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2025.3.7 Twitter(X)から転載……二条院讃岐を投入したら、『華鏡』の世界が広がりました

3月5日

万葉集の写本には題詞が高く書かれているのと低いのとあり 仙覚が最初に作った四代将軍頼経命の寛元四年本は題詞が低い けれど六代将軍宗尊親王に献上した文永本は高い 低いのから高い方へ転換した起点に二条天皇の二条院本があり 題詞が高いその本に仙覚が辿り着いた結果でした

 

二条天皇が二条院本を作ったのは 藤原清輔の袋草子に感銘を受けて清輔をブレーンにしたところから 二条院本は清輔との合作なのです と そんなところをこれから書くのですが 旧稿ではもう書いてあるのだけれど 視点を変えてこれから書き直します やっとこんなふうに自在に書ける状態になりました

 

スマホのストーリーに流れてきた「この日を覚えていますか」の写真 忘れもしません 自分の原稿に専念する為にもう鎌倉禅研究会に通わないと決めた最後の日 それを知っている方々がいろいろ思いやって下さって貴方にはこれを持っていてほしきのと頂いたクリアファイル 建長寺様法堂天井の龍雲図です

 

3月6日

華鏡に旧稿では省略していた二条院讃岐を書き込もうと思って沖の石の写真を 宮城県多賀城市にある歌枕です わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし の歌で二条院讃岐は知られています 訪ねたのは2008年 2011年の東北の震災ではここまで津波が来たようですが

 

沖の石の近くに同じく歌枕で有名な末の松山があります 沖の石より少し高台にあり 津波はその手前までしか届かなかったそう 東北の震災は清原元輔の 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは が実証されたできごとになりました

 

華鏡 旧稿では書き込む余裕がなくて省略していた二条院讃岐 入れてもいいかなと思えるほど感性が復活してきました 森本元子氏『二条院讃岐とその周辺』がやっと役に立ちます 一度目を通して本棚に置きっ放しでした

 

このご著書 前にも拝読していて鉛筆の傍線も残っているのにいろいろすっかり失念 前は二条天皇時代の丹後内侍との関係にしか集中してあなかったからでした 今見たらなんと源光行と歌会で同席 いずれこの歌会も書く予定だったから その時また讃岐を入れられますね

 

あと 讃岐は二条天皇の早い崩御で宮廷を下がった後 ずっと後年 後鳥羽院の要請で再び宮廷歌壇に 新古今和歌集での女流歌人としての活躍を期待されてです この辺りも仙覚関連で書くから やはり二条天皇時代の讃岐を省略してはいけなかったのでした

 

森本元子氏『二条院讃岐とその周辺』より: 讃岐は二条天皇の内裏歌壇で花やかな活動をしてのち、改めて後鳥羽天皇中宮任子に出仕することから第二の活動に入ったわけであるが、そこで徐々に自己を改革し、正治百首では、完全に過去の歌風を脱皮した……柔軟でおおらかな性格、新鮮で鋭敏な感受性の持主

 

↑メモ的呟きです ツイートしておくことで私自身にインプットされるので 新たな事象に取り掛かるときの大事な手法です

 

二条院讃岐といえばどうしても二条天皇と愛の交情はあったのかしらと考えてしまう 紫式部と道長のようにあったかもしれないし無かったかもしれない あって当然の時代だから無いとみる方が不自然だけれど 例え真実の愛があったとしても身分的にそれは無いも同然 心でしか真実と受け止めるしかない

 

二条院讃岐は二条天皇より二歳年上で歌の達人 二条天皇には歌で寵愛されて讃岐が勝手に退出したのをどうしてかなど歌で拗ねられている そういう贈答歌があります よほど心を許しあった仲なんですね だから二条天皇崩御のあとの歌では作者名がただの讃岐だったのを 後年後鳥羽院宮廷で活躍したとき

 

定家が勅撰集を編む時に作者名をどうするか尋ねたら 二条院讃岐にと 後鳥羽院讃岐でもいいのに讃岐は昔の名前を申し出た 二十代の若き頃の二条天皇との思い出は讃岐にとって一生の宝だったのだなあと思います

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