡は動いていくのだと思い出しつつ 華鏡の原稿を再開しています でも コラムの見直しをしたから戻れたわけで 最終回の比企バージョンの郷愁の呼び起こしが強かったです

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2025.1.30 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』最終回【鎌倉幕府滅亡と『尾州家河内本源氏物語』】をアップします

◆最終回 鎌倉幕府滅亡と『尾州家河内本源氏物語』

仙覚が最後の百五十二首に訓点をつけた『万葉集』は、『西本願寺本万葉集』という写本で残っています。この装幀が、北条実時の奥書がある『尾州家河内本源氏物語』と同じなので、立派なこの二つの写本は同じ時代に高貴な一人の人物が制作したといっていいでしょう。詳細は省きますが、私はそれが宗尊親王だったと思っています。そして、この時も実時が小侍所別当でした。仙覚が宗尊親王に『万葉集』を献上した時、親王はご自分が京から持参された『源氏物語』と仙覚の『万葉集』をもとに、二つの写本を作ろうとされたのだと思います。が、突然親王が幕府によって更迭され、未完成の二つの写本が御所に残されました。それを整理したのが実時で、完成していた『源氏物語』に奥書を書き入れて『尾州家河内本源氏物語』に、未完成だった『万葉集』は仙覚が完成させて『西本願寺本万葉集』になりました。宗尊親王の更迭後、仙覚は故郷の比企郡小川町に帰って晩年を過ごします。二つの写本を金沢文庫に収めたのは実時でしょう。鎌倉幕府が滅亡すると、二つの写本は持ち出されて足利将軍家のものとなり、幾多の変遷を経て、現在に至っています。二つの写本は鎌倉が誇る知の遺産です。

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2025.1.29 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第二十八回【鎌倉幕府最後の将軍・第九代守邦親王】、第二十九回【『万葉集』の仙覚と北条実時】をアップします

◆第二十八回 鎌倉幕府最後の将軍・第九代守邦親王

第九代将軍守邦親王の父は、第八代将軍久明親王です。母は第七代将軍惟康親王の娘、すなわち第六代将軍宗尊親王の孫ですから、守邦親王は宗尊親王の曽孫です。八歳から鎌倉幕府滅亡の年まで約二十五年間の在位でした。鎌倉の滅亡時、幕府の情勢は『太平記』に書かれていますが、守邦親王の動向は伝わっていません。出家して、幕府滅亡の三カ月後に薨去したとされています。けれど、武蔵国比企郡(現・埼玉県比企郡小川町)に鎌倉滅亡後の守邦親王の伝承が残されていて、それによると、親王は滅亡の時、慈光寺山麓の古寺に亡命し、土地の豪族猿尾氏に厚遇されてこの地に住んだといいます。そして、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して大塚八幡神社を建立したと。大塚八幡神社では守邦親王にならって境内で流鏑馬が行われていたそうです。伝承の真偽はともかく、私が気になるのは小川町という地と、宗尊親王の血筋の皇子のこの地の滞在です。鎌倉には、北条実時の奥書がある『尾州家河内本源氏物語』と料紙や装幀がそっくり同じ『万葉集』の写本、『西本願寺本万葉集』があります。その写本にかかわったのが仙覚という学僧で、その人物の出身地が小川町で、その人物が宗尊親王に『万葉集』を献上した人だからです。小川町には穴八幡古墳という方墳があり、かつてその入口に宗尊親王の文字があったといわれます。

 

◆第二十九回 『万葉集』の仙覚と北条実時

『万葉集』の歌約四五〇〇首は万葉仮名で書かれているために、訓点を付けないと読み下せません。古くからその作業がなされていて、鎌倉時代には百五十二首が残っていました。それに訓点を付け終えたのが仙覚です。鎌倉の比企谷においてでした。比企谷は、伊豆に流された源頼朝に二十年間仕送りを続けた乳母の比企尼が、鎌倉幕府を開いた頼朝から賜った谷戸です。現在、妙本寺が建っています。比企尼の甥の比企能員が家督を継いで館が建っていました。能員の娘の若狭局が第二代将軍頼家の側室となって一幡を産んだために、一幡が第三代将軍になると、能員が外戚になります。それを阻止するために北条氏が比企氏を滅ぼしたのが比企の乱です。第三代将軍には実朝がなりました。仙覚はその能員の孫で、乱の年の誕生です。素性がばれると殺される運命の下にありましたから、終生仙覚の名で通しました。十三歳で『万葉集』の研究を志し、四十四歳の時にそれが叶って百五十二首に訓点を付けました。第四代将軍頼経に命を受けてのことでした。『尾州家河内本源氏物語』に奥書を残す北条実時は、将軍御所と鎌倉幕府の間をつなぐ役職の小侍所別当でした。文人政治家実時は、仙覚の鎌倉での活動を最初から見知っていて後ろ盾になり、交流を深めていきます。実時が仙覚の素性に気づいていたか、私にはわかりません。

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2025.1.28 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第二十六回【第八代将軍久明親王の鎌倉下向】、第二十七回【平禅門の乱・平頼綱子息資宗と後深草院二条】をアップします

◆第二十六回 第八代将軍久明親王の鎌倉下向

いよいよ第八代将軍久明親王が下向されます。後深草院二条はそれも見物に行きました。若宮大路はすでに大変な人出です。足柄の関まで迎えに行った先人が二、三十騎、四、五十騎と物々しく大路を進みます。すると、「はやこれへとて」と、久明親王が差しかかられる時刻に到り、小舎人たち二十人ほどが慌ただしく走って行き、その後を直垂姿の大名たちが五、六町も続いたかと思われる後に、女郎花の襲の色目の浮織物の御下衣をお召しになった将軍が、御輿の簾を上げて通り過ぎられました。二条は後深草院の皇子を産んでいますから、将軍は我が子とは腹違いの兄弟になります。みずからの人生に色濃く刻まれている後深草院その人の皇子を目の当たりにして、二条の思いはどんなだったでしょう。久明親王は十四歳から三十三歳までの約十九年間、鎌倉の将軍として君臨されます。その間に歌の師である冷泉為相の娘を側室に迎えました。為相は『十六夜日記』の作者・阿仏尼の子です。阿仏尼亡き後下向し、鎌倉で僧侶や武士たちの歌の師を勤めるなど広く交流していました。阿仏尼は「青表紙本源氏物語」を作った藤原定家の子の為家の後妻ですから、為相は定家の孫。つまり、定家の曾孫が久明将軍の側室になったということになります。

 

◆第二十七回 平禅門の乱・平頼綱子息資宗と後深草院二条

話は安達泰盛が滅ぼされた弘安八年(一二八五)十一月の霜月騒動に遡ります。泰盛は松下禅尼の甥です。「尾州家河内本源氏物語」に奥書を残す北条実時と共に幕府の重鎮でした。第九代執権北条貞時の時代、泰盛は幕府で一番の御家人でした。それに対立したのが内管領の平頼綱です。父・第八代執権時宗の早世で執権になった時、貞時は十三歳でしたから、乳母父として父親代わりの頼綱が頼りでした。頼綱は貞時の発令として泰盛を滅ぼしたのでした。それが霜月騒動です。頼綱の恐怖政治がそこから始まりました。が、貞時は成長して頼経の実態を知り、泰盛を討ったことを後悔します。正応六年(一二九三)、貞時は二十二歳になっていました。その年の四月、鎌倉に大地震が起き、建長寺をはじめとする多数の神社仏閣が倒壊、たくさんの死者がでます。余震が続く混乱の中の六月、貞時は軍を差し向けて頼綱を討ったのでした。父に協力した次男の資宗も一緒に討たれました。資宗は『とはずがたり』の作者二条と継歌をする仲になった人物です。鎌倉を離れる時には夜通し餞別の会をもうけるなど親しい仲でした。その三年後の乱。二条はそれを聞いてどう思ったでしょう。

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2025.1.25 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第二十四回【将軍惟康親王の更迭と第九代執権北条貞時の内管領・平頼綱】、第二十五回【後深草院妃東二条院と鎌倉の後深草院二条】をアップします

◆第二十四回 将軍惟康親王の更迭と第九代執権北条貞時の内管領・平頼綱

鎌倉で暮らすようになった二条は鶴岡八幡宮の放生会の見物に行きます。第七代将軍惟康親王が到着された際に見たお供の公卿や殿上人の人数の少なさに、「卑しげにも、ものわびしげ」と記しました。逆に、鎌倉武士の平二郎左衛門については関白の振舞にも見えるほど威風堂々としていると書きました。この人物は、当時の執権北条貞時の乳母夫だったことから権力を欲しいままに恐怖政治を敷いていた平頼綱の嫡男です。三歳から二十六歳まで鎌倉で将軍として君臨していた惟康親王ですが、放生会の日からまもなく更迭される事件が起きます。惟康親王は佐介谷に移され、五日ほど過ごして上洛されます。出立は午前二時。宵からの風雨の悪天候をも押して親王は発たれました。こんな状況にもかかわらず二条は見に行っていて、親王が筵でくるんだ御輿のなかで度々鼻をかむ音が聞こえ、「御袖の涙も推しはかられ」と記しています。執権貞時は第八代執権北条時宗の嫡男です。蒙古襲来の心労から時宗が三十四歳で早世すると、貞時は十三歳で第九代執権に就任しました。若年の執権が頼りにしたのが乳母夫として自分を育ててくれた得宗家の執事・平頼綱でした。二条は頼綱の次男・平資宗とは気が合って続歌をする仲になり、鎌倉を離れる頃には関係を怪しまれるまでになっています。出家してもいつまでも妖艶な二条です。

 

◆第二十五回 後深草院妃東二条院と鎌倉の後深草院二条

第八代将軍として下向されたのは、『とはずがたり』の作者二条が十四歳から後宮に入れられ寵愛された後深草院の皇子・久明親王でした。二条が宮廷を追い出された原因は後深草院妃・東二条院の嫉妬です。久明親王の母君は別の方ですが、後深草院妃としてその東二条院が親王の下向に際し、執権貞時の内管領として権力をふるう平頼綱に贈り物を届けてきます。それは五衣という五枚重ねの袿用の衣でした。鎌倉の人は十二単の仕立て方を知りませんから困って二条に助けを求めます。十二単には襲の色目という仕立て方の決まりがあります。二条が行ってみるとそれが無視されたとんでもない具合の仮縫い状態になっていました。思わず二条は「などかく」と言ってしまいます。二条は内心おかしいのをこらえて直したのでした。そこに執権貞時からも「将軍御所の室礼を見てほしい」とお呼びがかかり、それも二条はこなします。五衣のことで訪れたのは平頼綱の屋敷です。そこは金銀錦玉をちりばめ輝くばかりに贅を尽くした邸宅でした。ですが、ここで会った頼綱を二条は、堂々として立派な風采の奥方に比べて「やつるる心地しはべりし」と書いています。後深草院や西園寺実兼など一流の男性を恋人にもった二条の目にはどんな男性も適わないでしょう。

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2025.1.22 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第二十二回【後深草院二条と第七代将軍惟康親王】、第二十三回【第六代将軍宗尊親王の『源氏物語』と更迭】をアップします

◆第二十二回 後深草院二条と第七代将軍惟康親王

二条が鎌倉に滞在した時の居住先はわかりません。ただ小町殿という知り合いの女性が「わがもとへ」と言って下さったのを、二条は遠慮して「近きほどに宿をとり」ました。小町大路(宝戒寺の前の通り)の御所、若宮大路御所の近くでした。鎌倉では三回御所が移転しています。最初は頼朝が開いた大倉幕府の御所。二度目は第四代将軍九条頼経からの宇都宮辻子御所。三度目が若宮大路御所で、ここは第六代将軍宗尊親王から鎌倉滅亡までです。第七代将軍惟康親王は宗尊親王の皇子です。第三代将軍源実朝が殺された後、政子をはじめとする鎌倉幕府は後鳥羽院皇子の鎌倉下向を望みました。それを拒まれ、摂関家である九条家から迎えたのが第四代将軍頼経。摂家将軍といいます。第五代将軍は頼経の子の頼嗣。宮騒動など一連の騒動があって二人が帰洛した後に下向されたのが、後嵯峨院皇子の宗尊親王でした。幕府悲願の皇族将軍がここに叶ったのでした。二条が鎌倉に来た年、惟康親王は二十六歳でした。父・宗尊親王が更迭され、将軍になったのは三歳の時ですから、二十三年もの間惟康親王は将軍として崇められていたわけです。が、二条が着いたその年、惟康親王も将軍職を追われて帰洛させられます。二条はそれを目撃し、書き留めました。

 

◆第二十三回 第六代将軍宗尊親王の『源氏物語』と更迭

『とはずがたり』の作者・後深草院二条が鎌倉に下向した時の将軍第七代惟康親王の父、第六代将軍宗尊親王は、鎌倉の源氏物語の象徴の『尾州家河内本源氏物語』を制作した方と思われます。「夢の浮橋」巻末に奥書を残す北条実時が小侍所別当として仕えていました。後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を鎌倉に迎えたのは第五代執権北条時頼です。両親から引き離され、鎌倉という遠い異国の地で独り生きるはめになった十一歳の少年親王の悲嘆と絶望を癒すべく、時頼は親身になって親王に仕えました。時頼が生きていたら宗尊親王の更迭はなかったでしょう。享年三十七才で時頼が亡くなった時、宗尊親王は二十二歳になっていました。時頼の嫡子的存在で第八代執権となる北条時宗は十三才です。嫡子的存在というのは、時宗には兄・時輔がいるからです。時輔の母の身分が低いために、時宗が生まれた時から嫡子として扱われました。二条が後嵯峨院の崩御に際して詰めていた亀山離宮から、都に煙があがるのを目にした二月騒動で討たれたあの時輔です。宗尊親王も母君の身分が低いために天皇になれず、鎌倉に将軍として下向させられました。即位されたのが弟の後深草天皇です。ですから宗尊親王は時輔に心を寄せ、時宗には辛く当たります。当然、時宗は宗尊親王に対して敵愾心を持って育ちます。そこに時頼の思いもかけない早世。時宗は第七代執権北条政村とともに宗尊親王を更迭したのでした。

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2025.1.21 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第二十回【鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子】、第二十一回【二階堂永福寺と『とはずがたり』の作者二条】をアップします

◆第二十回 鎌倉と繋がり深い 後嵯峨天皇の四人の皇子

鎌倉幕府の意志で即位された後嵯峨天皇には、鎌倉と特に関係ある皇子が四人いられます。お一人が『とはずがたり』の作者二条を寵愛した後深草院。もうお一人は第六代将軍宗尊親王ですが、後のお二人は高峰顕日と亀山天皇です。年齢順に高峰顕日、宗尊親王、後深草院、亀山天皇というご兄弟です。高峰顕日は、建長寺で修行し、住持を勤めたこともある禅僧で、瑞泉寺の庭園で有名な夢窓疎石の師でいられます。浄妙寺、浄智寺の住持もされました。ご兄弟というのが不思議なほど後深草院と対照的に清廉潔白な方で、幕府の権力と密着する鎌倉の仏教界を嫌い、生涯の多くを那須の雲巌寺に籠もって過ごされました。亀山天皇は後深草院と同じく大宮院が母君でいられます。大宮院は病弱な後深草院より健康で積極的な亀山院を贔屓していて、後深草院は十七歳で退位させられ、亀山天皇が即位されました。亀山天皇は蒙古襲来の折の天皇で、鎌倉幕府では第八代執権北条時宗の時代です。幕府には若い時宗を補佐して重鎮の北条実時がいました。『尾州家河内本源氏物語』に奥書を残すあの実時です。鎌倉幕府と朝廷、時宗と亀山天皇が力を合わせて元寇に立ち向かい、日本は勝利しました。兄弟間のコンプレックスは根が深いといいます。事実か否かは別として、二条が亀山天皇と関係を持ったという噂に激怒した後深草院は二条を宮廷から追い出します。じつは、そこには妃・東二条院の意図があったのでした。

 

◆第二十一回 二階堂永福寺と『とはずがたり』の作者二条

かつて鎌倉の二階堂にあった永福寺跡の発掘調査が終わり、「国指定史跡 永福寺跡」として生まれ変わりました。永福寺は奥州合戦から帰った源頼朝が平泉の大長寿院を模して造った寺院です。伽藍は京都の宇治平等院とそっくりの、中央の伽藍を挟んで両側にある阿弥陀堂と薬師堂が翼廊で繋がれた形式です。違うのは中央の伽藍が二階建てなこと。それで往時は二階堂と呼ばれ、現在は地名として残っています。絵図が残っていないので伽藍の復元はできませんが、『東関紀行』の作者は「二階堂永福寺はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍日にかゞやき」と記しています。螺鈿細工が施された燭台など、出土遺物からも華麗な寺院だったことが窺われます。ここで第二代将軍頼家が蹴鞠をし、第三代将軍実朝以降歴代将軍が花見や雪見や歌会をして楽しみました。「河内本源氏物語」を作った源光行・親行親子も、それぞれ第三代将軍実朝と第四代将軍頼経に供奉して訪れています。鎌倉に下向した『とはずがたり』の作者二条も永福寺を訪れました。二条は出家していて三十二歳でした。二月の二十日過ぎに京都を発ち、三月二十日過ぎごろ江の島に着きます。一泊して翌朝鎌倉に入り、まず極楽寺を参拝しました。次に鶴岡八幡宮に参り、「かくて、荏柄、二階堂(永福寺)、大御堂(勝長寿院)などいふ所ども拝みつつ」と記しています。第七代将軍惟康親王、第九代執権北条貞時の時代でした。

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2025.1.19 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第十八回【後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉】、第十九回【後深草院宮廷と『源氏物語』】をアップします

◆第十八回 後嵯峨天皇と『源氏物語』と鎌倉              

北山准后の娘・大宮院と後嵯峨天皇の間に生まれた方が、『とはずがたり』の作者二条を寵愛した後深草院です。後嵯峨天皇は、鎌倉幕府と朝廷が戦った承久の乱で鎌倉方が勝利したために、鎌倉幕府の決断で即位されました。九条道家をはじめとする朝廷では別の方を推していて、その方を退けての即位です。それで、後嵯峨天皇はそれまでの朝廷とは打って変わって、鎌倉幕府と親密な関係を築いていかれます。その一つの顕れが皇子・宗尊親王の第六代将軍としての鎌倉下向です。後嵯峨天皇が目指されたのは、藤原道長の時代のような宮廷文化の復興でした。それで亀山離宮を造営されたり、『源氏物語』を重視して学んだりされます。鎌倉の『源氏物語』である「河内本源氏物語」も御覧になっています。二条は後嵯峨院の崩御に立ち合っています。崩御が迫って亀山離宮に移られた時、二条も後深草院とともに参上して見守りました。鎌倉幕府の出先機関である北方南方の両六波羅探題も見舞に訪れます。その時の南方が第八代執権北条時宗の兄・時輔でした。二月九日のことでした。が、十五日に都の方に夥しい煙があがっているのを二条は見ます。訊くと、「南方の時輔が討たれた」とのこと。世にいう二月騒動です。二条は明日をも知れぬ後嵯峨院を見舞に来た時輔が先立つなんてと、「あへなさ申すばかりなし」と『とはずがたり』に記しました。嵐山の亀山離宮の跡地には、現在天龍寺が建っています。

 

◆第十九回 後深草院宮廷と『源氏物語』

『源氏物語』は他の古典と著しい違いがあります。それは宮中に密接な文学だということです。単に主人公の光源氏が桐壷帝の皇子で舞台が宮中というだけでなく、この物語の制作自体が、紫式部と、藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子によるという特殊な環境で作られました。紫式部が書く傍から彰子や道長が書写していったのです。ですから『源氏物語』には公卿ら臣下一般に普及したのとは別次元の、宮廷独自に伝わる源氏物語嗜好というものがありました。国宝「源氏物語絵巻」は白河院の制作といわれていますが、私は白河院が源氏物語に傾倒した背景には、二十歳まで即位できなかった少年皇族の、自分は光源氏と同じだと思って成長した心の闇があると思います。白河院は中宮彰子の曾孫です。即位されたときにはまだ彰子は存命でした。なので、少年期にきっとじかに紫式部のことや制作秘話を聞いて育っています。第六代将軍宗尊親王は後深草院のご兄弟ですが、宗尊親王も「源氏物語絵巻」を携えて鎌倉に下向されました。父帝・後嵯峨院が源氏物語に深い関心を寄せられていて、それには源平の争乱や承久の乱で荒廃した宮廷文化の復興という明確な目的がありました。『とはずがたり』には後深草院の異常なほどの源氏物語への執着が記されていて、源氏物語の女楽を模した遊びなど、源氏物語を意識した逸話がたくさんあります。よく『とはずがたり』の評論中に頽廃の語が使われますが、それには一般にいう頽廃とは違う深い背景があることでしょう。

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2025.1.18 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第十五回【二条の恋人・関東申次西園寺実兼】から第十六回【朝廷と関東の取り繋ぎ役・西園寺実兼は「雪の曙」】、第十七回【二条の縁戚・北山准后とは】をアップします

◆第十五回 二条の恋人・関東申次西園寺実兼

二条の恋人? と疑問に思った方は多いでしょう。なぜなら二条は後深草院の寵愛を受けている宮廷の女性なのですから。そう、そこが『とはずがたり』の凄いところで、後宮の赤裸々な事実が明かされているのです。二条が後深草院の後宮の人になる十四歳の時、発端は華やかな元旦の宴席でのことでした。後深草院が父・雅忠に盃を勧めながらこっそりと「二条をわが方に」と仰せられたのです。女房の一人として侍っていた二条はそれを見ていましたが、まさかそういう話とは思いもよりませんでした。が、大納言である実兼も列席していて直感したのです。その夜、二条のもとに実兼から恋文とともに、濃い紅の単衣や萌黄の上着、唐衣などの素晴らしい装束一式が届けられました。院のものになってしまわないうちにという実兼の素早い大胆な行動です。二条は困惑し、一旦は返しますが、また贈られてきて、結局受け取ります。この実兼の情熱が二条に波瀾万丈の人生を送らせることになります。『源氏物語』を意識して生きた二条の『とはずがたり』では、装束が微妙な心理描写の小道具になっています。この装束を二条は後嵯峨院の御幸の席に着て出ます。雅忠が目をとめて、「並々でない色艶のそれは院から頂戴したものか?」と問います。二条は気がとがめながらもさりげなく、自分を可愛がってくれる親類筋の北山准后から貰ったと答えました。実兼とは、西園寺実兼。この時二十三歳でした。後深草院は二十九歳です。実兼は朝廷と鎌倉幕府との間を取り持ち、調整する関東申次の役職に就いていました。

 

◆第十六回 朝廷と関東の取り繋ぎ役・西園寺実兼は「雪の曙」            

二条の恋人・実兼が関東申次の役職にあったのは、鎌倉では第八代時宗、第九代貞時が執権の時代でした。その間に二度の蒙古襲来があり、鎌倉では円覚寺が建立され、松下禅尼の実家である安達家が滅ぼされる霜月騒動が起きています。関東申次の初代は頼朝の時代の吉田経房で、鎌倉で「河内本源氏物語」を作った源光行は経房の配下で遣わされたのでした。第四代将軍頼経の時代は父の九条道家が務めました。道家失脚の後、西園寺家当主による世襲になったのです。二条と恋人関係になった年は実兼の関東申次就任二年目で、まだ蒙古襲来の予兆もなく平穏な時代です。実兼は『とはずがたり』では「雪の曙」と記されます。これは実名を明かさないための朧化表現です。二条と関係を持った男性は実兼の他にも二人いて、一人は「有明の月」です。後深草院の異母弟で仁和寺の僧・性助法親王と考えられています。もう一人は「近衛の大殿」で、摂政・鷹司兼平です。兼平との関係は、父親を亡くして後見人のいない二条を気遣い、後深草院が取り持ったものです。二条は「死ぬばかり悲しき」と記しました。二条は後深草院の弟・亀山院にも関心を持たれて噂までたてられます。ゆくゆくこの噂がもとで二条は宮中を追い出されることになり、鎌倉への下向となりました。

 

◆第十七回 二条の縁戚・北山准后とは            

鎌倉幕府と朝廷を取り持つ関東申次だった西園寺家の家名は、実兼の曾祖父西園寺公経に始まります。京の北山の山荘に公経が西園寺を創建したことによります。北山とは現在金閣寺が建つあたりの地域です。公経は源頼朝の姪を妻にしており、二人の間の娘が九条道家と結婚して、そこに生まれたのが第四代将軍頼経です。なので生粋の親幕派。鎌倉幕府と朝廷が戦った承久の乱では幽閉されますが、鎌倉方が勝って、ここに西園寺家の運勢が開けます。「青表紙本源氏物語」を作った藤原定家は公経の姉を妻にしていて、そのために定家も親幕派です。二条が実兼から贈られた豪華な装束を北山准后から貰ったと偽って着た北山准后は、公経の子の実氏の妻です。実兼は実氏の孫でした。北山准后は、二条が実兼の恋人になった時にはすでに高齢で、『とはずがたり』には北山で九十の賀が催され、盛大だったことが描かれています。二条は北山准后の養女の子なので可愛がらます。北山准后の娘の一人が大宮院で後嵯峨天皇の中宮です。もう一人は東二条院で後深草天皇の中宮です。大宮院は二条を可愛がりますが、東二条院は後深草院の寵愛を受ける二条を嫉妬し、ゆくゆく宮廷から追い出すキーパーソンとなります。東二条院は後深草院より年上です。後深草院にとって『源氏物語』の若紫たる存在の二条を憎むのは自然な成り行き。光源氏の母・桐壺更衣を憎んで苦しめる弘徽殿女御のような立場の女性です。

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2025.1.7 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第十三回【極楽寺と『とはずがたり』の作者二条】と第十四回【後深草院二条は『源氏物語』の若紫】をアップします

◆第十三回 極楽寺と『とはずがたり』の作者二条

日本には王朝女流日記という素晴らしい文学の一分野があります。これは平安時代の貴族に仕えた女房や妻妾といった女性の日記ですから当然実話。そして作者の本心が書かれています。さらに興味深いのは登場人物が高貴な有名人ということも。代表例に藤原道綱母の『蜻蛉日記』、和泉式部の『和泉式部日記』があり、『源氏物語』の作者紫式部にも『紫式部日記』があります。『とはずがたり』は鎌倉時代後期の第九代執権北条貞時の時代の作品で、日記というよりは回想録です。貞時は第五代執権北条時頼の孫で、第八代執権北条時宗の子です。作者は京の後宮で後深草院の寵愛を受けた二条。院の后・東二条院の嫉妬で後宮を追い出され、出家して傷心の旅に出て鎌倉に来ました。二条は江の島に一泊し、鎌倉に入って、「極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違はず」と書きました。極楽寺は宮廷という京の文化の中枢に生きた二条の目に「違はず」と映ったのです。今の極楽寺から想像できません。が、昨年秋に開催された金沢文庫の「忍性菩薩―関東興律七五〇年―」展に当時の極楽寺の指図が展示されていて、キャプションに「桁行七間の仏堂に中門廊が付けられた、京都の密教寺院と同様の伽藍」とありました。指図は寺院で法要を行う際の設営図で、仏具や僧侶・参列者の位置を指し示すところから現代の「指図する」の語源になっています。はからずもここに二条の記述が実証されたのでした。

 

◆第十四回 後深草院二条は『源氏物語』の若紫

後深草院の寵愛を受けた『とはずがたり』の作者二条は、通称後深草院二条と呼ばれます。『とはずがたり』は昭和になって発見された新しい古典です。あまりに赤裸々に後深草院の後宮が書かれているために、世に出すのが憚られていたのでしょう。二条の血筋は村上源氏で、高倉天皇に仕えた源通親の曾孫。太政大臣通光の孫ですから、妃として入内しておかしくない生まれでした。そのために『とはずがたり』にはどのような境遇になろうとプライドの失せない強い精神性が窺われます。二条は二歳で母と死別し、四歳で後深草院に引き取られて育ち、十四歳で後宮の女性となります。これは、後深草院が乳母だった二条の母に初恋の念を抱き、その思いを遂げるべく『源氏物語』の主人公光源氏を模して二条を引き取ったのでした。光源氏は継母の藤壺に恋愛の情を抱き、藤壺にそっくりな若紫を引き取って育てて妻にしました。二条は後深草院にとって若紫だったのです。これほど華やかに都の文化を体現して生きた二条の鎌倉下向。その最初は、「化粧坂といふ山を越えて鎌倉の方を見れば」、京の東山から見るのと違ってごちゃごちゃと見苦しく見え、だんだん侘びしくなったそうです。現在、化粧坂から鎌倉の街並みは見られませんが、成就院山門前から由比ヶ浜を望んだ光景がそれに近いのではないでしょうか。

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2025.1.16 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第九回【甘縄はどこ?】から第十二回【北条実時と風光明媚な六浦・金沢八景】をアップします

◆第九回 松下禅尼が戻った実家・甘縄はどこ?

江の電長谷駅を降り、広い通りを長谷寺と反対方向に歩いて行くと左手に甘縄神社があります。ここは鎌倉最古の由緒ある神社ですが、安達盛長邸があった場所として境内に碑が建っています。盛長は松下禅尼の祖父です。なので夫・時氏と死別して戻った実家は「ここ」となります。境内には、後年松下禅尼が懐妊した時頼の妻を預かり、第八代執権時宗の出産を助けた産湯の井戸もあります。ですが、鎌倉最古の神社=盛長邸というのはいかにもおかしく、最近では安達氏の館は別の場所にあったのが正しいとなってきました。では、それはどこでしょう。二〇〇三年一月。扇ガ谷の無量寺谷で発掘された無量寺が、安達氏ゆかりの寺院と新聞で見て、現地説明会に行きました。寿福寺のほぼ背後にあたる小さな谷戸です。『吾妻鏡』の文永二年(一二六五)六月三日の条に「秋田城介義景十三年忌仏事を無量寿院で行なった」とあります。義景は松下禅尼の兄です。『鎌倉廃寺事典』の無量寺の項には「金沢文庫古文書」に「相州鎌倉甘縄於無量寿院」「甘縄無量寿院」の語があるとのことです。こんな所まで鎌倉時代には「甘縄」だったのでした。松下禅尼が戻った実家がどこかわかりませんが、長谷の甘縄神社から寿福寺の裏手までの広い一帯のどこかだったでしょう。

 

◆第十回 極楽寺開山忍性と北条実時

金沢文庫で「忍性菩薩 関東興律七五〇年」展が開催されました。これは忍性の生誕八百年記念の特別展で、奈良国立博物館でも夏に「忍性 救済に捧げた生涯」展が開催されました。鎌倉の極楽寺の開山なのに、なぜ、奈良国立博物館で? というのは、忍性の生誕地が奈良だからです。忍性は十六歳で出家し、二十四歳の時に真言律宗の総本山西大寺に入りました。ここには名僧叡尊がおり、この叡尊の下で忍性の生涯が培われていきます。忍性が関東に下向したのは三十六歳になった建長四年(一二五二)。律を広めるためでした。その時は鎌倉に着いても留まらず、鹿島神宮まで行って参籠し、常陸三村寺(現・茨城県つくば市小田)に十年住して、それから鎌倉に定着しての活動となったのでした。忍性は、金沢文庫の創設者であり称名寺の開基である北条実時と深い親交がありました。金沢文庫の近くにある龍華寺の『金沢龍源寺略縁起』に「正嘉年中に、南都の忍性律師当山(注・浄願寺)に住して戒律を弘め」とあります。浄願寺は龍華寺の前身寺院の一つです。源頼朝が伊豆の三島大明神を金沢の瀬戸に勧請した時に(現・瀬戸神社)、別当寺として六浦の山中に建立されました。現在、金沢八景駅近くの高台にあった上行寺東遺跡がそれだと比定されています。この浄願寺時代にすでに実時は忍性と交流していたのかもしれません。

 

◆第十一回 当時は鎌倉文化圏・鎌倉の外港六浦

今でこそ若宮大路が鎌倉のメインストリートになっていますが、それは第三代執権北条泰時が若宮大路沿いに幕府を移転させてからのことです。頼朝が開いた大倉幕府は第三代将軍実朝までで、この当時の幹線道路は寿福寺から鶴岡八幡宮の前を通って金沢八景に抜ける金沢街道でした。朝比奈峠を越えて下りた所が六浦です。六浦は今は横浜市ですが、鎌倉の重要な外港でした。それは相模湾が遠浅で大型船が着けなかったためで、一方の六浦には唐船が三艘も入ったとの伝承からついた三艘の地名があり、繁栄していたことが窺われます。源頼朝建立の浄願寺と比定されている上行寺東遺跡もこの六浦にあり、六浦湾を見下ろす高台にありました。遺跡はマンションの建設に伴って発見されました。たくさんのやぐらを伴うこの中世墳墓群の遺跡は、全国にも例のないものだったために大々的な保存運動が展開されたのですが、叶わずに今は一部がレプリカとして公開されています。遺跡にはやぐらと共に岩盤に彫り出された阿弥陀如来座像があります。背後に遠く朝比奈峠が見えます。この像は破壊されて首から上がありませんが、春と秋の彼岸の中日には真上に夕陽が沈む、荘厳な西方浄土信仰の場でもありました。今も金沢八景駅から歩いてすぐのこの遺跡でそれを体感することができます。

 

◆第十二回 北条実時と風光明媚な六浦・金沢八景

北条実時が父・実泰から六浦を継いだのは十一歳の時でした。実泰の突然の狂気のような自害騒動のためでした。忍性が六浦に滞在した正嘉二年(一二五八)ころにはもう実時は三十代半ばになっています。実時は鎌倉幕府の重鎮ですから本宅は鎌倉にあり、六浦は別邸です。それで実時は意のままに六浦を杭州に見立てようとします。杭州の風光明媚なことを実時は入宋して帰った僧や商人から聞いていたのでしょう。実時は宋との交易で利益をはかっていました。そういう中で七千帖もの宋版一切経を二組請来し、その一組を忍性の師・叡尊がいる奈良西大寺に、もう一組を称名寺に寄進しました。金沢文庫に所蔵されている宋版一切経がそれです。また、称名寺には実時が杭州西湖から取り寄せたという西湖梅という名木があったり、金堂の本尊弥勒菩薩立像は優美な宋風のみ仏でいられます。このように六浦では、実時の趣味を反映して鎌倉中心部とは違った趣の文化が広がっていました。歌川広重の浮世絵「金沢八景」は六浦が舞台です。中国の瀟湘八景にならったもので、「称名晩鐘」「小泉夜雨」「乙艫帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照」「内川暮雪」と、ここに称名寺の鐘が入っています。実時以来の「景勝地六浦」の評判が江戸時代にも伝わっていたのでしょう。

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2025.1.15 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第五回【国母の先輩・上東門院と松下禅尼】から第八回【父・時氏の死 第四代執権経時と第五代執権時頼】をアップします

◆第五回 国母の先輩・上東門院と松下禅尼

鎌倉幕府の京都における出先機関である六波羅探題は、かつて平家一門の邸宅が建っていた六波羅の地に置かれました。源平の争乱で鎌倉方が勝利したためにその地を継承したのです。一一八三年に平家が都落ちする際、邸宅に火を放って去ったため、一帯は灰燼と化しましたが、六波羅蜜寺は唯一焼けずに残って今も往時の姿を伝えています。一二二一年の、後鳥羽院方朝廷と鎌倉幕府が戦い、鎌倉方が勝った承久の乱の後、六波羅探題が置かれたのでした。第二代北方に就任した北条時氏の子の経時・時頼たち幼い兄弟の、六波羅蜜寺境内を遊びまわる元気な姿が目に浮かぶようです。時氏の妻・松下禅尼が上東門院を敬愛して止まなかったエピソードが、鎌倉時代の僧・無住が書いた『雑談集』にあります。上東門院は、『源氏物語』の作者・紫式部が仕えた藤原道長の娘で、一条天皇の中宮彰子です。松下禅尼は藤原定家との交流で、『源氏物語』を介して上東門院を知ったのでしょう。天皇の生母を国母といいます。上東門院は後一条・後朱雀という二人の天皇の母でいられます。松下禅尼はゆくゆく執権となる男子・経時を産んだばかりでした。国母的責任を感じているところに自分と同じ立場の女性を見出し、共感したのだと思います。

 

◆第六回 精神の系譜・上東門院から第五代執権時頼へ

鎌倉時代の僧・無住の『雑談集』によると、松下禅尼は敬愛する上東門院が深く仏教に帰依していることを見習ったそうです。それ程影響を与えた上東門院の仏教信仰。その証の一つに今に残る美しい金銅製の経箱があります。これは一〇三一年に比叡山横川如法堂で、円仁という入宋した高僧の法華経を守るために銅筒を埋経した際、上東門院が協力したものです。埋経とは、釈尊入滅後の末法の世にあって、弥勒菩薩が出現するまでのあいだ、経典を守るために地中に埋める作善です。上東門院の経箱は、他の銅筒と一緒に大正十二年に発掘されました。そして、展覧会に貸し出されている時、横川に落雷があって銅筒一式すべて焼失。奇跡的に経箱だけが残ったものです。経箱に付した上東門院の願文は、国母としての自覚に則った衆生済度を願うものでした。松下禅尼が引き継いだこの仏教観は、子息の第五代執権北条時頼に受け継がれます。一二五三年、時頼は建長寺を建立します。それまでの鎌倉での寺院建立が、戦で亡くなった人々の菩提を弔うためであったのを超え、願文にこう著されます。「建長寺は、国土全体を視野に入れて天皇と将軍のための祈祷を司る……」。ここに私は、上東門院→松下禅尼→北条時頼という精神の系譜を見るのですが。

 

◆第七回 一歳年上の同世代・無住と第五代執権時頼

松下禅尼が上東門院を敬愛していたというエピソードを『雑談集』に残した鎌倉時代の僧・無住は、仏教説話集『沙石集』で有名です。梶原氏の出身と伝えられますが詳細はわかりません。一二二六年の生まれですから、第五代執権北条時頼とは一歳年上の同世代。同時代を生きた無住が実際に見聞したことを書いたものですから、作品はすべて貴重な記録です。その無住の『雑談集』によると、上東門院に倣って仏教を篤く信仰した松下禅尼は、仏教を信じない者は召し使わなかったとのこと。そのような環境だったからか、幼い頃の時頼は仏像やお堂を作って遊ぶのが好きだったそうです。乳母父の御家人たちはそれを見咎め、武士の子らしく弓矢をこそ練習すべきと止めようとしますが、祖父の第三代執権北条泰時が「この子は釈迦のために祇園精舎を建てた大工の棟梁の生まれ変わりなのだ」と御家人たちを制します。泰時は夢でそれを見たのだそうです。果たして後年、成長した時頼は建長寺を建立したのでした。この時、泰時はまだ兄の経時だけを執権候補として特別扱いで育てています。その分、時頼は母・松下禅尼と過ごす時間が多く、仏教信仰の影響も大きかったのでしょう。

 

◆第八回 父・時氏の死 第四代執権経時と第五代執権時頼

一二三〇年三月、北条時氏は六年間の六波羅探題北方の任を終え、妻の松下禅尼ともども、経時・時頼兄弟の一家は鎌倉に帰ることになります。この様子も藤原定家の『明月記』に記されています。といっても、見送りに出たのは定家の子息の為家でした。高齢の定家の代理だったのでしょう。定家はその報告を受けて書き記したのでした。出発は粟田口からでした。夜明け前に先陣が、時氏本人は夜明け後に直垂を着て馬で出発。着き従う家来は三百騎もの威容さで、七歳になる経時も小さい馬に乗って従ったそうです。四歳になった時頼や弟の時定は松下禅尼たちと一緒だったことでしょう。この時、松下禅尼は檜皮姫を懐妊しています。時氏の帰還は、第三代執権泰時の任務を引き継ぎ、第四代執権になるための準備でした。が、旅の途中、今の愛知県豊川市のあたりで病気になってしまいます。重病で、四月に鎌倉に到着したものの、泰時や松下禅尼の必死の看病や願いも空しく、六月に亡くなってしまいます。亨年二十八歳でした。松下禅尼は出家し、実家である甘縄の安達景盛邸に帰ります。そして舅の泰時に助けられながら、経時・時頼という将来執権になる二人の男子や、時定や檜皮姫たちを育てていきます。

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2025.1.14 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第三回【同い年・北条実時と第四代執権経時】と第四回【ファーストレディ・松下禅尼】をアップしました

◆第三回 同い年・北条実時と第四代執権経時

『尾州家河内本源氏物語』の奥書に名を残し、金沢文庫を創設した北条実時は、第四代執権北条経時と同い年です。実時は第三代執権北条泰時の甥で、経時は孫。泰時は少し軽はずみのある行動派の経時を、将来の執権候補として不安に思っていました。そこで勉強家の実時を補佐につけることにします。二人が十八歳の時に酒宴を開き、御家人たちの前で「実時とよく相談し、互いに水魚の交わりをするよう」と経時に言い含めました。若宮大路幕府でのことです。泰時がこうまでして孫の経時や時頼の将来を案じたのは二人の父、北条時氏が早世しているからです。次期執権候補だった時氏は、京の警護や朝廷の監視を行う六波羅探題北方の任を六年勤めたものの、鎌倉に帰る途中に発病し、到着早々亡くなったのでした。兄弟の母は出家し、松下禅尼と呼ばれるようになります。兄弟はこの母に育てられながら、父親代わりの祖父・泰時から執権としての素養を教え込まれたのでした。時氏が六波羅探題北方の任を終えて鎌倉に帰る時、経時は七歳で、時頼は四歳でした。つまり、兄弟は京都生まれの京都育ちなのです。六波羅探題トップの子として、『源氏物語』の文化をそのまま生きるお公家さんたちに囲まれて育ったのでした。次回は、松下禅尼を中心に歴史をひも解きます。

 

◆第四回 ファーストレディ・松下禅尼

兼好法師が書いた『徒然草』の障子を貼るエピソードで、質素なイメージが定着している松下禅尼ですが、それは出家後の、おそらく四十歳過ぎてのこと。夫・時氏の六波羅探題北方の赴任で、一緒に京に上った時はまだ二十代前半でした。六波羅探題北方といえば、京都では鎌倉幕府の役人としてトップです。松下禅尼は、今でいうファーストレディだったのでした。質素どころか、宮廷や公家相手の、華麗な最高級の文化の体験者です。夫妻が京に赴任した最初の年に経時が生まれ、四年目に時頼が生まれます。鎌倉に帰る年に檜皮姫を懐妊しました。夫妻は、京で藤原定家と親しい交際をしています。それは定家の日記『明月記』に記されているのでわかります。定家が「青表紙本源氏物語」を作ったのは一二二五年。ちょうど夫妻が京に滞在していた時で、経時が生まれた翌年のことでした。この一家が、鎌倉人として、「青表紙本源氏物語」を目にした最初の人たちだったのではないでしょうか。二、三歳だった時頼が、母・松下禅尼に抱かれながら、「青表紙本源氏物語」に手を延ばし、「さわっちゃダメ」と注意されたことなど想像すると、微笑ましいです。

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2025.1.13 タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』第一回【「鎌倉の源氏物語」との出逢い】と第二回【真面目な少年・北条実時】をアップします

放置してあった古い原稿の救済をはじめました。最初に2015年12月から二年ほどタウンニュース鎌倉版に連載したコラム『鎌倉と源氏物語』に取り掛かっています。第一回と第二回の推敲が終わりましたのでご紹介。これはいずれ本にしたく思っていますが、どういう形になるかまだ決まっていません。刊行が決まったらこの記事は削除しますのでご了解ください。

◆第一回「鎌倉の源氏物語」との出逢い

一九九〇年、金沢文庫新館記念の企画展にその写本はありました。『尾州家河内本源氏物語』です。印刷技術のない時代の本は人の手で書き写す写本によって伝わりました。金沢文庫の写本の名称の意味は「徳川尾張家の河内本源氏物語」です。その名のとおり、現在名古屋市蓬左文庫の所蔵になっています。が、もとは鎌倉で作られ、金沢文庫に収められていました。鎌倉の滅亡時に流出したのです。『尾州家河内本源氏物語』の夢浮橋巻末には、正嘉二年(一二五八)に北条実時が書写した旨の奥書があります。実時といえば鎌倉幕府の武将です。そのために鎌倉で制作されたことがわかり、しかも制作年代がはっきりしていますので、重要文化財に指定されています。鎌倉は武士の都で『源氏物語』とは縁のないものと思っていた私には、この出逢いは衝撃でした。それまでこの奥書から『尾州家河内本源氏物語』の制作者は実時とされていました。が、近年の研究では、実時が書写した正嘉二年の写本の奥書を転載したものとされています。では、ほんとうの制作者は誰か、じつはこれがまだわかっていないのです。この時代の将軍は第六代宗尊親王です。実時は鎌倉幕府と将軍家をつなぐパイプ役の小侍所別当でした。金沢文庫の創設者でもあります。鎌倉の『源氏物語』の写本をめぐる歴史は、華麗で膨大な一大絵巻です。

 

◆第二回 真面目な少年・北条実時

北条実時が父・実泰から小侍所別当の重職を継いだのは十一歳の時でした。それは実泰が突然狂って自害行動を起こしたからです。でも、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にこれはただ病気としか記されていません。けれど、京都の藤原定家の日記『明月記』にそう書かれているのです。なぜ、定家がそんな情報を? は、今まで謎でした。しかし、これは『源氏物語』を間に挟むと簡単に理解できます。定家は「河内本源氏物語」を作った源光行と親しく、後に「青表紙本源氏物語」を作る人です。「河内本源氏物語」と「青表紙本源氏物語」は『源氏物語』の二大写本です。光行の子息が親行で、鎌倉で第四代将軍九条頼経に仕えていました。一緒に仕える武士の中に実泰がいたのです。定家は情報を親行から受け取ったのでしょう。十一歳の少年実時に小侍所別当の重職は無理と御家人達は反対します。それを押し切って就任させたのが第三代執権泰時でした。泰時にとって実泰は弟。実時は甥です。泰時は後嵯峨天皇を即位させた執権です。『尾州家河内本源氏物語』ができた時代の将軍、第六代宗尊親王は後嵯峨天皇の皇子です。その宗尊親王が鎌倉に下向されたのが十一歳。両親から引き離され、たったひとり鎌倉に下った少年の孤独と不安を一番理解したのは、二十九歳になっていた実時だったことでしょう。

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2025.1.10 Twitter(X)から転載…今年は新年早々「華鏡」の原稿に没頭していました。大河「光る君へ」が終わり、もうなんにも影響されることなく書いていけると、ほっと笑

2025年1月1日

あけましておめでとうございます 穏やかな年明けでしたが能登の方々には一年目のお正月 生きていると辛いことが多いですがでも前を見て進みたく思います 一昨年鎌倉の生涯学習センターで講演させて頂いた幹事の方から 受講された方は仙覚に興味を持った方が多かったとお年賀状に 小説の完成をお待

 

ちしていますと書いて頂いて 本当は昨年のうちにお届けでできると思っていたのにできなくて でもこうして待っていて下さる方がいることが嬉しいです 実を言うと年末の片付けで出てきた数多の古い原稿 それは自動筆記的に書いていたから意識の流れに沿っていて それをなんだかいじくり回してやたら

 

削除しまくったのが昨年取りかかっていた華鏡 大晦日の夜 みんなが寝静まってから削除した部分をチェックして 元旦の朝の今日 華鏡に復活させました 意識の流れに沿ったからスムーズに 気持ち的にはたぶん第一部は近々完成しそうになっています

 

こうしてプリントした原稿に日付を記すたびに西暦の数字のもとに戻らない絶対をいつも思う 年末になってくるほど 2024というこの数字を記す日はもう無くなるのだと 絶対に無くなる そしてもう2025 と記しました また一年 今度はこの数字に親しんでいくのでしょう なんか受け止めがたい現実です

 

1月2日

華鏡の原稿は6.平清盛の新都造営・福原京まで進みました 1.心の闇・比企の乱 2.岩代の・万葉集 3.頼朝の岳父・北条時政 4.比企尼の献身・蒲冠者範頼 5.二条天皇と清輔・二条院御本 という並びです 白河天皇のような入れたくても入れたら話が脱線するのは苦渋の決断で無視しつつ復活させたものも

 

1月3日

おはようございます ブログに華鏡「比企尼と蒲冠者」をアップしました 世の中の事象は身分も含めて人間関係で成り立っています 史実的に論証できないものも人間関係を追っていると見えてくることがあります 仙覚自体未だに詳細が不明ですが蒲冠者範頼もです 私が論文でなく小説にこだわる理由です

 

写真は 1,2枚目が埼玉県比企郡吉見町にある範頼館跡の息障院 吉見は比企尼の領地でしたから比企尼が与えたものと思います 3,4枚目が範頼が稚児として入っていた吉見観音 息障院とは地続きです 2010年に訪れました

 

もう六時 原稿を見直していたら朝になってしまいました 添付の画像は過去にもツイートしたユゴーのノートルダムドパリ ユゴーは大聖堂の壁に刻まれた宿命の文字に触発されて小説を書いたそう 寝ようとしたら ふと フランドルへの道を読み返したくなってのツイート 軍馬の雨の描写が浮かんで

 

1月4日

おはようございます 未明にフランドルへの道がなぜ浮かんだかというと これを読んだ時はまだ鎌倉の源氏物語に出逢ってなく 純粋に文学に触れていた時なんですよね それから出逢って慣れない歴史の世界を手探りで進み 鎌倉にも源氏物語のあったことをご存知ない一般市民の方へ普及活動を始めたら

 

学者という方々からの非難めいた視線にさらされすっかり怖気づいて今日まであったのでした 抜けたと思ってもまたぶり返し 華鏡を書いていてもまたいつどう上から目線で指摘されるか気になって 途中から文学を知らない学者さん方のご発言は無視していいと決めたのだけれど これ トラウマですよね

 

歴史家の方はほんとうに文学を知らない 国文の方も古典を扱われるから文学の方かと思っていたけど文学者とは違う だから私は鎌倉ペンクラブに行くと安らぐのだけれど 学者 という方々と知り合ってなかった原点のフランドルへの道はトラウマから抜けたい私の最後のあがきかも

 

華鏡の原稿が順調に進むようになったからの感慨でしょうね 今迄ほんとうに進まなかった

 

1月5日

おはようございます スマホに六年前を振り返るとあって見たら筑波山 コロナ禍直線のお正月でした あれから六年 籠って書いてようやくまとまり始めた華鏡の原稿 長かったけど着実感が充実してきました

 

1月6日

お正月だから過去写真で富士山 河口湖からの眺望です 朝から集中して原稿を見直していました どうしてこんなに気持ちよくできるのだろうと考えて 光る君へが終わったからなんですね 一年間毎週見て感情で引きずられて 月火曜日は皆様の感想ツイートに そんなだったから華鏡が進みませんでした

 

1月7日

発掘して頂いた過去ツイート といってもまだつい先ほどの年末でした 光る君へロスはないと思っていたけれど やはり毎週こうした美しい映像世界を見ていられたのは至福以外のなにものでもありませんでした 終わって世の中的には落ち着いてよかったと思う反面物足りない その分集中できていますが

 

お年賀状にも源氏物語のことだからと光る君へについて何か書いて下さった方がたくさんいらして こういう年はもうないですね 私は鎌倉殿の13人からはじまって光る君へまで 時代が重なるものだから書いていても追われる気持ちでいっぱいのここ数年でした やっとそのしがらみから解き放たれました笑

 

1月8日

おはようございます 写真は鎌倉 四代将軍頼経の邸だった宇都宮辻幕府址 日常が戻ってきました 光る君へのあいだ毎日皆様のコメントを拝見するのが楽しいし勉強になるからTLはお薦めを見ていました なのに今朝眺めていて全然面白くない と考えたら光る君へ関連のツイートが皆無 これではお薦め

 

を見る意味ないしとフォローしている方々のTLに戻したら ああ これが日常だったのだと それで添付も目下書いている華鏡の原稿関連に 仙覚は頼経の命で万葉集に取り組みますが 今はその頼経が二歳で下向して政子に育てられる辺りを書いています なので仙覚に辿り着くまでまだまだ程遠い でも

 

こうして日常が戻ってきたから 気分も鎌倉に戻します 頼経の辺り 書きたいこといっぱいなんですよね

 

1月9日

井の頭公園の春は水仙から・・・

 

井の頭公園はまだ寒々しいけど 煌めく水面が春を感じさせていました

 

予約していたお惣菜を受け取りに暗くなった公園を通ったら 空気が澄んで星空が綺麗でした 針葉樹の森の上に輝く月と星 思わずここはノルウェイ?と 針葉樹の森の上を走るオーロラの写真が流れてくると身慄いするほど嬉しくて魅入ってしまうのですが 針葉樹の森が好きみたい 森は生きている ですね

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2025.1.9 ツイッター(X)から転載…大河「光る君へ」の最終回でのめぐりあひての歌の解釈に触発されて、『紫式部集からの挑発』を読むことに

12月20日

疲れが溜まってなかなか進展ができないのですが 光る君へのめぐりあひての歌の解釈 放送を見ていないのでTLのコメントで知ったのですが従来の女友達宛ではなく道長へと それで私も腑に落ちて 今迄そんな少女じみた歌かなあと思いつつ深く考えたことがなかったので衝撃でした こういう説もあったの

 

でしょうか 明日図書館に行って評釈を借りて来ようと思います でも これ 想う人を失っての歌という解釈は凄い(ほんと 私が知らなかっただけ?) もしこれが和歌指導の高野晴代先生の新説なら 光る君へに登場した歌に関するだけの高野先生のご本を読みたいです

 

めぐりあひての歌 図書館の評釈を待つ前にとネットで検索 新古今集に詞書があり 幼馴染みの女友達と会って別れた時の歌だそう 紫式部自身がそう書いてるのなら道長のような想い人相手ではなくなる 百人一首では詞書がないから相手をどのようにも読み手次第で解釈が可能と

 

12月24日

光る君への集大成 そして丁度自分へのクリスマスプレゼント 今日届きました 『紫式部集からの挑発』 光る君への最終回でめぐりあひての歌の解釈に身慄いして そうだ 私は紫式部集を読んでいなかったと気づきました それで検索してこのご著書を選択 しばらく紫式部に浸って過ごそうと思います

 

12月25日

やっとこちらに集中できるようになりました 『紫式部集からの挑発』 このご本は紫式部集という歌の内容でなく写本のお話で私にはとても既視感ある内容 万葉集で田中大士先生が何本もの論文で逐一解明されて仙覚の寛元四年本万葉集はこれだ! という写本を特定された 紫式部集の写本もそんなふうに

 

解明されていくらしい 実践女子大で紫式部集が研究されているらしいのは知っていましたが『紫式部集大成』としてもうとっくに出ていたのですね 『挑発』は大成を成し遂げられた三人の方々による後日談みたいな本で 大成は近隣の図書館にはないし Amazonで見たら12000円も 見たくても見られないし

 

そこにこの『挑発』を出して頂いて良かった 巻末にお三方の鼎談が載っていて それから読み始めているのですが ほんと 写本の研究はミステリーさながらで楽しいです 考えてみると仙覚も多数の写本を見比べて二条院御本に辿り着いた 紫式部集での写本のお話にはからずも仙覚を思い出させられました

 

12月26日

おはようございます 朝から寸暇を惜しんで『紫式部集からの挑発』を拝読しているのですが 鼎談の中に 公任は紫式部の歌の師かもしれない の文言があって ドキッとしました これは歌の表現法からの推測でいられますが 系図的に私はありうると思って

 

公任が紫式部の歌の師だったかもしれない件 公任と具平親王は二歳違いの従兄弟同士 具平親王は紫式部より九歳上だけど式部の初恋の人かもとされる ならば公任も紫式部より七歳上だから式部の初恋の人かもしれないと考えるのはあり得る? 千種殿のサロンで式部は二人に会っていたはず

 

光る君へで言ったら まひろとF4の一人の公任 道長もF4の一人だから年齢的におかしくはないんですね

 

今迄公任は最初に調べた時のウィキに載っている古風な絵の年配の人物のイメージしかなく 光る君へで町田啓太さんが演じられても あれはドラマだから みたいに信じてなくウィキのイメージのままだったから 突然浮上した恋愛対象の可能性にまだ違和感しきりです

 

12月31日

華鏡 とても長い間書き散らしているから忘れて葬り去っている原稿が多々 年末の片付けで こんなのがあった と驚くこと数多 で 目下書き進めている華鏡に照らし合わせるとこの華鏡がそういうのを全部削ぎ捨ててストイックになっているのがわかりました いつから なぜ そうなってしまったのか

 

考えても思い出せないのだけれど 書いたことは記憶にあるから光る君へを見ていてもその奥の諸々のことが察せられて深かった 削ぎ落としたこれらをまた復活させるか 今から考えます 写真は2011年の原稿 今から13年前 こんなに華鏡に取り組んでいるのですね 他の方ならとっくに上梓されている

 

でも やっと そういうのの全てが整ってまとまっていく気配がします

 

スッキリわかりやすくしなければ みたいな現代風文章の規約に縛られてストイックになっていることは確か 紫式部の原文は時代が違うとはいえスッキリわかりやすい文章ではないから私はそれが好きで追っているのだけれど と悩む いっそわかりにくくなっても白河天皇を入れてしまうとか……

 

こう見ると 文化ってほんと蓄積なんですよね 全部繫がっている 鎌倉の人には(武士文化では)それがわからない でも仙覚にはわかっていたと思う 白河天皇は六条藤家に繋がる路線 やはり書くしかない? 入れようかな

 

北国の方々に申し訳ないくらいに穏やかな大晦日 買物ついでに公園を一周してきました 涸れていたお茶の水に湧水が復活していたり 赤い椿が咲いていたり 多忙だったここ数日の気分もすっきり 今年はとても沢山の方にXもブログも見て頂きありがとうございました よいお年をお迎え下さいますよう

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