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2025.2.28 Twitter(X)から転載……ベルトリッチ監督「暗殺の森」を観てドミニク・サンダさんに魅せられ、華鏡の執筆に奮い立たせられました

2月26日

暗殺の森は環境的に自分の時間がとれない時期だったから観てなくて 今日やっと観たのですが 日本映画とのというか日本文学とかそういう和と洋の違いをずっと考えていて さっき壮大な世界観の語が浮かんでなにかわかった気が 和の作品にはそれがないんですよね 家族とか恋愛とか友情など個人が主体

 

それがいいか悪いかは別として私はそれを抜け出したくて 華鏡がそうなるのが嫌でもがいていたのでした だから今日の暗殺の森もその視点で考えて 和の作品に足りないのは政治? と思ったりしてアルゴールの城にてを思い出し そうっか哲学的思考だと 華鏡も旧稿ではそれを書いてなくて というより

 

そういうことを書いてはいけないみたいな潜在的プレッシャーがあって それで仙覚の歴史という主題を歴史の方々にも読みやすいよう一般の小説の形態で書き進めていたのでした つまり 私は 自分の書きたいことを書いてなかった! そんな事がやっとわかりました 華鏡は自由に書きます

 

それと 暗殺の森で今日考えたのは 私がなぜ暗殺の森を観たかったかはドミニク・サンダのダンスシーンの華麗な写真でだったから 観てあのシーンが映画の中ではあそこだけが特別で意味的には重要ではなかったこと これは考えさせられました 華鏡は映像でないからあえてそういうシーンを作る必要は

 

ないけど 旧稿がもし映像化されるとしてああいうシーンが浮かぶような魅力ある書き方をしてるかといったら 否 です おもねるのでなく美を感じさせる小説にしたい 心からそう思いました 源氏物語の写本についての小説だからなおさら

 

でも 比企の乱とかそういう殺伐した鎌倉の武士の世界を書いていたのだから 美的 に書けなくても無理なかった と やっとそう思えました 今 突然に やっと

 

まだ暗殺の森にこだわっているのですが ただ観たいというだけで何も調べずに観て映像というか撮り方の美しさに惹かれました 観た後ウィキを読んだらベルトリッチ監督29歳の作品と この映画の美しさで撮影監督がコッポラの地獄の黙示録に採用されたと 撮り方に既視感あったのはそういうことでした

 

2月27日

ブログを更新しました

2025.2.27 Twitter(X)から転載……『華鏡』に戻って気持ちが楽になりました。それで梅林を散策したり、登場人物の一覧表をつくったり、のんびり過ごしています

 

白い椿 蕾がたくさんついていたので切って飾っていたら開きはじめて 今朝はこんなに 白い椿は清楚でいいですね

 

書きたいように書く 華があるような書き方をする が根幹に据えられたら書きたい衝動が蘇って 華鏡で一番華がある女性といったら竹御所 そうだ 竹御所で一章設けようとか 仙覚でも一章設けなくては などいろいろ思いが兆しています でもみんな第二部だからまず第一部を仕上げてから

 

目下取りかかっている第一部は仙覚が誕生したところで終わるので

 

突然気持ちがするっとなって華鏡が動き出しました 添付は登場人物一覧に載せた歴代天皇 後嵯峨天皇皇子の宗尊親王に仙覚が万葉集を献上します 仙覚が生まれたのは比企の乱の年 土御門天皇の時代でした こういう流れの中で華鏡は展開します

 

不思議なのですが 今迄華鏡の原稿再開に設置したノートPCのワードが読取り専用になっていて原稿の上書きができずにいました 読取り専用になっているのもわからず四苦八苦していたのですが 今日突然読取り専用なので上書きできないと出て それならと解除の方法を検索してできるようになりました

 

たまたまなのでしょうけれど 華鏡再開を心がけてからずっとだったのに 暗殺の森を観て以降の心境の変化に対応するかのようなワードの変化にやはりなにかが始まるのだなあと 仙覚の小説 頑張ります

 

2月28日

自分の文章に酔いましょう という言葉が浮かんで そうだなあとなりました おはようございます 華鏡 登場人物作成がまだ終わらないのでいい加減にしてもう本文入力に入ろうと思っての感慨です ドミニク・サンダみたいな文章 と言ったら変ですが そんな感じで入力していきたいです

 

暗殺の森のドミニク・サンダさんが心から離れなくて ああいう印象で書いていこうと思うのもいいかなと 私はカサブランカのイングリッド・バーグマンの絶対的信奉者なのですが 似た感じがします またカサブランカを観たくなりました

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2025.2.27 Twitter(X)から転載……『華鏡』に戻って気持ちが楽になりました。それで梅林を散策したり、登場人物の一覧表をつくったり、のんびり過ごしています

2月22日

ブログを更新しました 2025.2.22 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』を読み終わりました。ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟・・・

 

写真は2019年池袋西武百貨店にてのモネの庭 TLに流れてきた情報ではもう寂れてしまっているそう コロナ禍直前に行ってコロナが終息したらまた行きたいと思っていました 深夜アルゴールの城にてを読み終わり華鏡への覚悟ができたのでブログを更新しました 今日は諸々原稿などの整理 清々しいです

 

華鏡 たぶん人称の問題は解決したからこのまま書いていけばいいと思う 薔薇の名前にならっての冒頭の手記はそのまま 書き直して行くのは第二章から その前に一応冒頭から読み直して感覚をつかみます

 

アルゴールの城にて 最初のほうと最終章に近い辺りから語り口が違った気がして 最初のほうは話者は隠れていてだから作者の無意識みたいだっのが 最終章辺りは堂々とした語り部的存在感 その辺りをもっと確かめたいのだけれど もう止めて 華鏡に専念します

 

2月23日

おはようございます 華鏡に戻って原稿を見ていたらルビが気になって いっそルビを無くし ルビ入り登場人物一覧を作ろうとノートに書き出していました 今迄は仙覚が生まれるまでの旧稿だったからそれほど人物は多くなかったのに 最終章までだとタウンニュース鎌倉版コラムまでの人数になりました

 

華鏡 登場人物一覧を入力してみました まだまだ続きますが結構な人数 殆んど史実にのる人たちの中で足立氏の女性三人は創作です

 

本格的に『華鏡 一』に着手したので お正月頃ブログに載せていた第三章時政の項など 『華鏡』の原稿を削除しました タウンニュース鎌倉版連載コラム『鎌倉と源氏物語』と『北条時頼と源氏物語』の連載はそのまままだ残します

 

華鏡 登場人物一覧を入力したものの 原稿を見直していたら なんと 比企氏に竹御所を入れ忘れていたことに気づいてびっくり 私が竹御所を忘れるなんてと 華鏡は膨大だから登場人物もずっと通しで出るわけでなくその都度その都度で出たり消えたり 一覧表も最終章を書き終わるまで完成しません

 

2月24日

未明の千葉南東沖と石川のほぼ同時発震の地震は怖いですね とっさにフォッサマグナ?と 正解かは別として 写真は以前訪ねた新倉の断層 糸魚川ー静岡構造線をたどって撮りに出ていた時のです フォッサマグナ西縁の露頭というので行きました 地学は好きな学科でした アルゴールの城にてのグラック

 

は地学の教師をされながら小説を書いてらしたそう アルゴールの城にてもそうした地学や地質用語や見解が満載 文章が硬質なのは書き連ねられている内容に有機的要素がないからもあるのでしょう だから惹かれて 今日はまだ華鏡の登場人物にこだわって入力しています

 

2月25日

おはようございます 奥村森さまにいつもご紹介して頂いて恐縮なのですが やっと華鏡が本格的に始動していつかこのAmazon著者ページに載せることができそうです それで思ったのですが もしXのアカウントが凍結されても 華鏡はできたのかな? と思って頂いた時にはこのページを見て頂けたら嬉しいです

 

夢を見ました 何年かぶりにリバーサルフィルムで美術品の大きな壺を撮影する仕事をして デジタルに慣れてすっかりオート機能に馴染んでしまったから まずピントに自信無く何度も見直し やっと順調に撮影が進んだと思ったらシャッタースピードを調整していなかったことに気づいて青ざめ 怖いです笑

 

岩石は何でしょう TLで現代人は電磁波を浴びすぎているからアース抜きをするといい その方法の一つに岩石をじかに撫でるというのがあって祖父の骨董だった虎の置物を出しました 机上に置いてお賓頭盧さまみたいに毎日撫でようかと

 

岩石を撫でるといっても家にそんな岩石があるわけないのに と思ったら思い出したのでした 虎が口を開いて咆哮している置物で 小さいとき妹とよく口に指を挟んだりして遊んでいました

 

華鏡に戻ってとても気持ちに余裕が出ました で 今迄は咲いているだろうなと思いながら通り過ぎていた牟礼の里公園に寄り道を 小さな梅林ですが紅梅も白梅も咲いていて新鮮さを大きく呼吸して来ました

 

2月26日

おはようございます 白い椿が咲いていたので虎の置物と 岩石が身近にあるっていいですね 触るだけで癒されます 私はこの台座が好きで 鋭く削って自然のままの景観を彷彿とさせている 家の中に中国のこの虎のいる景観がそっくりあるようです 台座の方が重たいです

 

こう呟いてわかったのですが 現代の生活ってこういう自然のものって家中見ても無いんですね 全部プラスチックか機械加工された金属か紙製品 だから花を飾るとそこだけ自然の空間が現出するわけだけれど この岩石の存在感手触り感は凄い 重さも半端ないし 現代文化の軽さを見た気がしました

 

BSプレミアムシネマ「暗殺の森」観ました 前から観たかった映画 いろいろ考えています 観てよかった そういうこととは関係ないけどドミニク・サンダさん いいですね!

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2025.2.22 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』を読み終わりました。ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟・・・

2月21日

写真はTLに流れてきたブルターニュの城 グラックのアルゴールの城にての舞台はまさにこんなふうな城でした 拝読し終わってずしんとこたえています 安易に言葉にするなんてできず訳者あとがきを頼って再読 読み始める前に拝読したことが拝読後ではリアルにわかる アルゴールはサルトルの嘔吐と

 

同年の発表で「この晦渋な物語」は嘔吐など評判の書物の前では読者の関心をひかなかったと 晦渋 なんですね グラックの書法 でもだからこその読後の心酔感慨感は烈しい 「ここでは誰しも、このような書法がまさに夢の記述にふさわしい、必然的な性格のものであることをさとるだろう。とすれば、

 

この物語全体が、一連の悪夢として読まれていいのであり、そう読まれたとき、この特異な城館を舞台にした陰惨な物語が、恣意による弛緩どころか、むしろ宿命の避けがたい必然のもたらす緊張に満ちた、異様に澄み切ったものであることが見えてくる筈」

 

アルゴールの城にての訳者あとがきより: 言ってみれば、宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそ、グラックがこの作品を書いたときの本当の狙いだったのではあるまいか。

 

アルゴールの城にてを読み終わりました 終わるまで華鏡の原稿には戻らないと決めていたのでようやくこれから再開 書いている内容も次元も全然同じではないけど ひとつだけ同じとして受け止めるべく受け止めたのは作者グラックの書く人としての覚悟 それを真摯に受け止めて華鏡に戻ります

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2025.2.14 Twitter(X)から転載……『アルゴールの城にて』で華鏡の書き方への迷いを払拭できました

2月10日

おはようございます 華鏡の書き方で悩んでいたことが『アルゴールの城にて』で解決しすっきりした朝です それでブログを更新しましたが 長いです笑 写真は20112月 峰岸純夫先生に案内して頂いた称名寺裏山の北条実時墓所にての椿 四枚目はそこから見下ろした称名寺境内 奥に八景島シーパラダイスが

 

やっと華鏡の文体に辿り着き かかったら集中して書き切りたいので それまでに予定していたことのすべてを終わらせておこうと『北条時頼と源氏物語』のブログへのアップを再開しました 原稿はすでにできているものだから華鏡より先にkindle化できると思っていたのですが それももう止めて

 

2月11日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第五章【第五代執権時頼へ】をアップしましたが改めて読んで自分で面白いです 兄の第四代執権経時の早い病死で時頼の陰謀が疑われているのですが それを払拭する論考です 経時の墓所は早逝過ぎて自身の菩提寺を造る時間がなかったから不明です

 

笹目谷のどこかということしかわかりません そのどこかを知りたくて笹目谷を歩いてみました 2014年でした この谷戸には佐々目遺身院という寺院が鎌倉時代にはあって その跡らしいところから白磁の水注?などが発掘されていました それで興味を持って書いたのが『寺院揺曳』です

 

中々自分の時間が取れなくて読む時間が少ないけどでも浸って読めるのが久しぶりで至福 と考えて この浸って読むという事 鎌倉の源氏物語に携わってからもう十年以上絶えて無かったと気づく たった数分でも たった何十分でも 折に触れアルゴールの城にてを開いています

 

私は映画も物語も観たり読んだりしたあとすぐ忘れるたちで アルゴールの城にても何も覚えていないと思っていたら 読んでいると読んだその時の感覚が蘇って主人公のアルベールの歩行と一緒に城の中の情景がリアルによみがえる ああ これはこの小説だったんだ と

 

2月12日

おはようございます ブログに『北条時頼と源氏物語』第六章時頼と道元をアップしました これも再読していて懐かしく自分で言うのもなんですが面白いです 時頼と道元というより 道元と蘭渓道隆について書いています これが時頼の建長寺創建に繋がったかと 建長寺に近い巨福呂坂のトンネルを抜けた

 

所に道元の只管打坐の碑が建っています 建長寺の傍に道元の碑が? は何も知らずに鎌倉を歩いていたころには不思議でした 歴史を知ると 人間関係を知ると いろいろ深いです 建長寺から碑まで歩いたときの写真を載せますね

 

ブログにアップした『北条時頼と源氏物語』第六章【時頼と道元】に書いた『道元禅師全集』第十七巻法語・歌頌等です 源氏物語をお習いした高橋文二先生が歌頌の部を担当されていて戴きました 浪も引き風もつながぬ捨小舟月こそ夜半のさかひなりけり 道元のお歌です 詞書は 正法眼蔵を詠ず 高橋

 

文二先生の解釈が素敵で 長いですがご紹介させて頂きます 潮の引いた海浜に捨て置かれた小舟がある。風が吹いてもつなぎ止める要もない。夜半の月光がその小舟を照らし、またあたり一帯を皓々と照らしている。そんなふうに月光は捨て置かれたようになっている小舟を照らし、つまりは私たちをも包み照

 

らしている。まさにこのすべてを包みこむ夜半の月光の世界そのものが仏法の表れなのだ。 と引用させて頂いても心が震えます まさに八王子の源氏物語のカルチャーでのお話そのもので 私の源氏物語の解釈は高橋文二先生からの十年以上にわたるお話からの耳学問です 自然観と宗教観という

 

華鏡にかかると何もできなくなるから 古い原稿をアップするだけの気楽な今ならと片付けものをしていたら 詩を学んでいた時の教材が出てきて 飯島耕一「ゴヤのファーストネームは」 当時夢中になって読んだのですが 鉛筆の書き込みを見たらシュルレアリスムの詩人とあってびっくり こんな時から私

 

は内在的にシュルレアリスムに惹かれていたんですね 「セザンヌ夫人」も大好きでした 蘇って なんか 文体の原点をみたようです

 

2月13日

おはようございます RPさせて頂いたフランス観光局さまのブルターニュ公爵家の城 アルゴールの城にての舞台はブルターニュらしくて地図を見たらブルターニュ地方は大きな半島 で 今朝このポストに出逢ってああこれだとなりました 周りを木々に囲まれ円塔がある グラックの『半島』が好きで

 

以前何度も読んでいたけど 当時はTwitterなどなくイメージの膨らましようがないから 私は伊豆半島とか三浦半島を思い浮かべて読んでいたのでした 規模が違う! って笑ってしまいました 今またアルゴールの城のモデルをこうして見させて頂き ネット社会って文学にもこうして影響を及ぼすなあと

 

清水徹『マラルメの〈書物〉』より: ひとがこの世にあるということ、そして物があるということは、ついに解きえぬ謎であり、あらゆる人びとの心の奥底には、たとえ意識の光を当ててもけっして透明たりえないそうした謎が黒々と横たわっている。そして、文学とはそういう謎に関連する営みなのだ。だから

 

それがいかに意識的な営みであろうと、書くとは、黒い滴を使って、白い紙のうえで黒を追及してゆくことなのである。白い紙のうえに、黒い文字を「暗いレースの襞」のようにつらねてゆくとき、はじめてそれは、汲みつくされることのない秘密にわたりあうことになる。こうして、文字をつらねた作品が要請

 

される← 図書館でシュルレアリスム関係の本を借りてきたのですが 最後にブルトン詩集を手に取った棚にこちらの本があって タイトルで思わず惹かれて借りて来て終日読んでいます マラルメの書物 私には高校の教科書にあった 理想の書物 の語に惹かれて以降の永遠の課題です

 

メモ 清水徹『マラルメの〈書物〉』より: おそらくマラルメを頂点とした文学的近代は、「文学的創造をして、だれかある造物主による世界の創造の等価物たらしめる」ような、いわばロマン派的な倨傲な超越性をもはや主張しない。ロマン派の詩人たちと一見同じような《絶対の探究》と見える彼らの探究に

 

おいては、しかし、おどろくべき変容がーー「詩とは、詩を可能ならしめる経験へと開かれた深みであり、作品から作品の起源へと向かう奇怪な運動であって、作品そのものは、みずからの源泉への不安な、終わりなき探究と化してしまう」という変容が起こっているのだ。たとえばノヴァーリスと同じように

 

マラルメも、その登攀それ自体が、異様な《文学空間》に入り込み、彷徨に似た歩みを歩みだすというようなものなのだ。マラルメの〈書物〉がまさしくそういうものなのである ← 漠然と感じていたことが書かれていました

 

仙覚の小説の華鏡 書けない書けないと苦渋しながら頑張って数年を経ました ふつうの小説形式で書けばそれなりに形になって 今その形でも草稿があるわけですが 絶対にこれは違う 私が書きたい〈書物〉ではない の思いがあっての「書けない」でした やっと何か掴めた気がします

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2025.2.10 Twitter(X)から転載……ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』こそ私が探し求めていた筆法かつ本の体裁でした

2月5日

おはようございます 昨夜美しい書物と呟いて それが頭から離れなくなっているのですが 三島由紀夫の春の雪 本当に美しいと思うのだけど今朝気がついたのはあれは男性主観の側の書物だったと 今迄こういう分類で文学を見たことがなかったのにも気がつきました 私は終末の聡子の悟りが好きで物凄く

 

わかるのだけれど 男性作家があれを書けたことに敬服していました 他の作家さん方の女性の書き方と一線を画して凄いです で 思ったのは聡子の視点であれを書いたらどうなのだろうと それも今迄無かった文学かもですね ただ私はそれこそ私が書きたい文学なのだということは今朝確認しました

 

で ふと ポルトガル文 はどうだったかしら と思い出したのですが 日本文学でいうと建礼門院右京大夫集でしょうか

 

ほんとうにこういう文学的心の志向から離れていて久しいと痛感 こういうことを呟いているだけで心が耕せる それにしても私は書物の語が好きだなあと改めて思いました マラルメの理想の書物からはじまった源氏物語の写本研究 私にとっての理想の書物との出逢いでした

 

野生のアイリスを読み終えて 思いがけずアルゴールの城にてを読みたくなったのは 家族がルイーズ・グリュック氏をグラックと勘違いしてアルゴールの城の人? と言ったので思い出したのでした グラック かつてどれほど読んだでしょう シルトの岸辺が大好きでした 半島も何回読み返したか

 

アルゴールの城にてはグラックの最初の作品でシルトの岸辺のようには整然とした小説技法になっていず 特異なシュルレアリスムそのものの手法で書かれているから 当時の私には難しく 私には一心同体のように寄り添ってくださった文学の先輩が夢中になってらした その方が昨年逝去されて私は虚しいの

 

だけれど 今ここでアルゴールの城にてを思い出させられたのは天から見守ってくださっている彼女の意志 のように感じられて本棚から出してきました こんなにも文学は深い 鎌倉の源氏物語で遠のいていた十年間の蓄積の皆無を埋めるのは大変だけど 感覚は取り戻しつつあります

 

眠くなったのでもうやめますが アルゴールの城にて するする読める 前に読んだ時はどうだったかしらと思うけど思い出せない でも文学の先輩が先にあまりにも心酔されてしまって それで私は引いてしまったのでした 前にも書いたけど 文章には意味を理解しないと進まない文章と 意味に関係なく

 

運ばれる文章があり 今ならこのアルゴールの城にてを意味に捉われて中断しようとせずに進められる この快感 この流れるような文体の文章に飢えていたのでした(といっても 意味を理解していないわけでなく するするという感覚の中で書かれていることの描写が映像化されています)

 

2月6日

おはようございます スマホのあれから6年というストーリーに流れて来たクロッカス @井の頭公園です コロナ禍に入って行かなくなり でも昨日野生のアイリスで思い出して また行こう と思ったところでした 同じ2月6日 咲いているでしょうか

 

野生のアイリスは不思議な詩集でした 思いというものが終始ずっと伝わってくる 詩に作者の思いを感じたことはなかったし 詩はそういった生身の感情とは別次元という感覚がありましたので 読後も白いドレスの女性が台地に膝まづいて祈りを捧げている映像がずっと心に残っている 不思議な感覚です

 

Twitterは流れてくる写真が好きで 特に欧州の修道院が好きで見ていて エーコの小説の森散策で紹介されたネルヴァルのシルヴィを読んだら修道院がリアルに映像化されて浮かんだ 今またアルゴールの城にてを読んでいて古城の円塔が出てきて これもリアルに眼に浮かぶ Twitter効果です

 

2月7日

おはようございます 写真は昨日スマホのストーリーに流れてきたクロッカスの群生 紅梅の根元に咲いていました アルゴールの城にてを拝読中ですが 字面がこういう作品に出逢いたかったのだ!というくらい探していた書物とぴったり これにならって華鏡を書き換えようかと

 

まだ冒頭の章しか読めていないのですが えんえんと地学の教師だったグラックの語彙的知識が詰め込まれて それを知らないと楽しめない文章 かつて私はだから魅力がわからなかったんですね それにしても主人公がアルゴールの城に辿り着くまでのえんえんたる描写 薔薇の名前を思い出したり 光源氏の

 

伊勢にくだる六条御息所を訪ねる野宮の描写がほうふつされたり 私は目的地に辿り着くまでの描写を好きなようです笑(薔薇の名前はそこだけ好きで 本文の内容に入ったら あれ? 文体が違う なんて)

 

RPさせて頂いた物語における話法と構造 『語りと主観性 物語における話法と構造を考える』 阿部宏編 読んでみたいと思うのは私が今アルゴールの城にてでそれを考えているところだから でも私の中では決着がついていて もう私は作品だけを読むと決めたところなので もっと早く巡り会いたかったなあと アルゴールの話法 不思議なんですがとても心地いいです

 

アルゴールの城にては三人称の話法なのだけれど 近代小説の三人称のような上から目線で登場人物を駒のように動かすのでなく 語っている話者という存在があって その話者の思いがずうっと底流しているから 私はその思いに浸って運ばれている感じで読んでいる これは不思議な文体で これこそ私が求

 

めていた書き方で 客観的に誰かを書きながら登場人物とは関係のない「思い」を持つ別の存在がある シルビィの分析にもこういうのあったかもだけれど 実質遭遇して読むのは初めての気がするし とにかくなんかまだよくわからないけれど アルゴールの城にての文章に私が倣いたいものがある とメモ

 

ふと私はシュルレアリスムを知らないと気づきウィキで検索しました アルゴールの城にてがシュルレアリスムの帰結と訳者の方があとがきで書かれているからです ブルトンのシュルレアリスム宣言とか話には聞いていたけど実際にどういうものか考えたことがなかったので 「口頭記述その他のあらゆる方法

 

によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」がシュルレアリスムだそうです 「無意識の探求・表出による」ともあります

 

改めて訳者あとがきを繰ったら 「グラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。と言うよりも、この書法そのものが作品の真の主題になっているのだから、もはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレベルで

 

見当さるべきものとなっているのではあるまいか」 私が感じたアルゴールの城にての三人称なのに別人格の存在があるというのはこれだったんですね 作者グラックの「無意識」の存在 これが話者となって物語を進行させている 今更シュルレアリスム? な気もしますが私には衝撃でした

 

2月8日

おはようございます 写真は201525日の寿福寺さま特別拝観の日にての白梅 一輪だけ咲いていました コロナ禍で籠って脚を痛めて鎌倉がとても遠のきましたが その分専念してるから華鏡の原稿に深みが出て 今度はシュルレアリスムにまで辿り着いて 華鏡 いったいどうなっていくのでしょうね笑

 

当日の寿福寺さまの写真を 一枚目は参道 二枚目は特別拝観の日でも中に入れていただけない空間 建長寺さまと同じ柏槇の古木が眼にとまりました

 

2月9日

シュルレアリスムをなぜ知らなかったかを考えていてウィキでフランス文学史を辿ってみました 私はある方にあなたはフランス文学史を知っておいた方がいいから僕が知っている範囲で伝授してあげると 毎週一作ずつ 例えば来週写実主義をするからバルザックの谷間の百合を読みなさい というふうに

 

学ばせて頂いて それが都合で終了した最後が象徴主義のランボーでした それから平岡篤頼先生の小説の講座を受講して学んだのがヌーボー・ロマン ウィキで見た文学史で明解になったのですが シュルレアリスムはちょうどその象徴主義とヌーボー・ロマンの中間なんですね 抜けていたわけでした

 

平岡篤頼先生がヌーボー・ロマンの騎手クロード・シモンの翻訳者でいられたから 私の小説作法の原点はシモン とばかり思っていて シモンによる自動筆記の文体 とばかり思っていたけど 今アルゴールの城にてを拝読していると自動筆記はこちらだという気分 さらなる原点なのでしょうか

 

アルゴールの城にてこそ私が探し求めていた文体という気がしています 三人称で綴られているのに登場人物ではないもう一人の別の存在がいる それが話者で話者の無意識が文章の流れを作っていくという文体 華鏡を書いていて薔薇の名前に倣って冒頭を話者となる人物の手記にしたのですが 以下の段落の

 

それぞれの登場人物の書き方に悩んでいました 手記の話者が北条時政を比企尼を語る事になるわけですが それを単なる三人称で書いていて味気ないし何か言い足りない でもその言い足りないところを埋めようとすると普通の三人称小説に突然別人格の主張が飛び出す そういう矛盾の解決が話者の無意識に

 

あるのならとても書きやすそう 何か光が見えてきた気がします シュルレアリスムというと絵画のシュールのイメージと混同して崩れた時計のようなものを思ってしまっていましたが全く違う世界でした 主人公のアルベールは「彼の精神がまず最初に打ち込んだのは、何よりも哲学上の探究」だったのです

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2025.2.6 Twitter(X)から転載……『華鏡』の原稿を見直しています。今まで「仙覚は誰か」のような解いて明らかになったことを主張する書き方(論文調)だったことに気がつき、どうしたらそれを文学作品に変えられるか、感性の一新をはかって取り組んでいます

1月31日

おはようございます 華鏡を見直し整理してプリントしました 玄覚という人物の回顧録としての冒頭から仙覚が生まれるまでの華鏡前編 通しでほぼできていることがわかりました 詰まっていたのは『万葉集』とは何か『源氏物語』とはなど論文的思考に入ってしまったからでした

 

相当苦心して書いたから捨て難かったのを コラムの見直しで気持ちが一皮むけたらそれもさっぱり削除しようと で 整理して通しで見たら 一応前編はできているのでした 詳細を詰めて完成させます 写真は京都市全貌 前編のキーパーソンは京都守護北条時政です

 

2月1日

おはようございますという時間でもないけど起きたのが遅かったので 写真は先日ご紹介した慈光寺山頂に並ぶ霊山院 慈光寺で出会った比企の方にとにかく綺麗だから行ってみてと勧められて行ったのでした 光景が眼に入ったときには思わず綺麗!と 深夜華鏡の原稿が硬直した感性で書かれていて辛いと

 

呟き それで今朝は論文の見出しみたいな各段のタイトルを柔らかなものに変える作業に勤しみました そうしたらあれほどこだわっていたエピグラフの 仙覚―それは世をしのぶ仮の名だった も削除したくなって それだけでもう随分原稿が柔らかになりました 今日から二月 如月は大好きな月です

 

華鏡 見出しの見直し作業 中々優雅な語句が文章内になく苦心しながら探してなんとか最初の数章を整えました すっかり雰囲気が違ってきています 要は論文的要素を排除する事が重要だったんですね そして冒頭の章 比企の乱 の見出しだったのを 手記 としました 要するにプロローグだったのです

 

頼朝が伊豆に流された平治の乱が 頼朝の乳母の比企尼の貢献に繋がり 比企谷を与えられて 仙覚がそこで万葉集の研究をする という事で平治の乱の辺りから華鏡は始まるのですが それと表裏一体に平家の絶頂時代に進んでいく歴史がある 平家納経が奉納されたのと 頼朝の終生大切な人だった丹後内侍

 

が二条天皇に出仕して丹後内侍と呼ばれるようになった年が一緒 なことに改めて気がついて写真の絵葉書を出しました

 

2月2日

おはようございます 雨が降って寒い朝の節分 でももう心は春ですよね 写真はずっと以前訪ねた仁和寺様にて この頃はまだ白河天皇もなにも歴史に深まってなくて ただ美しさに惹かれて撮らせて頂いていました 今華鏡を書いていて白河天皇の項に至り当時を懐かしく思い出しています 知らなくても

 

美を感受する心はある でもその後必要で歴史に深まって事実上の活動でも歴史がかかわってきてその感受性ってなくなってしまうものなんですね やっとそこから脱却して華鏡を文学として書いていける心境になってきています 節分で心機一転 嬉しいです 華鏡は愛と哀しみのボレロ オムニバス形式です

 

2月3日

華鏡の原稿 見出しを論文調でなく増鏡みたいな和語にしたら大分柔らかくなったのですが そうしたら今度は文章自体の硬さが目についてそれをどう書き換えるか思考中 文学になっていると自負する冒頭 それはもうずっと揺るがなくて これが書けたのだから書けるはず と思う以下の本文がなっていない

 

苦しいというより それが目につくようになったのだなあと 如何に論文を書いていた習性から抜けるかが目下の課題になりました 論文を書くことと文学を書くことでこんなにも土台となる感性が違うんですね 視界が晴れてきたからそれが見えてきました う〜ん 焦れったい の心境です笑

 

立春の陽射し @井の頭公園 通りすがりに あ 今日は立春だった と思い出して撮りました

 

2月4日

華鏡の原稿 硬直した感性でしか書けなかったここ数年の原稿 それが見えてきてどうしたらいいか考えていて 昨日は図書館に行って海外作品の文学の棚の前で空間に浸ったり 今迄ずっと日本の歴史の棚だったなあと 今朝 私には美しい物語がある それを書けばいい と言葉が降りてきて決まりました

 

やっと 論文的思考から文学的感性へ 振り切った気がします

 

世の中には美しい書物とそうでないのとある 昨日図書館に行って文学として確立されていて読んでなかった書物を借りて来たけど 書かれてある事象が酷くて読めなかった 私にはそれは到底書けないから作家として私はダメなのかも と思わないでもなく悩んで 購入してあった詩集を開いて 美しい と

 

思いました 書かれていることを突き詰めればただ美しいわけでないのはわかるけど 昨日借りた書物の酷さとは対照的 花に仮託した詩 知らない名前の花をタブレットで検索しながら頁を繰っています どのくらい読み取れるか畏れつつの『野生のアイリス』 ただすでに心が洗われている

 

写真はシラー 名前は知っていたけどどういう花か知らなかったので画像検索して魅せられました スノードロップという詩もあり 今の心境そのもので繰り返し読むでしょう こちらはXで流れて来て知っている花だけど検索したら別名待雪草 待雪草の名前は知ってたけどスノードロップだったなんて

 

美しい書物 ということにこだわる原点は 多分以前月光誌に白拍子の風を連載していた時 男性読者の方々から大人のメルヘンと揶揄された 白拍子の世界はそんな綺麗なものではないと それを短歌評論の菱川善夫先生にお話したら激昂されて 媚びを売るだけで貴顕に愛されるものではないとと

 

女性の読者さんには美しい物語があると読みたいから入会しましたと言われたり 訳者あとがきのご文章の中でもシニカル方面の方々には使われない魂の語と 美しいことを表面的と見て美しくなく難しく書くのが文学 みたいな男性主観男性主導の文学の世界があるのでは? と そんな気がしてきました

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