『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました。
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2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
2025.2.10 第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】
2025.2.11 第五章【第五代執権北条時頼へ】
2025.2.12 第六章【第五代執権北条時頼と道元】
2025.2.15 第七章【第五代執権北条時頼と蘭渓道隆】
『北条時頼と源氏物語』
第八章 第五代将軍頼嗣と北条時頼
建長寺が創建された年の前年、建長四年(一二五二)四月に、後嵯峨院皇子宗尊親王が第六代将軍になるべく鎌倉に到着されました。十一歳でした。鎌倉幕府悲願の皇族将軍がようやくここに叶ったのです。
第三代将軍実朝が暗殺された後、政子をはじめとする幕府は後鳥羽院皇子の下向を望みますが受け入れられませんでした。代わりに下られたのが九条家出身の頼経でした。道家の息、すなわち摂家将軍です。頼経は第四代将軍となり、子息頼嗣が第五代将軍となります。
ここから話が遡ります。というのも、頼嗣が京に送還されることになったから、皇族将軍宗尊親王が実現したのです。では、なぜ、頼嗣は送還されたか。その原因は遠く頼嗣が頼経から将軍職を引き継いだその時すでにはじまっていました。いえ、もっと遠く、仁治三年(一二四二)正月の四条天皇崩御の時から。
仁治三年というこの年、経時は十九歳、時頼は十六歳です。執権は第三代泰時でした。四条天皇崩御が十二歳というまだ皇子のいない少年だったために、次の帝をどなたにするか、鎌倉幕府と京の公家方たちとのあいだで意見が分かれます。
道家をはじめとする公家方は順徳院皇子の忠成王を望みますが、幕府は承久の乱に加担した順徳院の皇子だけは避けたい意志をもっていました。それで決定したのが、同じく後鳥羽院皇子でありながら、順徳院のようには乱に加担しなかった土御門院の皇子でした。
後嵯峨天皇の誕生です。ですから後嵯峨天皇は幕府に恩を感じておられ、皇子の将軍下向を望まれた時、後鳥羽院のようには拒否されず、幕府の意向に添って宗尊親王の下向を許されたのでした。
道家は四条天皇の外祖父、すなわち天皇の外戚で朝廷の最大実力者でした。後嵯峨天皇の即位はすなわち道家の朝廷における権力の失墜となり、この時から鎌倉幕府との表には出ないながらも陰陰滅滅とした対立、守備攻防戦がはじまります。
鎌倉では、はからずも朝廷の天皇を決定したことの重圧に耐えかね、心労の積もった泰時が病に伏して、五月に亡くなります。翌日すぐに経時が第四代執権に就任しました。その経時のとった強硬策が、将軍の交代劇。頼経を廃し、六歳の子息頼嗣を将軍にしたことでした。頼経の将軍としての力が増大し、無視できなくなってきたことへの対処です。
頼経の周辺には、初代執権時政の後継者を自負する反執権派の名越北条氏がいました。そして黒幕として京から指令を送る道家がいました。道家は、名越北条氏を執権とすることで、鎌倉幕府を掌中に収めようと企てていました。
頼経は天福二年(一二三四)に正室竹御所を失ったあと、藤原親能娘と結婚し頼嗣をもうけています。上洛した歴仁元年(一二三八)には伴っているようすはありませんから、結婚はその後でしょう。頼嗣の年齢から推して下向直後……。
というか、頼経は京で公卿藤原親能の娘と結婚して一緒に鎌倉に帰ったとみるべきなのでしょう。姉に坊門信清長男の忠信に嫁いだ女性がいて、忠信は実朝室の信子の兄という係累の方です。つまり、義兄の妹が実朝室という女性です。
頼経の再婚のお相手は京の女性だったのです。大宮局と呼ばれています。ということは、宮廷に出仕していた女性でしょうか。
後嵯峨天皇中宮が大宮院です。後深草天皇や亀山天皇の母君です。もっとも頼経が上洛した年は四条天皇の時代で、大宮院どころか後嵯峨天皇もまだ即位されてませんが、姉に宜秋門院大宮局という方がいられます。
もともと北条氏に両親を殺された竹御所を正室にした頼経です。竹御所から北条氏に対する復讐の念のような思いを告げられていた頼経に、執権家に対してよくない思いが巣くっていて当然です。それに乗じて道家のそそのかし。そして名越北条氏の取り巻き。
二十七歳になっている頼経は、もう三寅として二歳で鎌倉に下向してきた幼い頼経とは別人です。さらに傍らには京の女性……。しかも公卿の娘で誇り高き宮廷出仕の経験者……。頼経を巡る環境が手にとるようです。
寛元二年(一二四四)、頼嗣は将軍に就任します。が、頼経は将軍を辞したあとも頼嗣の背後で院政のような力をもって、大殿として鎌倉に君臨しつづけます。そのために、頼経に対して次にとった経時の強硬策が、頼嗣と妹檜皮姫との結婚でした。竹御所の死去で切れていた将軍家との外戚の縁を、経時は取り戻そうとしたのです。
寛元三年(一二四五)、頼嗣は檜皮姫と結婚します。頼嗣は七歳、檜皮姫は十六歳でした。
このあたり、頼経が十三歳で二十八歳の竹御所と結婚したこととオーバーラップしますが、事情は違います。頼経と竹御所は北条氏のなかで人質のようにして育った二人が、互いの孤独を労わり合っての心と心の繋がった結婚でした。頼嗣にそうした事情はみられませんから、二人の結婚生活はどうだったのでしょう。
父時氏が六波羅探題の任を終えて鎌倉に帰る時、檜皮姫はまだ生まれてなく、松下禅尼のお腹のなかでした。鎌倉に着いて生まれたのですが、その時にはもう時氏は病に伏しており、生前に檜皮姫の顔を見たかどうかわからないといいます。
その檜皮姫が成長して将軍の正室になったのでした。
檜皮姫はどこに住んでいたのでしょう。
秋山哲雄氏「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」によると、執権になった経時は、鶴岡八幡宮の門前、若宮大路の東、小町大路の西という泰時邸の北半分を継承し、時頼は小町大路をはさんで経時邸の東に隣接する、現在の宝戒寺あたりに住んでいたそうです。
高橋慎一朗氏によると、これは、時頼がゆくゆくは連署として経時を支えることを期待されている証の位置関係だそうです。
未婚の檜皮姫が母松下禅尼とともに暮していたとしたら、それは甘縄。丹後内侍に会いに頼朝がお忍びで訪れた邸であり、松下禅尼が祖母丹後内侍に憧れ思いを馳せて少女時代を過ごした邸です。そこで檜皮姫も育ったとしたら、檜皮姫もまた松下禅尼のように丹後内侍を慕い、さらに竹御所の話題も耳にしたでしょう。
おそらく檜皮姫は情愛こまやかな女性だったことでしょう。なにしろ上東門院を慕って仏教に深く帰依し、『徒然草』に質素で聡明な女性と描かれる松下禅尼の娘です。だとしたら、竹御所にならって、年の差はあれども頼嗣と仲良く、頼嗣のためによかれと思うことをして差し上げられるいい夫婦になろうと覚悟して嫁いだと思います。
決して、『源氏物語』にみる葵の上のようではなかったと思います。そういえば、檜皮姫も松下禅尼に教えられて上東門院に憧れを持ったかもしれないし、『源氏物語』を愛読したかもしれません。将軍の正室になるということは、檜皮姫もまた松下禅尼と同じに、他と共有することのない孤高の立場を引き受けるわけですから。
松下禅尼は自身が六波羅探題時代に得た教養と経験を生かして、娘のためによかれと思って、渾身の思いを込めて、将軍の正室となる檜皮姫に伝えるべきものを伝えようとしたと思います。
そのあたり、想像すると、甘縄の邸宅で、檜皮姫に『源氏物語』を教材に母が娘に上東門院の教えを諭す、ちょうど国宝「源氏物語絵巻」の浮舟巻にみるような光景が繰り広げられたかもしれません。
檜皮姫の婚姻は『吾妻鏡』にこう記されます。
七月二十六日、戊午。晴れ。今夜、武州(経時)の御妹(檜皮姫という。年は十六歳)
が将軍家(頼嗣)の御台所として御所に入られた。(中略)。これは正式の儀を
とらず、密儀としてまず参られ、追って披露の儀を行うという。
今日は天地相去日である。先例があるとはいえ、全く感心しないと非難する者がいたが、
容れられず、(婚儀を)行われたという。
なにか不穏な感じのする記述です。北条氏が将軍家の外戚になるための婚姻ならばもっと晴々しく堂々としたお披露目をすればいいのにと思うのは、当時の婚姻の風習を知らない現代人の感覚でしょうか。
その後、『吾妻鏡』に頼嗣と檜皮姫が夫婦として二人並んで登場する場面はありません。竹御所が頼経の牛車に同乗して永福寺に行ったなど、仲睦まじい記述が随所にみられるのと対照的です。
これは、頼経と頼嗣とでは条件が違うから当然といえば当然なのかもしれません。頼経の場合は、二歳で両親から引き離されて鎌倉にきたという天涯孤独な環境。そして、十三歳というある意味大人の仲間入りできる年齢に達していました。けれど、頼嗣には大宮局がついていて、しかも七歳。母離れ子離れができていなくて当然の状況です。
そして、『吾妻鏡』に次のような記述が生まれます。寛元三年(一二四五)九月九日の条で、檜皮姫が嫁いで一ヵ月半ほどたってのことです。
将軍家(頼嗣)の御病気について、心を込めた祈祷の功験によって快復されると、
御母儀の二品(大宮局)が夢想した。そこで頼嗣は、病床で大納言法印(隆弁)
が修する行法の壇の際まで進み、二拝された。
頼嗣が病気になったのは八月。檜皮姫が御所に入ってまだ一か月とたっていない頃です。病気は邪気でした。結婚が少年頼嗣には気苦労だったのでしょうか。母親と離された上に、知らない大人の女性が入ってきたのが怖かったのでしょうか。
この時、頼嗣と大宮局は同じ御所に暮してはいません。檜皮姫との婚姻に際し、その二か月前の五月に、頼経は頼嗣に御所を譲り他所に移っています。ですから頼嗣が病気になった時、側にいたのは檜皮姫のはずです。
が、病気が長引き、大宮局が看病に移ってきていたのでしょうか。それとも、幼い頼嗣のために頼経だけが他所に移って、大宮局は残っていたのでしょうか。
そして、この記述ですが、「心を込めた祈祷の功験によって」の箇所に、「来たばかりの檜皮姫に任せておけない。母親の私でなければ無理」の大宮局の矜持、御所のなかでの存在感を感じてしまうのは私の思い過ごしでしょうか。
その後も頼嗣と檜皮姫の仲がよかったと感じさせる記述はありません。
そのうちに、翌年の寛元四年二月に檜皮姫は病気になり、その時は快復したようですが、翌宝治元年(一二四七)四月、再び病に伏し、五月に亡くなります。十八歳でした。
思うのですが、大宮局は頼嗣を囲い込んで、意図的に檜皮姫から離していたのではないでしょうか。
これは単に息子を奪われたくないという嫁姑の問題ではありません。
思い出して下さい。大宮局は京の女性です。父親は道家と近しい公卿。鎌倉に下るにあたり、父親から道家の倒幕計画を知らされていたかもしれません。その一端を担ぐよう言われていたかもしれません。さらに、自身も宮廷に仕えた女房出身。一筋縄でいく女性ではありません。さらに、竹御所から反北条氏を吹き込まれた頼経と結婚して、自身もまた反北条氏に凝り固まっている女性とみていいでしょう。
檜皮姫はその北条氏なのです。大宮局が快く受け入れるわけがありません。松下禅尼から将軍の正室としての心構えを教育され、将軍家と北条氏のかけ橋となるべく覚悟してきた檜皮姫に、これは相当応えたに違いありません。その結果が、病。『吾妻鏡』には「御邪気」と記されます。
時頼の心配も伝わっていて「左親衛(時頼)は特に嘆いているという」と記されています。『吾妻鏡』にこういう個人的感情のみえる記述は珍しく、私には頼朝が丹後内侍を心配して見舞ったのと重なって見えてしまいます。
泰時は頼朝の時代を規範にしたそうですから、あるいは『吾妻鏡』の編纂にもその意識が表れ、時頼を頼朝化する潜在的な意図がはたらいたのでしょうか。
それにしてもここにおける「嘆く」は尋常ではありません。心配を通り越し、すでに手遅れの感があります。状態がかなり緊迫していたのでしょう。
松下禅尼のことは記されていませんが、母として看護に付き添うことを許されたでしょうか。それとも将軍の御台所として将軍家で看病しますからと、御所に入ることも拒絶されていたでしょうか。松下禅尼の心配、苦悩は如何ばかりだったでしょう。
檜皮姫の「御邪気」は現代でいう鬱病ではないでしょうか。身心共に疲れ果てての精神障害でしょう。これは真面目で責任感の強い人ほどかかる病だそうです。重度の鬱病は生命の危険に至ります。
松下禅尼の娘に育って比企氏あるいは安達氏特有の生真面目な性質を継ぎ、将軍の正室として将軍家に入った檜皮姫の前に立ちはだかった大宮局という壁は、乗り越えるにはあまりに強大過ぎました。
が、時頼と松下禅尼にはもう一つの悲劇が同時進行で起きていました。経時です。
じつは、寛元四年二月の檜皮姫の最初の病気の直後、三月に経時も病に伏し、危篤に陥っているのです。幕府の内部で深秘の沙汰が開かれ、時頼が第五代執権になりました。そして四月、経時が亡くなります。
そこに名越光時らの謀叛が発覚し、七月の宮騒動にまで発展。中心にいた頼経が京に送還されました。
将軍頼嗣は、母大宮局とともに鎌倉に残りました。
頼経の送還は、京の道家をパニックに陥れます。道家は頼経らの陰謀に自分は関与していないとの起請文を書きますが時頼は許さず、道家の関東申次を更迭、その時道家の権力は失墜、終焉をみたようにみえたのでした。
というのは、のちに再び道家の黒幕的存在が浮かび上がってくるのです。
が、ともかくこれら一連の事件のあと、時頼は幼い将軍頼嗣をたてて、新たな鎌倉幕府の政治を行おうと誠実な行動にでます。頼嗣のために酒宴を催したり、笠懸を行ったりするのです。
高橋慎一朗氏は『北条時頼』にこう書かれます。
時頼は、将軍頼嗣を頂点にいただき有力御家人と北条得宗家で支えていくという
幕府のあるべき姿を、儀礼の面でも人々に示そうとしたのである。
この時の御所ですが、頼嗣には正室檜皮姫がいて、大宮局がついていました。頼経を京に送還させられた大宮局は、時頼の強権に震撼したでしょうか。それとも逆に北条氏へのさらなる恨みを募らせ、ふつふつと怒りをたぎらせたでしょうか。
檜皮姫に対して、それはどのような影響となって出たでしょうか。『吾妻鏡』にそれは書かれていませんが、翌宝治元年四月に檜皮姫は重度の鬱病に陥り、回復することなく五月に亡くなったのでした。佐々目谷の経時の墳墓の側に葬られたといいます。
北条氏では二年続けての佐々目谷への埋葬です。そこには痛恨の思いに打ちひしがれ茫然自失の思いで檜皮姫の弔いに臨む時頼と松下禅尼の姿があったことでしょう。
そして六月、宝治合戦が起きます。
これはひと言でいって、時頼の外戚としての権威を確立したいがために安達氏が起した合戦です。時頼は安達氏の意向を汲み取りながらも、頼朝の幕府創設以来の家臣三浦氏をを討つのは極力避けたく思っていました。
が、三浦氏は頼経を支持する反時頼派です。安達氏の深慮遠望的な行動ではじまってしまった合戦では時頼も回避し切れず、三浦氏を滅ぼしたのが宝治合戦です。
その後、時頼は「いよいよ本格的な政権運営を新たにスタートさせる」ことになり、寄合を開いて決議したのが、「公家のことを特に尊重するように」でした。
これは、時頼を語るのに重要なことと思います。私はこれが鎌倉武士でありながらの時頼の本質と思います。どうして剛腕政治家とか、そのような面ばかりが強調され、大事なこのことが伝わっていないのか不思議です。
六波羅で生まれ育った時頼には、京の文化、京の存在自体が、日本の根幹ということが理解されているのです。時頼は二十一歳になっています。
宝治二年(一二四八)五月、長男の時輔が生まれます。母は讃岐局という将軍家に仕えた女性です。讃岐局は檜皮姫の悲劇をどう見守っていたのでしょう。あるいは、時頼は讃岐局から御所のなかでの話を具体的に聴いていたからこそ「嘆いた」のかもしれません。讃岐局が味方になって檜皮姫を支えて差し上げていたのだとしたら少し救われます。
建長元年(一二四九)の末ごろ、時頼は北条重時の娘と結婚。正妻で、時宗の母となる女性です。この年に建長寺の建立がはじまっています。
建長二年(一二五〇)ころのことを、高橋慎一朗氏は『北条時頼』にこう書かれます。
時頼は、十二歳となった将軍頼嗣の教育にも心を配っていた。頼嗣の母は鎌倉に
残っていたものの、父頼経は京都へ追放されており、妻の檜皮姫も病死していた。
頼嗣の義兄にあたる時頼は、数少ない親族としても頼嗣の成長を見守る立場に
あったのである。
二月二十六日、時頼は頼嗣に手紙を送って、文武の稽古に励むようすすめると
ともに、学問の師として中原師連・清原教隆を、弓馬の師として安達義景・小山長村・
三浦光盛・武田信光・三浦盛時を御所に待機させて、常に教えを受けるように、
と助言した。
五月二十日には、頼嗣が、中国の帝王学の教科書として名高い『帝範』の勉強会を
開き、学問に通じている清原教隆や時頼が参加した。これは、時頼の勉学のすすめに
頼嗣が応えたものである。すると今度は時頼が二十七日に、著名な中国の治世の書
『貞観政要』を書写させたものを、頼嗣に進呈している。次はこれを勉強なさい、
ということであろう。
ここにはなんと麗しい光景が描かれていることでしょう。
頼嗣は父を送還し、京の祖父までも権威を失墜させた時頼を恨むことなく、素直に時頼の勉学の薦めに従っているのです。大宮局の他に頼る人物のいない頼嗣には、事件があったとはいえ、その後の対処に誠実な行動をみせる時頼を第二の父として信頼していたのでしょうか。
複雑怪奇な両親頼経や大宮局に育てられ、歴史に翻弄されながら、案外頼嗣は素直な少年に育っています。気が弱い大人しい性格なのかもしれません。この頃に檜皮姫が嫁いでいたら、あるいは竹御所と頼経のように上手くいったかもしれません。
けれど、そういう平和は長く続きません。
と、ようやく冒頭で遡った歴史から、宗尊親王の鎌倉下向直前の時代に戻ってきました。
建長三年(一二五一)五月、産所となった松下禅尼の甘縄の邸宅で時宗が誕生します。長男時輔がすでに生まれていますが、正妻重時娘から生まれた時宗は、母が懐妊したその時からすでに時頼の後継者になる運命に定まっていました。
この年の十二月に事件は起きます。
といっても、それは水面下で起きていて、表立っての『吾妻鏡』の記事はありません。村井章介先生をはじめとする方々が、記事から背後関係を読み解かれての事件です。
それに道家が関連してきます。まず、唐突に、足利泰氏が出家します。それから、千葉氏出身の了行という僧が謀叛の疑いで捕らえられました。千葉氏は、宝治合戦で三浦氏とともに敗者となった一族です。この二つを繋いで事件を推測されたのが村井章介先生です。
了行は九条家の大御堂の僧で、九条家には送還されて京に戻っていた頼経がいます。了行は九条家の勧進という隠れ蓑で、謀叛の同志を集めて回っていたのです。
つまり、黒幕に道家・頼経親子がいて、寛元・宝治の政変で敗残者となった者たちを集めて頼経を将軍に戻し、執権を足利泰氏につけようとした謀叛が企てられていたのです。
この情報を時頼は早くから得ていて慎重に事を進め、泰氏には内々でばれていることを知らせて出家に追い込み、足利氏の立場を守ったのでした。なので、この後も泰氏を除く足利氏は何事もなかったように安泰です。このあたり、ぎりぎりのところまで宝治合戦の火蓋を切るのをためらった時頼の穏便主義がよくでています。
時頼という人は、よくよく周囲の人の立場をよかれと思って配慮する人のようです。
が、こと道家に関しては、この時時頼にも限界が訪れます。時頼は、「頼嗣を将軍にふさわしい人物に育成しようと必死に努力してきていたが、頼嗣が将軍の地位にあるかぎり父親頼経の政治的影響力を排除できないことがわかり、ついに見切りをつけた」のでした。
建長四年(一二五二)二月、時頼は動きます。
二月二十日、二階堂行方と武藤景頼が、鎌倉から京都へ向かった。これは、「現将軍
頼嗣を解任し、後嵯峨上皇の皇子の一宮(宗尊親王)か三宮(のちの亀山天皇)の
どちらかを、新たな将軍として下向させてほしい」と、時頼と重時が上皇に申請する
ための使者であった。申請の手紙は時頼みずからが書いて署名し、重時のみが署名に
加わったもので、他の者は一切知らされていなかったという。極秘中の極秘事項を、
時頼がほぼ独断で決行したのである。(『現代語訳 吾妻鏡』)
奇しくもその翌日、京で道家が亡くなり、これで九条家による執権家との攻防は幕を降ろしたのでした。死因は謀叛が失敗したことの衝撃によると推測されています。
時頼の要請を受けて朝廷では一宮と三宮のどちらにするか討議しますが決まらず、幕府に決定を委ねます。そして、時頼と重時によって十一歳の宗尊親王の下向が決定したのでした。
三月、朝廷で宗尊親王の下向が正式に決まります。十九日にはもう京を発って鎌倉に向かったのでした。この間の状況を頼嗣はどこまで理解していたでしょう。時頼が極秘に京に使者を送ったのは知っていたでしょうか。
おそらく、了行逮捕の時から、運命の転回、時頼をはじめとするおのれの立場への翻意は予期したでしょう。宗尊親王の下向が決まるよりも前に、頼嗣は将軍職を追われることを察知していたことでしょう。
それがどれほど受け入れ難い過酷なことか、その立場になったことのない人間にわかるはずはありません。一時は怒り狂い取り乱したかもしれません。でも、どう理不尽を訴えても、どう弁明してもあがいても、一旦狂ってしまった人生の歯車は戻しようがないのです。
それがわかって、最後には大人しい少年頼嗣に戻り、不安や人間不審に陥ることも止め、自身の運命を静かに受け入れる覚悟ができたと思いたいです。
おそらく大宮局はそうはならなかったでしょう。
宗尊親王が京を発ったのとほぼ同じ頃の二十一日に頼嗣は御所を出て、一旦北条時盛の佐助の邸宅に移ります。
四月一日、宗尊親王が鎌倉に到着し、時頼邸に入りました。しばらくはここの寝殿が将軍御所になり、連日宴会が催されます。
その華やかさを尻目に、三日、頼嗣は鎌倉を発って京へ向かう旅路につきました。『吾妻鏡』にはこう記されます。
今日、前将軍(頼嗣)と若君御前、御母の二位殿らが上洛された。そうしたところ、
先月二十一日(御所を出られた)も今日も重復の日であり、まことに憚りがあると、
陰陽道が申したが御許容にはならず、とうとう出発されたという。
この報らせを松下禅尼はどう受け止めて聞いたでしょう。
頼嗣出立の場所には檜皮姫の霊がそっと見送っていたでしょうか。
頼嗣は十四歳になっていました。歴史に翻弄されることしかなかった頼嗣の将軍としての時代はこうして終わりました。
四年後の康元元年(一二五六)八月、赤痢を患って頼経が亡くなり、翌月、同じく赤痢で頼嗣が短い生涯を閉じました。十八歳でした。
《参考文献》
高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館
村井章介『北条時宗と蒙古襲来』日本放送出版協会
現代語訳『吾妻鏡11 将軍と執権』吉川弘文館
現代語訳『吾妻鏡12 宝治合戦』吉川弘文館
現代語訳『吾妻鏡13 親王将軍』吉川弘文館