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2025.2.28 Twitter(X)から転載……ベルトリッチ監督「暗殺の森」を観てドミニク・サンダさんに魅せられ、華鏡の執筆に奮い立たせられました

2月26日

暗殺の森は環境的に自分の時間がとれない時期だったから観てなくて 今日やっと観たのですが 日本映画とのというか日本文学とかそういう和と洋の違いをずっと考えていて さっき壮大な世界観の語が浮かんでなにかわかった気が 和の作品にはそれがないんですよね 家族とか恋愛とか友情など個人が主体

 

それがいいか悪いかは別として私はそれを抜け出したくて 華鏡がそうなるのが嫌でもがいていたのでした だから今日の暗殺の森もその視点で考えて 和の作品に足りないのは政治? と思ったりしてアルゴールの城にてを思い出し そうっか哲学的思考だと 華鏡も旧稿ではそれを書いてなくて というより

 

そういうことを書いてはいけないみたいな潜在的プレッシャーがあって それで仙覚の歴史という主題を歴史の方々にも読みやすいよう一般の小説の形態で書き進めていたのでした つまり 私は 自分の書きたいことを書いてなかった! そんな事がやっとわかりました 華鏡は自由に書きます

 

それと 暗殺の森で今日考えたのは 私がなぜ暗殺の森を観たかったかはドミニク・サンダのダンスシーンの華麗な写真でだったから 観てあのシーンが映画の中ではあそこだけが特別で意味的には重要ではなかったこと これは考えさせられました 華鏡は映像でないからあえてそういうシーンを作る必要は

 

ないけど 旧稿がもし映像化されるとしてああいうシーンが浮かぶような魅力ある書き方をしてるかといったら 否 です おもねるのでなく美を感じさせる小説にしたい 心からそう思いました 源氏物語の写本についての小説だからなおさら

 

でも 比企の乱とかそういう殺伐した鎌倉の武士の世界を書いていたのだから 美的 に書けなくても無理なかった と やっとそう思えました 今 突然に やっと

 

まだ暗殺の森にこだわっているのですが ただ観たいというだけで何も調べずに観て映像というか撮り方の美しさに惹かれました 観た後ウィキを読んだらベルトリッチ監督29歳の作品と この映画の美しさで撮影監督がコッポラの地獄の黙示録に採用されたと 撮り方に既視感あったのはそういうことでした

 

2月27日

ブログを更新しました

2025.2.27 Twitter(X)から転載……『華鏡』に戻って気持ちが楽になりました。それで梅林を散策したり、登場人物の一覧表をつくったり、のんびり過ごしています

 

白い椿 蕾がたくさんついていたので切って飾っていたら開きはじめて 今朝はこんなに 白い椿は清楚でいいですね

 

書きたいように書く 華があるような書き方をする が根幹に据えられたら書きたい衝動が蘇って 華鏡で一番華がある女性といったら竹御所 そうだ 竹御所で一章設けようとか 仙覚でも一章設けなくては などいろいろ思いが兆しています でもみんな第二部だからまず第一部を仕上げてから

 

目下取りかかっている第一部は仙覚が誕生したところで終わるので

 

突然気持ちがするっとなって華鏡が動き出しました 添付は登場人物一覧に載せた歴代天皇 後嵯峨天皇皇子の宗尊親王に仙覚が万葉集を献上します 仙覚が生まれたのは比企の乱の年 土御門天皇の時代でした こういう流れの中で華鏡は展開します

 

不思議なのですが 今迄華鏡の原稿再開に設置したノートPCのワードが読取り専用になっていて原稿の上書きができずにいました 読取り専用になっているのもわからず四苦八苦していたのですが 今日突然読取り専用なので上書きできないと出て それならと解除の方法を検索してできるようになりました

 

たまたまなのでしょうけれど 華鏡再開を心がけてからずっとだったのに 暗殺の森を観て以降の心境の変化に対応するかのようなワードの変化にやはりなにかが始まるのだなあと 仙覚の小説 頑張ります

 

2月28日

自分の文章に酔いましょう という言葉が浮かんで そうだなあとなりました おはようございます 華鏡 登場人物作成がまだ終わらないのでいい加減にしてもう本文入力に入ろうと思っての感慨です ドミニク・サンダみたいな文章 と言ったら変ですが そんな感じで入力していきたいです

 

暗殺の森のドミニク・サンダさんが心から離れなくて ああいう印象で書いていこうと思うのもいいかなと 私はカサブランカのイングリッド・バーグマンの絶対的信奉者なのですが 似た感じがします またカサブランカを観たくなりました

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2025.2.27 Twitter(X)から転載……『華鏡』に戻って気持ちが楽になりました。それで梅林を散策したり、登場人物の一覧表をつくったり、のんびり過ごしています

2月22日

ブログを更新しました 2025.2.22 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』を読み終わりました。ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟・・・

 

写真は2019年池袋西武百貨店にてのモネの庭 TLに流れてきた情報ではもう寂れてしまっているそう コロナ禍直前に行ってコロナが終息したらまた行きたいと思っていました 深夜アルゴールの城にてを読み終わり華鏡への覚悟ができたのでブログを更新しました 今日は諸々原稿などの整理 清々しいです

 

華鏡 たぶん人称の問題は解決したからこのまま書いていけばいいと思う 薔薇の名前にならっての冒頭の手記はそのまま 書き直して行くのは第二章から その前に一応冒頭から読み直して感覚をつかみます

 

アルゴールの城にて 最初のほうと最終章に近い辺りから語り口が違った気がして 最初のほうは話者は隠れていてだから作者の無意識みたいだっのが 最終章辺りは堂々とした語り部的存在感 その辺りをもっと確かめたいのだけれど もう止めて 華鏡に専念します

 

2月23日

おはようございます 華鏡に戻って原稿を見ていたらルビが気になって いっそルビを無くし ルビ入り登場人物一覧を作ろうとノートに書き出していました 今迄は仙覚が生まれるまでの旧稿だったからそれほど人物は多くなかったのに 最終章までだとタウンニュース鎌倉版コラムまでの人数になりました

 

華鏡 登場人物一覧を入力してみました まだまだ続きますが結構な人数 殆んど史実にのる人たちの中で足立氏の女性三人は創作です

 

本格的に『華鏡 一』に着手したので お正月頃ブログに載せていた第三章時政の項など 『華鏡』の原稿を削除しました タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』と『北条時頼と源氏物語』の連載はそのまままだ残します

 

華鏡 登場人物一覧を入力したものの 原稿を見直していたら なんと 比企氏に竹御所を入れ忘れていたことに気づいてびっくり 私が竹御所を忘れるなんてと 華鏡は膨大だから登場人物もずっと通しで出るわけでなくその都度その都度で出たり消えたり 一覧表も最終章を書き終わるまで完成しません

 

2月24日

未明の千葉南東沖と石川のほぼ同時発震の地震は怖いですね とっさにフォッサマグナ?と 正解かは別として 写真は以前訪ねた新倉の断層 糸魚川ー静岡構造線をたどって撮りに出ていた時のです フォッサマグナ西縁の露頭というので行きました 地学は好きな学科でした アルゴールの城にてのグラック

 

は地学の教師をされながら小説を書いてらしたそう アルゴールの城にてもそうした地学や地質用語や見解が満載 文章が硬質なのは書き連ねられている内容に有機的要素がないからもあるのでしょう だから惹かれて 今日はまだ華鏡の登場人物にこだわって入力しています

 

2月25日

おはようございます 奥村森さまにいつもご紹介して頂いて恐縮なのですが やっと華鏡が本格的に始動していつかこのAmazon著者ページに載せることができそうです それで思ったのですが もしXのアカウントが凍結されても 華鏡はできたのかな? と思って頂いた時にはこのページを見て頂けたら嬉しいです

 

夢を見ました 何年かぶりにリバーサルフィルムで美術品の大きな壺を撮影する仕事をして デジタルに慣れてすっかりオート機能に馴染んでしまったから まずピントに自信無く何度も見直し やっと順調に撮影が進んだと思ったらシャッタースピードを調整していなかったことに気づいて青ざめ 怖いです笑

 

岩石は何でしょう TLで現代人は電磁波を浴びすぎているからアース抜きをするといい その方法の一つに岩石をじかに撫でるというのがあって祖父の骨董だった虎の置物を出しました 机上に置いてお賓頭盧さまみたいに毎日撫でようかと

 

岩石を撫でるといっても家にそんな岩石があるわけないのに と思ったら思い出したのでした 虎が口を開いて咆哮している置物で 小さいとき妹とよく口に指を挟んだりして遊んでいました

 

華鏡に戻ってとても気持ちに余裕が出ました で 今迄は咲いているだろうなと思いながら通り過ぎていた牟礼の里公園に寄り道を 小さな梅林ですが紅梅も白梅も咲いていて新鮮さを大きく呼吸して来ました

 

2月26日

おはようございます 白い椿が咲いていたので虎の置物と 岩石が身近にあるっていいですね 触るだけで癒されます 私はこの台座が好きで 鋭く削って自然のままの景観を彷彿とさせている 家の中に中国のこの虎のいる景観がそっくりあるようです 台座の方が重たいです

 

こう呟いてわかったのですが 現代の生活ってこういう自然のものって家中見ても無いんですね 全部プラスチックか機械加工された金属か紙製品 だから花を飾るとそこだけ自然の空間が現出するわけだけれど この岩石の存在感手触り感は凄い 重さも半端ないし 現代文化の軽さを見た気がしました

 

BSプレミアムシネマ「暗殺の森」観ました 前から観たかった映画 いろいろ考えています 観てよかった そういうこととは関係ないけどドミニク・サンダさん いいですね!

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2025.2.22 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』を読み終わりました。ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟・・・

2月21日

写真はTLに流れてきたブルターニュの城 グラックのアルゴールの城にての舞台はまさにこんなふうな城でした 拝読し終わってずしんとこたえています 安易に言葉にするなんてできず訳者あとがきを頼って再読 読み始める前に拝読したことが拝読後ではリアルにわかる アルゴールはサルトルの嘔吐と

 

同年の発表で「この晦渋な物語」は嘔吐など評判の書物の前では読者の関心をひかなかったと 晦渋 なんですね グラックの書法 でもだからこその読後の心酔感慨感は烈しい 「ここでは誰しも、このような書法がまさに夢の記述にふさわしい、必然的な性格のものであることをさとるだろう。とすれば、

 

この物語全体が、一連の悪夢として読まれていいのであり、そう読まれたとき、この特異な城館を舞台にした陰惨な物語が、恣意による弛緩どころか、むしろ宿命の避けがたい必然のもたらす緊張に満ちた、異様に澄み切ったものであることが見えてくる筈」

 

アルゴールの城にての訳者あとがきより: 言ってみれば、宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそ、グラックがこの作品を書いたときの本当の狙いだったのではあるまいか。

 

アルゴールの城にてを読み終わりました 終わるまで華鏡の原稿には戻らないと決めていたのでようやくこれから再開 書いている内容も次元も全然同じではないけど ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟 それを真摯に受け止めて華鏡に戻ります

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2025.2.21 Twitter(X)から転載……『北条時頼と源氏物語』の原稿が一件落着して華鏡に戻ることにし、いろいろ環境を整えたり、考えたりしています

2月18日

地平線が高く持ち上がっているので、昼日中だというのに太陽は奇妙にも地平線にかかり、まるで月が真夜中に木々の高い梢をわたるのにも似ているし、水は暗く澄み切っているし、陽ざしは散らばり、蒸気と化して、無数の木の葉に漂う靄となり、きなくさい、うっすらとした、水色をした雲のようにも見える

 

つまりこの場所はいかにも完璧に密封されているために、そこに閉じこめられた空気は長いこと閉め切った室内と同じように循環できなくなり、不透明な雲となって壁のあたりを漂うばかりで、何百年も前から苔や乾いた石材の執拗な匂いがしみこんでしまって、さながらこれらの貴重な聖遺物をひたす……

 

『アルゴールの城にて』の登場人物たちが深淵のような森の中の朽ち果てた礼拝堂に辿り着いたときの描写ですが はからずもここのところTLに流れてきてRPさせて頂いている古き修道院の画像に親しんでいるのでイメージがリアルに浮かぶ 前に読んだ時はこうしたことがなかったから文章はただの文字の連なりでしかありませんでした

 

2月19日

おはようございます 飯島耕一「ゴヤのファーストネームは」に 生きていることはゴヤのファーストネームを知ることだ という詩句があります 昨夜アルゴールが半島だと知ったとき次元が変わった気がして不思議だったのですが ゴヤのファーストネームを知ることがこれ! と気がつき興奮しています

 

セザンヌ夫人も大好きな詩だったのですが アルゴールが半島と知って私もセザンヌ夫人の最終詩句に辿り着きました 飯島耕一を夢中になって読んでいたときにはまだ実感できなかった でも 好きだった こんなふうなことだったからなのですね

 

悲報といっても私事ですが 『北条時頼と源氏物語』の最終章をブログにアップしようと過去データを見たら 最終章の項目はあるのに開いたら白紙 探してもどこにも無くてアップできず結局時頼と源氏物語は昨日の第十章 時頼の開悟 が最後 書いた覚えはあるのに…… 最終章は時頼が出家して最明寺の

 

開基となり亡くなるまででした 最明寺を訪ねたくて探したら今はもう無くて明月院になっていました 紫陽花の花のお寺としか知らなかったのに ここに墓所があるなんてとほんとうに驚きました 天下の時頼と思っていても 知られていないことって結構あるんですね

 

もう華鏡に専念すると決めたからいいのですが 折角原稿が整っているなら華鏡に戻る前に一冊にしておこうかな など考えていたことが最終章が見当たらないなんて もう華鏡に専念せよとの天からの指令でしょうか

 

明日から華鏡に戻るのだけれど 今迄は旧稿の校正だったのを一から入力し直していくつもりでいったいどうなるのだろうと というのも文体というか書き方にアルゴールの城にてで受けた感銘を活かそうと思っているのに アルゴールはひたすら情念でもない作家の感性の運びで紡がれる 例えば昨夜引用の

 

深淵の礼拝堂の章 主人公が散歩に出て親友と出会い 川の両岸をそれぞれ並行して歩きながら橋があって合流し森の奥の廃墟となった礼拝堂に辿り着く たったそれだけのことに17ページ 私の華鏡はそれくらいの章に一人の人間の 例えば時政のほぼ生涯が幾多の乱とともに描かれる アルゴールが感性で成り立っているのに対し華鏡は知で あるいは理で描く それをアルゴールの文体でなんて無理に決まっているのだけれど 今迄校正していてどうしても自分の文体でないことに忌避感があって進まなかった 感性を蘇らせたくてたまらなくてアルゴールに出会って救済されたのだけれど

 

大粒の雨がためらいがちに落ち始め、葉むらをざわめかせてからやんだが、涼しさをもたらすべくもないこの雨が、息づまるほどに濃密な暑さのほどを、にわかにはっきりと感じさせた。嵐の迫って来る気配そのものが、…… またアルゴールの城にてからの引用ですが それまでの話の内容から突然この転調

 

のような自然の描写になって 源氏物語を思い出しました 紫式部も話の内容を打ち切って別の展開に持って行くとき 不意打ちのように自然描写になります これですね 華鏡をただの知の羅列から救う方法は とピンときました 紫式部の自然描写 アルゴールの城にてに通じていました さすが意識の流れ

 

2月20日

写真はスマホのストーリーに流れてきた過去写真 光る君へが終わってTLに殆ど源氏物語が流れて来なくなりましたが あまりに光る君へに特化した源氏物語は私には亜流だったから今の方が心地いいです これから紫式部の自然描写など学ぶこと多いし そういうことの流れて来ないのが光る君への源氏物語

 

華鏡に戻るにあたり 今日はPCの環境を整えたり アルゴールの城にてに影響されない独自の世界を持ちたいと図書館に行って数冊借りて来て読んだりしましたが 就寝前の最後にまたアルゴールの城にてを読んだらそんな簡単なことでは影響を逃れられないと悟って震撼 この文章とにかく凄いです

 

せっかく借りてきた本だけど アルゴールを読むまでははじめになどを読んで面白そうなど思ったのですが アルゴールに入ったら格が違う それこそ震撼とするしかない文章の緻密さ そして作者の覚悟 そう この覚悟ですね 大切なのは アルゴール一本でいきます

 

2月21日

おはようございます 華鏡に戻るにあたってPC環境を整えたら 毎朝タブレットで見ているxをPCで見るのはどうかしらとTLを辿って見たのですが いつも見る記事や写真が流れて来ない お城とか修道院の写真など私には大切な栄養源なのでタブレットでは? と見たらタブレットでも同じでした それなら

 

これから毎朝PCで見ることにして 華鏡に戻るということは こんなふうに生きている環境まで変えることなのでした 写真は@井の頭公園の梅林 クロッカスの群生が木の根元に見えています

 

と ちょっと大袈裟な言い方をしました ゴヤのファーストネームはを真似て笑 TLに来る記事や写真はスマホでは少し違うみたいです

 

写真は2008年@宇治市源氏物語ミュージアム 放置してあったノートパソコンを華鏡専用にと設置したらこの写真が画面にありました 書けない書けないと数年も悩んで遅筆だった華鏡 書きたくないから書けなかったことが判明して使命感で文学は書けるものでないと痛感 侮っていました いっさいの束縛を

 

アルゴールの城にて解き放つことができて 今は書きたい気持ちが出てきています 昨夜のアルゴールの城にては怖かったです 私には到底これは書けないと思いつつ 作者の覚悟のほどが伝わってきて小気味よく これは他の一般書にはない覚悟と たいてい本は他者に向けて語られていますよね でもこれは

 

ひたすらおのれの内面のうちへうちへと視点が降りていく 私には書けないけれどこういった視点の向け方ならできる というか 私はそれが好きなのでした 使命感で書くことは他者に迎合すること それが ほんとうに 苦しかったんです

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2025.2.18 Twitter(X)から転載……『アルゴールの城にて』の読書で小説を書く生活に戻りたい気持ちが募ったのですが、『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップで最終章が近づき、凛とした心境が戻りました。華鏡に戻ります

2月14日

ブログを更新しました
 
2025.2.14 TwitterX)から転載……『アルゴールの城にて』で華鏡の書き方への迷いを払拭できました

 

華鏡の書き方に迷って停滞していた原稿 結局私は「和」から「洋」への転換に苦しんでいたのでした 『源氏物語』が和の古典といってもそれは紫式部自体の文体が意識の流れで世界文学に冠している でも鎌倉の源氏物語にかかわったらしがらみいっぱいの日本の歴史にからめとられて自由を失っていました

 

シュルレアリスムは知らなくても現代詩をとおして身についていたし マラルメの書物はずっと根幹にあった でも仙覚の小説のためにそういうことの一切を無縁として ひたすら求められている仙覚の小説を書こうと そちらの方々に迎合してしまっていたのでした 「洋」に振り切れてとても楽になりました

 

写真は鎌倉で私の源氏物語活動を支援して下さっている方たちが招いて下さった料亭にて 地元民でないのでどこかわからないのですが 窓から相模湾の風景が写真のように見渡せました 窓辺に飾られた雪柳の影が素敵でした この方々の風流さ優雅さは応援していただくとても素敵な励みでした

 

シュルレアリスムを知ろうと思って図書館に行き ブルトンの宣言から詩集 グラックのブルトン論を手に取り 最後に同じ棚にあった清水徹氏『マラルメの〈書物〉』が眼に入って飛びつくような思いで一緒に借りて来ました 帰宅してまず読んだのがマラルメの書物 啓蒙されて新鮮でした で やっと他の

 

シュルレアリスム関連の書を読もうとして まずブルトンのナジャについてネットで予備知識など得てから本を開いたのですが 論 はやはり私には駄目 心が殺伐してしまう グラックのブルトン論くらいは読んでもいいのでは? とも思うけど華鏡に向かうのに必要を感じませんでした やはり私には実作が

 

重要と痛感した次第です グラックは確かにシュルレアリスムに心酔してアルゴールの城にてを書いたけど 論 はそれに内包されているわけで 論 として私が知る必要ないんですね アルゴールの城にてだけに戻ります シュルレアリスムの帰結といわれる作品に 作品こそが珠玉なのだから

 

先ほどツイートしたあと上澄のように浮かんだ言葉が 静謐 そうだった 私は静謐さのない文学は嫌いだと 松岡正剛氏の百冊一夜のナジャ論では 男はこれに惹かれる 男はこれに惹かれる とばかりにナジャを称える いい気なもんだと言った感じで引いてしまいました 光源氏の素行も変わらないと

 

思うけど 紫式部はそれは書かずにひたすらそうした男たちの裏側で耐える女性の心情を描く 耐えるから美しいのであって それが静謐に現れる シュルレアリスムの手法で華鏡を書く気はないけど 少なくとも奔放を賛美する内容にはならないし 静謐さ溢れる作品にしたいなあと心から思いました

 

シュルレアリスム論を探って心が殺伐とし 読まなければよかったと後悔したのですが 対極の世界 静謐 ということが浮かびあがり それは読んだからの結果ということなわけで 一時的に嫌な思いをしたけど華鏡の世界観をはっきり認識させられてよかったです

 

2月15日

ブログに『北条時頼と源氏物語』第七章時頼と蘭渓道隆をアップしましたが 改めて読んで 当時の博多の外港としての繁栄は凄いですね 宋から渡来した禅僧は皆ここに滞在し 日本全国の禅を志す僧侶は博多へ それができない僧侶のために時頼が鎌倉に建長寺をつくったら 鎌倉が博多のような拠点に

 

という歴史の流れのなかで 時頼の為政者としての采配が際立っています 写真は@九州福岡にある鴻臚館址 一枚目の飾られていた絵が往時をよくあらわしていると思って好きでした

 

アルゴールの城にてを読んでいるのですが 読めば ああここ読んだ と文章の記憶がはっきりあるのに物語として覚えてないから結末がどうだったか先を知りたくてたまらない でもそれは無視して文章を丁寧に辿っているのですが 面白いです 物語の進展がなにもないのに文章の力がそれを繰り出している

 

気にかかっていることがあるのですが それはグラックが妻帯していないということ それがこの物語の硬質感の基盤ではないかと 私自身書く人としてこうありたいと願いつつ私事の些事にまとわりつかれて疲労困憊した精神ではこうは書けないし時とともにどんどんそうなっていく グラックが羨ましいです

 

2月16日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第八章【第五代将軍頼嗣と時頼】をアップしました 頼嗣は四代将軍頼経の子で 頼経が宝治合戦で京へ送還されたあと六歳で将軍に 母は大宮局という京の女性です 頼経は正室竹御所を亡くしたあと再婚していました 七歳で十六歳の檜皮姫と結婚

 

します 檜皮姫は松下禅尼の娘で時頼の妹 結婚しても幼い頼嗣の母大宮局との軋轢で病んで早逝 第八章はこの檜皮姫の章です 頼朝と政子の娘の大姫をどこかほうふつとする悲劇の姫です 頼嗣も檜皮姫も殆どドラマに出ませんが この第八章だけで短編小説になる内容です お読み頂けたらと思います

 

ブログの人気記事ランキング 見たら一位が昨日アップした【時頼と蘭渓道隆】 アップして早々の一位ははじめてです Twitterでは反響をあまり頂けてないので蘭渓道隆は人気ないなあと思っていたのですが ブログは見て頂いていることがわかって嬉しいです 時頼と蘭渓道隆は鎌倉の基点ですものね

 

2月17日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第九章【第六代将軍宗尊親王と時頼】をアップしました いよいよ時頼と源氏物語の関係の実態です 河内本の源光行が その子親行が 北条実時が さらに清原教隆が登場し 鎌倉での源氏物語受容のようすを詳細に書きました

 

夢幻という言葉が浮かんで頭から離れないのですが アルゴールの城にてを読んでいるからでしょうね なにもそんな妖しい雰囲気の描写はなく ひたすら城やまわりの風景の描写で硬質な文章なのだけれど どこか深く食い込んでくるのは無意識が発動されているから 鎌倉の源氏物語にかかわって足りなか

 

ったのはこれなんだなあと 『北条時頼と源氏物語』をブログにアップしていて今朝の第9章が華鏡の帰結たる重大場面なのだけれど 私は昨日の第8章檜皮姫をまだ引きずっている 短編にするには実時や親行より檜皮姫 書かなければならない内容と書きたい人物との齟齬がこんな夢幻の語に集約されました

 

井の頭公園の梅林の下の福寿草 スマホに流れてきた六年前のストーリーにあった紫のクロッカスの群生はまだ少しあったのですが六年前ほどではなく寂しくなっていました この福寿草でもクロッカスでもTLに流れてくる欧州の森のように群生をもっと心がけたらいいのにと願うのですが

 

2月18日

おはようございます 写真は20141118日の建長寺さまにおける蘭渓道隆禅師生誕八百年祭 時頼を書くならあなたは見ておいたほうがいいでしょうと特別な計らいを頂いて参列させていただきました 準備段階での法堂の中の風景と参列者は外に設けられたTVの画面で中の様子を 厳かでした

 

ブログに『北条時頼と源氏物語』第十章【兀庵普寧と叡尊と時頼】をアップしましたが 時頼は蘭渓道隆のもとでは開悟しなくて つぎに請来した兀庵普寧のもとで実現します このあたりの機微がこの章のメインです そこに実時による叡尊の鎌倉将来や大仏の建立など この時期の鎌倉の宗教界は複雑です

 

写真は2018222日 @建長寺さま ちょうど今頃なので行くと白梅が見られるでしょうか 昨夜アルゴールの城にての読書で無意識の発動に揺り動かされ 夢幻 という言葉が浮かんで以降気持ちがたゆたって もうたゆたう小説を書く生活に戻りたい 華鏡 止めてしまおうかしら とまで思ったのでした

 

なのに今朝 時頼の開悟に関しての『北条時頼と源氏物語』第十章をブログにアップしたら やはり鎌倉のこうした歴史は『尾州家河内本源氏物語』にからめてもきちんと残しておこう という凛とした気持ちがよみがえって この時頼の原稿のブログアップを終えたら華鏡に戻ります あと一回 次が最終章

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2025.2.18 『北条時頼と源氏物語』第十章 兀庵普寧と叡尊と北条時頼

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました。
第七章までの掲載は以下の通りです。
左側にあるカレンダーの日付をクリックしてください。
 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
 2025.2.10  第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】
 2025.2.11  第五章【第五代執権北条時頼へ】
 2025.2.12  第六章【第五代執権北条時頼と道元】
 2025.2.15  第七章【第五代執権北条時頼と蘭渓道隆】
 2025.2.16  第八章【第五代将軍頼嗣と北条時頼】
 2025.2.17  第九章【第六代将軍宗尊親王と北条時頼】

 

『北条時頼と源氏物語』

第十章 兀庵普寧と叡尊と北条時頼

 鎌倉には『尾州家河内本源氏物語』という素晴らしい知の遺産があります。巻末に北条実時の奥書があり、鎌倉で鎌倉武士がかかわってできたことのわかる貴重な『源氏物語』の写本です。

 鎌倉時代には金沢文庫に収められていました。が、元弘三年(一三三三)の鎌倉滅亡時に持ち出されて足利将軍家のものとなり、それから関白豊臣秀次、徳川家康の手を経て、現在は徳川美術館に併設する蓬左文庫の所有となっています。所有者の変遷をみてわかるように、歴代の時の権力者が欲しがった写本です。写本として只ものでなかったことをご理解いただけると思います。

 実時の奥書は、「正嘉二年五月六日以河州李部親行之本終一部書写之功畢 越州刺史平(花押)」というものです。ここから建長七年(一二五五)に親行が完成させた「河内本源氏物語」を、三年後の正嘉二年(一二五八)に実時が書写したことがわかります。

 この奥書から、少し前まで、『尾州家河内本源氏物語』は正嘉二年に実時が制作したといわれてきました。が、最近の研究では、これは実時が書写した「正嘉二年本」の奥書を転載したもので、『尾州家河内本源氏物語』自体が正嘉二年にできたのではないとされています。

『尾州家河内本源氏物語』の成立についてはともかく、「河内本源氏物語」の完成直後に実時が親行から借りて書写した事実からは、時頼の時代の『源氏物語』をとりまく環境が手にとるように窺えます。父実泰以来、親行と親交のある実時ですから、そして、清原教隆を交えての源氏物語研究に大いなる刺激を受けた実時ですから、当然この書写はあり得たでしょう。

 そういう『尾州家河内本源氏物語』ですが、残念なことに時頼はこれを見ていません。『尾州家河内本源氏物語』ができたのは時宗の時代なのです。時頼が生前立ち合うことのできたのは「河内本源氏物語」まででした。

「河内本源氏物語」が完成した時、時頼はおそらく実時から報告を受けたのではないでしょうか。そして、その業績の意義を鎌倉で一番理解している母松下禅尼に伝えたのではないでしょうか。

 なにしろ、松下禅尼は六波羅探題の夫時氏とともに、藤原定家と親しく交際していた女性です。夫妻が在京中に定家の「青表紙本源氏物語」が完成し、見せて貰ったことがあるかもしれない人です。定家と光行の親交のほども熟知していて、その光行の子の親行による「河内本源氏物語」完成です。

 しかも、伊賀氏の変で一条実雅に勝手に従って親行が上洛した時、その伊賀氏の変の処理が時氏の六波羅探題としての最初の仕事でした。当然、京での親行の動向は生々しく記憶されたでしょう。時頼が松下禅尼が関心をもつと思って話しただろうことは想像に難くありません。

 おそらく、案の定、松下禅尼は喜んで、席を設けて親行を祝おうとなったかもしれません。そうだとしたら、そこには時頼がいて、親行がおり、実時が侍り、教隆がいる……。質素を標榜する松下禅尼も、この日ばかりは在京中の雅な思い出をほうふつとしながら、『源氏物語』の話題に加わったのではないでしょうか。ここに檜皮姫がいたら、もっと座が華やいだのですが……。

 翌康元元年(一二五六)十一月二十二日、時頼は執権の職を辞し、北条長時に譲ります。翌日二十三日に最明寺にて出家、導師は蘭渓道隆でした。法名は道崇です。三十歳でした。とはいっても、時頼は引き続き政治の実権を握っています。

 出家の動機はわかりませんが、最明寺を建てたところをみると、禅の深まりの結果と私はみたいと思います。世俗の雑事を軽減し、煩わされることなく禅に深まりたい欲求が募ってきていたのではないでしょうか。

 最明寺は今はなく、現在そこに明月院が建っています。建立して間もないころの七月に、時頼が出家の準備を進めていると聞いた宗尊親王が参詣に訪れています。私はここに宗尊親王の時頼に対する親愛の深さを感じます。

 ここだけでなく、宗尊親王の行動には、『吾妻鏡』や、あとに出てくる『関東往還記』の記述に父親に対する礼と甘えのようなものが窺えます。時頼のいうことなら何でも聞くいい子のような感じです。

 この年の八月、京都では第四代将軍頼経が亡くなり、続いて九月に第五代将軍頼嗣が亡くなっています。

 文応元年(一二六〇)は、いろいろな意味で転換の要素が入り込んできた年でした。

 まず、二月に時宗が小侍所担当になります。これは実時の補佐のような役割で、いずれ執権となる時宗への教育の実践です。時宗は十歳でした。ちなみに宗尊親王は十九歳でいられます。時宗のこの小侍所任命がのちに大きく宗尊親王の生涯にかかわってきます。そして、『尾州家河内本源氏物語』にも。

 三月、近衛家から宰子が宗尊親王に嫁いできました。時頼は猶子として親子の縁を結び、宗尊親王の外戚になります。宰子はよく時頼の山ノ内邸を訪れてますから、宰子にも時頼は頼られていたようです。

 思うのですが、四歳までとはいえ、京で生まれ育った時頼には、京から来た人を安心させるものがあったのでしょう。宗尊親王にも、宰子にも、異国の地鎌倉において唯一頼れる人物と映っていた気がします。

 七月、日蓮が時頼に『立正安国論』を提出しました。日蓮は時頼を『涅槃経』の護法の国王に見立てて書いたそうです。

 十二月、京から葉室光俊こと真観が下向。この時から真観が宗尊親王の歌の師となり、以降、宗尊親王率いる鎌倉歌壇の最盛期を招くことになります。真観は頭の切れる我の強い人物で、その癖の強さに感化され、宗尊親王の人柄が変わっていきます。ちょうど、第四代将軍頼経が長い凱旋帰洛のあと、人格が変貌したように。私はこの真観の下向がなかったら、あるいは宗尊親王の更迭はなかったかもしれないと思っています。

 さらにこの年、時頼の人生にとって重要な人物との出逢いがありました。中国僧兀庵普寧です。宋を発って博多に来た兀庵普寧は円爾の招きで京都東福寺に移り、それから時頼によって建長寺に迎えられました。六十四歳でした。時頼は三十四歳です。

 時頼はこの僧により開悟します。が、それはまだ二年先の話で、このころ時頼は蘭渓道隆の指導の下では悟りに至れないもどかしさを覚えていたと伝えられています。それでさらなる師を求めており、そこに現れたのが兀庵普寧でした。

 兀庵普寧は、「中国に於て、南禅・霊巌等の諸寺の住持をつとめ、既に大成した老僧」でした。これは蘭渓道隆にない経歴です。蘭渓道隆によって建長寺が建立されましたが、生身の身の時頼の開悟には生身の身の熟達した僧の導きが必要だったということでしょうか。が、あとで書きますが、私は少し違う感覚をもっています。

 弘長元年(一二六一)、宗尊親王率いる鎌倉歌壇が最盛期を迎えます。

 弘長二年(一二六二)春、蘭渓道隆が建長寺を去り、京都建仁寺の住持になります。約一年半、建長寺には蘭渓道隆と兀庵普寧の二人が揃っていたわけですから、そんなこともあっての移住でしょうか。蘭渓道隆の替わりに兀庵普寧が建長寺二世になりました。

 このあたり、なぜ、蘭渓道隆が建長寺を離れたか、気になるところです。時頼の意志だったのか、他の理由によるのか。学者さん方のあいだでも憶測でしか語られません。ただ、時頼は、建長寺建立以来二人で歩を合わせてやってきた相手がいなくなって寂しいといった内容の手紙を京に送っていますから、兀庵普寧という師を得て時頼が追いやったというのではなさそうです。

 では、なぜでしょう。

 この年、もうひとり有名な僧が時頼の前に現れています。奈良西大寺の叡尊です。叡尊には、『感身学正記』という自伝と、『関東往還記前記』『関東往還記』という、弟子の性海が記した旅行記が残っています。

 それらによると、まず、弘長元年十月、叡尊の下に北条実時の使者の見阿弥陀仏という律僧が来訪し、鎌倉下向を請います。これは兀庵普寧が建長寺に入って何カ月目かの時期です。次に十二月、今度は叡尊の弟子で関東に下っていた定舜が訪れ、やはり実時の使いとして下向に応じるか否か話をします。さらに翌弘長二年一月、再び見阿弥陀仏が訪れて下向を請い願います。その結果、二月に叡尊は鎌倉に下向したのでした。

 最初の見阿弥陀仏の要請は、「一切経一蔵を西大寺及び鎌倉称名寺に寄進するから、関東に下向を」というものでした。叡尊は多忙を理由に断ります。下向するか否かにかかわらず実時は一切経を西大寺に寄進するとしており、約束どおり十二月に納入されました。

 この一切経は弘長元年に実時の発願で定舜が入宋して持ち帰ったものです。定舜は、同じく叡尊の弟子で関東に下向し、常陸三村寺で律宗の普及活動をはじめていた忍性の下へ行き、忍性を介して実時の帰依を得たようです。

 定舜は福州で七千巻の一切経を二蔵求め、その一蔵が西大寺に収められたのでした。もう一蔵は称名寺に収められて、それが現在金沢文庫に収蔵されている一切経です。

 定舜の十二月の来訪は宋から帰ったその年のことでした。定舜が携えてきた実時の書状には、鎌倉の仏教界の実情を、僧がたくさんいるのにただ論争ばかりして悟りの世界から程遠いと憂え、ひとり正法の道を歩み人々を教化している叡尊ならここを脱却して下さるだろうと下向を望み、時頼も同じくそれを願っているとありました。

 翌弘長二年一月の見阿弥陀仏の再訪では、携えてきた書状に「最明寺禅門道崇の興法のため、また受戒のために関東下向を庶幾う旨が掲載されていた」とあります。

 これが詭弁でないことは、「関東で最明寺の禅門に会ったとき、『斎戒を受けたのも理を明らかにするためです』と言われた。この人は禅の修行をして常に悟りを得ようとしているので、このような言葉があったのだろう」という、下向後の叡尊の言葉によって明らかです。

 この三回にもわたる叡尊の鎌倉下向への懇願ですが、これはどう読んでも実時の発案で、実時の意志によるものです。従来、時頼と実時による招請とされてきていますが、これは時頼というビッグネームが入っているためによる読みの誤りと思います。

 定舜が伝えた「鎌倉では僧がたくさんいるのにただ論争ばかりして悟りの世界から程遠い」は、中国の本格禅でもって運営される建長寺の臨済禅をさし、実時の実感でしょう。兀庵普寧が加わって、さらに本格的に中国化し白熱していた時期です。真面目な実時には見るに見かねるものがあったのではないでしょうか。

 建長寺の開山蘭渓道隆は、それまで土台もできていなかった時頼や鎌倉を相手に、一から禅を築いてきました。時頼たちにそれは斬新で新機軸の時代を打ち出したことに違いないでしょう。

 でも、蘭渓道隆にとってそれは妥協の連続だったと思います。ちょうど、都会の文化人が鄙びた地域に行って、その土地の人たちが「文化」といって高揚しているのをみて、ちょっと違う……と内心思ってしまう、そのことの差異があったはずです。

 この時期、時頼が蘭渓道隆に感じていた物足りなさは、蘭渓道隆その人の質の問題でなく、その差異の下で行うしかなかった立場の問題だったと思います。これは一種の惰性です。惰性を破るには新しい起爆剤の投入が必要です。

 蘭渓道隆は、兀庵普寧という本気で本物の禅を満喫できる相手を得て、水を得た魚のように生き生きと臨済禅特有の公案の応酬をしたのでしょう。宋語で。さぞかしそれは楽しかったのではないでしょうか。来日以来抑えていた鬱屈した思いをここぞとばかりに吐き出し、発揮できて。それが実時の眼に「ただ論争ばかりして」と映り、憂えたのでしょう。

 ここで、実時の仏教ですが、『関東往還記』には叡尊が下向した時、「不断念仏衆を停止させるから、称名寺を宿舎に」と提供を申し出ているように浄土系でした。叡尊がそれを断ったために、最終的に宿舎は扇ケ谷の支谷の清涼寺谷にあった新清涼寺釈迦堂となります。

 これをみると、実時は時頼に近侍していながら、禅宗には帰依していなかったことになります。のちに実時は忍性の仲介で下野薬師寺から審海を招いて初代長老とし、称名寺を真言律宗寺院にしますから、あくまでも禅宗とは距離を置いていました。

 叡尊の下向が実時によるという視点で『関東往還記』を読むと、従来いわれてきた「時頼と実時によって」とするには無理があった違和感が払拭されます。宿舎の心配にはじまり、毎日のように通って世話をし講義を受ける実時に対し、時頼はすぐには登場しません。ここから時頼が率先して叡尊の下向を望んだわけでないことが浮かび上がります。なんらかの手配を幕府が行った形跡もありません。

 このあたり、波多野義重が道元を鎌倉に招き、時頼が教えを乞うているもののみずから望んだわけでなかった状況と似ています。

 叡尊が最明寺を訪れてはじめて時頼と会ったのは三月八日でした。話は数刻に及び、深夜になって叡尊が帰ったといいます。話が込み入っていたようで、なかなか終わらなかったようすがみてとれます。

 ちょうどこの時期、時頼は鎌倉に大仏を建立している最中でした。長谷にある高徳院のあの露座の大仏です。この大仏は、いつ、誰が造ったか、史料が残っていないので明らかでありません。それで、馬淵和雄氏の『鎌倉大仏の中世史』と、塩澤寛樹氏『鎌倉大仏の謎』を拝読しました。

 鎌倉における大仏への帰依は東大寺大仏の再建に尽力した頼朝にはじまります。その頼朝を信奉する第三代執権泰時が、鎌倉も鎮護国家となすべく大仏の造立を思い立ちます。その時できた大仏は木造でした。鋳造する銅を集めるのに間に合わなかったからだそうです。銅の材料は宋銭でした。そのころから勧進が行われていたようです。

 鋳造が開始されたのは建長四年(一二五二)です。時頼の時代になっていて、建長寺の建立がなされているそのまさに同じ時代です。木造の大仏を原型にしたそうです。完成は文応元年(一二六〇)から文永元年(一二六四)の間とされていて、馬淵氏はさらに弘長二年の、叡尊が鎌倉に下向したこの年とされています。

 じつは、叡尊率いる律宗の石工集団が早くから大仏造立にかかわっていて、今現在も高徳院に野晒しになって残る大仏殿の礎石は彼らの手になるといいます。鋳物師も関西から大量に集められ、鋳造が開始されました。関東でその先頭に立っていたのが忍性でした。

 その忍性と実時が結びついていたのです。実時は律宗集団の慈善事業による民衆救済と土木工事的活動に触発されていたのではないでしょうか。これは、禅宗の個人の悟りに向かう仏教と対極にあり、六浦湾を掌握して称名寺の運営に携わる実時にはそこが魅力だったでしょう。

 定舜を入宋させ、一切経を二蔵も購入することのできた実時です。このころにはすでに六浦湾における交易で相当な財力を蓄えていたものと思われますし、忍性との繋がりがもっと早くからで、相当深まっていたことも想像されます。

 実時は、入宋僧から聞いた話で杭州に憧れ、六浦湾を日本における杭州とする夢をもっていたといいます。そういう実時がのちに忍性を常陸から鎌倉に呼び寄せ、それから忍性は鎌倉に地位を得て、時頼没後になりますが極楽寺長老になります。

 馬淵氏は、三月八日の長い密談について、「時頼の執心は一にかかってこの面談に向けてのものだったのだ。このとき何が話されたのかは書かれない。しかし後に起きた出来事をみると、この面談は日本のその後を大きく左右するものであった、といって過言でない」と書かれます。そして、さらに、「時頼が叡尊に求めたのは宗教性だけではなかったのかも知れない。むしろ教団の、非人や職能民を組織してさかんな社会活動をおこなう政治性にあった」と。

 これは実時が忍性集団に接していた態度と同じです。時頼は実時をみていてこの集団の実力を知っていました。なので、実時が叡尊の下向を企画した時、叡尊に対して期待したのでしょう。思うことあって、それを相談した。それが三月八日でした。

 馬淵氏の書く「後に起きた出来事」とは、時頼がめざした禅宗寺院の全国展開です。時頼はそれを実行するにあたり、叡尊に相談したのでしょう。その結果、日本に長くいて日本をよく知り、日本語が堪能な蘭渓道隆が伝道師となって各地の寺院を巡り、禅宗に改宗させるという案に落ち着いた……。

 時頼が純粋に信仰の気持ちで叡尊と向き合ったのでないことは、評判を聞いて宗尊親王が自身もまた受戒したいと望んできた時、時頼が「聊か子細有る」かの答えをして止めさせたことに現れています。

 叡尊も時頼の真意は見抜き、最後は逃げるように鎌倉を引き上げています。時頼が西大寺に荘園を寄進するという申し出をきっぱり断って。

 先にも書きましたが、叡尊の下向は、道元下向の経緯と顛末をほうふつとします。道元によって鎌倉に禅の拠点を置けば一大テーマパークになる勝算ができ、時頼はそれを成し遂げました。今度は禅宗寺院の全国展開で幕府の勢力拡大を図り、叡尊の協力でそれが実行に移された……。

 その感謝の思いから寄進したいという時頼の申し出を、道元も叡尊も辞退し、逃げるようにして立ち去る……。宗教者として権力者に近づくのを避けてのことといわれます。

 道元と叡尊、この二人の偉大な宗教者をも憚らせた時頼の剛腕。強権政治家といわれるこれが時頼の実像なのでしょう。そして、宗教者としては蘭渓道隆によって開かれた臨済禅一筋……。ぶれがありません。

 叡尊は八月に帰りますが、その十一月に松島の瑞巌寺など、東北で天台宗寺院の禅宗への改宗が行われます。馬淵氏によるとそれが幕府の統治権的支配によるもので、その多くに蘭渓道隆が開山となったり、蘭渓道隆とのかかわりがみてとれるそうです。

 この、この時期に集中する全国的な禅宗寺院への改宗が、時頼の廻国伝説を産むことになったそうです。鉢の木で有名な時頼の廻国伝説ですが、ここまでみてきて時頼の生涯にその伝説が事実であったといえる時期は、私には見出せませんでした。

 伝道師蘭渓道隆の最初の仕事が建仁寺として、建仁寺も、それまで延暦寺の別院で諸宗兼学だったのが純粋禅寺院になっています。こうした事情で蘭渓道隆が一時建長寺を離れ、兀庵普寧が建長寺二世になったのではないでしょうか

 十月、時頼は兀庵普寧の下で開悟します。三十六歳でした。時頼は、「森羅万象、山河大地のすべてが、自己と区別ない一体のものだ」と語り、全身から汗を流したそうです。そして、「二十一年の間、朝夕望み続けてきたことを、この一瞬ですべて手に入れた」と言ったそうです。

 この言葉の重み。これは時頼が真に仏教の真実に至りたいと望んでいたことにほかならないでしょう。しかも、十五歳の時から。

 これは祖父泰時が次期執権候補の兄経時に、真面目で勉強家の実時と一緒にやっていくよう諭した年です。執権になる可能性の微塵もなかった時頼は、それを見ていて、自分は仏教者として生涯生きていく意志を固めたのではないでしょうか。上東門院を敬愛し、仏教を信奉する母松下禅尼の影響の下で。

 よく、時頼の禅への傾倒は儒教的教養を得るためとか、政治に役立つためのようないわれ方をされますが、そういう功利的なものは開悟の時のこの言葉に感じません。

 とにかく時頼は開悟したのです。その一事に尽きます。

 

 

《参考文献》

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

川添昭二『北条時宗』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡13 親王将軍』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡14 得宗時頼』吉川弘文館

村井章介編『東アジアのなかの建長寺』勉誠出版

高木宗監『建長寺史 開山大覚禅師伝』大本山建長寺

市川浩史『吾妻鏡の思想史 ―北条時頼を読む―』吉川弘文館

玉村竹二「臨済宗教団の成立」(『日本禅宗史論集 巻上』)思文閣出版

長谷川誠編著『金剛仏子叡尊感身学正記』西大寺

細川涼一訳注『関東往還記』平凡社

馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社

塩澤寛樹『鎌倉大仏の謎』吉川弘文館

山岸徳平『尾州家河内本源氏物語開題』徳川黎明会

岡嶌偉久子「尾州家河内本源氏物語の書誌学的考察―鎌倉期本文の成立―」新典社

織田百合子『源氏物語と鎌倉』

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2025.2.17 『北条時頼と源氏物語』第九章 第六代将軍宗尊親王と北条時頼

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました。
第七章までの掲載は以下の通りです。
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 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
 2025.2.10  第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】
 2025.2.11  第五章【第五代執権北条時頼へ】
 2025.2.12  第六章【第五代執権北条時頼と道元】
 2025.2.15  第七章【第五代執権北条時頼と蘭渓道隆】
 2025.2.16  第八章【第五代将軍頼嗣と北条時頼】

 

 『北条時頼と源氏物語』

第九章 第六代将軍宗尊親王と北条時頼

 宗尊親王は後嵯峨天皇の第一皇子です。母は棟子という平棟範の娘で、兵衛内侍の名で四条天皇に仕えていました。仁治三年(一二四二)一月、四条院が事故で崩御され、後嵯峨天皇が即位された時、棟子は剣璽の新帝渡御に従って参ったのを見染められ、その寵愛のもと、十一月に宗尊親王がお生まれになったのでした。

 後嵯峨天皇の中宮は太政大臣にもなる西園寺実氏娘の姞子です。姞子の祖父は西園寺公経です。六月に入内し、八月に中宮になります。これは棟子が懐妊中のできごとです。棟子はさぞ辛かったでしょうし、不安だったことでしょう。

 ここに『源氏物語』の構図をみることができます。

 主人公光源氏の母桐壺更衣は桐壺帝の寵愛を独り占めしますが、身分が低いために時の権力者の娘である弘徽殿女御に辛くあたられます。光のように輝く皇子が誕生し、帝がこの子をこそ皇位につけたいと望んでもそれは叶いません。さらに皇子のままにおくことはかえってこの子のためにならないと、帝は臣下に下して源氏の姓を名乗らせます。これが光源氏です。

 後嵯峨天皇は棟子をほんとうに愛していたのだと思います。その棟子の生した子ですから、宗尊親王はひとしお可愛かったでしょう。『増鏡』には宗尊親王は「格別な愛子」と書かれています。が、いくら愛しくても、姞子サイドを憚って皇位継承を考える術はありません。

 そのうちに姞子に寛元元年(一二四三)に後深草天皇が、建長元年(一二四九)に亀山天皇がお生まれになると、いよいよ皇位の望みはなくなりました。宗尊親王は生まれながらにして光源氏なのです。そしてこれは、自他ともに認めての親王の生涯になっていきます。

 後嵯峨天皇の即位を決めたのは時頼の祖父の第三代執権泰時です。この時、経時と時頼兄弟は十九歳と十六歳でした。

 泰時はこの年の六月に亡くなります。そして経時が第四代執権に就いたのですが、宗尊親王の誕生前後の事情をこうして兄弟はつぶさに見聞きして知っていました。

 寛元四年(一二四六)一月、後嵯峨天皇は四歳の後深草天皇に位を譲られ、院政政治に入ります。鎌倉では三月に時頼が第五代執権に就き、五月に宮騒動が勃発、七月に第四代将軍頼経が京に送還されるという政変が起きています。

 十二月には仙覚が頼経の送還にもめげずに「寛元本万葉集」を完成させました。そして、この同じ七月に、蘭渓道隆が博多に上陸されています。この年、宗尊親王は五歳です。

 宝治元年(一二四七)六月、宝治合戦で時頼は三浦氏を滅ぼし、八月から半年、道元が鎌倉に滞在して時頼は救いを求めます。

 宝治二年(一二四八)、蘭渓道隆が鎌倉に入り、時頼と会います。時頼は禅師に帰依して、十二月に大船常楽寺の住持に迎えました。

 建長三年(一二五一)十一月に建長寺造営の事始があり、ここから建長五年(一二五三)十一月の落慶供養まで、時頼は一方で蘭渓道隆と歩を合わせて禅の世界に取り組みながら、一方で宗尊親王の鎌倉将軍擁立へと心を砕くことになります。

 それは、十二月に道家・頼経親子が黒幕となる謀叛が発覚したことに端を発しました。

 建長四年(一二五二)二月、時頼は九条家との縁を断つべく頼経の子の第五代将軍頼嗣を廃し、京から後嵯峨院皇子を将軍に迎える決意をします。選ばれたのが宗尊親王でした。十一歳になっていられます。

 三月、朝廷で宗尊親王の下向が正式に決まります。

 宗尊親王の下向は『増鏡』にこう記されます。ここでは二月とありますが、三月の誤りです。

 

  同じ二月十九日都を出で給ふ。その日将軍の宣旨かうぶり給ふ。
  かかる例はいまだ侍らぬにや。上下めづらしくおもしろき事に
  いひさわぐべし。御迎へに東の武士どもあまたのぼる。六波羅
  よりも名ある者十人、御送りに下る。上達部、殿上人、女房など、
  あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶら
  ふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」とぞ
  仰せられける。

 

 下向される宗尊親王の行列には、鎌倉からお迎えに上洛した大勢の武士のほか、六波羅から北条長時をはじめとする名のある武士十人が従い、京側からは上達部、殿上人、女房など多くのお供が従って、それは美々しく華やかで、天皇にならないなら将軍になるのがいいと思ったほどといいます。

 後嵯峨院は、我が子宗尊親王に従って遠い異国の地に参る人々を気遣われ、「院中の奉公にひとしかるべし」、すなわち京にいる時と同じと保証されています。どれほどかのお心配りが窺われます。

 もしかして永の別れになるやもしれぬ宗尊親王の出立のようすを、後嵯峨院と母棟子は見守られています。

 

  院の上も忍びて粟田口のほとりに御車をたてて御覧じ送りけるこそ、
  あはれにかたじけなく侍れ。きびはにうつくしげにて、はるばると
  おはしますを、御母の内侍も、あはれにかたじけなしと思ひ聞ゆべし。

 

 宗尊親王のようすは「きびはにうつくしげ」でした。まだ十一歳の幼さで両親から引き離され、ひとり鎌倉に旅立つのです。どんなにか心細い思いだったでしょう。それが「きびはに=幼少でか弱い」の語に凝縮されて棟子の目に映ります。棟子の胸中も推して知るべしです。

 鎌倉入りのようすを『吾妻鏡』から列挙します。私なりに少し表記を改めます。

 

  四月一日 晴れ。風は静かであった。寅の一点に宗尊親王が関本宿から
  出発され、未の一刻に固瀬宿に着かれた。お迎えの人々がこの場所に
  参会し、まもなく行列を仕立てた。まず女房(それぞれ牛車に乗る。
  下臈を先とした)。美濃局・別当局・一条局(大納言源通方卿の娘)・
  西御方(尼。土御門内大臣源通親公の娘。布衣の諸大夫・侍それぞれ
  が一人が共にいた。)(後略)

 

  道中は、稲村崎から由比浜の鳥居の西を経て下下馬橋に至ってしばらく
  御輿を止め、前後の供奉人はそれぞれ下馬した。中下馬橋を東に行き小町
  口を経て、相州(北条時頼)の御邸宅に入られた(時に申の一点であった)。
  奥州(北条重時)・相州(北条時頼)・前右馬権頭(北条政村)(中略)
  秋田城介(安達)義景らがあらかじめ庭に祗候していた。御輿は南門を入って
  寝殿に寄せられた。

 

 この時の時頼邸は今の宝戒寺の場所です。寝殿造りでした。ここに京装束の女房が入って、随兵たちが並び、時頼をはじめとする幕府重鎮の方々も勢ぞろいしてお待ち申し上げ、そこに宗尊親王の御輿が前を静かに進まれる……。さぞ壮観だったことでしょう。

 鎌倉の歴史にとっても晴れの緊張のひとコマ、従来の鎌倉のイメージからは想像つかない華麗な歴史絵巻です。時頼の邸はしばらくこれから親王の御所になります。

 宗尊親王は、これより雅だった京の宮中とは風情の違う、見知らぬ東国武士の大人たちにかしづかれて任務をこなしていきます。この時参列した幕府の重鎮は、執権時頼のほか、筆頭に北条重時、それから北条政村、安達義景たちです。この年、時頼は二十六歳です。

 この時、重時は五十五歳。長く六波羅探題を務め、後嵯峨院にも信頼を置かれていましたから、宗尊親王も唯一幕府で見知った人物になるかもしれません。政村は四十八歳です。二人とも時頼にとっては亡くなった父時氏の叔父にあたり、頼もしい相談相手です。安達義景は四十三歳で、翌年亡くなります。

 こういう恐ろしい面々にかしづかれ、おそらく宗尊親王は少年ながらに将軍としての権威を保とうと懸命に頑張られたのでしょうけれど、八月についに病気になってしまいます。そのようすを『吾妻鏡』はこう記します。六日の条です。

 

  およそこの御病気は先月上旬頃から時々発病されていたが、今となって
  は御膳も召し上がらず、人々は驚き騒いで嘆息するしかなかった。

 

  御病気が数日に及んでいたために顕密の御祈祷が残らず行われましたが、
  祈祷も治療も術を失い十日が空しく過ぎました。

 

 幕府はうろたえます。最後の望みを託して法印隆弁に祈祷を頼み、結果として十日に快復の兆しがみえてきて御粥を少し召し上がられ、十三日に「御熱が下がり、御膳を召し上がられたため、人々は安堵した」のでした。

 これはもう完全に宗尊親王の環境の変化と重圧からくる心労です。十一歳の少年には荷が勝ち過ぎています。親王はどんなにか母棟子に会いたかったことでしょう。どんなに棟子の胸に飛び込んで大泣きしたかったことでしょう。でも、それは叶わないのです。絶対に叶わないということが絶望的に理解されているのです。これは残酷です。今まで第四代将軍頼経が二歳で下向されたということを悲愴と思っていましたが、ある意味よかったのかもしれません。

 将軍御所と幕府を繋ぐ役目が小侍所別当です。頼経の時から北条実時がその任に就いていました。十一歳といえば、実時自身がその年齢で父実泰の突然の発狂から小侍所別当を引き継いだのでした。

 その時、不安いっぱいの実時を守ってくれたのが泰時でした。泰時がいたからこそ実時の今があります。実時には宗尊親王が自身のことに重なってみえたことでしょう。痛々しくて不憫でならなかったでしょう。実時は二十九歳になっています。

 親王の病気は十七日になってもまだ「なお快復しなかった」、二十三日には「御病気により四角四境祭・鬼気祭が行われた」とあり、それに続いて「今日、平癒されたという」と記され、二十四日にようやく「御病気は、熱が全く下がり、御気分も快復してたいそう具合が良い」となりました。

 九月二日に病気平癒を京に伝える使者が出発していますから、発病から長引く病状まで後嵯峨院も棟子も聞いていたことになり、さぞ心配だったでしょうし、どんなにか安心されたことでしょう。

 十一月十一日、かねて新造していた親王の御所が完成し移られます。

 御所は、頼経の御所を取り壊して建てられました。頼経の御所は奥富敬之氏『鎌倉北条氏の興亡』に、「南門が正門で、宇都宮辻子(雪ノ下カトリック教会南の東西路)に面していたので、宇都宮辻子幕府あるいは宇都宮御所という。北門は呪師勾当辻子(清川病院北の東西路)に面しており、西は若宮大路よりやや退いていたらしい。東はいまの妙隆寺山門あたりに比定される」とあります。

 完成した宗尊親王の御所は同じく若宮大路の東側ですが、最北端の重時館の南隣となり、第二期若宮大路御所と呼ばれます。宇都宮御所を拡張したようです。かなり手をかけた豪華なもので、寝殿、広ノ御所、二棟ノ御所、中ノ御所、小御所、持仏堂、御厩、東西の両侍所、車宿、泉殿などのほか、東西南北の四門のうちには、池や南庭や、蹴鞠用の鞠ノ坪もあったといいます。

 ここがこれから《鎌倉の源氏物語》の舞台になっていきます。鎌倉ではすでに『源氏物語』を受容する環境が整っていました。

 はじまりは源光行でした。平家に仕えていた一族の光行は、歌人の藤原定家と一緒に、『源氏物語』のこの世の具現といわれる平家の王朝文化に親しんで育ちました。平家が滅亡して光行は京と鎌倉をつなぐ使命をもって鎌倉に下り、頼朝、頼家、実朝の三代の将軍に仕えます。頼家のころに『源氏物語』の校訂をはじめたと思われます。

 雅な文学『源氏物語』というと、武骨な鎌倉武士と関係ないように思われています。事実、今までの歴史関係の書ではほとんど縁のないものとして扱われてきました。が、鎌倉武士は大番役といって長く京に滞在する任務をもっていましたし、時には平家に仕え、主従関係まで結んでいますから、『源氏物語』的世界にまったく馴染みがないということはありません。

 それよりもまず、頼朝の父義朝が在京していたからこそ頼朝が京で育ったのであり、ということは、仕える多くの坂東武士もそこにいたわけです。在京が長引けば、自然、それぞれに別の人脈、すなわち平家や公家との繋がりもできてきます。京の文化を摂取して育つ若者も生まれます。

 このように御家人のなかには、京の雅を知っている人はたくさんいました。従来思われてきたような、鎌倉には雅を解する人はいなかったというのは間違いです。そこに光行が『源氏物語』の校訂をはじめたら、御家人たちも懐かしさから話題に加わり、拡がっていったとして当然でしょう。

 光行の校訂は光行の代では終わらず、子息親行に引き継がれます。十一歳の将軍頼経が雪のなかを騎馬で竹御所のもとに向かった折、供奉人のなかに親行と実時父の実泰がいました。その後、実泰は小侍所別当という、将軍御所に出入りする人々を管理する幕府機関の長になりますから、当然親行と頻繁に接します。その任を十一歳で引き継いで、今度は実時が親行と直接応対するわけですから、少年時代から実時は親行を知っていたことになります。

 さらにここに清原教隆という人物を投入すると、若き日の実時を取り巻く『源氏物語』の環境がみえてきます。

 清原教隆が鎌倉に下向したのは仁治二年(一二四一)です。道家の命で頼経に近侍するために派遣されました。仁治三年(一二四二)一月の四条天皇崩御の前年です。道家は翌年から運勢が下降することになるとは思いもよらず、外戚としての地位を誇っていました。子息頼経の凱旋上洛から三年後の、道家も頼経も前途洋々、意気軒昂の真っ只中の時でした。

 上洛を機に親子の絆が深まり、幕府に対抗する連携ができて、おそらく道家のそそのかしもあっただろう頼経の再上洛の要請が中止になったのは教隆下向の前年。派遣は、なにかそのあたりに深い意味がありそうです。教隆は四十三歳でした。この年、実時は十八歳です。頼経に近侍している親行は五十四歳です。

 親行の校訂はすでに六年目に入っています。教隆がそれを耳にし、興味を示しただろうことはごく自然な流れとして考えられます。また親行も、良経・道家等摂関家じきじきの薫陶を身につけた教隆の存在に無関心のはずがなく、二人の交流はおのずとなされたでしょう。

 じつは、今まで書いてきませんでしたが、良経も道家も九条家は『源氏物語』に一家言を持ち合わせる『源氏物語』の権威です。教隆は実時に漢籍を伝授した漢学者として伝わっていますが、当然、教隆も『源氏物語』にひと角の知識はありました。

 ここにおいて、西の青表紙本系統と東の河内本系統それぞれの研究者どうしのあり得べくもない交流が実現したのでした。この状況に、文人政治家として名を残す実時がおのずと惹きつけられて加わっていったとしておかしくないでしょう。

 教隆と実時の交流の初見は宝治元年ですが、すでに仁治二年のこのあたりから実時がこの場に居合わせることがあったとしたら。そうだとすると実時はみずみずしい若侍の感性で時の最高知識を享受したことになります。後年実時が『尾州家河内本源氏物語』に奥書を残した土壌はここで培われたのでした。

 実時には『異本紫明抄』(現・『光源氏物語抄』)という、鎌倉で編纂された『源氏物語』の註釈書の編者ではないかといわれる業績があります。ここに教隆が先生として登場し、編者の「今案」者が教えを乞うて問答しているのです。鎌倉で行われていた源氏物語研究のひとつの実態が窺われます。

 教隆は宮騒動のあとも鎌倉にとどまり、以後、実時の漢学の師として名を残すことになります。

 建長五年(一二五三)十二月、京で仙覚が後嵯峨院に『万葉集』を献上します。これは「寛元本万葉集」で、それまで点けられていなかった百五十二首全部に訓点が点け終わった画期的な『万葉集』です。この写本の完成直前に京に送還された頼経に、上洛して再会した仙覚が献呈し、頼経の仲介で後嵯峨院への献上になったのだと思います。

建長六年(一二五四)十二月、宗尊親王が下向されて二年後の冬、『吾妻鏡』にこういう記事が現れます。親王は十三歳になっていられます。

 

  十二日 今日、御所で評定が行われた。その後、相州(北条時頼)が召し
  により(宗尊の)御前に参られた。あらかじめ酒肴が準備されており、
  御一門の若者、ならびに佐渡前司(後藤)基綱・和泉前司(二階堂)行方・
  前太宰少弐(狩野)為佐以下の宿老が多く祇候していた。魚鳥などをその場
  に召し出され、壮士らに料理させた。時頼は特に興に入られたという。
  御酒宴はほとんど歌舞の儀に及んだという。

 

  十八日 御所で『光源氏物語』の御談議が行われ、河内守(源)親行が祇候した。

 

 と、この二つの記事をどう読むかですが、私はこう読み取りました。時頼は酒宴の返礼に何をしたらいいか考えて実時に相談した。実時は宗尊親王の生い立ちを光源氏と同じだと痛切に感じ不憫を覚えていましたから、この際『源氏物語』の講義をするのもいいのではと答えます。

 時頼は納得し、実時に進行を任せます。実時は親行に話をもっていき、談議をすることを勧めた。そうして実現したのが十八日の「御所において御談議あり」の記事なのではないか、と。

 実時にはそう感じる感性に加えて、教隆・親行と培ってきた『源氏物語』への造詣、そして、それを実行に移す小侍所別当としての権限が備わっていました。

 親行の源氏学者としての立場ですが、学者としてはかなり一途な情熱家です。親行にとって『源氏物語』はただの学問ではなく親行の人生そのものなのです。切実に生きる人間へのいとおしみなのです。

 それは、「河内本源氏物語」を完成した暁の親行の奥書に現れています。

 宗尊親王に御談議を進講した翌建長七年に親行は「河内本源氏物語」を完成させます。鳳来寺本『源氏物語』の識語をご紹介します。

 

  嘉禎二年二月三日ニ校書ヲ始メ、建長七年七月七日、其ノ篇ヲ果ツ。時ニ
  雁字終点ノ朝也。更ニ紫式部ノ往情ヲ暗ンズ、牛女結交ノ夜也。遥カニ驪山
  宮ノ昔ノ契リヲ思ヒ、翰ヲ染メ、牋ヲ操リテ、慨然トシテ記ス。
  朝儀大夫源親行 (花押)

 

 建長七年七月七日の朝、「河内本源氏物語」の完成をみた親行の胸をよぎったのは、まず紫式部のことであり、それから七夕の夜に関わって玄宗皇帝と楊貴妃のことでした。『源氏物語』なのですから、例えば光源氏とか紫の上が挙げられてもいいところを、親行の胸に浮かんだのは玄宗皇帝と楊貴妃なのです。これほどに深く『源氏物語』は親行に浸透しています。

 こういう親行の、人の愛の切実さ美しさを堪能させる『源氏物語』の講釈を聴かれた宗尊親王には、十三歳の少年の身にも感じることがあったのではないでしょうか。宗尊親王の『源氏物語』への愛好はここに端を発したのかもしれません。

 そして、時頼ですが、「河内本源氏物語」完成の報告を実時から受けた時、時頼の胸には母松下禅尼から聞いていた定家の「青表紙本源氏物語」の話が去来したのではないでしょうか。

 「青表紙本源氏物語」は、時頼の父時氏が六波羅探題に就任して上洛した翌年に完成しました。一家は定家と交流がありましたし、松下禅尼は紫式部が仕えた上東門院を信奉してやまない女性ですから、在京中には当然一家で何度も定家宅を訪問し、「青表紙本源氏物語」も見せて貰っているでしょう。

 その時、まだ二、三歳の時頼も松下禅尼に抱かれながら、時には手を延ばして触りたがるのを「だめよ」と注意されたりしながら、時頼も見たはずです。

 松下禅尼は鎌倉に帰るにあたって『源氏物語』を入手し、大切に持ち帰ったことでしょうし、遠くなってしまった上東門院のいられた京を偲ぶよすがに『源氏物語』を愛読したことでしょう。実際に経時・時頼兄弟が読んだかどうか判断つきませんが、妹の檜皮姫とは母娘で感動をともにする生涯だったでしょう。

 政治の表舞台からはとうてい想像つかない時頼の『源氏物語』環境はこのようでした。実時の宗尊親王への進講試案に、時頼も大いに頷いて許可を与えたことだったでしょう。時頼は鎌倉の『源氏物語』における陰の司令官なのでした。

 

 

《参考文献》

『増鏡』

現代語訳『吾妻鏡10 御成敗式目』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡11 将軍と執権』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡12 親王将軍』吉川弘文館

織田百合子『源氏物語と鎌倉』銀の鈴社

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2025.2.16 『北条時頼と源氏物語』第八章 第五代将軍頼嗣と北条時頼

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました。
第七章までの掲載は以下の通りです。
左側にあるカレンダーの日付をクリックしてください。
 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
 2025.2.10  第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】
 2025.2.11  第五章【第五代執権北条時頼へ】
 2025.2.12  第六章【第五代執権北条時頼と道元】
 2025.2.15  第七章【第五代執権北条時頼と蘭渓道隆】

 

『北条時頼と源氏物語』

第八章 第五代将軍頼嗣と北条時頼

 

 建長寺が創建された年の前年、建長四年(一二五二)四月に、後嵯峨院皇子宗尊親王が第六代将軍になるべく鎌倉に到着されました。十一歳でした。鎌倉幕府悲願の皇族将軍がようやくここに叶ったのです。

 第三代将軍実朝が暗殺された後、政子をはじめとする幕府は後鳥羽院皇子の下向を望みますが受け入れられませんでした。代わりに下られたのが九条家出身の頼経でした。道家の息、すなわち摂家将軍です。頼経は第四代将軍となり、子息頼嗣が第五代将軍となります。

 ここから話が遡ります。というのも、頼嗣が京に送還されることになったから、皇族将軍宗尊親王が実現したのです。では、なぜ、頼嗣は送還されたか。その原因は遠く頼嗣が頼経から将軍職を引き継いだその時すでにはじまっていました。いえ、もっと遠く、仁治三年(一二四二)正月の四条天皇崩御の時から。

 仁治三年というこの年、経時は十九歳、時頼は十六歳です。執権は第三代泰時でした。四条天皇崩御が十二歳というまだ皇子のいない少年だったために、次の帝をどなたにするか、鎌倉幕府と京の公家方たちとのあいだで意見が分かれます。

 道家をはじめとする公家方は順徳院皇子の忠成王を望みますが、幕府は承久の乱に加担した順徳院の皇子だけは避けたい意志をもっていました。それで決定したのが、同じく後鳥羽院皇子でありながら、順徳院のようには乱に加担しなかった土御門院の皇子でした。

 後嵯峨天皇の誕生です。ですから後嵯峨天皇は幕府に恩を感じておられ、皇子の将軍下向を望まれた時、後鳥羽院のようには拒否されず、幕府の意向に添って宗尊親王の下向を許されたのでした。

 道家は四条天皇の外祖父、すなわち天皇の外戚で朝廷の最大実力者でした。後嵯峨天皇の即位はすなわち道家の朝廷における権力の失墜となり、この時から鎌倉幕府との表には出ないながらも陰陰滅滅とした対立、守備攻防戦がはじまります。

 鎌倉では、はからずも朝廷の天皇を決定したことの重圧に耐えかね、心労の積もった泰時が病に伏して、五月に亡くなります。翌日すぐに経時が第四代執権に就任しました。その経時のとった強硬策が、将軍の交代劇。頼経を廃し、六歳の子息頼嗣を将軍にしたことでした。頼経の将軍としての力が増大し、無視できなくなってきたことへの対処です。

 頼経の周辺には、初代執権時政の後継者を自負する反執権派の名越北条氏がいました。そして黒幕として京から指令を送る道家がいました。道家は、名越北条氏を執権とすることで、鎌倉幕府を掌中に収めようと企てていました。

 頼経は天福二年(一二三四)に正室竹御所を失ったあと、藤原親能娘と結婚し頼嗣をもうけています。上洛した歴仁元年(一二三八)には伴っているようすはありませんから、結婚はその後でしょう。頼嗣の年齢から推して下向直後……。

 というか、頼経は京で公卿藤原親能の娘と結婚して一緒に鎌倉に帰ったとみるべきなのでしょう。姉に坊門信清長男の忠信に嫁いだ女性がいて、忠信は実朝室の信子の兄という係累の方です。つまり、義兄の妹が実朝室という女性です。

 頼経の再婚のお相手は京の女性だったのです。大宮局と呼ばれています。ということは、宮廷に出仕していた女性でしょうか。

 後嵯峨天皇中宮が大宮院です。後深草天皇や亀山天皇の母君です。もっとも頼経が上洛した年は四条天皇の時代で、大宮院どころか後嵯峨天皇もまだ即位されてませんが、姉に宜秋門院大宮局という方がいられます。

 もともと北条氏に両親を殺された竹御所を正室にした頼経です。竹御所から北条氏に対する復讐の念のような思いを告げられていた頼経に、執権家に対してよくない思いが巣くっていて当然です。それに乗じて道家のそそのかし。そして名越北条氏の取り巻き。

 二十七歳になっている頼経は、もう三寅として二歳で鎌倉に下向してきた幼い頼経とは別人です。さらに傍らには京の女性……。しかも公卿の娘で誇り高き宮廷出仕の経験者……。頼経を巡る環境が手にとるようです。

 寛元二年(一二四四)、頼嗣は将軍に就任します。が、頼経は将軍を辞したあとも頼嗣の背後で院政のような力をもって、大殿として鎌倉に君臨しつづけます。そのために、頼経に対して次にとった経時の強硬策が、頼嗣と妹檜皮姫との結婚でした。竹御所の死去で切れていた将軍家との外戚の縁を、経時は取り戻そうとしたのです。

 寛元三年(一二四五)、頼嗣は檜皮姫と結婚します。頼嗣は七歳、檜皮姫は十六歳でした。

 このあたり、頼経が十三歳で二十八歳の竹御所と結婚したこととオーバーラップしますが、事情は違います。頼経と竹御所は北条氏のなかで人質のようにして育った二人が、互いの孤独を労わり合っての心と心の繋がった結婚でした。頼嗣にそうした事情はみられませんから、二人の結婚生活はどうだったのでしょう。

 父時氏が六波羅探題の任を終えて鎌倉に帰る時、檜皮姫はまだ生まれてなく、松下禅尼のお腹のなかでした。鎌倉に着いて生まれたのですが、その時にはもう時氏は病に伏しており、生前に檜皮姫の顔を見たかどうかわからないといいます。

 その檜皮姫が成長して将軍の正室になったのでした。

 檜皮姫はどこに住んでいたのでしょう。

 秋山哲雄氏「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」によると、執権になった経時は、鶴岡八幡宮の門前、若宮大路の東、小町大路の西という泰時邸の北半分を継承し、時頼は小町大路をはさんで経時邸の東に隣接する、現在の宝戒寺あたりに住んでいたそうです。

 高橋慎一朗氏によると、これは、時頼がゆくゆくは連署として経時を支えることを期待されている証の位置関係だそうです。

 未婚の檜皮姫が母松下禅尼とともに暮していたとしたら、それは甘縄。丹後内侍に会いに頼朝がお忍びで訪れた邸であり、松下禅尼が祖母丹後内侍に憧れ思いを馳せて少女時代を過ごした邸です。そこで檜皮姫も育ったとしたら、檜皮姫もまた松下禅尼のように丹後内侍を慕い、さらに竹御所の話題も耳にしたでしょう。

 おそらく檜皮姫は情愛こまやかな女性だったことでしょう。なにしろ上東門院を慕って仏教に深く帰依し、『徒然草』に質素で聡明な女性と描かれる松下禅尼の娘です。だとしたら、竹御所にならって、年の差はあれども頼嗣と仲良く、頼嗣のためによかれと思うことをして差し上げられるいい夫婦になろうと覚悟して嫁いだと思います。

 決して、『源氏物語』にみる葵の上のようではなかったと思います。そういえば、檜皮姫も松下禅尼に教えられて上東門院に憧れを持ったかもしれないし、『源氏物語』を愛読したかもしれません。将軍の正室になるということは、檜皮姫もまた松下禅尼と同じに、他と共有することのない孤高の立場を引き受けるわけですから。

 松下禅尼は自身が六波羅探題時代に得た教養と経験を生かして、娘のためによかれと思って、渾身の思いを込めて、将軍の正室となる檜皮姫に伝えるべきものを伝えようとしたと思います。

 そのあたり、想像すると、甘縄の邸宅で、檜皮姫に『源氏物語』を教材に母が娘に上東門院の教えを諭す、ちょうど国宝「源氏物語絵巻」の浮舟巻にみるような光景が繰り広げられたかもしれません。

 檜皮姫の婚姻は『吾妻鏡』にこう記されます。

 

  七月二十六日、戊午。晴れ。今夜、武州(経時)の御妹(檜皮姫という。年は十六歳)
  が将軍家(頼嗣)の御台所として御所に入られた。(中略)。これは正式の儀を
  とらず、密儀としてまず参られ、追って披露の儀を行うという。

  今日は天地相去日である。先例があるとはいえ、全く感心しないと非難する者がいたが、
  容れられず、(婚儀を)行われたという。

 

 なにか不穏な感じのする記述です。北条氏が将軍家の外戚になるための婚姻ならばもっと晴々しく堂々としたお披露目をすればいいのにと思うのは、当時の婚姻の風習を知らない現代人の感覚でしょうか。

 その後、『吾妻鏡』に頼嗣と檜皮姫が夫婦として二人並んで登場する場面はありません。竹御所が頼経の牛車に同乗して永福寺に行ったなど、仲睦まじい記述が随所にみられるのと対照的です。

 これは、頼経と頼嗣とでは条件が違うから当然といえば当然なのかもしれません。頼経の場合は、二歳で両親から引き離されて鎌倉にきたという天涯孤独な環境。そして、十三歳というある意味大人の仲間入りできる年齢に達していました。けれど、頼嗣には大宮局がついていて、しかも七歳。母離れ子離れができていなくて当然の状況です。

 そして、『吾妻鏡』に次のような記述が生まれます。寛元三年(一二四五)九月九日の条で、檜皮姫が嫁いで一ヵ月半ほどたってのことです。

 

  将軍家(頼嗣)の御病気について、心を込めた祈祷の功験によって快復されると、
  御母儀の二品(大宮局)が夢想した。そこで頼嗣は、病床で大納言法印(隆弁)
  が修する行法の壇の際まで進み、二拝された。

 

 頼嗣が病気になったのは八月。檜皮姫が御所に入ってまだ一か月とたっていない頃です。病気は邪気でした。結婚が少年頼嗣には気苦労だったのでしょうか。母親と離された上に、知らない大人の女性が入ってきたのが怖かったのでしょうか。

 この時、頼嗣と大宮局は同じ御所に暮してはいません。檜皮姫との婚姻に際し、その二か月前の五月に、頼経は頼嗣に御所を譲り他所に移っています。ですから頼嗣が病気になった時、側にいたのは檜皮姫のはずです。

 が、病気が長引き、大宮局が看病に移ってきていたのでしょうか。それとも、幼い頼嗣のために頼経だけが他所に移って、大宮局は残っていたのでしょうか。

 そして、この記述ですが、「心を込めた祈祷の功験によって」の箇所に、「来たばかりの檜皮姫に任せておけない。母親の私でなければ無理」の大宮局の矜持、御所のなかでの存在感を感じてしまうのは私の思い過ごしでしょうか。

 その後も頼嗣と檜皮姫の仲がよかったと感じさせる記述はありません。

 そのうちに、翌年の寛元四年二月に檜皮姫は病気になり、その時は快復したようですが、翌宝治元年(一二四七)四月、再び病に伏し、五月に亡くなります。十八歳でした。

 思うのですが、大宮局は頼嗣を囲い込んで、意図的に檜皮姫から離していたのではないでしょうか。

 これは単に息子を奪われたくないという嫁姑の問題ではありません。

 思い出して下さい。大宮局は京の女性です。父親は道家と近しい公卿。鎌倉に下るにあたり、父親から道家の倒幕計画を知らされていたかもしれません。その一端を担ぐよう言われていたかもしれません。さらに、自身も宮廷に仕えた女房出身。一筋縄でいく女性ではありません。さらに、竹御所から反北条氏を吹き込まれた頼経と結婚して、自身もまた反北条氏に凝り固まっている女性とみていいでしょう。

 檜皮姫はその北条氏なのです。大宮局が快く受け入れるわけがありません。松下禅尼から将軍の正室としての心構えを教育され、将軍家と北条氏のかけ橋となるべく覚悟してきた檜皮姫に、これは相当応えたに違いありません。その結果が、病。『吾妻鏡』には「御邪気」と記されます。

 時頼の心配も伝わっていて「左親衛(時頼)は特に嘆いているという」と記されています。『吾妻鏡』にこういう個人的感情のみえる記述は珍しく、私には頼朝が丹後内侍を心配して見舞ったのと重なって見えてしまいます。

 泰時は頼朝の時代を規範にしたそうですから、あるいは『吾妻鏡』の編纂にもその意識が表れ、時頼を頼朝化する潜在的な意図がはたらいたのでしょうか。

 それにしてもここにおける「嘆く」は尋常ではありません。心配を通り越し、すでに手遅れの感があります。状態がかなり緊迫していたのでしょう。

 松下禅尼のことは記されていませんが、母として看護に付き添うことを許されたでしょうか。それとも将軍の御台所として将軍家で看病しますからと、御所に入ることも拒絶されていたでしょうか。松下禅尼の心配、苦悩は如何ばかりだったでしょう。

 檜皮姫の「御邪気」は現代でいう鬱病ではないでしょうか。身心共に疲れ果てての精神障害でしょう。これは真面目で責任感の強い人ほどかかる病だそうです。重度の鬱病は生命の危険に至ります。

 松下禅尼の娘に育って比企氏あるいは安達氏特有の生真面目な性質を継ぎ、将軍の正室として将軍家に入った檜皮姫の前に立ちはだかった大宮局という壁は、乗り越えるにはあまりに強大過ぎました。

 が、時頼と松下禅尼にはもう一つの悲劇が同時進行で起きていました。経時です。

 じつは、寛元四年二月の檜皮姫の最初の病気の直後、三月に経時も病に伏し、危篤に陥っているのです。幕府の内部で深秘の沙汰が開かれ、時頼が第五代執権になりました。そして四月、経時が亡くなります。

 そこに名越光時らの謀叛が発覚し、七月の宮騒動にまで発展。中心にいた頼経が京に送還されました。

 将軍頼嗣は、母大宮局とともに鎌倉に残りました。

 頼経の送還は、京の道家をパニックに陥れます。道家は頼経らの陰謀に自分は関与していないとの起請文を書きますが時頼は許さず、道家の関東申次を更迭、その時道家の権力は失墜、終焉をみたようにみえたのでした。

 というのは、のちに再び道家の黒幕的存在が浮かび上がってくるのです。

 が、ともかくこれら一連の事件のあと、時頼は幼い将軍頼嗣をたてて、新たな鎌倉幕府の政治を行おうと誠実な行動にでます。頼嗣のために酒宴を催したり、笠懸を行ったりするのです。

 高橋慎一朗氏は『北条時頼』にこう書かれます。

 

  時頼は、将軍頼嗣を頂点にいただき有力御家人と北条得宗家で支えていくという
  幕府のあるべき姿を、儀礼の面でも人々に示そうとしたのである。

 

 この時の御所ですが、頼嗣には正室檜皮姫がいて、大宮局がついていました。頼経を京に送還させられた大宮局は、時頼の強権に震撼したでしょうか。それとも逆に北条氏へのさらなる恨みを募らせ、ふつふつと怒りをたぎらせたでしょうか。

 檜皮姫に対して、それはどのような影響となって出たでしょうか。『吾妻鏡』にそれは書かれていませんが、翌宝治元年四月に檜皮姫は重度の鬱病に陥り、回復することなく五月に亡くなったのでした。佐々目谷の経時の墳墓の側に葬られたといいます。

 北条氏では二年続けての佐々目谷への埋葬です。そこには痛恨の思いに打ちひしがれ茫然自失の思いで檜皮姫の弔いに臨む時頼と松下禅尼の姿があったことでしょう。

 そして六月、宝治合戦が起きます。

 これはひと言でいって、時頼の外戚としての権威を確立したいがために安達氏が起した合戦です。時頼は安達氏の意向を汲み取りながらも、頼朝の幕府創設以来の家臣三浦氏をを討つのは極力避けたく思っていました。

 が、三浦氏は頼経を支持する反時頼派です。安達氏の深慮遠望的な行動ではじまってしまった合戦では時頼も回避し切れず、三浦氏を滅ぼしたのが宝治合戦です。

 その後、時頼は「いよいよ本格的な政権運営を新たにスタートさせる」ことになり、寄合を開いて決議したのが、「公家のことを特に尊重するように」でした。

 これは、時頼を語るのに重要なことと思います。私はこれが鎌倉武士でありながらの時頼の本質と思います。どうして剛腕政治家とか、そのような面ばかりが強調され、大事なこのことが伝わっていないのか不思議です。

 六波羅で生まれ育った時頼には、京の文化、京の存在自体が、日本の根幹ということが理解されているのです。時頼は二十一歳になっています。

 宝治二年(一二四八)五月、長男の時輔が生まれます。母は讃岐局という将軍家に仕えた女性です。讃岐局は檜皮姫の悲劇をどう見守っていたのでしょう。あるいは、時頼は讃岐局から御所のなかでの話を具体的に聴いていたからこそ「嘆いた」のかもしれません。讃岐局が味方になって檜皮姫を支えて差し上げていたのだとしたら少し救われます。

 建長元年(一二四九)の末ごろ、時頼は北条重時の娘と結婚。正妻で、時宗の母となる女性です。この年に建長寺の建立がはじまっています。

 建長二年(一二五〇)ころのことを、高橋慎一朗氏は『北条時頼』にこう書かれます。

 

  時頼は、十二歳となった将軍頼嗣の教育にも心を配っていた。頼嗣の母は鎌倉に
  残っていたものの、父頼経は京都へ追放されており、妻の檜皮姫も病死していた。
  頼嗣の義兄にあたる時頼は、数少ない親族としても頼嗣の成長を見守る立場に
  あったのである。

 

  二月二十六日、時頼は頼嗣に手紙を送って、文武の稽古に励むようすすめると
  ともに、学問の師として中原師連・清原教隆を、弓馬の師として安達義景・小山長村・
  三浦光盛・武田信光・三浦盛時を御所に待機させて、常に教えを受けるように、
  と助言した。

 

  五月二十日には、頼嗣が、中国の帝王学の教科書として名高い『帝範』の勉強会を
  開き、学問に通じている清原教隆や時頼が参加した。これは、時頼の勉学のすすめに
  頼嗣が応えたものである。すると今度は時頼が二十七日に、著名な中国の治世の書
 『貞観政要』を書写させたものを、頼嗣に進呈している。次はこれを勉強なさい、
  ということであろう。

 

 ここにはなんと麗しい光景が描かれていることでしょう。

 頼嗣は父を送還し、京の祖父までも権威を失墜させた時頼を恨むことなく、素直に時頼の勉学の薦めに従っているのです。大宮局の他に頼る人物のいない頼嗣には、事件があったとはいえ、その後の対処に誠実な行動をみせる時頼を第二の父として信頼していたのでしょうか。

 複雑怪奇な両親頼経や大宮局に育てられ、歴史に翻弄されながら、案外頼嗣は素直な少年に育っています。気が弱い大人しい性格なのかもしれません。この頃に檜皮姫が嫁いでいたら、あるいは竹御所と頼経のように上手くいったかもしれません。

 けれど、そういう平和は長く続きません。

 と、ようやく冒頭で遡った歴史から、宗尊親王の鎌倉下向直前の時代に戻ってきました。

 建長三年(一二五一)五月、産所となった松下禅尼の甘縄の邸宅で時宗が誕生します。長男時輔がすでに生まれていますが、正妻重時娘から生まれた時宗は、母が懐妊したその時からすでに時頼の後継者になる運命に定まっていました。

 この年の十二月に事件は起きます。

 といっても、それは水面下で起きていて、表立っての『吾妻鏡』の記事はありません。村井章介先生をはじめとする方々が、記事から背後関係を読み解かれての事件です。

 それに道家が関連してきます。まず、唐突に、足利泰氏が出家します。それから、千葉氏出身の了行という僧が謀叛の疑いで捕らえられました。千葉氏は、宝治合戦で三浦氏とともに敗者となった一族です。この二つを繋いで事件を推測されたのが村井章介先生です。

 了行は九条家の大御堂の僧で、九条家には送還されて京に戻っていた頼経がいます。了行は九条家の勧進という隠れ蓑で、謀叛の同志を集めて回っていたのです。

 つまり、黒幕に道家・頼経親子がいて、寛元・宝治の政変で敗残者となった者たちを集めて頼経を将軍に戻し、執権を足利泰氏につけようとした謀叛が企てられていたのです。

 この情報を時頼は早くから得ていて慎重に事を進め、泰氏には内々でばれていることを知らせて出家に追い込み、足利氏の立場を守ったのでした。なので、この後も泰氏を除く足利氏は何事もなかったように安泰です。このあたり、ぎりぎりのところまで宝治合戦の火蓋を切るのをためらった時頼の穏便主義がよくでています。

 時頼という人は、よくよく周囲の人の立場をよかれと思って配慮する人のようです。

 が、こと道家に関しては、この時時頼にも限界が訪れます。時頼は、「頼嗣を将軍にふさわしい人物に育成しようと必死に努力してきていたが、頼嗣が将軍の地位にあるかぎり父親頼経の政治的影響力を排除できないことがわかり、ついに見切りをつけた」のでした。

 建長四年(一二五二)二月、時頼は動きます。

 

  二月二十日、二階堂行方と武藤景頼が、鎌倉から京都へ向かった。これは、「現将軍
  頼嗣を解任し、後嵯峨上皇の皇子の一宮(宗尊親王)か三宮(のちの亀山天皇)の
  どちらかを、新たな将軍として下向させてほしい」と、時頼と重時が上皇に申請する
  ための使者であった。申請の手紙は時頼みずからが書いて署名し、重時のみが署名に
  加わったもので、他の者は一切知らされていなかったという。極秘中の極秘事項を、
  時頼がほぼ独断で決行したのである。(『現代語訳 吾妻鏡』)

 

 奇しくもその翌日、京で道家が亡くなり、これで九条家による執権家との攻防は幕を降ろしたのでした。死因は謀叛が失敗したことの衝撃によると推測されています。

 時頼の要請を受けて朝廷では一宮と三宮のどちらにするか討議しますが決まらず、幕府に決定を委ねます。そして、時頼と重時によって十一歳の宗尊親王の下向が決定したのでした。

 三月、朝廷で宗尊親王の下向が正式に決まります。十九日にはもう京を発って鎌倉に向かったのでした。この間の状況を頼嗣はどこまで理解していたでしょう。時頼が極秘に京に使者を送ったのは知っていたでしょうか。

 おそらく、了行逮捕の時から、運命の転回、時頼をはじめとするおのれの立場への翻意は予期したでしょう。宗尊親王の下向が決まるよりも前に、頼嗣は将軍職を追われることを察知していたことでしょう。

 それがどれほど受け入れ難い過酷なことか、その立場になったことのない人間にわかるはずはありません。一時は怒り狂い取り乱したかもしれません。でも、どう理不尽を訴えても、どう弁明してもあがいても、一旦狂ってしまった人生の歯車は戻しようがないのです。

 それがわかって、最後には大人しい少年頼嗣に戻り、不安や人間不審に陥ることも止め、自身の運命を静かに受け入れる覚悟ができたと思いたいです。

 おそらく大宮局はそうはならなかったでしょう。

 宗尊親王が京を発ったのとほぼ同じ頃の二十一日に頼嗣は御所を出て、一旦北条時盛の佐助の邸宅に移ります。

 四月一日、宗尊親王が鎌倉に到着し、時頼邸に入りました。しばらくはここの寝殿が将軍御所になり、連日宴会が催されます。

 その華やかさを尻目に、三日、頼嗣は鎌倉を発って京へ向かう旅路につきました。『吾妻鏡』にはこう記されます。

 

  今日、前将軍(頼嗣)と若君御前、御母の二位殿らが上洛された。そうしたところ、
  先月二十一日(御所を出られた)も今日も重復の日であり、まことに憚りがあると、
  陰陽道が申したが御許容にはならず、とうとう出発されたという。

 

 この報らせを松下禅尼はどう受け止めて聞いたでしょう。

 頼嗣出立の場所には檜皮姫の霊がそっと見送っていたでしょうか。

 頼嗣は十四歳になっていました。歴史に翻弄されることしかなかった頼嗣の将軍としての時代はこうして終わりました。

 四年後の康元元年(一二五六)八月、赤痢を患って頼経が亡くなり、翌月、同じく赤痢で頼嗣が短い生涯を閉じました。十八歳でした。

 

 

《参考文献》

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

村井章介『北条時宗と蒙古襲来』日本放送出版協会

現代語訳『吾妻鏡11 将軍と執権』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡12 宝治合戦』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡13 親王将軍』吉川弘文館

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2025.2.15 『北条時頼と源氏物語』第七章 第五代執権北条時頼と蘭渓道隆・建長寺建立

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました。
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 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
 2025.2.10  第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】
 2025.2.11  第五章【第五代執権北条時頼へ】
 2025.2.12  第六章【第五代執権北条時頼と道元】



『北条時頼と源氏物語』
第七章 第五代執権北条時頼と蘭渓道隆・建長寺建立

 何故、時頼が、禅宗を選んだか。それは、禅宗が心の問いに応えてくれる宗教だったからではないしょうか。道元を介して時頼はその事を知ったのだと思います。

 たしかに仏教はお釈迦様が人間の苦悩を救うために開かれた宗教ではあったでしょう。けれど、時頼の時代にはもうそういう原始の仏教観は失せ、僧侶という立場の方々は、天皇や幕府・執権といった時の権力者と結びつき、護持・儀礼を司る役割が主体になってしまっていました。

 だから、この時代に、庶民を救おう、民衆にも心の平安をという、親鸞や日蓮の新仏教が出てくるのですが、禅宗はそれら旧仏教と新仏教のあいだにあってまた特異な感じでこの時代に広まります。

 特異なというのは、禅宗も心を救うのですが、その広まりが民衆でなく、かつまた公家や武士といった支配層でもなく、僧侶の方々そのもののなかになのです。ということは、僧侶の方々も何かに飢えていて何かを求めはじめていたのでしょうか。この時代の僧侶の方々の渡宋願望には、なにか渇仰といった狂おしいような全身全霊の熱意を感じます。

 その最初が栄西でした。

 栄西は二度の渡宋で臨済宗を持ち帰り、上陸した博多で普及活動をした後、京都に進出します。が、比叡山延暦寺等旧仏教勢力の壁に阻まれ、さらに下向して鎌倉に来ます。そして北条政子の信任を得て寿福寺の住持となり、その後、二代将軍頼家が京都に建仁寺を建てるとその開山になりました。建仁寺が京都における最初の禅宗寺院となるわけですが、そうはいってもその時はまだ禅・天台・真言の三宗兼学の寺院でした。

 道元は建仁寺で修行した人で、栄西の孫弟子にあたります。道元が栄西に会っているかどうかはたしかでなく、でも非常に尊敬していて、『正法眼蔵随聞記』にエピソードが綴られているそうです。

 栄西の弟子の明全が道元の師で、道元は明全と一緒に渡宋します。承久の乱の二年後のことで、道元、二十四歳の時でした。

 二人は師を求めて各地を転々としますが、明全は彼の地で果てます。道元は如浄禅師という師と出逢い、そこから本当の修行がはじまり、身心脱落という境地に達したそうです。

 道元が帰国したのは二十八歳です。それから京都で布教活動をするあいだに五十巻近い『正法眼蔵』を完成させ、四十四歳の時、越前に移って大仏寺を建立。その二年後に永平寺と改称してここに永平寺の歴史がはじまります。

 道元に越前に移ることを勧めたのが、当時六波羅探題にいた波多野義重でした。越前に義重の領地があったのです。義重は、宝治合戦で三浦氏を滅ぼした良心の呵責に耐えかねて苦しむ時頼のために、道元を鎌倉に招いた人物です。道元が蘭渓道隆に宛てた手紙に「檀越に要請されて」とあったその檀越です。

 義重が在京していて道元に帰依したところから時頼の禅宗との縁がはじまり、建長寺創建へとなってゆくのですが、こんなふうに一人の人の真摯な思いが、歴史上の大きなできごとの淵源だったって凄いですね。史実の外の歴史の偉大さを思います。

 それから、さらにまた道元の弟子二人が渡宋し、そこで蘭渓道隆と会って交流し、蘭渓道隆は日本に道元という禅僧がいることを知ったのです。それが道元と蘭渓道隆の往復書簡になりました。

 さて、ここから蘭渓道隆その人についてとなるのですが、寛元四年(一二四六)七月二十四日、蘭渓道隆は博多に上陸されます。

 それにしても、この方を書いた本の図書館や書店にないこと。驚きました。日本の禅宗の歴史は時頼が建長寺を創建したことからはじまるとか、建長寺は鎌倉五山の一位とかを聞いているかぎりでは、開山の蘭渓道隆について書かれた本は簡単に手にすることができると思っていました。それが、ないのです。

 仕方なく検索してようやく一冊、建長寺史編纂委員高木宗監氏著『建長寺史 開山大覚禅師伝』のあるのを知りました。が、それにしても、建長寺史。一般書ではありません。地元の図書館にあるはずがないので、仏教関係の書籍が揃っていそうな駒澤大学図書館に行ってコピーしてきました。

 なので、ここからの多くはこの書によります。そして、拝読しはじめて早々、私と同じ思いを、高木氏ご自身が持っていらしたことを知りました。引用して、紹介させて頂きます。

  建長寺開山大覚禅師の伝記は、開山寂後既に七百余年にもなるが、未だに
  纏ったものが世に出ていない。

  その証拠には、昭和五十九年十二月、東京吉川弘文館で発刊企画された
  日本仏教宗史論集(全十巻)は

   第一巻 聖徳太子と飛鳥仏教

   第二巻 南都六宗

   第三巻 伝教大師と天台宗

   第四巻 弘法大師と真言宗

   第五巻 法然上人と浄土宗

   第六巻 親鸞聖人と真宗

   第七巻 栄西禅師と臨済宗

   第八巻 道元禅師と曹洞宗

   第九巻 日蓮上人と日蓮宗

   第十巻 一遍上人と時宗

  となっていて、この全十巻は昭和六十年九月に完結されている。

  惜しいことに、日本に最も純粋な禅を伝え、且つこれを興隆した建長寺開山
  大覚禅師は、この企画の項目から外されているのである。

という状況が語られています。そして、金沢文庫の常設展展示解説に、「鎌倉時代には、栄西・法然・道元・日蓮・明恵・貞慶・叡尊・一遍等の高僧が、あいついで登場、庶民の救済に目をむけた仏教運動が、くりひろげられました」とあるのを見て、「金沢文庫の係員にさえも、大覚禅師に関する認識が如何に薄いかということを、つくづく感じた次第である」と書かれます。

 これでは蘭渓道隆という方が一般の方々の認識にのぼるわけがないですよね。

 最近思うのですが、書籍はそれに惚れ込んで出版する奇特な人がいないと出ないんですね。とても恣意的なもので、これは重要だからという義務で出るのではないんです。

 蘭渓道隆は、おそらく中国僧という言葉の壁と、それと禅宗そのものに一般の人の入り込めない厳しさいかめしさがあり、熱く惚れ込むには無理があるのでしょう。難しさでは同じでも、色彩に溢れた曼荼羅で視覚に訴え、神秘主義的な趣でもって若者の崇拝を得ている密教と対極です。

 でも、だからといって日本の禅宗史にこれだけの貢献をされた方が「ふつうに」知られないのはどこか間違っているというか、理不尽な気がします。なので、私みたいなものが言うのはおこがましい気もしますが、「熱く」語ってみたいと思います。

 蘭渓道隆はまだ宋にいた頃、月翁智鏡という渡宋した日本の僧侶と親交を深めていました。この月翁智鏡から、日本で禅宗が求められていると聞き、来朝の意志を持つようになったといいます。月翁智鏡は蘭渓道隆より二年早く宋を離れますが、帰国してまもなく京都市東山区の泉涌寺四世となる方です。

 寛元四年(一二四六)三月末、宋に日本の二艘の商船が着きます。それを知った蘭渓道隆は、日本の情報を得るために商船を訪れました。その時応対したのが佐藤親成という武士で、親成は「禅師が是非法縁を東方に開かれるよう」と来朝を懇願しました。それで、蘭渓道隆は日本に渡る機が熟したことを知ったのでした。三十四歳でした。

 蘭渓道隆に従った一行は、弟子の義翁・智光、居士の龍江・泰門・劉伯、乙護童子一人、行者数人、日本人僧塩田和尚の、計十二、三人でした。

 塩田和尚は信州の人で、別所の安楽寺開山樵谷惟僊といわれています。蘭渓道隆と非常に親密で、蘭渓道隆が月翁智鏡に招かれて泉涌寺に入られるまで、日本にあって万端の案内をしたそうです。のちに蘭渓道隆は塩田和尚を訪ねて信州安楽寺に行き、二十日間の滞在したほどの仲でした。

 と、それは先のことで、蘭渓道隆はまず博多では宋人の貿易商人建立による円覚寺の開山になって最初の布教活動をされます。ここで疑問なのが、言語の壁をどうされたのだろうということです。それについてはまた『大覚禅師伝』から引用させて頂くと、

 

   禅師の説法はどうしたかと言うと、当時の博多蓬莱町(所謂唐人町の
   意味で、貿易港で中国人が多く住んでいたのでかく言ったもの)に住
   んでいた李全貞という中国人が、禅師の話すそばから通訳して聴衆に
   伝えていた。又禅師の法語は、中国通の前記佐藤親成が、和文に訳して、
   信徒に配布していたのである。

 

ということです。

 驚きですね。当時の博多の状況は。現代と少しも変りありません。そして、なぞってきたこれだけみても、蘭渓道隆という方は、結構積極的、交際好きで、対した人にすぐ好かれて人望を集める力を持ってらしたようですね。現在私たちが抱いている禅師に対する畏怖ゆえの距離感と正反対です。

 約一年、蘭渓道隆は円覚寺で活動されたあと、九州各地を周られてから上洛、数ヵ月間泉涌寺来迎院に住します。泉涌寺四世になっていた月翁智鏡の招きによるものでした。泉涌寺でも熱心に宋風による法式・規矩を作成され、それが現在「泉涌寺式法式」として残っているそうです。

 それから鎌倉に下向されるわけですが、それもまたやはり月翁智鏡の助言によるものでした。依然として旧仏教勢力の強い京都での活動は無理と判断したからでしょう。

 月翁智鏡は寿福寺の大歇了心を紹介します。寿福寺には栄西以来の禅宗が引き継がれていました。蘭渓道隆は来迎院を去るにあたり、袈裟と錫杖を記念に置いていかれたそうです。

 この泉涌寺滞在のあいだに蘭渓道隆が道元宛に手紙をしたため、道元が鎌倉でそれを受け取り、時頼に蘭渓道隆という人の存在を教えたのでした。

 宝治二年(一二四八)、蘭渓道隆は京都を発ち、いよいよ鎌倉に入ります。鎌倉では寿福寺に落ち着きます。時の住職大歇了心は入宋経験のある人で、蘭渓道隆の到着のあり得ないほどの意義を深く心得る人だったから、感動して迎え入れたそうです。

 蘭渓道隆は寿福寺で、鎌倉での布教活動をはじめます。中国僧による純粋禅の関東における最初の布教です。その噂が時頼のもとに届きました。蘭渓道隆といえば、宝治合戦の罪の呵責に耐えかね苦しむ時頼がすがった道元に教えられた中国僧。その蘭渓道隆が鎌倉に!

 時頼は驚き、おそらく取るものも取りあえず馬で寿福寺に駆けつけたことでしょう。

 その時の寿福寺での邂逅は、時頼にとって感極まるものだったに違いないでしょう。

 お目にかかりとうございました。

 と、時頼はひれ伏したでしょうか。

 目を赤くして潤ませていたでしょうか。

 蘭渓道隆は静かに笑みを浮かべて対したでしょうか。

 惠果と空海のような出家者同士の邂逅ではないから、貴方が来るのを待っていたというような劇的な言葉が発せられることはなかったでしょうけれど、それに近い重さをそこにいた誰もが感じたことでしょう。

 この時蘭渓道隆は、三十六歳。時頼は、二十二歳でした。

 ここのところ、ドラマで観たいですね。

 道元が去ってから心の問題を訴える師がなく思いが鬱積していた時頼は、堰を切ったように寿福寺を訪れては禅師の教えを乞います。そしてその年の十二月、大船の常楽寺に住持としたのでした。

 蘭渓道隆が残した言葉に、時頼が宝治合戦をした事を咎める法語が残っているそうです。常楽寺に入持された翌年四月の灌仏会の際のものらしいのですが、直戴なこの戒めの言葉こそ、宝治合戦をしてしまった罪の苦しみに悶々とする時頼が欲しかった言葉ではなかったでしょうか。

 宝治合戦は、時頼の心の闇です。思えば、同じことを道元に訴えた時、「荒磯の浪もえよせぬ高岩にかきもつくべき法ならばこそ」という歌にみるように、「並みの罪でない重罪を犯した人間をも仏は救う」という言い方で応えられたのでした。

 時頼は救われたかったのではなかったと思います。そういう罪を犯した自分がどういう心がけで今後を生きていったらいいのか、それを知りたかったのでした。だから、しつこく、もっとわかって欲しい一心で道元を引き止め、怒らせてしまったのでしょう。

 蘭渓道隆は時頼の心を真摯に受け止め、悪いものは悪いと認め、だから今後それを犯すなと、実質の指導をしたのでした。心の闇を直視した言葉。時頼はほっとしたことでしょう。

 さらに、これは蘭渓道隆の自発的な言葉ではないでしょう。普段から二人でこの問題をとことん突き詰めて話し合っているからこその、疎かにはできない証の言葉です。

 常楽寺は三代執権泰時の持仏堂だった寺院で、境内に泰時の墓があります。大船というので、私には鎌倉とは離れていて別の地域というイメージがあったのですが、訪ねて驚きました。常楽寺 ― 小袋坂(時宗が一遍の一行が鎌倉に入るのを阻止した絵巻の場所) ―現在の北鎌倉駅前の、あの通りをほぼ一直線なのです。

 山ノ内というこの一帯に時頼の私邸があったそうですから、時頼が常楽寺に頻繁に馬で馳せるには簡単な場所でした。

 さて、十二月に開山蘭渓道隆を迎えた常楽寺は、翌年建長元年(一二四九)正月には百人の僧が来院し、それがどんどん溢れて、四月には寺地を広げて堂を新設するほどの盛況をみせます。

 時頼は、道元から禅を学ぶには入宋しないと駄目だということを聞いていました。そのためには博多に行って、そこで渡宋する船をみつけないと駄目だということも聞いていました。それがどれほど大変なことかがわかっていても、全国各地から入宋したい僧が博多に集結して、待つ人と、帰国した人と、それらの人を手助けしたりする人とで、博多はごったがえしていると、時頼は入宋経験のある道元から聞いていたのです。

 が、蘭渓道隆が常楽寺にいるということは。

 禅を学びたい僧は、入宋しなくても、わざわざ博多まで行かなくても、鎌倉に来さえすればそれが叶うのです。

 博多のごったがえしの賑わいが、常楽寺を中心にできていました。

 ここに時頼は勝算をみました。なにもすぐさま鎌倉を博多のような商売都市にするというのではなく、鎌倉を今までと違う高度な文化都市にする勝算が。時頼は、知性の人、理の人です。漠然と抱いていた進路に対する夢が、心の闇を払拭できた今、もう迷うことなく、逆に今度は明確な青写真を得て一直線に進みはじめます。

 とりかかったのが蘭渓道隆を開山とする建長寺の建立でした。今まで誰も見たことのない中国様式そのものの大伽藍が一堂に並ぶ巨大な寺院の建立を。これは、時頼が禅の世界のありようを道元から聞いて知っていたからこそ不安なく、間違いなく、できた判断でしょう。

 それからの時頼の行動は迅速です。

 まず経験者として、九条道家の帰依を得て寛元元年(一二四三)に東福寺を建立し開山となっている円爾に相談を持ちかけます。それが建長元年正月二十一日ですから、蘭渓道隆が常楽寺に入寺し、正月に百人の僧がといった状況を見て、そうそうにもう時頼は動いたことになるのですね。

 そこから円爾と蘭渓道隆の交流もはじまり、歴史上の思いがけない三人の連携プレーによって建長寺の建立が着々と運ばれました。

 それにしても、建長寺建立の陰に東福寺ありとは。

以下、『建長寺史 開山大覚禅師伝』から引用列挙させて頂きます。

 

  建長元年十一月廿一日、建長寺造営のための地鎮祭が行われる
  と、幕府から動員された大勢の人夫によって、毎日のように周
  囲の山巌が切崩されて行き、小袋の地、地獄が谷、刑場の跡地は、
  急に騒々しくなった。しかし、新寺建立のための活気が、至る
  所に満ち満ちて来た。

 

  かくて起工後、三年に近い年月を経過した、建長三年(一二五一)
  十一月八日には、早くもその大伽藍がほぼ竣工したのである。

 

  そこで、執権時頼は非常に喜んで、大覚禅師と相談して其の年、
  即ち建長三年十二月十四日の吉日を選んで、「建長寺入仏式」を
  行うことになった。

 

  今や施主時頼公の熱誠と開山大覚禅師の徳望によって、人々の予想
  だにもしていなかったこの大殿堂、大伽藍が木の香も新しくここ
  小袋の地に、燦然として輝くようになった。

 

  入仏式当日は、大覚禅師は百人の警固の武士に守られ三百五人の
  僧徒と三人の庵者を従えて辰(午前八時頃)の刻常楽寺を出発、
  途中行列を作って巨福山に入った。時に午の一刻(午前十一時頃)
  である。本日のこの盛大な入仏式の練供養に、参加することのでき
  た警固の武士、及び令人(楽人)は、一般参加者と共に、今更の如
  く大覚禅師の徳を称えると共に、この建長寺造営の大事業を完成し
  た、施主時頼公の偉勲を称賛せざるを得なかった。

 

 ここのところ、映画のシーンで観たいですね。どんなにか晴れやかで、壮厳で、華麗だったことでしょう。

 ところで建長寺の完成は、『吾妻鏡』では建長五年(一二五三)十一月二十五日になっています。その落慶供養の記事をもってこの章を終わりにします。ここに、私などは、はるか遠く弥勒の世から微笑んで眺めおろしている上東門院の姿と、この当時まだ生存していた松下禅尼の二人の女性の影を感じてなりません。

 

  廿五日 建長寺の供養なり。丈六の地蔵菩薩をもつて中尊と
  なし、また同像千體を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまふ。
  去ぬる建長三年十一月八日事始あり。すでに造畢するの間、
  今日梵席を展ぶ。願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。
  導師は宋朝の僧道隆禪師。また一日の内に五部の大乗經を寫し
  供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝の萬歳、將軍家およ
  び重臣の千秋、天下の太平を祈り、下は三代の上將、二位家な
  らびに御一門の過去、數輩の没後を訪ひたまふと云々。

 

《参考文献》

現代語訳『吾妻鏡13 親王将軍』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡14 得宗時頼』吉川弘文館

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

高木宗監『建長寺史 開山大覚禅師伝』大本山建長寺

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2025.2.14 Twitter(X)から転載……『アルゴールの城にて』で華鏡の書き方への迷いを払拭できました

2月10日

おはようございます 華鏡の書き方で悩んでいたことが『アルゴールの城にて』で解決しすっきりした朝です それでブログを更新しましたが 長いです笑 写真は20112月 峰岸純夫先生に案内して頂いた称名寺裏山の北条実時墓所にての椿 四枚目はそこから見下ろした称名寺境内 奥に八景島シーパラダイスが

 

やっと華鏡の文体に辿り着き かかったら集中して書き切りたいので それまでに予定していたことのすべてを終わらせておこうと『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました 原稿はすでにできているものだから華鏡より先にkindle化できると思っていたのですが それももう止めて

 

2月11日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第五章【第五代執権時頼へ】をアップしましたが改めて読んで自分で面白いです 兄の第四代執権経時の早い病死で時頼の陰謀が疑われているのですが それを払拭する論考です 経時の墓所は早逝過ぎて自身の菩提寺を造る時間がなかったから不明です

 

笹目谷のどこかということしかわかりません そのどこかを知りたくて笹目谷を歩いてみました 2014年でした この谷戸には佐々目遺身院という寺院が鎌倉時代にはあって その跡らしいところから白磁の水注?などが発掘されていました それで興味を持って書いたのが『寺院揺曳』です

 

中々自分の時間が取れなくて読む時間が少ないけどでも浸って読めるのが久しぶりで至福 と考えて この浸って読むという事 鎌倉の源氏物語に携わってからもう十年以上絶えて無かったと気づく たった数分でも たった何十分でも 折に触れアルゴールの城にてを開いています

 

私は映画も物語も観たり読んだりしたあとすぐ忘れるたちで アルゴールの城にても何も覚えていないと思っていたら 読んでいると読んだその時の感覚が蘇って主人公のアルベールの歩行と一緒に城の中の情景がリアルによみがえる ああ これはこの小説だったんだ と

 

2月12日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第六章時頼と道元をアップしました これも再読していて懐かしく自分で言うのもなんですが面白いです 時頼と道元というより 道元と蘭渓道隆について書いています これが時頼の建長寺創建に繋がったかと 建長寺に近い巨福呂坂のトンネルを抜けた

 

所に道元の只管打坐の碑が建っています 建長寺の傍に道元の碑が? は何も知らずに鎌倉を歩いていたころには不思議でした 歴史を知ると 人間関係を知ると いろいろ深いです 建長寺から碑まで歩いたときの写真を載せますね

 

ブログにアップした『北条時頼と源氏物語』第六章【時頼と道元】に書いた『道元禅師全集』第十七巻法語・歌頌等です 源氏物語をお習いした高橋文二先生が歌頌の部を担当されていて戴きました 浪も引き風もつながぬ捨小舟月こそ夜半のさかひなりけり 道元のお歌です 詞書は 正法眼蔵を詠ず 高橋

 

文二先生の解釈が素敵で 長いですがご紹介させて頂きます 潮の引いた海浜に捨て置かれた小舟がある。風が吹いてもつなぎ止める要もない。夜半の月光がその小舟を照らし、またあたり一帯を皓々と照らしている。そんなふうに月光は捨て置かれたようになっている小舟を照らし、つまりは私たちをも包み照

 

らしている。まさにこのすべてを包みこむ夜半の月光の世界そのものが仏法の表れなのだ。 と引用させて頂いても心が震えます まさに八王子の源氏物語のカルチャーでのお話そのもので 私の源氏物語の解釈は高橋文二先生からの十年以上にわたるお話からの耳学問です 自然観と宗教観という

 

華鏡にかかると何もできなくなるから 古い原稿をアップするだけの気楽な今ならと片付けものをしていたら 詩を学んでいた時の教材が出てきて 飯島耕一「ゴヤのファーストネームは」 当時夢中になって読んだのですが 鉛筆の書き込みを見たらシュルレアリスムの詩人とあってびっくり こんな時から私

 

は内在的にシュルレアリスムに惹かれていたんですね 「セザンヌ夫人」も大好きでした 蘇って なんか 文体の原点をみたようです

 

2月13日

おはようございます RPさせて頂いたフランス観光局さまのブルターニュ公爵家の城 アルゴールの城にての舞台はブルターニュらしくて地図を見たらブルターニュ地方は大きな半島 で 今朝このポストに出逢ってああこれだとなりました 周りを木々に囲まれ円塔がある グラックの『半島』が好きで

 

以前何度も読んでいたけど 当時はTwitterなどなくイメージの膨らましようがないから 私は伊豆半島とか三浦半島を思い浮かべて読んでいたのでした 規模が違う! って笑ってしまいました 今またアルゴールの城のモデルをこうして見させて頂き ネット社会って文学にもこうして影響を及ぼすなあと

 

清水徹『マラルメの〈書物〉』より: ひとがこの世にあるということ、そして物があるということは、ついに解きえぬ謎であり、あらゆる人びとの心の奥底には、たとえ意識の光を当ててもけっして透明たりえないそうした謎が黒々と横たわっている。そして、文学とはそういう謎に関連する営みなのだ。だから

 

それがいかに意識的な営みであろうと、書くとは、黒い滴を使って、白い紙のうえで黒を追及してゆくことなのである。白い紙のうえに、黒い文字を「暗いレースの襞」のようにつらねてゆくとき、はじめてそれは、汲みつくされることのない秘密にわたりあうことになる。こうして、文字をつらねた作品が要請

 

される← 図書館でシュルレアリスム関係の本を借りてきたのですが 最後にブルトン詩集を手に取った棚にこちらの本があって タイトルで思わず惹かれて借りて来て終日読んでいます マラルメの書物 私には高校の教科書にあった 理想の書物 の語に惹かれて以降の永遠の課題です

 

メモ 清水徹『マラルメの〈書物〉』より: おそらくマラルメを頂点とした文学的近代は、「文学的創造をして、だれかある造物主による世界の創造の等価物たらしめる」ような、いわばロマン派的な倨傲な超越性をもはや主張しない。ロマン派の詩人たちと一見同じような《絶対の探究》と見える彼らの探究に

 

おいては、しかし、おどろくべき変容がーー「詩とは、詩を可能ならしめる経験へと開かれた深みであり、作品から作品の起源へと向かう奇怪な運動であって、作品そのものは、みずからの源泉への不安な、終わりなき探究と化してしまう」という変容が起こっているのだ。たとえばノヴァーリスと同じように

 

マラルメも、その登攀それ自体が、異様な《文学空間》に入り込み、彷徨に似た歩みを歩みだすというようなものなのだ。マラルメの〈書物〉がまさしくそういうものなのである ← 漠然と感じていたことが書かれていました

 

仙覚の小説の華鏡 書けない書けないと苦渋しながら頑張って数年を経ました ふつうの小説形式で書けばそれなりに形になって 今その形でも草稿があるわけですが 絶対にこれは違う 私が書きたい〈書物〉ではない の思いがあっての「書けない」でした やっと何か掴めた気がします

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2025.2.12 『北条時頼と源氏物語』第六章 第五代執権北条時頼と道元

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『北条時頼と源氏物語』

第六章 第五代執権北条時頼と道元

 時頼は中庸の人と思います。前から『吾妻鏡』を読んで感じていましたが、そう書く学者さんがいられないので自信がありませんでした。それどころか、その頃得ていた時頼像は、ひたすら強権の人でした。例えばですが、高橋慎一朗氏が『北条時頼』のなかで挙げていられるのは、石井進氏の「相当水際立った強腕の持ち主」、「かなりあくどいことを平気でやっている」です。

 それに対して高橋氏は、「しかし、時頼の生涯をたどってみると、『あくどい』というよりは、とにかく責任感が強く、素直で真面目、という点が時頼の一貫した性格の基本ではないかと思われる」と書かれます。これが私に「中庸の人」の意を強くしてくれました。『北条時頼』から、幾例か引用させて頂きます。

 最初に寛元四年(一二四六)の宮騒動から、

  ・五月に入って、ついに前将軍頼経と名越光時を中心とする時頼排除の
   陰謀が発覚し」、義景が、「反対派に対して断固たる態度に出るようにと、
   みずからの行動を示しつつ時頼に決断を迫った」のに対して、「時頼は
   ただちに反対派を攻撃することは差し控えた。

  ・名越光時は前夜から御所に詰めていたが、明け方になって、異変を知った
   家臣に呼び出されて、急いで御所を退出し自邸に戻った」。「このとき、
   御所を包囲していた時頼方は、光時を拘束して討ちとることもできたはず
   であるが、あえて見逃した。

  ・その張本は名越一族であるという、もっぱらの噂であった。しかし、この
   噂が出るやいなや、光時の弟の時章・時長・時兼らは、野心はないと時頼
   に陳謝して許しを願っていたので、時頼もその言い分を認めて罪に問わな
   かった。おそらくは、名越一族との正面衝突を回避するために、時頼の側
   から根回ししたのであろう。

 次に宝治元年(一二四七)の宝治合戦から、

  ・時頼の外戚である安達氏は、本来であれば得宗家に次ぐ序列が与えられる
   べきであったが、三浦泰村は時氏の外戚として保持した特権的地位を安達氏
   に譲らず、依然として幕府の重臣として振る舞い続けたのである。これが
   安達氏には面白くなかったのである。では、この間、時頼本人は三浦氏に
   対してどのように出ようとしていたかというと、どうも煮え切らない。

  ・四月四日、事態のゆくえを気にして、出家して高野山にいた安達景盛が鎌倉
   甘縄の安達本邸に駆けつけた。そして景盛は連日のように時頼のもとを訪れ
   ていたが、十一日には特に長時間にわたり時頼と談合した。三浦氏に対して
   強く出ない時頼にしびれを切らせた景盛は、三浦を討てと説得しようとしたが、
   何とか合戦を回避したい時頼とのあいだで、話は平行線に終わったのであろう。

 と、だいたいこのような運びです。一貫して、時頼は動きません。

 これは、十五歳の時に若宮大路で三浦一族と小山一族の喧嘩があり、兄の経時が三浦氏に援軍を駆けつけさせたのと対照的に、時頼は動かなかったのと同じです。二十歳で執権になった今も、時頼は十五歳の頃と変わりません。

 これには時頼が母松下禅尼のもとで育ち、禅尼が尊敬する上東門院の「個を超えた、国母という立場の自覚による、衆生済度という大きな理念」をそれとなく受け継いで育ったことと関係あると思います。

 言ってみれば、お母さん子時頼の人格は女性的です。大地たる母だから、あまねく大地の上に生きる衆生は平等で、どちらかに加担してどちらかを滅ぼすという考えはもとよりありません。性格の違う兄弟を平等に慈しみ育てる母の眼差しと一緒です。

 もちろん、時頼は武士ですし、執権だから、いつまでもそんなことをいってたら足下から突き崩されて、みずからもみずからを守ってくれる大事な人達も滅ぼされてしまいます。だから決断したらもうそれまでとは打って変わって動きは迅速ですし、正しい知覚で即断ですが、根本はあくまでも「そうならないよう」とばかりに時宜をみはからっているのです。

 それは武士社会からみれば、優柔不断か理解不能。景盛たちはやきやきしたことでしょう。従来の歴史学者さんたちが事象だけみてそう解釈されたのも、『吾妻鏡』では内面が窺い切れないから仕方ないでしょう。

 けれど、おそらく決断して命を下す時の時頼には、誰も逆らえない静かな凄味があったのではないでしょうか。いつも、いざ決断したあとの処理は的確で的をはずしていません。たぶん、仏法を見ている人なのでしょう。まだ二十一歳で、執権になったばかりなのに、あの安達景盛の説得に屈しないのは。

 『徒然草』第百八十四段の、松下禅尼が障子張りをして見せるエピソードは、おそらくこの頃です。

  相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるゝ事ありけるに、
  煤けたる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから小刀して切り廻しつゝ張
  られければ、兄の城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、
  某男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候」と申されければ、「その
  男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間づゝ張られけるを、義景、
  「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑らに候ふも見苦しくや」
  と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、
  今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して
  用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと
  有難かりけり。
  世を治る道、倹約を本とす。女性なれども聖人の心に通へり。天下を保つほどの
  人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

 「天下を保つほどの人」、すなわち執権時頼を子に持って、その時頼が来るので、「若き人」、すなわち時頼が執権に就いて間もない若いころだから、その時頼に見習わせるために、あえて障子を切り張りして見せるというのですから。

 と、ここにお母さん子時頼の姿が浮かび上がります。松下禅尼にとって時頼は、言うことをきく「いい子」なのです。いい子だから、嫌がらずに教えを聞く時頼だから、禅尼はそうしたのです。経験を積んで立派になった時頼には、いくら松下禅尼でもこれはしないでしょう。

 六月に宝治合戦のあった宝治元年(一二四七)のこの年の八月、時頼は曹洞宗の開祖道元と会います。道元が鎌倉に半年滞在したのです。

 その前年、のちに建長寺開山となる蘭渓道隆が来朝していますので、ここで三人の年齢を押さえておこうと思います。

 まず、時頼ですが、前年執権になったばかりで、二十一歳。道元は、寛元元年(一二四三)に越前に移り、寛元四年(一二四六)に永平寺を開いたその翌年の鎌倉滞在で、四十八歳。蘭渓道隆は、寛元四年に来朝し、おそらく宝治元年のこの頃は京都にいて、三十五歳です。

 道元の鎌倉滞在の目的は強化のためといわれていますが、詳細はわかっていません。招いたのが時頼なのか、永平寺の開基で鎌倉の御家人波多野義重か、それもわかっていないそうです。

 時頼は道元に教えを乞い、寺院を建立して開山に迎えようとしますが、道元は断って永平寺に帰っています。

 その後、時頼が寄進しようとした寄進状を道元が激しく拒否しているところをみると、時頼の側になにか道元の意を解さない失礼があったのでしょうか。

 なにしろ、二十歳そこそこの鎌倉における時の最大権力者時頼です。思索家であってもまだ正式に仏教を修めていません。そこに現れた道元に飛びつくようにしての熱心なあまりの性急さが、道元に合わなかったのかもしれません。

 そのあたりの事情について今まで読んだ一般書では、ただ坐っているだけの道元の教えが若い時頼には物足りなかったというのと、権力に近づくのを道元が避けたというのとの、双方の側からの理由がなされています。

 でも、これは、私には外部的解釈、双方が自身の側の不利にならないようもっともらしくつけた安易な説明に感じます。それで、ここからここのところを詰めて考えてみたいと思います。手がかりは手元にあった一冊の書、『道元禅師全集第十七巻 法語・歌頌等』です。

 これは、三十年ほどカルチャーで『源氏物語』の講座を拝聴させて頂き、駒澤大学大学院の聴講に誘って頂き学ばせて頂いた高橋文二先生から頂戴したもので、先生が中の「道元禅師和歌集」を担当されています。

 二〇一〇年のご刊行で、執筆は数年ほどかかってらしたでしょうか、講座のなかの折々にご執筆の経緯の程、道元の歌についての事などずっとお聴きしていました。

 ご刊行なってすぐ頂いたのですが、わからないながらもざっと目を通して、そして、その時に道元が鎌倉に滞在し、時頼と会ったことがあると知り、意外な関係に驚いたのでした。鎌倉といえば、禅。なかでも、臨済宗。僧侶といえば、中国僧。そのイメージしかなかった私には、曹洞宗道元の出現は思ってもみない展開でした。

 まさか、時頼を原稿に書くことになって、そして、道元とのかかわりを書くまでになろうとは、その時には夢にも思いませんでしたが、思いがけず書かなければならなくなって、付け刃的にそれから曹洞宗の教理を学んだところで真実に到達するわけがなく、どうしようと逡巡していた時に、書棚にあったこのご著書に思いが至ったのでした。

 その「道元禅師和歌集」に時頼が登場します。それは、

  宝治元年(一二四七)丁未の年、鎌倉にいたときに、最明寺殿の北の御方より
  仏道への導きの道歌を詠んでほしいと頼まれたときに、「教外別伝」を詠ず

   荒磯の浪もえよせぬ高岩にかきもつくべき法ならばこそ

です。

 時頼の出家は康元元年(一二五六)ですから、宝治元年のこの時はまだ最明寺殿ではありません。そして、ここでは北の御方の所望とありますが、別の本では「北の方」の記述はなく、時頼自身の所望とみてもいいようです。そして、この北の方がもし正室の北条重時娘をさすなら、彼女との結婚は建長元年(一二四九)で、やはりこの時はまだ時頼に北の方はいません。歌も、女性に向けて詠んだ歌の感触ではないですよね。

 高橋先生の現代語訳は、

  激しい高浪さえも寄せつけない荒磯の聳え立つ高岩にも牡蠣が取り付くことが
  ある。御仏の教えは、月並の教えならばとても届くはずもない世の荒浪に翻弄
  されて正気を失っている心にも、染み通り、刻みつけるように伝わり、届くはず
  だ。御仏の教えならばそうあるはずだ。

とあります。

 半年の滞在のうちのいつ道元がこの歌を詠まれたのかわかりませんが、鎌倉では六月に宝治合戦があったばかり。時頼は自分の手で三浦一族を滅ぼしたばかりです。

 三浦氏は鎌倉幕府創設以来の重要御家人。伊豆で旗揚げして石橋山の合戦で敗れ、幾多の艱難を経て鎌倉に幕府を開設した頼朝には、最大級の恩人一族です。

 その三浦氏の最期は、

  その後時頼は、御所へ参上して自分たちが将軍の意思を受けていることを示し、
  大義名分を確保するとともに、おりからの南風を利用して泰村邸の南隣の家に
  火をかけさせた。猛煙に耐えかねた三浦勢は、泰村邸を出て、北側の源頼朝の
  法華堂に立て籠った。東方の永福寺に陣を構えていた三浦光村も、敵陣を破っ
  て駈けつけ、法華堂に合流した。時頼方の軍に囲まれるなか、法華堂では頼朝
  の肖像を前に、泰村・光村兄弟以下、五百人ほどが自害した。(中略)泰村ら
  が頼朝の法華堂を最期の場に選んだのは、自分たちこそが将軍家に忠誠を誓う
  正統な御家人なのだという、北条・安達に対する強烈な自己主張によるもので
  あろう。(高橋慎一朗『北条時頼』)

というものでした。

 時頼の心にこの地獄絵図と自身に対する呵責の念が刻み込まれていない訳がありません。武士として繰り返されてきた内乱でも、執権になって早々のこの内乱は救いようのない心の動揺、ぬぐっても拭いきれない、消し去ることのできない事実です。仏教者として一番してはいけない殺生を大量にしてしまったのです。

 この悔恨は、例えば泰時が承久の乱で後鳥羽院の怨霊を恐れたのと性質が違います。二か月といえば記憶はまだ生々しく血を噴き出しています。それで時頼は道元に助けを求めたのでしょう。

 道元の鎌倉滞在の真相は、おそらくここですね。苦悩する時頼をみかねた家臣の波多野義重が、道元を呼び寄せたのではないでしょうか。時頼は救われたい一心で、忘れ去りたい一心で、道元に教えを仰いだことでしょう。道元の半年の鎌倉滞在はこうしたものでした。

 建長寺から巨福呂坂のトンネルを抜けて鶴岡八幡宮に至るほんの少し手前に、道元の鎌倉滞在を記念する道元禅師顕彰碑が建っています。道元が時頼と接触したことがわかっているからこの場所が選ばれて碑が建ったのでしょうけれど、宝治元年当時、建長寺はまだ建立されていないから、道元はどこに住んだのでしょう。時頼の要請ですから、それ相応の場で過ごされていたのでしょう。

 『道元禅師全集第十七巻 法語・歌頌等』にはもうひとつ、驚くべき書状が載せられています。蘭渓道隆と道元の往復書簡です。

 抜粋して引用させて頂きます。現代語訳は石井清純氏です。

  道元禅師宛書状【蘭渓道隆書状】

   道隆、謹んで大仏寺堂頭道元禅師に一筆差し上げます。

   秋風が吹き渡り、天辺の月が高く寒々と冴えわたっております。名利を求める
   心を鎮め、多くの人々を導かれ、心身ともに、ますますご清祥のことと拝察申
   し上げます。

   私、道隆は、中国生まれの若輩で、知り合いもおらず、自らの拙さを人々の間
   に隠し、励んで修行することもございませんでしたものを、恐れ多くも数年前
   に、日本より来られた永平門下の方々と太白山において、一緒に修行し、宗派
   の別を越えて、なんのわだかまりもなくおつきあいさせていただきました。

   ある日の昼食時、ふとした折に、覚妙房殿が和尚さまの法語と偈頌などを示さ
   れました。何度もそれを読みまして、あたかもお会いしたかのような気持ちと
   なりました。遥かに海を隔ててはおりますが、大いなる智慧の輝きには、まっ
   たく隔てがないのです。

   晩春に、海路博多へやってまいりましたが、そこにおいて深山幽谷へと移り、
   仏道のあるべき姿を後に続く者にお示しになっていると聞きました。(後略)

   幸いなことに、最近、京都における朝廷と武家の間の騒ぎが、冬までには収まる
   であろうと聞き及びました。修行者とともに衣を着て、あなたさまの方丈に
   ご挨拶に伺いたいのですが、いまだ暇がございません。大いなる仏の教えが、
   ここに気高くありますように。不宜

   宋の国、西蜀出身の僧が、大宰府博多に滞在して、右の文章を謹呈いたします。

   円覚寺(博多)の比丘、道隆、謹んで一筆啓上。

 

  蘭渓道隆禅師宛返書【道元書状】

   道元が、恐れながらも、謹んで円覚寺堂頭、蘭渓道隆大禅師のお机の前まで、
   お返事申し上げます。

   時節は十月、やや肌寒くなって参りましたが、尊候におかれましては、ご法体、
   万福なることと拝察いたします。私は二十年前に宋に渡り、太白山において
   修行をいたしました。(後略)

   最近、山奥に庵を結びまして、ここに籠って余生を終えようと思っています。
   昨年の冬に詮惠と惠達の二人が、中国に修行に出かけたおり、(帰りがけの
   博多で)和尚の書簡を拝領いたしました。(後略)

   思いがけず、今年の八月に檀越に要請されて、少しばかり相模国の鎌倉に来て
   おります。(中略)聞くところによりますと、和尚さまは、すでに京都に入ら
   れているとのこと。まさに今時の人々の幸運に他なりません。(中略)祇園精
   舎で広められた教えがこの日本で広まり、曹谿慧能の流れが、しっかりと伝え
   られたのです。
   幸如草々。なにとぞ慈悲をもってご覧ください。

   宝治元年(一二四七)丁未の年十月、比丘道元、恐れながら謹んでお返事いたします。

   円覚寺堂頭和尚禅師の御前へ。

 ここから拝察すると、蘭渓道隆はまだ中国にいた時に、二人の道元の弟子と語らい合う仲になり、道元の法語と偈頌を読まれていました。そして親しみを覚えてました。晩春に博多に着いたとき、道元はすでに深山幽谷の永平寺に移られたと知った、いつかご挨拶に伺いたいものと書かれ、道元は、昨年の冬に中国に修行に出ていた二人が帰国し、博多で蘭渓道隆の書簡を持ち帰った、今私は鎌倉にいるが、蘭渓道隆は京都に入られたとのことと、蘭渓道隆の来朝を喜ばれています。

 ここにおいて、道元が上です。という言い方は宗教界であってはならないでしょうけれど、歴史的にわかりやすい構図でいうとそうなります。

 それもそのはず、ここで年齢を確認すると、道元は四十八歳で、すでに永平寺の開山です。蘭渓道隆は三十五歳で、日本での活動の拠点もまだ定まっていません。

 が、そういうこととは関係なく、ここで重視したいのは、曹洞宗の道元、臨済宗の蘭渓道隆といった、現代のイメージ枠から離れて、禅の本場中国僧の蘭渓道隆が、日本という小さな国内での道元に最大限の敬意を表していることです。

 時頼がすがって教えを乞うたのは、この道元でした。道元の書簡に「檀越に要請されて」とあるように、道元は波多野義重の要請で鎌倉に来ました。やはり苦しむ時頼をみるにみかねて義重が招請したのでしょう。

 ここで、先の時頼が所望した道元の歌に戻りたいと思います。

 この歌は、一読して、異様です。いくら導きの歌といっても、「高浪さえも寄せつけない荒磯の聳え立つ高岩にも牡蠣が」というのは尋常ではありません。世間一般の常識的な苦しみとは違います。

 さらに、「世の荒浪に翻弄されて正気を失っている心にも」とあります。

 これは、たった二ヶ月前、心とは相容れない決断をみずから下して三浦氏を滅ぼした時頼の、苦悩の状況をいっているのではないでしょうか。もしかしたら、時頼はほんとうに苦しみに翻弄されて正気を失いかけていたのかもしれません。

 それで、波多野義重が道元に救ってくれるよう要請した……。義重は永平寺開基ですから、道元は断ることなく鎌倉にいらした……。

 滞在は半年のあいだに続きました。

 時頼がそれで救われたかどうかわかりません。でも、とにかく時頼は道元に寺院を建立するから、開山になって鎌倉に留まってくれるよう願うまでになります。

 が、道元にとってこの年は、京都での叡山の迫害にあってやっと永平寺開創にまで漕ぎつけ、好きな深山幽谷での修行はこれからという大事な時期。時頼の懇願を受けるわけにはいきません。

 それでも時頼はひるまず必死だったと思います。

 それを蹴って、といったら語弊がありますが、そのような状況のなかで、道元は永平寺に帰るしかありませんでした。いくら仏教の人どうしといっても、わだかまりは残ったとして仕方ないでしょう。

 それが後世における道元の鎌倉滞在についての不確かさ、釈然としなさになっているのだと思います。

 もし、道元が七十歳とか八十歳のほんとうの意味で老師となっていて、永平寺の歴史も深まった余裕の時期の時頼との出逢いだったら、歴史は変わっていたかもしれません。

 そして、ここにおいての蘭渓道隆の存在です。

 鎌倉滞在の折に道元はすでに蘭渓道隆の書簡を手にしています。これは、道元が時頼に蘭渓道隆という中国僧の存在を教えたことに相成ります。

 さらに、道元に寺院を建てるからと申し出たことで、時頼の心にはいつかみずから寺院を建立するという強い目標が心のなかに居座ったことと思います。

 不思議な巡り合わせですが、奇しくも鎌倉の建長寺建立は、道元によって端を発したといえるのではないでしょうか。

 

 

■参考文献

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡12 宝治合戦』吉川弘文館

原文対照現代語訳『道元禅師全集 17 法語・歌頌等』春秋社

『徒然草』

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2025.2.11 『北条時頼と源氏物語』第五章 第五代執権北条時頼へ

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開します。
第四章までの掲載は以下の通りです。
左のカレンダーの日付をクリックすると出ます。
 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】

 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】
 2025.2.10  第四章【第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛】

 

『北条時頼と源氏物語』 

第五章 第五代執権北条時頼へ

 けれど、経時の執権時代は長く続きません。就任して三年目の寛元三年(一二四五)に病に伏し、翌年亡くなります。そして時頼が第五代執権になるわけですが、『吾妻鏡』にみるその経緯が詳らかでない上に不信感いっぱいのため、研究者さんのあいだでは不穏な憶測が語られてきました。つまり、時頼が自分が執権につくための経時更迭のような。

 今回この『源氏物語と鎌倉』を執筆するにあたり、時頼の人格の根幹にかかわることですから、今まで気にかかりながら放置していたこの問題を、徹底的に解こうと決めてかかりました。ここを解決しなくて先はありませんから。それで、これからそれに取り組んでいくことにします。

 まずそれは、『吾妻鏡』の寛元四年(一二四六)三月二十三日の条に、こうあることに端を発します。

  武州(経時)の御方(私邸)において、深秘の御沙汰等あり。その後、
  執権を舎弟大夫将監時頼朝臣に譲り奉らる。これ、存命そのたのみ無き
  の上、両息いまだ幼稚の間、始終の牢籠をとどめんがために、上(将軍)
  の御計いとなすべきの由、真実の趣は御意に出づと云々。左親衛(時頼)、
  すなわち領状を申さると云々。

 ここにある「深秘の御沙汰」の語に着目されたのが奥富敬之氏でした。それについて、『鎌倉北条一族』でこう書かれます。

  吾妻鏡を一読した者でなければ、この語の持つ不気味さは理解できない
  のである。吾妻鏡の後半に数回この語が見られるが、そのあと、きまって
  なにか事件が起り、陰謀が発覚し、合戦が起るのである。
  そして、経時から時頼への執権職委譲を決定したこの「深秘の御沙汰」は、
  吾妻鏡でその語が用いられた初例であった。この不吉な語を見るだけでも、
  執権職委譲には、なにか裏があったと感ぜずにはいられないのである。

 そして、三月二十三日の条について、

  一見、もっともそうであるが、よく読むとおかしいことだらけである。
  たしかに、このとき、経時の長男頼助はわずか二歳であったが、これを
  執権に立てて弟時頼が補弼の任にあたってもよく、(中略)また、経時
  の発意だと混乱が予想され、八歳の将軍の命だと混乱は生じないという
  のもおかしな話である。その上、将軍の命によるという形式をとったに
  しても、真実は経時の発意によるとダメ押しのように記しているのも、
  不自然である。

と、書いていられます。

 野口実氏は「執権体制下の三浦氏」で、同じく三月二十三日の条について、

  これは、病弱を理由に経時自身の意志によるものであると『鏡』は強調
  しているが、前後の事情からみて首肯できず、時頼を中心とする強硬派
  が一挙に経時の更迭をはかったものとみるべきであろう。

と、されます。

 しかし、そうみられない方もいて、高橋慎一朗氏は『北条時頼』で、

  しかしながら、この時点の時頼は強力なリーダーシップを発揮できるよう
  な立場にはなく、少なくとも執権交替を時頼自身が主導したとは考にくい。

と、書かれます。そして、これに続けて、

  前将軍頼経を中心とする勢力と対抗するには、幼少の執権を時頼やほかの
  一門の人間が補佐するという体制では危うい、という判断であろう。
  同時に経時らが恐れたのは、北条氏一門でありながら得宗家と対抗する勢い
  を持ち、のちに時頼に背くことになる名越光時の存在である。経時の死後に
  執権を決めようとすれば、幼少の経時子息を退けて、光時が執権の座につき
  かねないため、名越氏が主導権を握る前に、急ぎ得宗家の人間に執権を相続
  させようとしたのである。

と、書かれました。

 これは私が『吾妻鏡』を読んで感じたことと一致します。経時の時代は、このように、執権職を狙う名越北条氏が将軍頼経のもとに集い、将軍家対執権家という緊張関係を作り出している油断できない状況でした。

 私の見解ですが、そのきっかけとなったのが、歴仁元年(一二三八)の頼経のはじめての上洛だったのではないでしょうか。二歳で下向した頼経の二十一歳になってのはじめての里帰り、あの凱旋上洛です。時の執権は、泰時。十五歳の経時も祖父泰時に従って随行したことは前に書きました。時頼は母松下禅尼のもとでお留守番だったと。

 この時の滞在は十カ月の長期に及びました。その間、頼経は、父の九条道家、祖父の西園寺公経をはじめ、すでに故人でしたが姉が後堀河天皇中宮で、四条天皇の母でいられますから、宮中に、と華麗な交流を繰り広げました。

 頼朝が上洛した時以来の四十年ぶりの将軍の上洛です。ですが、高橋氏によると、「この上洛は幕府の威勢を示し、公武関係の円滑を図るという外に、特別の目的はなかった」そうです。

 ですから、頼経はこの十か月の間、なんの気兼ねもなく、存分に、公経と、道家と、会って交流を深めることができました。そして、この公経・道家こそ、時の京都での最高権力者でした。鎌倉幕府に対抗する、京都側の中枢人物です。

 この状況のなかで、十か月懇意を重ねたとしたら、当然の帰結がみえてきます。すなわち、頼経は京都側の人間に取り込まれたのです。公経と道家は、我が孫・我が子である鎌倉の将軍を自分たちの範疇にすることで、鎌倉側を牛耳じることができると考えたのでしょう。十か月の長さは、それを練るのに十分な時間でした。

 鎌倉に戻った頼経は、もはや以前の頼経ではなくなっていました。狭い鎌倉しか知らなかった人間が、外の盛大な社会を見、しかもそれが自分の身内と知った時に芽生えた自信と驕り。それは、その後の頼経の自負になったに違いありません。

 ここから、頼経は、幕府に対抗する御し難い人物になっていきます。そして、それを煽る取り巻きが名越北条氏と、三浦氏でした。

 教科的には単純に、成長した頼経が傀儡将軍でなくなったからと習いますが、この十か月の滞在がなかったら、あるいは頼朝の時のように一、二か月で帰っていたら、のちの頼経の送還はなかったかもしれません。

 この上洛で、私はすでに鎌倉と京都を往還する、道家と頼経の密使のような存在ができたと思います。そして、このあと、目立って、『吾妻鏡』に頼経の上洛願望が散見するようになります。おそらく道家の側からも、もう一度来い、の催促がしょっちゅうあったことでしょう。列挙すると、

  仁治元年(一二四〇)
   一月二十七日
    将軍家(頼経)は上洛しようと思い立たれていたが、彗星が毎晩
    出現しているので、窮民を慰められるのが災いをはらう上策である
    との御決定があり、延期された。
   二月六日   政所と御倉以下が焼失した。放火の疑いもあるという。
  寛元元年(一二四三)
   七月二十九日
    将軍家は、上洛しようと内々思われていたため、六波羅の御所を
    修理するよう、このところ命じられていた。そうしたところ王相方の
    御憚りがあるので、新造や修理は節以後に行うよう、今日、相州(重時)
    のもとに命じられたという。
  寛元二年(一二四四)
   九月十九日
    大殿の明春の御上洛について、但馬前司定員を奉行として御審議が
    行われた。日程については、二月一日に出発したいと考えられていたが、
    四不出日であるとの説があったため、憚るかどうか尋ねられた。
   十二月二十七日
    大殿の御上洛は延期すると決定した。これは近頃(頼経が)思い立たれ
    たことがあり、明春二月九日に必ず出発されると決定していた。しかし
    政所の火事があったため、御出立以下の御物などが全て被災したためという。
  寛元三年(一二四五)
   十一月四日 
    入道大納言家が来年春に上洛される事について、御審議が行われ、供奉
    の人員五十三人が定められた。二月十四日に必ず出発されるという。
  寛元四年(一二四六)
   二月十三日
    大殿は御上洛の事を頻りに思い立たれていたが、様々な事があって延期を
    するという。そこで、その事を命じられたという。

と、『吾妻鏡』にみる頼経の上洛願望はこれほどに執拗です。

 密使ですが、それは経時が病に伏した時の、京都の側のお公家さんの日記に伺えます。奥富敬之氏『鎌倉北条一族』より引用します。

  経時が発病した直後の同年三月、すでに京都では鎌倉における異変が取り沙汰
  されており、五月には鎌倉からの密使が京都につき、「きたる六、七月の頃、
  必ずや、ことあるべし」と密々に申したということを、権大納言中宮大夫四條
  隆親から平経高が洩れ聞いたという。(中略)鎌倉でなにかが企てられていた
  のである。

 経時の発病は五月二十九日です。なのに、その三月から京都ではもう異変が取り沙汰されていて、「きたる六、七月の頃」と、経時の発病を予見するような話が広まっていました。これは経時晩年の記事ですが、密使はもう常套になっていたのでしょう。

 将軍の上洛には莫大な費用と負担がかかりますから、幕府としてはそうそう簡単に頼経の希望を叶えてあげるわけにいきません。天文の異変やなにやらでその都度却下して過ごすのですが、時には経時と時頼の屋敷や政所に放火し、上洛のために整えた御物が焼けてしまったのでという大胆な方策までとりました。

 幕府にしても、頼経の上洛の意図が道家との連携にあるくらいは察知していたでしょう。あくどいまでの阻止がそれを物語っています。莫大な費用と負担以上に、これ以上頼経を道家と接触させないことに必死だったと思います。

 けれど、道家のほうから次々となにか仕掛けてくる。それがなにかわかりませんが、『吾妻鏡』の行間からは明らかにそれが感じとれます。というのも、幕府の打ち出す対応策がいつも性急なのです。明らかに幕府は後手後手です。

 それで、経時のとった最初の対応策が、頼経の将軍退位、子息頼嗣の将軍就任でした。

 これもよほど急いで決行されたようすが『吾妻鏡』の記事から伺えますので、直前になにかあったのでしょう。寛元二年五月のことでした。

 その直後の六月四日の記事から、『吾妻鏡』に後鳥羽院の文字が散見されるようになります。すなわち、頼経の御所の敷地内にある持仏堂、久遠寿量院での後鳥羽院のための追善供養です。

  寛元二年(一二四四)
  【五月五日  頼経、将軍退位。頼嗣、将軍就任。】
   六月四日  前大納言家の御願として、後鳥羽院の御追善のため、
         このところ法花経百部が刷られていた。この版木は後鳥羽院の
         宸筆を彫られたものである。そこで、今日、供養が行われた。
  【八月二十九日 大殿が明春上洛されることについて審議が行われ、決定したという。】
   九月十五日 後鳥羽院の御追福のために刷った法花経を、御持仏堂で読み始められた。
  寛元三年(一二四五)
  【五月二十九日 武州(経時)が御病気になられた。黄疸を患われたという。】
   六月三日  右筆の者が集められ、久遠寿量院で一日中、五部の大乗経が
         書写された。そのまま供養の儀が行われ、七僧法会であった。
         同日、法花五種の妙行が行われた。これは後鳥羽院の御追善である。
     十日  金泥法華経五種行を供養された。これもまた後鳥羽院の御菩提を
         弔われるためという。

 久遠寿量院での法会は以前からもその後も記事にありますが、後鳥羽院の追善と銘打つのはこの時だけでかなり目につきます。もともと道家は姉が順徳天皇妃ですから、承久の乱でも院方で、九条家と後鳥羽院とは後京極良経の代から切っても切れない仲です。ですから、後鳥羽院や順徳院の隠岐や佐渡からの帰還を幕府に願い出たりして、鎌倉にとっても道家が後鳥羽院に心を寄せていることは周知の事実です。

 が、ここにきての唐突としか思えない後鳥羽院への追善はおかしいと思わないわけにいきません。しかも、それの行われたのが将軍退位直後や、経時の発病直後など、重大なことのあとばかり。

 怪しいと思いませんか。

 これは、京都の道家とも連携した、表向き後鳥羽院の追善に見せかけた、真実は頼経の経時への呪詛と私は見ています。

 道家と頼経は、まさかの将軍退位によほど慌てたのでしょう。それで後鳥羽院という、九条家にとって神様みたいな人物の名を借りて、それからも大きな事件があると後鳥羽院の追悼にみせかけて祈祷するのが倣いになった、というのが真相ではないでしょうか。

 こういう頼経側の抵抗に対して、経時が次にとった対応策が、妹の檜皮姫を将軍頼嗣に嫁がせることでした。これも相当慌ただしい、疑問を持つしかないような急な婚姻でした。この時もなにかあったのでしょう。

 が、間に合って、晴れて経時ら執権家は将軍の外戚の地位を手にします。

 が、それも束の間、その檜皮姫も病気になり、経時のあとを追うように亡くなります。しかも、経時より少し前に、経時室の宇都宮泰綱娘まで亡くなっています。

 これはどう考えても異常です。三年間に経時を含めて三人も亡くなっていて、しかも、皆二十代の若さ。暗殺説が出てもしかたありません。

 が、ここまできたら、見えてくるものがあります。

 もし、暗殺が事実として、刑事コロンボではありませんが、三人がいなくなることで得をする人物は誰かを考えてみます。

 まず、経時。これは執権職狙いなら、頼経も時頼もどちらも動機があります。

 次に、経時の妻。この女性を殺したら、宇都宮氏との縁が切れてしまいますから、北条氏にとっては不利。つまり、時頼の動機になりません。

 最後に、檜皮姫。彼女を殺したら、北条氏が外戚でなくなってしまいますから、時頼が主犯になることはあり得ません。

 と、暗殺説が事実として、すべてのベクトルが頼経ら将軍家に向いていることが確認されました。

 かつて野口実氏は、

  そもそも経時は頼経の烏帽子子である上に、小侍所別当をつとめ、頼経の
  上洛に際しても、その近侍として供奉し、頼経が九条道家第に滞在した
  ときには宿直にあたって、このとき道家からその器量を賞讃されるなど、
  頼経との情宜的関係は極めてあついものがあったと考えられるのである。
 (中略)一方、経時はたびたび三浦泰村・家村らと連れだって狩猟・逍遥を
  楽しんでおり、又前述した仁治二年の三浦一族と小山一族との喧嘩には即座
  に三浦方に加勢を送っているのである。
  以上のことから、経時が頼経派に対してとり得る態度にはおのずから限界があり、

と、書かれました。「したがって、かかる経時の意志が存在する限り、執権権力の確立=北条氏得宗による独裁政治への方向は譲歩と妥協に流されざるを得ない」と。

 この見方が北条執権側の経時更迭理由の裏付けになるわけですが、かならずしもそうはいえなくて、年代をみると、それらはみんな頼経の最初の上洛のころのこと。経時が十五歳ころのことです。血気盛んで、健康な遊び盛りの少年が、同年代の気の合う仲間と狩りをして、不自然なことはなにもありません。

 執権になった経時は、『吾妻鏡』にみる限り、経時の将軍家に対する譲歩、妥協はなく、かえって機敏に、容赦なく強硬に出ます。将軍退位、檜皮姫の結婚など、みんな経時の主導のもとで行われています。

 経時の潔白はこれで理解していただけたと思いますが、逆に、これは、将軍家の側からみたら、裏切りです。そうだとすると、あるいはもしかしてほんとうに、経時は殺されたのかもしれません。

 この時期の時頼はというと、沈思黙考型そのままに、黙々と兄の命じる役をこなしています。行間からも怪しいものは浮かんで来ず、とても虎視眈々に執権職を狙っているようには思えません。その後の宝治合戦のようすをみても、時頼は経時と反対に率先して動く決断力の人ではないようです。

 最後に、将軍家側にこそ陰謀があったことを明かす話を書いておきます。

 宮騒動で頼経が京に送還され、その後また三浦氏が滅ぶことになる宝治合戦の時のことです。敗退した三浦氏が頼朝の法華堂に集まって最期を迎えるにあたり、談話した時のようすが残っているのです。奥富敬之氏『相模三浦一族』から引用します。

  九条頼経殿が将軍たりし時、御父九条道家殿、内々の仰せにて、兄泰村殿
  が武家の権柄を執ること、相違あるべからずと御約束あり。にもかかわらず
  泰村殿の御猶予により、今の敗北あり。後悔あまりあり」。このように三浦
  光村は、愚痴をこぼした。果然、三浦党の背後には、京都で前摂政だった
  九条道家がいたのである。

と、三浦光村の口から、はっきりと、道家のそそのかしが語られました。

 経時は甘縄神社がある谷戸に近い笹目谷に葬られたといいますが、正確な場所がどこかわかりません。時頼の建長寺、時宗の円覚寺のような名目ともにはっきりしているのと違い、経時の執権時代がわずか四年で、おのれの建てた寺院というのがないからでしょう。

 のちに、経時の墳墓堂から発展して佐々目遺身院という真言宗寺院になり、そこに住持として住んだのが、成長した経時息の頼助でした。その佐々目遺身院もすでに廃寺になっており、ただ金沢文庫に残る指図に名前が記されていることで存在が知られるだけになっています。

 

■参考文献

上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館

高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館

平泉洸『明惠上人伝記』講談社学術文庫

奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館

奥富敬之『鎌倉北条一族』新人物往来社

奥富敬之『相模三浦一族』新人物往来社

野口実「執権体制下の三浦氏」三浦古文化

現代語訳『吾妻鏡10 御成敗式目』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡11 将軍と執権』吉川弘文館

現代語訳『吾妻鏡12 宝治合戦』吉川弘文館

藤原定家『明月記』

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2025.2.10 『北条時頼と源氏物語』第四章 第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛

『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開します。
第三章までの掲載は以下の通りです。
 2024.12.17 第一章【北条時頼・六波羅で誕生】
 2024.12.21 第二章【ファーストレディ松下禅尼】
 2024.12.25 第三章【第三代執権北条泰時と時頼】

 

『北条時頼と源氏物語』

第四章 第四代執権北条経時と将軍頼経の上洛

 時頼の父時氏は、寛喜二年(一二三〇)三月、六年間の六波羅探題の任を終えて下向すべく京を出立しました。

 この時、嫡男の経時は七歳。夜明け前から先陣が発ち、夜明け後に直垂姿の時氏が家来三百騎を従えて出発するその行列に、経時も小さい馬に乗って従ったといいます。時頼はまだ四歳。妹の檜皮姫はまだ生まれていなかったかもしれず、その檜皮姫をみごもっていたかもしれない母松下禅尼に伴われての下向でした。

 時氏の下向は、父第三代執権泰時が、そろそろ時期執権になるための準備期間をと呼び寄せたのでした。が、時氏は旅の途中、今の愛知県豊川市にある宮路山において病気になってしまいます。重病だったらしく、鎌倉に到着後、松下禅尼や泰時らによる必死の看病の甲斐もなく、六月十八日に亡くなりました。亨年二十八歳でした。時氏が生まれた檜皮姫の顔を見たかどうかはわからないといいます。

 松下禅尼は出家し、経時と時頼を連れて、実家である甘縄の安達邸に帰りました。そして、祖父泰時と母松下禅尼によって二人は育てられることになります。

 ここから泰時の経時に対する執権になるための特別教育がはじまります。時頼はまだ執権候補になっていません。泰時の、経時と時頼二人の孫への愛情は変わりなくても、嫡男と次男とでは明らかに待遇が違いました。

 例えば元服ですが、経時の元服は十一歳の時で、将軍頼経の御所で行われ、頼経が加冠をつとめました。時頼もまた十一歳で、泰時の屋敷内にこの日のために新造した檜皮葺の御所に頼経を迎え、頼経が加冠をつとめてとり行われました。

「一見すると、将軍が加冠をつとめている点で兄経時と同等の待遇を受けているようであるが、場所は経時は将軍御所、時頼は泰時邸という具合に異なっている」と、高橋慎一朗氏は『北条時頼』で書かれます。「時頼はあくまでも庶子であり、この時点で兄経時との立場の差は歴然としていた」と。

 二歳で下向した第四代将軍頼経は、経時元服の年には十七歳になっていて、時頼の時は二十歳でした。その頼経の加冠です。

 貞永元年(一二三二)、泰時が御成敗式目を制定します。経時は九歳、時頼が六歳の時でした。これは、承久の乱で上京し、そのまま六波羅探題の任について在京した泰時の経験から必要を感じて編み出されたといいます。混乱し切った乱後の処理で大変だった泰時が、しっかりした法律の必要を感じてのことだったといいます。

 泰時は京で明恵上人と親交していて、御成敗式目には上人の精神が反映しているそうです。鎌倉武士泰時と『夢記』の明恵上人との交流は信じられないような取り合わせですが、それも泰時が六波羅探題として上洛していたからのこと。ことの発端は、承久の乱の後、栂尾の山中に京方についた落人が多く匿われているとの噂を聞き、安達景盛が赴いて上人を捕縛し六波羅に連行したことでした。

 明恵上人が徳の高いことで有名な僧であることをすでに聞き知っていた泰時は、それを見て驚き、知らなかったとはいえと、景盛の失態を重々に詫びます。それに対する上人の言葉に感動した泰時は、以来、何度も栂尾を訪ね上人と法談を重ねる仲になったのでした。そして景盛も上人に帰依します。

 明恵上人は無心の人です。

 天下を治めるにはと問う泰時に、上人は、「国の乱れる原因は慾心にある。貴殿がまず慾心をすてられたならば、天下の人もその徳に誘われよう。天下の人の慾心深ければ、その人を罪に行うことなく、わが慾心の直らぬ故と、まずわが身を恥じられよ」と答え、これが御成敗式目に生きたのでした。

 明恵上人は、「仏眼仏母像」という、真っ白な蓮華台に坐し、真っ白な衣をつけた、真っ白な肌色の菩薩が描かれた仏画を信奉していました。仏眼というのは真理を見通す仏の眼、そして、それがすなわち悟りを産みだす母という意味の仏画だそうです。

 幼くして両親を亡くした上人は、その仏画を「母」として慕って信仰していました。泰時が法談に訪れた栂尾高山寺には、その仏眼仏母像がかかっていたはずですから、幾度となく泰時も拝したことでしょう。その仏画の前で上人から直接この像の教理を聴いたかもしれません。

 時頼が祖父泰時に養育され、さまざまなしつけを受けた時、明恵上人の話は当然出たでしょう。その時、仏眼仏母の白い仏画のことは時頼の心に残ったかもしれません。

 後年、建長寺を時頼が創建し、開山に迎えた蘭渓道隆が宋から持参してきた繊細な宋画の「宝冠釈迦三尊像」を見た時に、あるいは時頼の胸を、亡き祖父泰時の語った明恵上人の「仏眼仏母像」のことがよぎらなかったとはいえないだろうと思います。おそらく間接的に泰時から明恵上人の教えが時頼にも入っています。

 しかし、泰時の教育は、時頼の兄経時を執権に育てることが最重要課題でした。

 時頼元服の翌年、歴任元年(一二三八)に、二十一歳になった将軍頼経が上洛します。これは二歳で下向した頼経のはじめての帰洛ですから、頼経にとってはほとんどはじめての京都。しかも、その時に別れて顔も覚えていない両親、父九条道家、母西園寺公経娘掄子との二十年ぶりの再会です。しかも、晴れて鎌倉将軍としての凱旋。頼経の生涯における最高に輝かしい一大行事でした。

 その上洛に泰時は経時を伴って随行します。経時は十五歳です。十か月にも及ぶ長期滞在の京都。経時にもそれは興奮に満ちた得難い経験になったことでしょう。

 この時、時頼は母松下禅尼のもとに置いていかれ、お留守番でした。第二章で時頼には松下禅尼の感化が大きいと書きましたが、こういうことで自然に松下禅尼とは親密な母子になっていったのでしょう。

 ですが、泰時は、いつからか次第に経時の執権としての資質に不安を覚えるようになっていきます。これは、もしかしたら泰時が明恵上人の教えを受けていなかったら、問題なかったことかもしれません。が、国を治める者としての資格を上人から説かれた泰時には、絶対に疎かにできないことでした。『吾妻鏡』に書かれた記事から兄弟をひと言でいうと、経時は率先してすぐ行動に出る派、時頼は沈思黙考派、でしょうか。

 得てして兄弟というのは、両親のそれぞれの家の血筋をひとりずつ引きます。頼朝の場合、頼家は時政の、実朝は頼朝の血を引いていると、私は感じているのですが、時頼兄弟にもそれがいえると思います。経時が時政の血を引き、時頼が安達景盛の血を引く。もっといえば、もしかしたら頼朝の血を……。

 そういえば、泰時が第三代執権に就任して目指したのは、頼朝の時代の政治でした。

 上横手雅敬氏は『北条泰時』でこう書かれます。「泰時は頼朝の政治方針を継承し、それを体系化した政治家であった」「泰時は頼朝の忠実な継承者であった。それと共に事実以上に忠実な継承者と称し、自らもそれを信じていた」と。

 こういう泰時に不安を覚えさせた経時の言動が『吾妻鏡』に記されています。

 仁治二年(一二四一)十一月、鎌倉の若宮大路で三浦一族と小山一族の喧嘩となり、それぞれの縁者が駆けつけて大騒ぎになった時、経時は祖母が三浦氏だからと三浦氏に加担し武装した従者を派遣しました。時頼は動きませんでした。

 翌日、泰時は、「それぞれは将来、(将軍の)御後見となる器である。諸御家人たちに対して、どうして好き嫌いできようか。経時の行動はたいそう軽率である。しばらく(私の)前に来てはならない。時頼が事情を推察したことは、まことに重要である。追って恩賞があろう」と延べ、時頼は褒美に村を一つ貰いました。

 この四日前、泰時は経時と幕府の関係者を招いて酒宴を催しています。この席で、泰時は、「学問を好み、武家の政道を助けるように。また実時とよく相談されるように。全て両人は互いに水魚の交わりをされるように」と経時を諌めたといいます。『吾妻鏡』は、「今夜の御会合はこの事がもっとも重要であったという」と結びます。

 この時までに、泰時のなかで経時を諌めなければならない思いが固まっていて、それで酒宴を催し、みんなが見守るなかで経時を諭したのでした。なのに、その四日後にもう乱闘事件の件が起き、泰時の教訓は生かされませんでした。

 この話は、金沢文庫関連の歴史に入ると、必ずといっていいほどどこにも書かれていて最初に目にする知識です。

 実時は、のちに文武両道の優れた政治家として知られ、金沢文庫を創設することになる人物です。父は泰時の弟の実泰。泰時にとっては甥にあたるこの青年を、泰時は早くから評価しています。

 それは、実泰が病気で小侍所別当を辞し、その職を十一歳の実時に譲ろうとした時、周囲からそんな年齢で重要ポストが務まる訳ないと反対にあうのですが、泰時が、自分が補佐するからといって反対を押し切ったことにも表れています。

 酒宴があったこの時、経時と実時は共に十八歳です。経時の資質に不安をもった泰時は、身内でしかも同い年の好学の青年実時を傍において、自身が安心したかったのでしょう。

 この時、泰時は五十九歳。健康に不安を抱えていて、あるいは遠からずのことを予見していたのかもしれません。

 泰時が亡くなり、経時が第四代執権に就任したのはこの翌年。仁治三年(一二四二)です。

 承久の乱のあと、順徳院皇子の仲恭天皇が廃され、後高倉院皇子の後堀河天皇が帝位につかれました。後高倉院は安徳天皇と後鳥羽院の兄弟でいられます。続いて、後堀河天皇皇子の四条天皇の代になっていたのですが、仁治三年一月に四条天皇が軽率な事故で突然崩御されてしまいます。まだ十二歳の少年でしたから当然皇子はなく、慌ただしく継承者問題が起きます。

 京都のお公家さんたちのあいだでは順徳院皇子の忠成王を推す声が圧倒的で、誰しもがそうなると信じて疑わない状況でした。

 が、泰時は、承久の乱で率先して幕府と戦った順徳院の皇子を帝位につけたら、また後鳥羽院側の勢力が復旧し、幕府と敵対して世が乱れると考えます。それで、誰も顧みなかった土御門院皇子の即位を決断します。

 土御門院も後鳥羽院皇子ですが、順徳院と違い承久の乱では中立の立場を通しました。そういう院の皇子ならというのが泰時の判断です。

 都では忠成王決定の知らせを持つ鎌倉からの使者を待つお公家さんたちが、今か今かと忠成王のもとに集まっていたといいます。が、使者はそこには寄らず、誰も待つ人のいないひっそりした土御門院皇子がいられる屋敷の門を叩いたのでした。

 後嵯峨天皇の誕生です。

 使者にたったのは松下禅尼の兄弟で、経時と時頼には伯父にあたる安達義景です。二人が十九歳と十六歳の年でした。二人は後嵯峨天皇に決定するまでの舞台裏をつぶさに見ていたことでしょう。祖父泰時、伯父義景、そして京都の六波羅探題重時という三人の緊迫したやりとりを。

 この経験が時頼にどれほどの影響を及ぼしたかは想像に難くありません。時頼は、執権という立場は単に鎌倉地方を治める政治家ではなく、全国規模の責任を負うものという認識をこの時持ったに違いありません。

 が、承久の乱で朝廷に刃を向け、三人の上皇を配流した過去も生々しい傷をもつ泰時には、さらにまたそれを上塗りする即位決定に関する重圧は相当のものでした。それが心労となり、間もなく亡くなります。亨年六十歳でした。

 奇しくもこの年、後嵯峨天皇に第一皇子宗尊親王が生まれます。のちに時頼が鎌倉にお呼びして第六代将軍となり、『源氏物語』のブームを引き起こされる方です。すべては因縁のように、鎌倉の『源氏物語』の円環がここに整います。

 後嵯峨天皇は、鎌倉幕府の力によって帝位についた方ですから、それまでの朝廷と対照的に鎌倉と友好な関係を貫かれます。後鳥羽院がご自分の皇子の下向をすげなく拒否されたのに対し、宗尊親王の下向を許されたのもそうした事情でした。

 鎌倉にとっては念願の皇族将軍下向の端緒は、こうして経時の執権就任とともに切られたのでした。

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2025.2.10 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』こそ私が探し求めていた筆法かつ本の体裁でした

2月5日

おはようございます 昨夜美しい書物と呟いて それが頭から離れなくなっているのですが 三島由紀夫の春の雪 本当に美しいと思うのだけど今朝気がついたのはあれは男性主観の側の書物だったと 今迄こういう分類で文学を見たことがなかったのにも気がつきました 私は終末の聡子の悟りが好きで物凄く

 

わかるのだけれど 男性作家があれを書けたことに敬服していました 他の作家さん方の女性の書き方と一線を画して凄いです で 思ったのは聡子の視点であれを書いたらどうなのだろうと それも今迄無かった文学かもですね ただ私はそれこそ私が書きたい文学なのだということは今朝確認しました

 

で ふと ポルトガル文 はどうだったかしら と思い出したのですが 日本文学でいうと建礼門院右京大夫集でしょうか

 

ほんとうにこういう文学的心の志向から離れていて久しいと痛感 こういうことを呟いているだけで心が耕せる それにしても私は書物の語が好きだなあと改めて思いました マラルメの理想の書物からはじまった源氏物語の写本研究 私にとっての理想の書物との出逢いでした

 

野生のアイリスを読み終えて 思いがけずアルゴールの城にてを読みたくなったのは 家族がルイーズ・グリュック氏をグラックと勘違いしてアルゴールの城の人? と言ったので思い出したのでした グラック かつてどれほど読んだでしょう シルトの岸辺が大好きでした 半島も何回読み返したか

 

アルゴールの城にてはグラックの最初の作品でシルトの岸辺のようには整然とした小説技法になっていず 特異なシュルレアリスムそのものの手法で書かれているから 当時の私には難しく 私には一心同体のように寄り添ってくださった文学の先輩が夢中になってらした その方が昨年逝去されて私は虚しいの

 

だけれど 今ここでアルゴールの城にてを思い出させられたのは天から見守ってくださっている彼女の意志 のように感じられて本棚から出してきました こんなにも文学は深い 鎌倉の源氏物語で遠のいていた十年間の蓄積の皆無を埋めるのは大変だけど 感覚は取り戻しつつあります

 

眠くなったのでもうやめますが アルゴールの城にて するする読める 前に読んだ時はどうだったかしらと思うけど思い出せない でも文学の先輩が先にあまりにも心酔されてしまって それで私は引いてしまったのでした 前にも書いたけど 文章には意味を理解しないと進まない文章と 意味に関係なく

 

運ばれる文章があり 今ならこのアルゴールの城にてを意味に捉われて中断しようとせずに進められる この快感 この流れるような文体の文章に飢えていたのでした(といっても 意味を理解していないわけでなく するするという感覚の中で書かれていることの描写が映像化されています)

 

2月6日

おはようございます スマホのあれから6年というストーリーに流れて来たクロッカス @井の頭公園です コロナ禍に入って行かなくなり でも昨日野生のアイリスで思い出して また行こう と思ったところでした 同じ2月6日 咲いているでしょうか

 

野生のアイリスは不思議な詩集でした 思いというものが終始ずっと伝わってくる 詩に作者の思いを感じたことはなかったし 詩はそういった生身の感情とは別次元という感覚がありましたので 読後も白いドレスの女性が台地に膝まづいて祈りを捧げている映像がずっと心に残っている 不思議な感覚です

 

Twitterは流れてくる写真が好きで 特に欧州の修道院が好きで見ていて エーコの小説の森散策で紹介されたネルヴァルのシルヴィを読んだら修道院がリアルに映像化されて浮かんだ 今またアルゴールの城にてを読んでいて古城の円塔が出てきて これもリアルに眼に浮かぶ Twitter効果です

 

2月7日

おはようございます 写真は昨日スマホのストーリーに流れてきたクロッカスの群生 紅梅の根元に咲いていました アルゴールの城にてを拝読中ですが 字面がこういう作品に出逢いたかったのだ!というくらい探していた書物とぴったり これにならって華鏡を書き換えようかと

 

まだ冒頭の章しか読めていないのですが えんえんと地学の教師だったグラックの語彙的知識が詰め込まれて それを知らないと楽しめない文章 かつて私はだから魅力がわからなかったんですね それにしても主人公がアルゴールの城に辿り着くまでのえんえんたる描写 薔薇の名前を思い出したり 光源氏の

 

伊勢にくだる六条御息所を訪ねる野宮の描写がほうふつされたり 私は目的地に辿り着くまでの描写を好きなようです笑(薔薇の名前はそこだけ好きで 本文の内容に入ったら あれ? 文体が違う なんて)

 

RPさせて頂いた物語における話法と構造 『語りと主観性 物語における話法と構造を考える』 阿部宏編 読んでみたいと思うのは私が今アルゴールの城にてでそれを考えているところだから でも私の中では決着がついていて もう私は作品だけを読むと決めたところなので もっと早く巡り会いたかったなあと アルゴールの話法 不思議なんですがとても心地いいです

 

アルゴールの城にては三人称の話法なのだけれど 近代小説の三人称のような上から目線で登場人物を駒のように動かすのでなく 語っている話者という存在があって その話者の思いがずうっと底流しているから 私はその思いに浸って運ばれている感じで読んでいる これは不思議な文体で これこそ私が求

 

めていた書き方で 客観的に誰かを書きながら登場人物とは関係のない「思い」を持つ別の存在がある シルビィの分析にもこういうのあったかもだけれど 実質遭遇して読むのは初めての気がするし とにかくなんかまだよくわからないけれど アルゴールの城にての文章に私が倣いたいものがある とメモ

 

ふと私はシュルレアリスムを知らないと気づきウィキで検索しました アルゴールの城にてがシュルレアリスムの帰結と訳者の方があとがきで書かれているからです ブルトンのシュルレアリスム宣言とか話には聞いていたけど実際にどういうものか考えたことがなかったので 「口頭記述その他のあらゆる方法

 

によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」がシュルレアリスムだそうです 「無意識の探求・表出による」ともあります

 

改めて訳者あとがきを繰ったら 「グラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。と言うよりも、この書法そのものが作品の真の主題になっているのだから、もはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレベルで

 

見当さるべきものとなっているのではあるまいか」 私が感じたアルゴールの城にての三人称なのに別人格の存在があるというのはこれだったんですね 作者グラックの「無意識」の存在 これが話者となって物語を進行させている 今更シュルレアリスム? な気もしますが私には衝撃でした

 

2月8日

おはようございます 写真は201525日の寿福寺さま特別拝観の日にての白梅 一輪だけ咲いていました コロナ禍で籠って脚を痛めて鎌倉がとても遠のきましたが その分専念してるから華鏡の原稿に深みが出て 今度はシュルレアリスムにまで辿り着いて 華鏡 いったいどうなっていくのでしょうね笑

 

当日の寿福寺さまの写真を 一枚目は参道 二枚目は特別拝観の日でも中に入れていただけない空間 建長寺さまと同じ柏槇の古木が眼にとまりました

 

2月9日

シュルレアリスムをなぜ知らなかったかを考えていてウィキでフランス文学史を辿ってみました 私はある方にあなたはフランス文学史を知っておいた方がいいから僕が知っている範囲で伝授してあげると 毎週一作ずつ 例えば来週写実主義をするからバルザックの谷間の百合を読みなさい というふうに

 

学ばせて頂いて それが都合で終了した最後が象徴主義のランボーでした それから平岡篤頼先生の小説の講座を受講して学んだのがヌーボー・ロマン ウィキで見た文学史で明解になったのですが シュルレアリスムはちょうどその象徴主義とヌーボー・ロマンの中間なんですね 抜けていたわけでした

 

平岡篤頼先生がヌーボー・ロマンの騎手クロード・シモンの翻訳者でいられたから 私の小説作法の原点はシモン とばかり思っていて シモンによる自動筆記の文体 とばかり思っていたけど 今アルゴールの城にてを拝読していると自動筆記はこちらだという気分 さらなる原点なのでしょうか

 

アルゴールの城にてこそ私が探し求めていた文体という気がしています 三人称で綴られているのに登場人物ではないもう一人の別の存在がいる それが話者で話者の無意識が文章の流れを作っていくという文体 華鏡を書いていて薔薇の名前に倣って冒頭を話者となる人物の手記にしたのですが 以下の段落の

 

それぞれの登場人物の書き方に悩んでいました 手記の話者が北条時政を比企尼を語る事になるわけですが それを単なる三人称で書いていて味気ないし何か言い足りない でもその言い足りないところを埋めようとすると普通の三人称小説に突然別人格の主張が飛び出す そういう矛盾の解決が話者の無意識に

 

あるのならとても書きやすそう 何か光が見えてきた気がします シュルレアリスムというと絵画のシュールのイメージと混同して崩れた時計のようなものを思ってしまっていましたが全く違う世界でした 主人公のアルベールは「彼の精神がまず最初に打ち込んだのは、何よりも哲学上の探究」だったのです

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2025.2.6 Twitter(X)から転載……『華鏡』の原稿を見直しています。今まで「仙覚は誰か」のような解いて明らかになったことを主張する書き方(論文調)だったことに気がつき、どうしたらそれを文学作品に変えられるか、感性の一新をはかって取り組んでいます

1月31日

おはようございます 華鏡を見直し整理してプリントしました 玄覚という人物の回顧録としての冒頭から仙覚が生まれるまでの華鏡前編 通しでほぼできていることがわかりました 詰まっていたのは『万葉集』とは何か『源氏物語』とはなど論文的思考に入ってしまったからでした

 

相当苦心して書いたから捨て難かったのを コラムの見直しで気持ちが一皮むけたらそれもさっぱり削除しようと で 整理して通しで見たら 一応前編はできているのでした 詳細を詰めて完成させます 写真は京都市全貌 前編のキーパーソンは京都守護北条時政です

 

2月1日

おはようございますという時間でもないけど起きたのが遅かったので 写真は先日ご紹介した慈光寺山頂に並ぶ霊山院 慈光寺で出会った比企の方にとにかく綺麗だから行ってみてと勧められて行ったのでした 光景が眼に入ったときには思わず綺麗!と 深夜華鏡の原稿が硬直した感性で書かれていて辛いと

 

呟き それで今朝は論文の見出しみたいな各段のタイトルを柔らかなものに変える作業に勤しみました そうしたらあれほどこだわっていたエピグラフの 仙覚―それは世をしのぶ仮の名だった も削除したくなって それだけでもう随分原稿が柔らかになりました 今日から二月 如月は大好きな月です

 

華鏡 見出しの見直し作業 中々優雅な語句が文章内になく苦心しながら探してなんとか最初の数章を整えました すっかり雰囲気が違ってきています 要は論文的要素を排除する事が重要だったんですね そして冒頭の章 比企の乱 の見出しだったのを 手記 としました 要するにプロローグだったのです

 

頼朝が伊豆に流された平治の乱が 頼朝の乳母の比企尼の貢献に繋がり 比企谷を与えられて 仙覚がそこで万葉集の研究をする という事で平治の乱の辺りから華鏡は始まるのですが それと表裏一体に平家の絶頂時代に進んでいく歴史がある 平家納経が奉納されたのと 頼朝の終生大切な人だった丹後内侍

 

が二条天皇に出仕して丹後内侍と呼ばれるようになった年が一緒 なことに改めて気がついて写真の絵葉書を出しました

 

2月2日

おはようございます 雨が降って寒い朝の節分 でももう心は春ですよね 写真はずっと以前訪ねた仁和寺様にて この頃はまだ白河天皇もなにも歴史に深まってなくて ただ美しさに惹かれて撮らせて頂いていました 今華鏡を書いていて白河天皇の項に至り当時を懐かしく思い出しています 知らなくても

 

美を感受する心はある でもその後必要で歴史に深まって事実上の活動でも歴史がかかわってきてその感受性ってなくなってしまうものなんですね やっとそこから脱却して華鏡を文学として書いていける心境になってきています 節分で心機一転 嬉しいです 華鏡は愛と哀しみのボレロ オムニバス形式です

 

2月3日

華鏡の原稿 見出しを論文調でなく増鏡みたいな和語にしたら大分柔らかくなったのですが そうしたら今度は文章自体の硬さが目についてそれをどう書き換えるか思考中 文学になっていると自負する冒頭 それはもうずっと揺るがなくて これが書けたのだから書けるはず と思う以下の本文がなっていない

 

苦しいというより それが目につくようになったのだなあと 如何に論文を書いていた習性から抜けるかが目下の課題になりました 論文を書くことと文学を書くことでこんなにも土台となる感性が違うんですね 視界が晴れてきたからそれが見えてきました う〜ん 焦れったい の心境です笑

 

立春の陽射し @井の頭公園 通りすがりに あ 今日は立春だった と思い出して撮りました

 

2月4日

華鏡の原稿 硬直した感性でしか書けなかったここ数年の原稿 それが見えてきてどうしたらいいか考えていて 昨日は図書館に行って海外作品の文学の棚の前で空間に浸ったり 今迄ずっと日本の歴史の棚だったなあと 今朝 私には美しい物語がある それを書けばいい と言葉が降りてきて決まりました

 

やっと 論文的思考から文学的感性へ 振り切った気がします

 

世の中には美しい書物とそうでないのとある 昨日図書館に行って文学として確立されていて読んでなかった書物を借りて来たけど 書かれてある事象が酷くて読めなかった 私にはそれは到底書けないから作家として私はダメなのかも と思わないでもなく悩んで 購入してあった詩集を開いて 美しい と

 

思いました 書かれていることを突き詰めればただ美しいわけでないのはわかるけど 昨日借りた書物の酷さとは対照的 花に仮託した詩 知らない名前の花をタブレットで検索しながら頁を繰っています どのくらい読み取れるか畏れつつの『野生のアイリス』 ただすでに心が洗われている

 

写真はシラー 名前は知っていたけどどういう花か知らなかったので画像検索して魅せられました スノードロップという詩もあり 今の心境そのもので繰り返し読むでしょう こちらはXで流れて来て知っている花だけど検索したら別名待雪草 待雪草の名前は知ってたけどスノードロップだったなんて

 

美しい書物 ということにこだわる原点は 多分以前月光誌に白拍子の風を連載していた時 男性読者の方々から大人のメルヘンと揶揄された 白拍子の世界はそんな綺麗なものではないと それを短歌評論の菱川善夫先生にお話したら激昂されて 媚びを売るだけで貴顕に愛されるものではないとと

 

女性の読者さんには美しい物語があると読みたいから入会しましたと言われたり 訳者あとがきのご文章の中でもシニカル方面の方々には使われない魂の語と 美しいことを表面的と見て美しくなく難しく書くのが文学 みたいな男性主観男性主導の文学の世界があるのでは? と そんな気がしてきました

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