2008.3.12 HP【寺院揺曳】最終回をアップしました。夢窓疎石が横須賀に庵を結んだ場所は現在米軍基地の中。その意味を考えたら一つの結論に達しました。

 2001年9月11日夜、私は夢窓疎石が庵を結んだ場所を撮るために横須賀へ行くべく、カメラ機材などの準備をしていました。脇ではテレビにニュースステーションがついていて、いつもどおりに久米宏さんがお話をされていました。

 私はなんとなくその声を耳にしながら支度をしていたのですが、ふっと久米宏さんの声のトーンが変わり、戸惑った感じで、「たった今、アメリカの貿易センタービルに小型機が突っ込んだもようです」とのこと。私も理解し難い内容に画面を見るとテロップが流れていて、久米さんも理解し難い表情を浮かべられながら、テロップを覗き込んでいられました。

 これが、あの「9.11 アメリカ同時多発テロ」の始まりでした。私には運命の巡りあわせとしか思えないのですが、連載エッセイ「寺院揺曳」最終回は、はからずもこの事件と重なっています。

 「寺院揺曳」の後半は、藤原定家の孫の冷泉為相が称名寺を訪ねた事実があったかを実証する内容です。これまで為相と交流のあったさまざまな方との人脈をたどりつつこの最終回にたどりつきました。そして、最後に残った方が夢窓疎石でした。

 為相が鎌倉に住んでいたとき、厳しい修行の旅も終わりにかかった夢窓疎石が鎌倉に戻り、横須賀に庵を結んでいました。二人の交流は、為相とは歌を詠みあう仲として、夢窓疎石とは師として交流のあった高峰顕日を介してはじまったことが前回までのあらすじです。その高峰顕日はすでに那須雲厳寺で亡くなっています。

 その頃、称名寺では長く六波羅探題として京都にいた第三代当主貞顕が、鎌倉に戻っていました。その貞顕が下向して最初に着手したのが、称名寺の伽藍建立や苑池の整備。称名寺の浄土式庭園が成るのは、貞顕の手によるこの時代です。

 貞顕と為相は、おそらく京都で親交があったものと思われます。のみならず、母阿仏尼の代で片付かなかった訴訟が、為相の代で勝利したとき、貞顕は幕府の役人としてその決定の任務にあたっていました。

 為相が横須賀の夢窓疎石を訪ねたとき、称名寺ではすでに金堂が完成し、苑池の整備も終わっていました。横須賀から東京湾添いの湊である六浦までは、舟でほんの近距離です。上陸したら称名寺まではもう本当にすぐです。こういうもろもろの事情を考慮すると、為相の称名寺訪問は事実として容易にあり得る話でした。おそらく貞顕は、完成し立派になった称名寺に為相を招待したのでしょう。

 というところで、連載の最後は、為相が夢窓疎石に送り出されて舟に乗り、六浦に向かって漕ぎいだす、映画のシーンのような余情たっぷりの終わりにしようと、当初の予定では決めていて、楽しみにしていました。が、突然の、「9.11テロ」事件の勃発。そんな悠長なことは吹き飛んで、私も一時期、ほんとうに書くことの意義について考えさせられ、連載を続けていいものか悩み続けました。

 だいたいに、夢窓疎石の庵跡が横須賀の米軍基地内になっているということを知った次元で、あまりのミスマッチに違和感を覚えました。それでも、長い歴史のなかではそんなこともあるか・・・くらいに受け止めていました。が、そこに「9.11テロ」事件までが重なるとは・・・

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 ニュースステーションのテロップで「小型機の突入」だった個人レベルの操縦ミス程度の事件が、小型機ではなく旅客機で、しかも貿易センタービルだけでなくペンタゴンや、その他もう一機まで・・・と、次々と想像を絶する情報や光景がテレビに映しだされます。私が訪ねようとしていた夢窓疎石の庵が中にあった米軍基地はすぐに封鎖され、中に入れなくてもせめて門を撮ってこようと考えたいた私は、物々しい戒厳令下になってしまったテレビの画像の中のその門を呆然として見ているしかありませんでした。

 どうして、こんなことに・・・・

 と、必死で考えました。その答えが、「夢窓疎石は将来を見通していて、あえてそこに庵を結んだのだ」という結論でした。詳しい経緯は最終回に書いていますので省略しますが、疎石に限らず、禅僧に限らず、偉大な方には「叡智」が備わっています。「叡智」とは、未来を見通す力です。人間の愚かな部分を熟知した方には、将来この事件のようなこともあり得ないことではないことが察知できていたのだと思います。だから、あえて、自分に最もふさわしくない場所に庵を結び、そのミスマッチに唖然とさせて、私のような者にも考える手だてをくださったのです。

 最終回は、はからずも、歴史エッセイの枠を超えて、このような事柄を書くことになりました。ここには、菱川善夫先生から頂戴したお手紙を載せさせていただいています。とても大切な内容と思いますので、北海道にいられる先生にお電話して、掲載のご許可をいただいて載せたものです。本文までお読みいただけない方のために、引用させていただきます。このお手紙によって錯綜していた私の精神も落ち着き、救われました。以下、「寺院揺曳」最終回から、

 夏の終わりに菱川善夫先生からお便りをいただきました。そこにつぎのようなご文面がありました。「その十五」で、『親玄僧正日記』の庭舞のようすを有機的感覚で想像したことにたいして書いてくださったお言葉です。私信ですが、これは菱川先生の文学にたいする、世界全体にたいする思いでもいられると思いますので、書き写させていただきます。

 この《有機的感覚》が、いま文学にも求められるべきだと考えています。九・一一以後の世界の複雑な変化と動きをつかまえるためには、単なる感情的反応だけでは駄目ですね。かといってパターン化された危機意識だけでも陳腐になるでしょう。まさしく《有機的感覚》が必要なのだと思っていたところです。

 私は一度も先生に同時多発テロ事件との関連、それからあとの思いを打ち明けてはいません。にもかかわらず、菱川先生はその奥の必死な思いを読みとってくださったのです。びっくりしました。このお便りで一挙に私は原点に引き戻されました。夢窓疎石について書きながら、同時に私は同時多発テロ事件以後の世界を考えずにいられなくなりました。そして、気がついたのです。これこそが、夢窓疎石がそこに庵をむすんだ意義にほかならないと。

 今改めて拝読しなおても、菱川先生にはほんとうに助けていただいた思いが募ります。先生のお便りは、ほんとうにいつも有機的、かつ先鋭的、かつ、とても凛々しく美しいものでした。

 最終回では、高峰顕日が住された那須雲厳寺を訪ねたことも記しました。名前のとおり、雲の上のような、とても厳しい感じのする立地条件のところでした。ところどころ巨大な岩が露出して・・・。それに関連して、以前このブログでもご紹介した糸魚川―静岡構造線上の山梨県にある新倉の断層にも話が及んでいます。高峰顕日という方もまた、人知を超えた自然の摂理のなかに生きていられました。

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 歴史探訪エッセイ「寺院揺曳」は、2002年9月10日に(完)の文字を記しました。

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2008.3.10 HP【寺院揺曳】20をアップしました。なんと、『吾妻鏡』は宗尊親王を追慕してやまない北条顕時の編纂だったのです!!

 藤原定家の孫の冷泉為相が称名寺を訪ねたという伝承が事実かどうか探っていくなかで、次第に当時の鎌倉における文化人交流が明らかになってきました。

 そこで、為相と実際に交流のあったことを記す歌が残る夢窓疎石から、夢窓疎石の師である高峰顕日へと話が進みました。

 その高峰顕日は、一時期、鎌倉の浄妙寺の住持を務めていました。そして、その浄妙寺は、金沢実時息の顕時の娘が嫁い貞氏のお寺だったのです。

 金沢文庫の図録にこうあります。、「金沢北条氏と足利氏は、北条顕時の娘が足利貞氏の正室となり、嫡子高義が誕生したことによって親密な関係を築いていた」と。

 貞氏の子の一人が足利尊氏です。顕時の娘は尊氏の母となった女性と同じ立場にありました。これを知ったとき、歴史初心者の私にはとても驚きの事実でした。もし、顕時の娘が尊氏を生んでいたら歴史は変わっていたでしょう・・・と。

 『吾妻鏡』は石井進先生方のご研究で、安達泰盛派の人の手になるものだったことがわかっています。顕時はその泰盛の娘婿です。

 さらに、さまざまな方のご研究によって、『吾妻鏡』の原資料の一つに、藤原定家の『明月記』が用いられていることが明らかです。顕時の時代、定家の孫の為相が鎌倉に下向しており、その為相所持の『明月記』が借用されたものと、五味文彦先生が書かれています。

 その為相は、「寺院揺曳」の連載でこれまで書いてきましたが、夢窓疎石や高峰顕日らと親しい間柄でした。そして、並々ならぬ深さで禅に帰依していた顕時は、当然、それら禅宗の僧侶と接していました。

 その高峰顕日が住持を務める浄妙寺が、顕時の娘ゆかりの寺院だったのです。

 顕時は、鎌倉に下向された後嵯峨天皇皇子の第六代将軍宗尊親王に仕えていました。鎌倉武士のなかでも際立って文人気質といわれる顕時の人柄は、少年時代から御所で育った、いわば宗尊親王の薫育のためでしょう。

 その宗尊親王は、幕府の手で、京都に帰される更迭の憂き目にあっています。それを決定した幕府の高官の一人に、父実時がいました。親しんで育った親王の無念を、顕時は黙って見ているしかなかったのです。

 『吾妻鏡』は、顕時の時代に編纂が成されています。そして、従来、謎とされていたことに、宗尊親王の京都への帰還を最後に、ぷつっと切れて終わっています。それで、後続部分の消失説もありました。が、顕時の宗尊親王への追慕による編纂と解釈すれば、辻褄があいます。

 為相の称名時訪問の謎を解き明かす過程で、思いもかけず、『吾妻鏡』の編纂の秘密にまで至ってしまいました。これは、推察に推察を重ねたもので、実証はできませんが、人と人とのつながり、そして、人の心の中の推移を重ねあわせるという、有機的連関のなかで見えてきたものです。

 連載は2001年から2002年にかけて致しました。最終回は、2002年9月11日のアメリカ貿易センタービルに旅客機が突入した事件に関連して書いています。これも、夢窓疎石との関連で考えると、有機的連関のなかにありました。次回がその最終回です。

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 この連載当時、『吾妻鏡』の編纂者に顕時を特定したご研究はありませんでした。ただ、金沢北条氏関係の人だろうと、それならば教養高く実践力もある実時ではないか・・・・とだけ。顕時も助けただろうとか・・・

 あれから10年近くたっています。現在のご研究の成果がどこまで発展しているか、知りませんが、この段階では新説と思っていました。

 この連載は、金沢文庫の学芸員さんのご好意で、文庫の図書室にコピーを置かせていただいています。完成当時、本にしたらいいのに、といって下さった方もいられますが、まだそこまでには至りませんでした。

 今日、久しぶりにこの回をアップしてみて、やはり、あのとき本にしておけばよかったなあ・・・などと考えています。『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』から手が離れたら考えたいですね。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/(称名寺の写真は【古典と風景】にあります。風雅を愛する晩年の顕時が散策を楽しんだという名園です。) 

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2008.3.4 HP【寺院揺曳】19をアップしました。夢窓疎石と高峰顕日の美しい師弟関係をご紹介します。

 夢窓疎石ほど有名な禅宗のお坊さまはいられないと思いますが、師は高峰顕日という方でした。高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇、亀山天皇のご兄弟でいられます。

 冷泉為相(れいぜいためすけ)の鎌倉での人脈を探っていくと、為相が高峰顕日と歌の世界で交流をしていたことがわかります。京の宮廷を知っているどうし、鄙の地鎌倉で、それは相当心許せる深い交わりだったでしょう。

 為相の私歌集『藤谷和歌集』には、「正和五年九月、仏国禅師鎌倉より下野の那須へ下り侍りける時、春は必ず下りて山の花を見るべきと契りけるに、十月入滅し侍りければ、仏応禅師のもとに遣わしける」の詞書のある、
  咲く花の春を契りしはかなさよ風の木の葉のとどまらぬ世に
の一首があります。

 鎌倉にあって為相は「藤谷(ふじがやつ)」に住んでいました。藤ガ谷は、鶴岡八幡宮に近い扇ガ谷の浄光明寺がある一帯の谷戸の一つです。浄光明寺の裏山には為相の墓である宝きょう印塔(ほうきょういんとう)があります。そこに立って見下ろした位置の、横須賀線をはさんだ向こうに母阿仏尼の墓があります。為相は母阿仏尼の代で片付かなかった訴訟問題を引き継いで鎌倉に住んでいました。
http://www.kamakura-burabura.com/meisyokamakurajyoukoumyouji.htm

 その為相が、交流のあった高峰顕日(仏国禅師)の入滅に際して詠んだのが、先ほどの歌です。為相は高峰顕日を介して夢窓疎石と知り合ったのではないでしょうか。もっと後になると、夢窓疎石の歌集に為相との交流を明かす歌がでてきます。

 僧侶という方は、師を求めて、あるいは修行のために、それはそれは大変な移動をよくされます。高峰顕日も、夢窓疎石もそうで、年譜をつくると、しょっちゅう鎌倉での在・不在が入れ替わっているのがよくわかります。

 その年譜のなかで、高峰顕日と夢窓疎石が鎌倉にいて、そして、為相もいた・・・という年次を探っていくのが私の手法ですが、そうしてみると、三者がいっしょに鎌倉にいた時期がかなり特定されてきます。

 高峰顕日は、北鎌倉にある浄智寺の住持をしていて、その時期に為相は頻繁に接触していたようです。扇ガ谷と浄智寺は近いですものね。そこに修行の旅から戻った若い夢窓疎石が訪れるのです。
http://www.kamakura-burabura.com/meisyokitakamakurajyoutiji.htm

 夢窓疎石はその浄智寺で「大悟」、すなわち悟りを開きます。そのときの高峰顕日とのやりとりが残されていますので、「寺院揺曳 19」から引用、ご紹介させていただきます。


 禅における大悟、そして印可というものがどういうものなのか、あまり接する機会はないと思いますので、ここで高峰顕日(仏国)と夢窓疎石の問答を佐々木容造『訓註 夢窓国師語録』から引用して紹介させていただきます。まず、夢窓疎石の大悟のことを。

  五月末のある日、夢窓は庭前の樹の下に坐って涼をとっていた。いつの間にか夜が更けて暗くなってしまい、疲れていたので庵に入り、床に上ろうと、壁のない所をあると誤認して体をもたせかけると、転倒してしまった。夢窓は思わず失笑、途端に忽然と大悟した。そこで次のような投機の偈を作った。

多年掘地覓青天  多年、地を掘って青天を覓め、
添得重重礙贋物  添え得たり重重礙贋の物。
一夜暗中■碌甎  一夜、暗中に碌甎を■げ、 
等閑撃砕虚空骨  等閑に撃砕す虚空の骨。

  また一偈を作った。

西秦東魯 信不相通  西秦東魯、信は相通ぜず、
蛇呑鼈鼻 虎咬大虫  蛇、鼈鼻を呑み、虎、大虫を咬む。

  柳田聖山氏によれば、日本における禅宗の歴史の中で、開悟の道程を自ら明らかにしたものは、夢窓が初めてではないかということである。次に、印可を受けたときの高峰顕日との問答を。

仏国、「古人は山には深く入らなければ、見地を脱することができないという。私は君が山深く入ったと聞いているが、見地を脱することができたのか」。
夢窓、「もともと見地などありません。どうして脱したとか、脱しないとか、論ずることがありましょうか」。
仏国、「普段、君はどんな所で躬行履践しているのか」。
夢窓、「頭をあげると残照があります。もとより住居の西にあります」。
仏国、「天と地が分かれていないとき、残照はどこにあるのか」。
夢窓はからからと大笑いした。
仏国、「笑いの裏に刀がある。それは人を殺すのか、人を活かすのか」。
夢窓、「そのような刀は、我が伝家の宝刀(人々本具の宝剣)ではありません」。
仏国、「もしそうなら、空の城に賊が入って来るではないか」。
夢窓、「来年になれば、新しい枝があって、春風に乱れ動いて未だ休むこともありません」。
仏国、「春風はまだ吹いていないが、どうだ」。
夢窓、「花が開くのに、春の力を借りることはありません」。
仏国はそれに深くうなずいた。夢窓が逆に仏国に質問した。
夢窓、「今までの問答はどこに行ったのですか」。
仏国は立ち上がって夢窓に問訊をした。夢窓も退いた。翌日また丈室に行くと、
仏国、「昨日わしが立ち上がって問訊したとき、なぜ突き倒さなかったのか」。
夢窓、「和尚は自ら倒れました」。
仏国は呵々大笑した。

 夢窓疎石の大悟のとき、為相は鎌倉にいました。高峰顕日と親しく接していた為相には、歴史的瞬間のその緊張のときがあったことがわかったでしょう。史実にはあらわれませんが、貴重な禅宗の僧侶の一瞬に、貴重な文学者の目が、このときにありました。歴史を探ってみていくことの醍醐味がここにあります。

 このときの夢窓疎石はまだ若く、為相とゆとりある交流のできる年代ではありません。が、後年になってふたたび巡り会い、その記録が歌に残って・・・、それが、実は、為相の称名寺訪問が事実だった推測への手がかりになるのです。この回ではまだ高峰顕日と夢窓疎石の美しい師弟関係を明かすことに終始していますが。

 「寺院揺曳」は全部で21回の連載でした。残すところ、あと二回になりました。振り返りつつ、懐かしみつつ、ここで再掲させていただいています。が、この連載で夢窓疎石という方を、高峰顕日という方との師弟関係の麗しさを知ったことは、生涯の私の宝になっています。

 高峰顕日が那須に籠った雲厳寺も訪ねました。が、それはまだフィルムカメラの時代のもので、リバーサルです。スキャナーで取り込んでご紹介できる日はいつでしょう。いつか、ホームページの【中世の遺跡と史跡】に載せたく思っているのですが・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub8525unganzi.html

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2008.3.3 HP【寺院揺曳】18をアップしました。

 この回では、佐々目遺身院に住されていた益性法親王(やくしょうほっしんのう)をめぐって書いています。益性法親王は亀山天皇皇子。そういう方が鎌倉に下向されたのは、仁和寺御流伝授のためでした。

 前回も書きましたが、鎌倉の仏教というと浄土宗や日蓮宗を思いますが、鎌倉でも仁和寺御流のような純然とした旧仏教の普及がはかられていたのです。この仁和寺御流を、金沢北条氏第三代当主の貞顕(さだあき)が称名寺にも伝えるべくはたらいています。

 この貞顕が、冷泉為相と、六波羅探題時に京都で会っているか・・・・。

 鎌倉に帰った貞顕は、下向していた為相と再会したか・・・。

 このあたりを記す資料はまったくありません。ただ、時代的にはまったく一緒。そして、狭い京都の宮廷社会、狭い鎌倉の武士社会にあって、ほぼまったく同じ空間を二人を生きています。

 謡曲「青葉の楓」にある、冷泉為相が称名寺を訪ねたというのが、まったくの伝承か。はたまた、事実だったか・・・

 為相が、称名寺の檀越貞顕と、これほど同じ時空を生きたことが明らかなら、称名寺訪問もあり得たと思いませんか?

 このあとの回で、交流があった人脈をたどることで、次第にそれが明らかになっていきます。

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2008.3.1 HP【寺院揺曳】17をアップしました。

 この回では為相・為兼の時宗との関わりを探っています。

 鎌倉仏教というと、私たちはふつう浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などの新仏教を思いますが、それは、鎌倉時代に生まれた仏教というだけです。実際の鎌倉仏教では、密教などの旧仏教と新仏教が並立していました。そして、旧仏教は支配者側に、新仏教は庶民の側にあって、互いに勢力を張っていたのです。決して、奈良・平安時代からの旧仏教をおしのけて新仏教が台頭したというわけではありませんでした。

 それを黒田俊雄氏が「顕密体制論」として打ち出され、当時は驚愕の思いでもって受け止められたといいます。この回では最初にその「顕密体制論」について説明させていただいています。とても明快な区分けが成されていて驚きですが、時間軸や人間関係などの明確な把握無しに、ただ鎌倉仏教というだけで語ってしまうと、従来のような誤った見方で通用してしまうのですね。あまりにも当たり前のことが見逃されていた事実に唖然としました。

 その後、時宗に入るのですが、そこでは、佐藤和彦先生から拝受した大分県立博物館でのご講演を引かせていただき、時宗の戦場での働きを紹介させていただいています。時宗という教団は、武士たちといっしょに戦場に赴き、刃に倒れた武士たちの回向をする役割を果たしていたそうです。胸打たれる内容で、佐藤先生の温かなお人柄が窺えるご講演です。

 為相と為兼は、この教団の真教と親しく交わっていました。それは、歌を通じての交流であり、かつ、宗教という深い思索をするどうしの接触でもありました。それは、『他阿上人法語』に記されていて、それを紹介させていただきました。

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2008.2.29 HP【寺院揺曳】16をアップしました。

 この回でようやく、冷泉為相が神奈川県称名寺を訪ねたという伝承が事実かどうかの考察に入ります。為相は藤原定家の孫。そういう京都の公卿が、東国の、鎌倉とは峠を隔てた東京湾添いの遠くの地に足を踏み入れたなど、まずあり得ないとして、従来ただの伝承と思われていました。

 為相が鎌倉に居住することになったのは、阿仏尼が『十六夜日記』を記すことになった鎌倉への下向で有名な、相続をめぐる裁判に関してでした。母阿仏尼の在世中にそれは片付かず、為相までが東国に下る結果になっていました。

 この時期の金沢北条氏の当主は、すでに第三代貞顕(さだあき)になっています。貞顕は六波羅探題として長く京に暮らしています。二人が直接会ったことを記す資料はありませんが、事象を照合していくと、二人の交流といったものが見えてきます。不思議ですね。定家の孫と称名寺の関係者とが交流していたなんて。

 為相は鎌倉で多彩な方々と交流しています。その内のお二人に、かの有名な高僧の夢窓疎石と高峰顕日とがいられます。高峰顕日は夢窓疎石の師です。

 これらの方々との接触の過程をたどって、為相が称名寺を訪ねたかどうかを探っていきます。非常に魅惑的な鎌倉時代の鎌倉における文化人の方々の交流世界が見えてきます。それは、今までどなたも書かれたことのない世界です。私が鎌倉の文化、鎌倉の源氏物語文化、といったものに嵌まっていく原点となった考察です。

 冒頭で、「人には人の時が流れている・・・」という書き出し方をしました。それは、人がどこで誰と接触しているかわからない、もしかしたらあのとき、誰々とすれ違っていたのかも・・・という、自分ではわからない、けれど、映画のシーンのような他人の目には見えていた・・・というような、人生の不思議を思って書いたものです。

 それは、写真を学ぶなかで見知ったアンリ・カルティェ・ブレッソンの「決定的瞬間」からきている、私の人生の視点です。私の根底には、「映像」があります。映像として、映画のシーンとして、一時期の鎌倉における文化人交流を浮かびあがらせたのが、「寺院揺曳」の後半の叙述になりました。

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2008.2.28 HP【寺院揺曳】15をアップしました。宇治平等院前庭の洲浜の写真を載せました。

 この回は主に『親玄僧正日記』の親玄と今小路西遺跡との関係について書いています。今小路西遺跡というのは、鎌倉の御成門小学校の建て替え時に現われた中世の遺跡です。大量の高級舶載陶磁器が出土したことから、鎌倉幕府の高級官僚の屋敷跡といわれます。安達泰盛の邸宅だったという説もあります。

 高級舶載陶磁器とは、中国の主に宋の時代の磁器製品で、景徳鎮窯の青磁が有名です。今小路西遺跡からは、酒会壷(しゅかいこ)と呼ばれる特殊な形状の青磁の壷が大量に出土しました。

 酒会壷では、先に称名寺の金沢北条氏第二代当主顕時の墓から出土したものが有名だということを記しました。顕時も、『親玄僧正日記』に登場します。

 連載で、私が「それにしても親玄はどこに居住していたのだろう」と書いたのを読まれて、峰岸純夫先生がお電話を下さり、今小路西遺跡がそうではないかと思っているとの旨をお話してくださいました。根拠は、遺跡から「白砂」が発掘されているからです。

 白砂は、寝殿造りの邸宅の南庭に敷かれていることで知られています。あと、寺院の庭にも敷かれています。仁和寺を訪ねたときに、この「白砂の庭」を見たときは感動しました。あと、宇治平等院の前庭にもありますね。あのような光景が今小路西遺跡にもあったのです。これは、ただの武家屋敷ではありません。というよりも、寺院と思ったほうがしっくりきます。

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 それで、そのことを、連載「15」で、遺構から確かめてみました。結構リアルに浮かびあがってきたものがあり、自分でも面白かったのですが、ここは、考古学の知人の方からも反響をいただきました。菱川善夫先生からもご丁寧なお便りをいただき、とても嬉しかったことが思い出されます。菱川先生のお便りは、そのままご紹介させていただきたいくらいの名文です。剣先の鋭い、きらっとした刃のような風格がお有りです。

 あと、今小路西遺跡出土の高級舶載陶磁器ですが、調査報告を拝見すると、「ふつうの日常生活のものではないのが多い」とあります。酒会壷など、ふつうの暮らしに用いるものではありませんし、高級官僚でも、持っていたとしてせいぜい一個でしょう。それが大量にあったということは・・・、やはり峰岸先生の寺院説が正しい気がします。

 それにしても、酒会壷で有名な顕時と、その顕時も登場する『親玄僧正日記』の親玄が住していたかもしれない遺跡出土の大量の酒会壺・・・

 今小路西遺跡が「寺院」跡だったことは証明されていませんし、峰岸先生のお声も鎌倉の報告書には反映されていませんが、酒会壷は単なる偶然ではないと私は思っています。

追記:写真の宇治平等院は2006年5月4日撮影です。洲浜と呼ばれる白砂の水際が新しくなってからのものです。発掘調査によって確かめられた遺構どおりの形状で復元されましたので、これより以前の、例えば美術書や絵葉書等の写真とはかなり違う光景になっています。水際の小石も、どこから採取されたかを調査し、わざわざそこのものを使うようこだわって復元したそうです。

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2008.2.27 HP【寺院揺曳】14をアップしました。

 昨日アップした「寺院揺曳」13で、京極為兼についての項を終わり、この回から冷泉為相について考察する予定でした。が、書き忘れていたことがあって、この回もやはり為兼について終始しています。

 主だった内容としては、『中務内侍日記』や『徒然草』、『玉葉和歌集』から為兼について触れて書いている部分を引用し、為兼がどういう風姿で、どういう評判の人物だったかを考えています。

 また、為兼が藤原定家の曾孫であることから、御子左家の系図をさかのぼって、俊成と縁戚関係のある女性の日記、『讃岐典侍日記』について書き、定家の歌の根幹を成す「妖艶美」はここに源流があるのでは・・・という論を展開しています。

 これまでずっと歴史的観点でもって為兼を見、また、書いてきましたが、この回はとても文学的で、「寺院揺曳」のなかでは異質な、余情ただよう内容になっています。

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2008.2.26 HP【寺院揺曳】13をアップしました。

 「寺院揺曳」13は、下向した京極為兼の記事が『親玄僧正日記』にある驚きからはじまります。親玄が久明将軍を訪問すると、先に為兼が来ていて、将軍と話していたのでした。おそらく、御簾の向こうで・・・

 そこまで将軍に近寄ることができませんから、親玄は気配で両者のようすを感じるだけです。ということは、親玄の嗅覚や聴覚と一体になって、読む私たちは為兼を感じるのです。

 これって、凄いことと思いませんか。文学上、誰それに関する記述は多くあり、それによって私たちは「知識」として知ることができるわけですが、「感じる」レベルの記述なんて、そうそうありません。私はまだこの日記での経験だけです。それも、将軍と高級官僚との談話の場面、しかも、御簾と通して、となると、それはもう、馥郁とした王朝生活の一場面そのもの。『源氏物語絵巻』の世界に薫りまで伴って・・・です。興奮して書いてしまいました。

 この「13」で京極為兼に関係する記述は終わり、冷泉為相に話が移ります。

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2008.2.24 HP【寺院揺曳】12をアップしました。

 『親玄僧正日記』を読み込んでいく内容の項です。北条実時息で、金沢北条氏第二代当主の顕時(あきとき)が日記に登場します。それは、平禅門の乱で頼綱が滅ぼされたからでした。安達泰盛の娘を妻にしていた関係で、頼綱が泰盛を討った霜月騒動のあと、顕時は千葉に流され蟄居生活をしていました。

 霜月騒動で安達氏の主だった男子がほぼ全員殺されています。復帰した顕時は、その後、安達氏当主的役割も担って、幕府の中枢ではたらきます。武士というよりも文人気質の顕時は、執権貞時の信任を得て穏やかな晩年を送りました。

 この顕時の文人気質ですが、私は少年期に宗尊親王に仕えたためと思っています。親王は顕時を可愛がっていたそうですから、きっと、顕時は、鎌倉人でありながら、京風の文化を身につけて育ったのでしょう。父親の実時が親王に仕えていましたので、その縁で出仕したのだと思います。

 私は、金沢北条氏の三人の当主のうちで、顕時が一番好きです。金沢文庫を創設し、蒙古襲来時には時宗を助けと、際立って優秀だった初代実時。長く六波羅探題にいて、鎌倉に帰ってからは三人のうちただ一人執権になって金沢北条氏の最盛期を築いた三代貞顕(さだあき)のあいだにあって、あまり語られることのない地味な存在ですので、『親玄僧正日記』に登場したときには嬉しかったですね。生き生きと感じられました。

 顕時に関して、考古学的には、称名寺境内のお墓から取り出された青磁の酒会壷(しゅかいこ)が有名です。これについても、私は『親玄僧正日記』とのかかわりで思うところ有りで、いつか掌編に書いてみたいなあと思っています。「ある日の北条顕時」みたいな題で、老年になった顕時が、称名寺境内の池を眺めながら、かつての日々を思う・・・みたいな。

 「寺院揺曳」12では、『親玄僧正日記』から、京極為兼の書状を紹介させていただいています。伏見宮廷に仕える歌人為兼。藤原為家の孫ですから、定家の曾孫。そういう為兼が醍醐寺僧正の親玄と接触していて、親玄は佐々目遺身院の頼助と交流があって・・・と、思いがけない人脈の発見にわくわくして書きました。

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