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2025.3.30 Twitter(X)から転載……『華鏡』は高倉天皇の章に入りました。まず後白河天皇から書き始めて。

3月27日

まだ高倉天皇の章に入っていないので今日は終日終活もどきの整理 大切にしまっていて場所をとっていた数年分の現代史手帳ユリイカ詩と思想などを処理することにしました 人ってこんなにあっさり過去を切ることができるんですね あんなに大切に保存したその当時のことを思って不思議な境地です

 

華鏡を書いているからです 華鏡に辿り着いたからとも 今迄の作品と華鏡の到達レベルは違うと自分で思います

 

とツイートして日常に戻り家事をしていたら思い出しました 『潮香』を出して頂いた編集者さんに あなたはどうしてあんなに男の心が読めるの? と言われました 現代詩手帖を読んでいたからとその時思ったのでした そういえば私は詩作品でなくその作品を書いた方の心を読もうとばかりしてたなあと

 

3月28日

華鏡は今日から高倉天皇の章に 久保田淳先生『藤原定家』に俊成と定家についての読みの解説があって 俊成はトシナリだけれどシュンゼイで通っている 定家も定家自身サダイエと名乗っているけどテイカが一般と これ いつもルビを振るのに悩んでいました 華鏡でもルビを振るから覚悟して決めます

 

後白河天皇を書いていて 記憶が確かか年譜を作ったら 後白河天皇の生涯って大変でした 前半建春門院滋子さん寵愛までと その間に保元の乱平治の乱源平の争乱があっての頼朝が上洛した人生後半 大河清盛の松田翔太さんと鎌倉殿の西田敏行さんそのまま 人生の修羅を潜っての西田敏行さんでした

 

3月29日

家族がいろいろ体調悪いので そうだ と思って中華粥を作りました いつも京都へは朝ののぞみ第一号で行ったから朝食は京都駅ビルの朝粥のお店で それが美味しくて自宅で作ったことはないのですが それを思い出して 帆立の貝柱の缶詰をたっぷり使って出汁に 薬膳粥をこれから試行していこうかと

 

ずっとバルバラを聴いています ナントに雨が降る 黒い鷲 どうしてバルバラはこうもいいんだろうと 最勝光院滋子さんを書き終えて何かが変わったから何かを聴きたくて探してたどり着いたのがバルバラ 忘れていたのがもったいない感じ こうして少しずつ自分を取り戻していくんですね 世の中は陰謀

 

に満ちていて 私は仙覚や比企氏を抹殺した権力者の側の陰謀を見ていて書いているから背景にある策謀がよく見える それが見えなくて仙覚を書くなんてできません SNSがなかった時代 市民は陰謀に気付かないし気付いても誰も助けようとはしない 市民が監視し声を上げなければ権力者の側の思う壺です

 

写真はスマホに流れてきた去年を振り返るというストーリーの1枚 TLでいろいろな花を教えて頂いて それまで気づかなかった花に眼をとめて撮る ということが増えました 朝作った中華粥 家族が美味しくて毎日でも食べたいと それで今ネットで専用に貝柱の出汁を注文 気に入って貰えて良かった

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2025.3.27 『華鏡』、高倉天皇の章を気分的に新しい展開にしたくて試行錯誤していたら、Xで過去ツイートを発掘して下さった方がいらして、それにインスピレーションを受けました

3月26日

(以下、Twitterより転載)

2019年5月8日 ウィキよりジョルジュ•ブラッサンス

発掘していただいた過去ツイートです 仙覚の小説を書き始めるにあたり 人物像を探っているときTLにジョルジュ・ブラッサンスのCDジャケットを見て この人! と直感しました それでウィキを見たり動画で聴いたり 仙覚は比企鎌倉を往還するので体躯のいい男の設定 素敵ですねこの方

 

最勝光院滋子さんを書き終わった虚脱感からまだ抜けられないのは高倉天皇の章の書き出しを巡って考えているからで そうした時にジョルジュ・ブラッサンスの過去ツイートを発掘して頂き そうっか 気分を和に引きずられ過ぎていたと気づきました そうしたら柏倉康夫先生のジャック・プレヴェール伝が

 

思い出されて 好きだったなあ あのご本 ああいうふうに華鏡を書けたらいいのに なんて気分に 和 はなんか窮屈です そしてプレヴェールの情緒ある軽やかさ もちろんそこに人生の悲哀苦しみはあるけど 美しい そう 美しく書きたいんですね 華鏡!

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2025.3.26 『華鏡』、高倉天皇の章をどういう切り口で書いていくか、逡巡中です

3月25日

(以下、Twitterより転載)

ブログに華鏡の次の章を高倉天皇にする思いや訳を記しましたが 今の時代 あまり内容を書くとAIに学習されてAIに華鏡を書かれてしまうかなと思ってあまり深くは書きませんでした ずっと華鏡ってAIが書けるかしらと危惧でもありませんが考えていて でも華鏡は私が国文学の学会で研究発表した私

 

独自の説を小説にしているもので 学会での研究発表のときの聞いて下さっていた高名な先生方のご反応でもそれまで聞いたことのない説だというのは確かです だから小説も当然まだ誰も書いたことのない世界を書いているわけで なのにそれを学習されてAIに書かれたなんてことになったらたまりませんね

 

平家物語「小督」を読みました たまきはるを書いた建午前は建春門院滋子さんの崩御を記していて それ以前に女房として同僚に小督がいたと書いている 高倉天皇の年譜にそれを入れて考えると 高倉天皇が小督を見初めたのは15歳くらいの時 すでに建礼門院徳子さんが中宮として存在しているから小督は

 

清盛の恐ろしい迫害にあって平家物語の嵯峨に隠れ住むエピに 平家物語にある仲国に探し出されて高倉天皇のもとに戻り 再び寵愛されて皇女をもうける それが徳子さんが安徳天皇を産む前年だったから 先に小督が男子を産んだら大変とまた清盛の迫害に遭う とそういう年齢的時系列が見えてきました

 

ここのところの高倉天皇 仲国が嵯峨に探しに行っている間寝ないで起きて待っている 桐壺更衣を亡くして弔問させた靫負命婦を待つ源氏物語の桐壺帝と話が瓜二つですね 途中で一瞬 あれ? 私源氏物語を読んでいるのだった? って錯覚を起こしました

 

3月26日

久保田淳先生『藤原定家』を拝読しています 高倉天皇の崩御に際し 定家は心から敬愛して仕えていたにも関わらず葬儀に参列せず 沿道で見送るだけ 時代の流れを敏感に感じ取っていた俊成が参列を禁止したからでした というエピをどこで読んだのだったか本棚を探してこれかもと やはりそうでした

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2025.3.25 『華鏡』の次の章は、高倉天皇の生涯になります

3月25日

建春門院滋子さんの章を終わって 次に高倉天皇の章を入れようと思ったのは 高倉天皇が建春門院滋子さん所生の皇子だからですが 建御前の『たまきはる』を読んでいて小督が滋子さんに仕える同僚だったと知り 驚いたからでした

 

高倉天皇は母滋子さんの御所に出入りしていて小督を見初めたことになりますね そんなこと 今迄平家物語での小督との悲恋しか知らなかったから興味を引かれ 何歳くらいの年からのできごとだろうと高倉天皇の年譜をつくりました 興味深い結果が出ています

 

建春門院滋子さんの章の次に 源光行が源氏物語研究に多大な恩恵を受けたとする四人の公卿の章をつくろうと思っていました 後徳大寺実定 藤原俊成 吉田経房 源通光 の四人です じつは建春門院滋子さんの章を書くより先に光行の章を書いていたのですが この四人の恩恵を受けたと書いたら四人について一人ずつ説明を入れなければならず つまらなくなって止めたのでした

 

高倉天皇の章を書くことになったら そうか この四人はみんな高倉天皇の章にエピソードとして入れられる となり それをこれからします

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2025.3.24 『華鏡』は建春門院滋子さんの章を書き終わりました。没頭して書いていたので、目下、虚脱中です笑

3月24日

華鏡は、昨夜、建春門院滋子さんの章を書き終わりました。もうずっと以前に書いてあった原稿に手を入れ、大きく膨らませて完成させました。仙覚の小説『華鏡』には関係ないから、華鏡を始めて奥にしまい、いつか短編にして発表しようと思っていた旧稿。でも、仙覚の小説に気が乗らず、数年も経つのに書けなくて、悩んでいたときに、羽生結弦さんと野村萬斎さんのスケート、圧巻の「ボレロ」に心打たれ、NHK大河「べらぼう」で小芝風花さんの花魁の美しさに圧倒されて、仙覚の小説にないのは、これだ! となって、それで建春門院滋子さんをひとつの章として投入しようと思ったのでした。そのとき思ったのは、「美は人の心を打つ」。仙覚の小説に足りなかったのは「美」だったのでした。

 

建春門院滋子さんには、後白河院から贈られた御願寺「最勝光院」があります。藤原定家の明月記に「壮麗、荘厳なること極まりなく、天下第一級の建築なり」とあるくらいに華麗な寺院でした。創建にあたって後白河院は滋子さんを連れて、宇治の平等院を訪ね、それで最勝光院は平等院の鳳凰堂を模した御堂の両側に翼廊が繋がる寺院の結構になっています。

 

書いていて、途中から、ここで仙覚に生まれたときに引き離され、生き別れになっている母親と会わせようと考え、いろいろ事情を考え併せてうまく投入できました。華鏡のひとつの章としてでなく、単体で、短編としてでも読んでいただきたい仕上がりになったと思います。運慶もからませていますし。

 

あまりに没頭して書いていたので今現在虚脱感の真っ最中。完成原稿に仕上げる推敲をする気力もなくしています笑

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2025.3.22 Twitter(X)から転載として記していた日録を、これからこのブログに直接まとめようと思います

3月22日

昨夜、建春門院滋子を書いていて やっと 最初に記した他の方がつくりあげたイメージに引きずられていた文章から脱却 自分のイメージの滋子さんで書くことができました だから「心をこの世に残して去った美しい女人」の暗いフレーズを投することなく新しい展開に 薔薇が咲いた茂みの奥に仙覚の生まれてすぐ引き離された母親のすがたを書き入れました たぶん 会話はさせずそのままやり過ごしますが やっと冒頭の手記で一度だけ見たことがある、のエピソードをここでこなして次へ

 

最勝光院滋子さんの原稿に没頭し 仙覚の母親についてのエピソードを書き入れるまでに集中したら このままこの状態を続けなければとなり 当分Twitterには呟かないと決めました また今後いつまでこれが守れるかわからないけど これからの日録はこのブログに直接書き込みます

 

昨夜 PCを閉じるにあたり 今後の展開として 5建春門院滋子 6藤原俊成 7源通親 8後徳大寺実定 9源光行、と記しましたが 起きたら そうだ! 高倉天皇の章を設けなければ となって 7源通親の章を 7高倉天皇 とすることに 高倉天皇は後白河院と滋子さんの子 平家物語で好きな小督は滋子さんの女房だったよう 通親は高倉天皇の側近でした

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2025.3.21 Twitter(X)から転載……突然、『華鏡』に藤原俊成の章を加えることになりました

3月20日

おはようございます 以前鎌倉の私の活動を支援して下さっている方々のご尽力で鎌倉文学館で連続講座をさせて頂きました その時のチラシが出て来て読んでいたらこれが私の歴史に対する視点なのだなあと ご紹介したくなってツイートします 隠れた鎌倉の歴史を掘り起こす はその方々がつけて下さった

 

キャッチフレーズです: 歴史は人の思いと動きの結果です。歴史という大河にはたくさんの人の思いと痕跡が沈んでいます。或いは寺院、或いは古典、若しくは作品、若しくはただ痕跡として。文献史学からはずれているために、見落とされ、語られてこなかった歴史は膨大です。鎌倉には、あまり知られて

 

いない歴史がまだまだたくさんあります。寺院を、古典を、痕跡を、読み解いて新しい歴史に触れると、今まで知っていた歴史が、一層ふくよかに感じられるようになります。

 

華鏡 今日でやっとしなければならないのに滞っていた幾つかの用の最後をし終えて 晴れて原稿にかかれる状態に 何かがひっかかっていると専心しようといくら注意を向けても無理でした 先々週某管理者を他の方に委託し終わった時も心が晴れ晴れしたのでした そして今日も そして原稿は建春門院滋子

 

さんが終わったらいよいよ今度こそ光行さん と決めていたのに 広くなった思考回路に浮かんだのは俊成 え! 俊成を書くの? となりましたが 思考はどんどん俊成に もうあとは私的な事柄だけが結構な負担なのだけれど 心にかかっている問題ではないので 何とか集中に持っていって専念します

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2025.3.19 Twitter(X)から転載……『華鏡』に入れる最勝光院と建春門院滋子について思考をめぐらしています。やはり魅惑的な章、魅惑的な女性の登場がないとつまらない、私の書く原点なのでしょうか

3月15日

おはようございます 華鏡の原稿 建春門院滋子さんと最勝光院の章の構想がだんだん整ってきました 昨夜は最勝光院についての資料を読みながら就寝 やはり土地をしっかり把握すると地上の人間のすがたが見えてきます 写真は2011年に訪ねた六波羅 京都国立博物館の辺りが真ん中辺のような

 

この時はまだ最勝光院について書くなど思っていなかったから 六波羅蜜寺から南下して小松殿跡を見て三十三間堂の辺りで後白河院陵の碑を見たら法住寺殿跡とあり そこからさらに南下したと思うのですが たぶんその辺りが最勝光院だった? など今にして思う 再訪したいところの一つです

 

昨夜寝ていないから週末だしと横になって起きたら 心をこの世に残して去った若く美しい女人 の言葉が浮かび これだ! となりました 仙覚と最勝光院の繋がり 仙覚をなぜか最勝光院の境内に入れたくていろいろ考えていたのですがこの線でいきます たしかたまきはるに薔薇 の語があった気が 後で

 

確かめますが 建春門院滋子さんのイメージは私には薔薇なんですよね

 

3月16日

おはようございます 今日はこれから華鏡建春門院滋子さんの章にかかります たまきはるを読んだり最勝光院についてのご論考を拝読していたらすっかり研究能になって折角浮かんだ 心をこの世に残して去った若く美しい女人 の情感がなくなってしまいました 気持ちが殺伐としてこれはもう書き始める

 

しかないと決めて就寝 起きたら 頼朝が…… の冒頭が浮かんで 昨夜までは最勝光院は…… だったのが思いがけない展開にこれでいくことにしました 建春門院滋子は頼朝が仕えていた上西門院統子に女房として出仕していて そこに仲のいい弟の後白河院が訪ねてきて滋子を見初めます その時期が頼朝

 

が伊豆に流される直前だから もしかしたら頼朝はまだ女房だった滋子さんと会って話を交わしているかもしれない もう一度年譜でたしめてから書きますが ずうっと滋子さんというとこの辺りが気になっていました それを思い出したのが今朝 いろいろ破棄した過去原稿が甦ってきます

 

3月17日

思いがけず咲いてくれた去年のヒヤシンス 紫の花はやはりいいですね 華鏡建春門院滋子さんの章は順調に進んでいて 初めて評伝ふうでなく創作の領域で書けていると実感しています やはり魅惑的な女性を入れないとダメでした 自分で乗って書けないから そんな事が今になって思い知らされています

 

最勝光院跡へはJR奈良線東福寺駅から行くのがいいのかも 私は京都の土地勘がなく 最勝光院についての文献は考古からくる考察で すでになくなっている寺院は観光地でないからガイドブックに載ってなくて やっとこの京都時代MAP平安京編でここまで把握 青い池の西側に最勝光院がありました

 

3月18日

おはようございます 昨日順調に書き進んでいると呟いた華鏡建春門院滋子さんの章ですが 破棄して書き直しています するすると書き進むままに書けて順調と思っていたのですが 滋子さんのイメージに他の方が作ったのに引きずられていたことに気づいて 私的にほんとうは正反対のイメージなのでした

 

だから 心をこの世に残して去った美しい女人 のフレーズをどうしても入れられなくて それで気がつきました で 新しく浮かんだフレーズは 遍く愛を降り注ぐ美しい女人 この線で書き直しています 薔薇が咲いていました と昨夜記して

 

3月19日

建春門院滋子さんの像がはっきり見えてきて 今日は朝から専心して書こうと決めていたのに 私事の些細なことで終日心を使って何もできませんでした で 今頃感性を取り戻すべくたまきはるを読んでいます でもこういうことはいつものことでこの停滞が書き出した時にワンステップのアップになるから

 

こういう停滞のじりじりとした感覚も振り返ってみれば大切だったと そんな積み重ねで華鏡はここまできました 滋子さんの章を書き終わったら あとはもう今迄書いてある仙覚の誕生までの旧稿をまとめるだけ とにかく滋子さんの章を魅力的に書けるか ここにかかってきました

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2025.3.15 Twitter(X)から転載……『華鏡』に建春門院滋子と最勝光院の章を入れるために、かつてとりかかっていた時の旧稿や資料を出して見ています

3月14日

建春門院滋子の章を書こうとして旧稿やそれに伴う資料を出して見ていると なんと華やな! と心がうきうき 仙覚の小説にこだわるあまりに私はこうした素材を破棄していたのでした それで魅力がなくなり書く気力も失せて笑 最勝光院があった地図をご紹介しますね

 

最勝光院は無名草子にも書かれていて 浄土もかくこそ という華麗さでした そしてその建立の発起人だった建春門院滋子さんをこの世の御幸ひも極めと 資料を出すまですっかり忘れていましたが 当時集めた資料を読み返さなくてはの思いです

 

建春門院滋子さんの旧稿を入れていたクリアファイルは一番のお気に入りだった正倉院螺鈿紫檀五絃琵琶 添えているご論考は泉武夫氏「王朝仏画論」 このご論考大変貴重で興味深く拝読していました 今見ても楽しい 王朝仏画の鍵は一言で言って 美麗と 善を尽くし美を尽くすことだったそうです

 

建春門院滋子や最勝光院関係の資料にはこういうものも 最勝光院理趣三昧・御八講 『守覚法親王の儀礼世界ー仁和寺蔵紺表紙小双紙の研究ー』より ほんと いろいろ懐かしいものばかり 目眩くばかりのこうした世界を切り捨てて仙覚という鎌倉の武士文化にだけ特化してここ数年を生きていたんですね

 

どれから読もうかしらと資料を分類していたら 吉記に玉葉明月記から関連部分だけを図書館でコピーしてあったのが出てきて ひとまずこれは目を通しておこうと たまきはるも当時はまだ持ってなくて図書館で借りた本をコピーしたものが マーカーが引かれていて吉田経房藤原光能が仕えてる 目眩く世界です

 

最勝光院関連の資料に目を通していたら 最勝光院は宇治平等院を模した優美な建物と そういえば後白河院は最勝光院建立にあたって滋子さんを平等院に伴って見せているんですよね 当時読んでいて 凄いなあ なんというロマン と眼を見張ったのでした

 

メモ: 最勝光院が焼亡したのは1226年だから、仙覚が在京していた期間はまだ健在 仙覚を最勝光院の境内に立たせられます!

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2025.3.14 Twitter(X)から転載……『華鏡』に運慶の章を加えました

3月12日

華鏡 今日は運慶の章を加えました 最初の華鏡で書いてあった章なのに いろいろ悩んだ数年の間にこねくり回して仙覚の小説に運慶は要らないと削除してしまっていた章 復活させたら文章はまるまる使えてそれで一章完了 これで華鏡は1時政2丹後内侍3二条天皇4運慶となりました 5に建春門院滋子さん

 

建春門院滋子さんの旧稿を出そうとしていたら一緒に運慶の旧稿が出て そうだ 滋子さんを入れるのだから運慶も入れようとなったわけで なぜ運慶が大日如来像にこだわったかを書いています でも滋子さんの章は思ったほど整ってなくて 明日から旧稿をもとに白紙の状態で書くことになりそうです

 

建春門院滋子さんの章は最勝光院についてで 東山区今熊野の辺りにあったと言われる後白河院の御願寺のひとつ 池があって そこで滋子さんを乗せた舟が対岸に渡ったとか そのエピソードに惹かれて当時必死になって最勝光院の資料を読んだのだけれど でもそれほどの池があった寺院が今は不明だなんて

 

当時(最初の旧稿)仙覚が運慶に会ったかとか 最勝光院に行っただろうかなど いろいろ膨らませて考えていたのですが まだ確定ではありませんが 仙覚が在京した頃にはもう運慶は鎌倉だったような 仙覚が在京した頃にまだ最勝光院は建っていたか 是非とも仙覚をその境内に立たせたいとなどいろいろ

 

3月13日

運慶と空海はウの印象が強く そこに混じるのがK音だけだから ともすると一緒になってしまう すぐ気がついて時代からして違うのにって笑ってしまうのだけれど 今回華鏡に運慶の章を入れて改めて運慶は空海の後継者なんだなあと思いました 運慶というと鎌倉との繋がりが強く 仁王像とかで荒武者的

 

イメージの仏師とされ 13人の時とか某作家さんの小説とかでは表面的な事象でしか捉えられていない 私はずっとそれが不満でした 例えば宇治平等院の阿弥陀如来を造った定朝にはああいうキャラ設定はしないた思う で 運慶を考えた時 時政と会って鎌倉的仏師になる前は優美な大日如来像を造っていた

 

鎌倉に来ても樺崎八幡宮の大日如来とか 運慶は終生大日如来の人なんですよね 心の底に優美な造仏を忘れていない 仏師は仏像を彫るのに経典に書かれた印相や衣装を知らなくてはならないから経典を読み込んでいます 私は華鏡に運慶のそういった精神性を書き込みました

 

運慶は東寺講堂の立体曼荼羅に影響を受けているそう そう思って私も訪ねた時にまじまじそう言われる一体の菩薩像を拝して来ましたが 仏像は空海の立体曼荼羅をまつまでもなく仏像そのものが曼荼羅なんですよね 法はもとより言なけれども言あらざれば現れず と

 

運慶を書いて久しぶりに空海の密教世界を堪能しました 御請来目録の法はもとより言なけれども って ほんとうに私の原点だなあと確認 表現はすべてそういうもの

 

朝 空海と運慶を呟き 運慶の大日如来像についても呟いたら 夜にBS朝日知られざる京都旅という番組で円成寺さまの大日如来像を観てしまいました たまたまの偶然だけれど嘘みたい でも私が訪ねた時はまだ多宝塔に納められていたと思うのだけれど 新築の明るい綺麗な専用の宝物室に安置されていて

 

なんだかこれでいいのかしらと違和感 東博の運慶展での大日如来像の展示は雰囲気ある照明のなかで安心しきっていられる感じだったのに でもなににしても今日大日如来さまにまみえられたことは至福でした

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2025.3.13 Twitter(X)から転載……羽生結弦さんのボレロと小芝風花さんの花魁に、美は心を打つ!、の衝撃を受けて、華鏡に欠けていたのはそれだ! と気づきました

3月12日

おはようございます 華鏡に建春門院滋子さんの章を入れることにしました 昨夜羽生結弦さんと小芝風花さんの圧巻の芸術的美について呟いたことで思いつきました どうも私はストイックに考え過ぎて仙覚の小説だから滋子さんは書かない など省略していることが多い 華のある小説にしたいと昨夜心から

 

思ったのでした ストイック的構成でいくと源光行で それを書いていたのですが全然気が乗らない 私事の些細な事や3.11で集中できないからと思っていたのですが違うんですね 滋子さんを入れようと決めたら奮い立ってきました すでに書いてある原稿があるのでそれを出して再考です

 

建春門院滋子さんは二条天皇の時代なんですね 袋草紙の清輔が二条天皇内裏で活躍していた時に高倉天皇がお生まれになっている それを飛ばして源光行に行ったから書いていて苦しかった 光行の父光季が建春門院の侍だったと書いていて それで滋子さんを説明しなければならなくなって苦しかった

 

美は心を打つ しつこいようですが昨夜ツイートの羽生結弦さんと小芝風花さん いくら横浜流星さんが素晴らしくても 風花さんの花魁がなかったらただの一人の男性の頑張った生涯 私の華鏡がそうだったんだなあと心の底から思ったのでした いくら光行や仙覚が素晴らしくても華がないただの小説……

 

だから数年も書けなかったんですね 自分で魅力を感じてなく ただ使命感でもって書こうとしていたから

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2025.3.12 Twitter(X)から転載……昨日の3.11に寄せて、ともすれば孤独の中でちぢこまりそうになって書いてしまう華鏡。私も圧倒的美をめざそうと思いました

3月11日

毎年3.11が終わると私の一年が始まるという気がする 余震が続く中 15日に迫った講演を開催するか否か主催者さんと迷いに迷って連絡を取り合いながらずっと様子を見ていたからで 鎌倉も海辺だからあれほどの津波が来たら若宮大路は水没して鶴岡八幡宮の手前まで届くことをリアルに実感して恐怖に怯え

 

そんななか鎌倉中の宗教者さま方が仏教も神道もキリスト教もそんな宗派を超えて一体になって余震の中を市民の方々が怯えないようにと率先して海辺まで祈りを捧げる行進をされたり 私にとって3.11の思いではそのようなものだからこの日が来るとリアルにそれが思い出されます でも今年は一つの区切りが

 

ついた気がするのはXに流れてくる羽生結弦さんのスケートと小芝風花さんの花魁道中 圧巻の藝術的美に目が釘付けになって3.11もこうして乗り越えなければならないのだと ともすれば孤独の中でちぢこまりそうになって書いてしまう華鏡 私も圧倒的美をめざそうと思いました 奮い立たせます自分自身を

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2025.3.11 Twitter(X)から転載……14年目の東北の震災の今日、14:46、心から哀悼の意を表し黙祷いたしました

3月11日

華鏡は比企の乱にはじまり宗尊親王の更迭に終わる権謀術数の世界だから 権力者の側の権力や利権の保持や狙いのそのための悪略を書いています だからXに繰り広げられている(お勧めに流れてくる)今現在の現代の権謀術数につい目が離せなくなってしまうのですが 源光行も源平の争乱で人生を潰され

 

鎌倉に下向した人 3.11の震災の年に3.15に鎌倉で光行さんの講演をする予定だったのでした 震災で講演を実行するか否か余震や計画停電とかで怯えながら10月に入って生涯学習センターで講演は実現しました そのとき光行さんのことを語りながらいろいろな思いが錯綜して言葉に詰まったのを覚えています

 

明日(ほんとうはもう日付が変わっているから今日ですね)はその3.11当日 心して黙祷を捧げながら光行さんの原稿に籠ります

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2025.3.10 Twitter(X)から転載……今日から源光行の章。これは新しく書き始めるものなので、新生『華鏡』の幕開け気分です

3月7日

おはようございます 書けないと苦しんでいた華鏡 なのにそれが嘘だったかのように本当に書く感覚が戻ってきました 書くことがとても新鮮です ブログを更新しました

2025.3.7 TwitterX)から転載……二条院讃岐を投入したら、『華鏡』の世界が広がりました

 

ふと ここまで来たらお届けしたいお二方の先生がお元気なうちに仕上げて送らせて頂きたいと お二方ともに九十歳を過ぎてられるから 書評を書いて頂いた方と 仙覚の小説はできましたかと御年賀状を頂いた方 なんか とにかく頑張らなくては

 

写真はスマホに流れてきたストーリーのあれから一年というもの 一年前なんですね 久保田淳先生『藤原俊成 中世和歌の先導者』 ここでヒントを頂いて御子左家に深まりました 久保田先生のご論考にはいろんなところで啓示を頂いていて 華鏡で冒頭の手記の話者とした玄覚についてのご論考は知る限り

 

では久保田先生のしかありません 華鏡は手記に始まり1.時政2.丹後内侍3.二条天皇まで整えました 明日から源光行 これは旧稿ではまだ書きかけだったから殆んどさらの状態 仙覚の小説に光行は要らないと省略していたのでした それを尾州家河内本のできるまでという道筋に整えたら必要になりました

 

3月8日

RPさせて頂いたボレロ 「羽生結弦 notte stellata 2025」が7日、宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ(グランディ21)」は3.11の時安置場だった場所なんですね そして萬斎さんのボレロは東京五輪の開幕式の予定だったのを潰されて今回初めての公開と いろいろ胸つまります

 

FBページの管理者をしているのですが その変更をすることになって でももう何年も前にしたことだからやり方に手間取って四苦八苦 苦心惨憺で時間をつぶして それで今日は華鏡に手がつけられません

3月9日

写真はスマホのストーリーに流れてきた昨年3月の蕗の薹 もうずっと何年も気にかかっていたFBの管理者問題 やっと解決して肩の荷が下りほっとしているところです 当初は善意で始めても自分の文学を守る為には外れないと無理に 後を継いで下さる方が現れて救われました

 

3月10日

おはようございます 写真はスマホの過去写真から 昨年二月です 光る君へが始まって紫式部の研究など読み返していたのですね 華鏡は今日から源光行 今日は一粒万倍日だそうで新生華鏡にはとてもいい門出 光行は『源氏物語と鎌倉』で書いたからそれを思い出しながらまとめます 当時はまだ解明され

 

なかった光行の鎌倉下向についてここで書けるのが嬉しい 吉田経房との関係を書くのだと思ったら 民部卿経房家歌合に二条院讃岐が参加していたことがつい先日わかったばかり 光行も参加してるし 讃岐と光行が会っていたなんてと それも書けるのが凄く偶然にしても楽しみです

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2025.3.7 Twitter(X)から転載……二条院讃岐を投入したら、『華鏡』の世界が広がりました

3月5日

万葉集の写本には題詞が高く書かれているのと低いのとあり 仙覚が最初に作った四代将軍頼経命の寛元四年本は題詞が低い けれど六代将軍宗尊親王に献上した文永本は高い 低いのから高い方へ転換した起点に二条天皇の二条院本があり 題詞が高いその本に仙覚が辿り着いた結果でした

 

二条天皇が二条院本を作ったのは 藤原清輔の袋草子に感銘を受けて清輔をブレーンにしたところから 二条院本は清輔との合作なのです と そんなところをこれから書くのですが 旧稿ではもう書いてあるのだけれど 視点を変えてこれから書き直します やっとこんなふうに自在に書ける状態になりました

 

スマホのストーリーに流れてきた「この日を覚えていますか」の写真 忘れもしません 自分の原稿に専念する為にもう鎌倉禅研究会に通わないと決めた最後の日 それを知っている方々がいろいろ思いやって下さって貴方にはこれを持っていてほしきのと頂いたクリアファイル 建長寺様法堂天井の龍雲図です

 

3月6日

華鏡に旧稿では省略していた二条院讃岐を書き込もうと思って沖の石の写真を 宮城県多賀城市にある歌枕です わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし の歌で二条院讃岐は知られています 訪ねたのは2008年 2011年の東北の震災ではここまで津波が来たようですが

 

沖の石の近くに同じく歌枕で有名な末の松山があります 沖の石より少し高台にあり 津波はその手前までしか届かなかったそう 東北の震災は清原元輔の 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは が実証されたできごとになりました

 

華鏡 旧稿では書き込む余裕がなくて省略していた二条院讃岐 入れてもいいかなと思えるほど感性が復活してきました 森本元子氏『二条院讃岐とその周辺』がやっと役に立ちます 一度目を通して本棚に置きっ放しでした

 

このご著書 前にも拝読していて鉛筆の傍線も残っているのにいろいろすっかり失念 前は二条天皇時代の丹後内侍との関係にしか集中してあなかったからでした 今見たらなんと源光行と歌会で同席 いずれこの歌会も書く予定だったから その時また讃岐を入れられますね

 

あと 讃岐は二条天皇の早い崩御で宮廷を下がった後 ずっと後年 後鳥羽院の要請で再び宮廷歌壇に 新古今和歌集での女流歌人としての活躍を期待されてです この辺りも仙覚関連で書くから やはり二条天皇時代の讃岐を省略してはいけなかったのでした

 

森本元子氏『二条院讃岐とその周辺』より: 讃岐は二条天皇の内裏歌壇で花やかな活動をしてのち、改めて後鳥羽天皇中宮任子に出仕することから第二の活動に入ったわけであるが、そこで徐々に自己を改革し、正治百首では、完全に過去の歌風を脱皮した……柔軟でおおらかな性格、新鮮で鋭敏な感受性の持主

 

↑メモ的呟きです ツイートしておくことで私自身にインプットされるので 新たな事象に取り掛かるときの大事な手法です

 

二条院讃岐といえばどうしても二条天皇と愛の交情はあったのかしらと考えてしまう 紫式部と道長のようにあったかもしれないし無かったかもしれない あって当然の時代だから無いとみる方が不自然だけれど 例え真実の愛があったとしても身分的にそれは無いも同然 心でしか真実と受け止めるしかない

 

二条院讃岐は二条天皇より二歳年上で歌の達人 二条天皇には歌で寵愛されて讃岐が勝手に退出したのをどうしてかなど歌で拗ねられている そういう贈答歌があります よほど心を許しあった仲なんですね だから二条天皇崩御のあとの歌では作者名がただの讃岐だったのを 後年後鳥羽院宮廷で活躍したとき

 

定家が勅撰集を編む時に作者名をどうするか尋ねたら 二条院讃岐にと 後鳥羽院讃岐でもいいのに讃岐は昔の名前を申し出た 二十代の若き頃の二条天皇との思い出は讃岐にとって一生の宝だったのだなあと思います

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2025.3.5 Twitter(X)から転載……『華鏡』は手記にはじまり、第一章北条時政・第二章丹後内侍の章まで終わりました

3月4日

華鏡の原稿にかかっているといろいろな事が思い出されたり改めて気づいたりの連続で よほどXにつぶやこうかと思ってしまうのを我慢しています笑 例えば後鳥羽天皇には修明門院重子さんと 源通親養女の承明門院在子さんと 九条兼実娘の宜秋門院任子さんがいて 任子が中宮です でも重子に順徳天皇

 

がお生まれになり 在子に土御門天皇 任子は内親王でした それで通親が兼実に勝って建久七年の政変になり任子は宮中をさがります 重子が私には書くメインなのですが それは重子が幼いときから兄妹のように一緒に育って本当の愛を後鳥羽天皇と築いていたから この辺りの女性たちの心情を推し量ると

 

辛いものがありますし 麗しい心情も見えてきます うっかりXに呟いてしまったらそれに時間をとってしまうでしょうから 本体の華鏡がそこまで行って書くべきときまでとっておく と固く決めて頑張っています それにしても女院といった方々の世界は書くには魅惑いっぱいです

 

華鏡は各章の見出しをその章のメインの人物名にしているのですが 旧稿での次に取りかかるのが藤原清輔 それを見てからやる気が出なくてずっと考えていて そうだ二条天皇にしようと先ほど思いました そうしたらやる気が出て清輔には悪いなあと恐縮 九条家御子左家から歴史に入った私には六条藤家は

 

どうも魅力がなくて でも源光行と仙覚にも六条藤家のほうが重要 なので書いていますが拒否感が見出しでこんなにそれが顕著に 書くって我儘ですね 華鏡は北条時政と丹後内侍の二つの章が終わりました

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2025.3.4 Twitter(X)から転載……『華鏡』の原稿再編成は順調に進んでいます

3月3日

XのTLを見ないで一日過ごしました ともすると習慣で暇ができるとタブレットを触ってしまうのだけど いやいやいけない 開いてはいけないとそっと脇に置く そんな一日でした そしてTLを追っていた分だけ華鏡の原稿に目を通す時間が増え 多分もう少したったら華鏡にだけ気が行くようになるでしょう

 

原稿は今迄できているのをアルゴールの城にての編成にならって字面を整えているだけですが すかすかでどうにも足りないと思っていた文章が 字面を整えたらこのままでもいいと思える文章になっている 不思議な感覚です このあと通しで印刷してさらに読み込んでいこうと思います 充実してきました

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2025.3.2 Twitter(X)から転載……思いがけず、唐突に、『華鏡』の執筆に専念する覚悟が整いました

3月1日

数学とか統計に弱いから華鏡の登場人物作成がともすると間違いそうで時間がかかっています が やっと なんとかここまで で ここまでくると修明門院とか宜秋門院とか 女院の方々が多出 光る君へでも娘の入内が一家の運勢を揺るがしてましたものね この辺りは華鏡第二部 政変も書くわけで

 

華鏡 話者の問題が解決できなくて停滞していたのでした それがアルゴールの城にてで話者の無意識の発動を使って書いていいと知り それならと黎明の見えた気がして華鏡に戻ったのでした そして今取りかかっているのですが全然無理なく入力できる 話者の無意識 とても自然です

 

おはようございます 未明に華鏡の登場人物で九条家の方々を載せたら懐かしく思い出しました 不思議な話なのですが 九条兼実は比企に建久七年の政変に密着した神社とお堂があるんです 写真は月輪神社 月の輪といえば兼実ですよね あとは福正寺勢至堂 なぜ比企に兼実のゆかりはの謎は解けてません

 

福正寺勢至堂です こちらはまさに建久七年の政変直後に建てられたもののよう 京の政変が比企のこの地にどうやって伝わりどう関係するのか 私が比企に通っていたころはまだ研究が進んでいませんでしたが 今はどうなのでしょう

 

『華鏡』の執筆準備が整ったので当分Twitter(X)のTLを追うのを止めようと思います こうなるまでずっと試行錯誤してきたのでした でも無理だろうと思っていたのに思いがけず気持ちが整って 早く再開できるといいのですが第一部を書き上げるまで見ないでいられるかなあ は自信ありません笑

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