2月5日
おはようございます 昨夜美しい書物と呟いて それが頭から離れなくなっているのですが 三島由紀夫の春の雪 本当に美しいと思うのだけど今朝気がついたのはあれは男性主観の側の書物だったと 今迄こういう分類で文学を見たことがなかったのにも気がつきました 私は終末の聡子の悟りが好きで物凄く
わかるのだけれど 男性作家があれを書けたことに敬服していました 他の作家さん方の女性の書き方と一線を画して凄いです で 思ったのは聡子の視点であれを書いたらどうなのだろうと それも今迄無かった文学かもですね ただ私はそれこそ私が書きたい文学なのだということは今朝確認しました
で ふと ポルトガル文 はどうだったかしら と思い出したのですが 日本文学でいうと建礼門院右京大夫集でしょうか
ほんとうにこういう文学的心の志向から離れていて久しいと痛感 こういうことを呟いているだけで心が耕せる それにしても私は書物の語が好きだなあと改めて思いました マラルメの理想の書物からはじまった源氏物語の写本研究 私にとっての理想の書物との出逢いでした
野生のアイリスを読み終えて 思いがけずアルゴールの城にてを読みたくなったのは 家族がルイーズ・グリュック氏をグラックと勘違いしてアルゴールの城の人? と言ったので思い出したのでした グラック かつてどれほど読んだでしょう シルトの岸辺が大好きでした 半島も何回読み返したか
アルゴールの城にてはグラックの最初の作品でシルトの岸辺のようには整然とした小説技法になっていず 特異なシュルレアリスムそのものの手法で書かれているから 当時の私には難しく 私には一心同体のように寄り添ってくださった文学の先輩が夢中になってらした その方が昨年逝去されて私は虚しいの
だけれど 今ここでアルゴールの城にてを思い出させられたのは天から見守ってくださっている彼女の意志 のように感じられて本棚から出してきました こんなにも文学は深い 鎌倉の源氏物語で遠のいていた十年間の蓄積の皆無を埋めるのは大変だけど 感覚は取り戻しつつあります
眠くなったのでもうやめますが アルゴールの城にて するする読める 前に読んだ時はどうだったかしらと思うけど思い出せない でも文学の先輩が先にあまりにも心酔されてしまって それで私は引いてしまったのでした 前にも書いたけど 文章には意味を理解しないと進まない文章と 意味に関係なく
運ばれる文章があり 今ならこのアルゴールの城にてを意味に捉われて中断しようとせずに進められる この快感 この流れるような文体の文章に飢えていたのでした(といっても 意味を理解していないわけでなく するするという感覚の中で書かれていることの描写が映像化されています)
2月6日
おはようございます スマホのあれから6年というストーリーに流れて来たクロッカス @井の頭公園です コロナ禍に入って行かなくなり でも昨日野生のアイリスで思い出して また行こう と思ったところでした 同じ2月6日 咲いているでしょうか
野生のアイリスは不思議な詩集でした 思いというものが終始ずっと伝わってくる 詩に作者の思いを感じたことはなかったし 詩はそういった生身の感情とは別次元という感覚がありましたので 読後も白いドレスの女性が台地に膝まづいて祈りを捧げている映像がずっと心に残っている 不思議な感覚です
Twitterは流れてくる写真が好きで 特に欧州の修道院が好きで見ていて エーコの小説の森散策で紹介されたネルヴァルのシルヴィを読んだら修道院がリアルに映像化されて浮かんだ 今またアルゴールの城にてを読んでいて古城の円塔が出てきて これもリアルに眼に浮かぶ Twitter効果です
2月7日
おはようございます 写真は昨日スマホのストーリーに流れてきたクロッカスの群生 紅梅の根元に咲いていました アルゴールの城にてを拝読中ですが 字面がこういう作品に出逢いたかったのだ!というくらい探していた書物とぴったり これにならって華鏡を書き換えようかと
まだ冒頭の章しか読めていないのですが えんえんと地学の教師だったグラックの語彙的知識が詰め込まれて それを知らないと楽しめない文章 かつて私はだから魅力がわからなかったんですね それにしても主人公がアルゴールの城に辿り着くまでのえんえんたる描写 薔薇の名前を思い出したり 光源氏の
伊勢にくだる六条御息所を訪ねる野宮の描写がほうふつされたり 私は目的地に辿り着くまでの描写を好きなようです笑(薔薇の名前はそこだけ好きで 本文の内容に入ったら あれ? 文体が違う なんて)
RPさせて頂いた物語における話法と構造 『語りと主観性 物語における話法と構造を考える』 阿部宏編 読んでみたいと思うのは私が今アルゴールの城にてでそれを考えているところだから でも私の中では決着がついていて もう私は作品だけを読むと決めたところなので もっと早く巡り会いたかったなあと アルゴールの話法 不思議なんですがとても心地いいです
アルゴールの城にては三人称の話法なのだけれど 近代小説の三人称のような上から目線で登場人物を駒のように動かすのでなく 語っている話者という存在があって その話者の思いがずうっと底流しているから 私はその思いに浸って運ばれている感じで読んでいる これは不思議な文体で これこそ私が求
めていた書き方で 客観的に誰かを書きながら登場人物とは関係のない「思い」を持つ別の存在がある シルビィの分析にもこういうのあったかもだけれど 実質遭遇して読むのは初めての気がするし とにかくなんかまだよくわからないけれど アルゴールの城にての文章に私が倣いたいものがある とメモ
ふと私はシュルレアリスムを知らないと気づきウィキで検索しました アルゴールの城にてがシュルレアリスムの帰結と訳者の方があとがきで書かれているからです ブルトンのシュルレアリスム宣言とか話には聞いていたけど実際にどういうものか考えたことがなかったので 「口頭記述その他のあらゆる方法
によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」がシュルレアリスムだそうです 「無意識の探求・表出による」ともあります
改めて訳者あとがきを繰ったら 「グラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。と言うよりも、この書法そのものが作品の真の主題になっているのだから、もはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレベルで
見当さるべきものとなっているのではあるまいか」 私が感じたアルゴールの城にての三人称なのに別人格の存在があるというのはこれだったんですね 作者グラックの「無意識」の存在 これが話者となって物語を進行させている 今更シュルレアリスム? な気もしますが私には衝撃でした
2月8日
おはようございます 写真は2015年2月5日の寿福寺さま特別拝観の日にての白梅 一輪だけ咲いていました コロナ禍で籠って脚を痛めて鎌倉がとても遠のきましたが その分専念してるから華鏡の原稿に深みが出て 今度はシュルレアリスムにまで辿り着いて 華鏡 いったいどうなっていくのでしょうね笑
当日の寿福寺さまの写真を 一枚目は参道 二枚目は特別拝観の日でも中に入れていただけない空間 建長寺さまと同じ柏槇の古木が眼にとまりました
2月9日
シュルレアリスムをなぜ知らなかったかを考えていてウィキでフランス文学史を辿ってみました 私はある方にあなたはフランス文学史を知っておいた方がいいから僕が知っている範囲で伝授してあげると 毎週一作ずつ 例えば来週写実主義をするからバルザックの谷間の百合を読みなさい というふうに
学ばせて頂いて それが都合で終了した最後が象徴主義のランボーでした それから平岡篤頼先生の小説の講座を受講して学んだのがヌーボー・ロマン ウィキで見た文学史で明解になったのですが シュルレアリスムはちょうどその象徴主義とヌーボー・ロマンの中間なんですね 抜けていたわけでした
平岡篤頼先生がヌーボー・ロマンの騎手クロード・シモンの翻訳者でいられたから 私の小説作法の原点はシモン とばかり思っていて シモンによる自動筆記の文体 とばかり思っていたけど 今アルゴールの城にてを拝読していると自動筆記はこちらだという気分 さらなる原点なのでしょうか
アルゴールの城にてこそ私が探し求めていた文体という気がしています 三人称で綴られているのに登場人物ではないもう一人の別の存在がいる それが話者で話者の無意識が文章の流れを作っていくという文体 華鏡を書いていて薔薇の名前に倣って冒頭を話者となる人物の手記にしたのですが 以下の段落の
それぞれの登場人物の書き方に悩んでいました 手記の話者が北条時政を比企尼を語る事になるわけですが それを単なる三人称で書いていて味気ないし何か言い足りない でもその言い足りないところを埋めようとすると普通の三人称小説に突然別人格の主張が飛び出す そういう矛盾の解決が話者の無意識に
あるのならとても書きやすそう 何か光が見えてきた気がします シュルレアリスムというと絵画のシュールのイメージと混同して崩れた時計のようなものを思ってしまっていましたが全く違う世界でした 主人公のアルベールは「彼の精神がまず最初に打ち込んだのは、何よりも哲学上の探究」だったのです