2016.11.9 ホームページ【孔雀のいる庭】閉鎖のお知らせです。

ニフティのホームページが変わり、新しいホームページに移行手続きをしなければなりません。その期限が明日、11月10日。ホームページは2007年に開始して、『源氏物語と鎌倉』の刊行まで、その経緯を書き綴りました。なので刊行以来更新していません。目下のところ移行手続きをする余裕がなく放置したまま期限がきてしまいました。これを機会にホームページを閉鎖することに決めました。今後は執筆に専念しつつ、このブログで活動報告を致します。長く閲覧して頂きほんとうにありがとうございました。

http://www.odayuriko.com/

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2011.5.23 建礼門院徳子落飾の寺・・・京都・長楽寺はすずやかな新緑の境内でした

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壇ノ浦で一族が滅び、宗盛ら、数少ない武将とともに生捕になって京都に戻った建礼門院徳子。文治元年(1185)5月1日、ここ長楽寺で印誓上人を戒師として剃髪、出家されました。

その時、建礼門院は壇ノ浦で入水した我が子安徳天皇の形見の直衣をお布施としてさしだします。それは幡に縫い直され、この寺院に寺宝として伝わっています。受付でいただいたパンフレットには、「平家物語にも記される建礼門院の唯一の貴重な御遺宝」とあります。

このように建礼門院ゆかりのこの寺院には、安徳天皇や建礼門院徳子の御影や木造の彫刻など、建礼門院を偲ばせる秘宝が多くあります。たまたまその展示が10日まであって、15日に訪ねた私は拝観することはできませんでしたが、その代わりに絵葉書を買ってきて眺めています。

ご覧のように遠く京都の市街地を望める高台に建っています。近くには高台寺があり、晩年徳子は大原寂光院から高台寺境内奥にある鷲尾という地に移り住みますが、どちらも高いところから自分がかつて平家の栄華のなかで豪勢に暮らした邸宅あたりを眺めやることのできる立地。最後の一枚にその眺望をご覧になれますが、お胸のうちを思うと辛いですね・・・

http://www.age.ne.jp/x/chouraku/ (長楽寺HP)

http://www.age.ne.jp/x/chouraku/syuzou/syuzou.html (秘宝の詳細)

「河内本源氏物語」を成した源光行が平家に仕えていたことを知り、詳しく事跡を追うなかで、光行の生涯に建礼門院徳子が大きな比重を占めていることに思いが至りました。それで建礼門院徳子が今の私の最大の魅力ある素材・・・、小説の主人公的位置を占めています。

よく徳子は、母の二位尼の比べて、ぼんやりしているから入水しても拾いあげられて死ねなかったなどと貶められていわれますが、光行の強烈な思慕を通してみる建礼門院徳子はそういう女性ではなく、かがやくばかりの存在です。

高倉天皇のお后となったのも、武士の娘だから身分違いといわれますが、今私が書き進めている『紫文幻想―『源氏物語』の写本に生きた人々―』のなかで、まったく違った視点が浮かび上がってきています。それを書くとまた長くなりますからここでは省略しますが、いつか光行と徳子を主人公とした短編をものにしたいと思っています。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(8) 第二章.2 『平家物語』のなかの『源氏物語』…後徳大寺実定

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第二章  平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代

二.『平家物語』のなかの『源氏物語』……後徳大寺実定

 源光行には『水原抄』という、『源氏物語』の註釈書で非常な大著があります。これはすでに失われてしまっているのですが、子息や孫の親行・聖覚らによって編纂された『原中最秘抄』によって原形を窺い知ることができます。『原中最秘抄』とは、「水原抄のなかの最も重要な秘説」の意味です。

 それによると、光行は『水原抄』を成すにあたり、生涯で四人の協力者を得ました。その四人とは、後徳大寺実定、藤原俊成、後京極良経、久我通光、です。四人は年代がまちまちですので、光行の長い人生、長い研究生活のあいだのどこかで、それぞれ個々に交わったのでしょう。

 その最初が後徳大寺実定でした。光行は、平清盛が福原に新都を造営したとき、その采配にあたった源通親や後徳大寺実定の下ではたらいたのです。それを記す『源平盛衰記』を引用します。

  治承四年六月九日、福原の新都の事始めあり。上卿は後徳大寺左大将実定、宰相には土御門右中将通親、奉行には頭右中弁経房、蔵人左少弁行隆なり。河内守光行、丈尺をとって、輪田の松原、西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条まであって、五条以下は、その所なし。如何あるべきと、評定ありけるに、通親考えて、「三条の大路を広げて、十二の通門を立つ。大国にもかくこそしけれ。我が朝に五条まであらば、何の不足かあるべき」と申されけれども、事、行かずして、行事の人々帰りにけり。

 治承四年(一一八〇)、安徳天皇が即位すると、清盛は新たな都を造ろうと決意します。それが福原京でした。その造営に際して光行は、後徳大寺実定、源通親、吉田経房といったそうそうたる人物の下で「丈尺をとって、宮城の地を定め」るべくはたらきました。ここでは河内守光行となっていますが、河内守になったのはあとのことですので、正しくは民部大夫光行です。光行は数理の才に長けていたので抜擢されたのでしょう。

 ここに登場する土御門通親は、『高倉院厳島御幸記』を著した、あの源通親。頭右中弁経房は、このあと、第二部でとりあげる『民部卿藤原経房家歌合』の主催者、吉田経房。かの平維盛亡きあと、未亡人となった北の方を娶った人物です。そして、後徳大寺左大将実定が、これから考察する、『月詣和歌集』にかかわってくる人物です。治承四年のこの時点で光行はすでにこれらの人々とこんなふうに身近に接していました。

 この年、実定は四十二歳。通親、三十二歳。経房、三十八歳。光行は、十八歳でした。働き盛りの権力者たちに混じって、若い光行のなんと初々しく見えることでしょう。

 これらの人物との関わりが、ゆくゆく光行の人生に彩りを添えてゆくことになりますが、ここにすでに『源氏物語』の研究に協力した四人のうちの二人の存在がみえています。一人は後徳大寺実定。二人目は久我通光です。通光は通親の子息で、成長して久我家の祖となります。このときはまだ産まれていませんが、光行はずっと通親に引き立てられて生きていますから、当然の繋がりでしょう。年代からして四人のうち最後となる協力者です。

 都から離れた福原の地で、新都造営に携わる高揚のなか、一日の労働を終えたあとの酒席で、光行が実定や通親らから源氏物語についての薫陶を受けただろうことは想像に難くありません。感性がたしかで、幼少時から漢籍を学んで真面目な若者光行に対する彼らの評価は高かったでしょうから、惜しみなくそうした話を分け与えたのではないでしょうか。光行の源氏物語への造詣の深さはこのあたりに端を発したものと思われます。

 実定の妹の多子は、『平家物語』で「二代后」として描かれた女性です。十一歳で近衛天皇に入内しますが、天皇に早逝され宮中をでてひっそりと暮らしていました。が、あまりに美貌だったために今度は二条天皇に望まれてふたたび入内します。多子自身はそんな恥ずかしいことをと固辞したのですが、天皇の強引な要請には拒みきれませんでした。多子はただ美しいばかりでなく、趣味のゆたかな素晴らしい女性です。

 実定も文人としての誉れ高い貴公子で、光源氏を彷彿とする人物だったようです。福原に遷都成ったとき、人々は浮かれて新都での月見を楽しもうと、源氏物語ゆかりの須磨や明石など名所を訪ね歩きます。そうしたなかで実定は、古都となってしまった京の月が恋しくて、福原を後にし、ひとり帰ります。荒れ果てた都には多子が残っていました。

 その多子を訪ねて実定は二人で昔を偲びつつ月を見ながら夜を過ごします。さながら宇治十帖における薫と八の宮の姫君の場面のような情景を、『平家物語』は「秋の名残を惜しみ、琵琶を調べて、夜もすがら、心を澄まし給いしに、有明の月出けるを、なお、耐えずや思しけん、撥にて招き給いけんも、今こそ思い知られけれ」と記しています。

 建礼門院徳子が西海での入水に失敗し、囚われて帰還したあと入った寂光院を、実定は後白河法皇のお供で通親とともに訪れます。実定はかつての面影もなくやつれてしまった徳子に心を痛め、「いにしえは月に例えし君なれどその光なき深山辺の里」の歌を庵の柱に書きつけました。

 雲の上の女人として思慕を寄せている徳子のそのようすを実定から聞かされて、光行の心は如何ばかりだったでしょう。光行は『平家物語』の編纂に携わったとされています。叔父季貞についての記録は当然として、実定のこのあたりの動向は光行の筆、もしくは素材の提供になるのかもしれません。実定が亡くなったとき光行は二十九歳で、おそらくそれと前後して鎌倉に移住しました。

 福原における若き光行を彷彿とする恋の歌が残っています。それは、

  雨の降りけるに都なる人のもとへ遣わしける
 君恋ふる涙の雨のひまなくて心晴れせぬ旅の空かな

というもので、実定らのもとで新都造営にいそしんでいた頃のものでしょう。旅の空、すなわち自分は福原にいて、京にいる恋人を思って歌を詠み贈ったのでした。

《参考文献》
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会、一九七七年
田坂憲二「『原中最秘抄』の基礎的考察 」他

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(7) 第二章.1 源光行の青春―平家文化のなかで

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第二章  平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代

一. 源光行の青春 平家文化のなかで……

 源光行が「河内本源氏物語」の校訂を最初に手がけた人物ですが、きっかけが何だったか、いつはじめたのかについてはわかっていません。

 十歳のころより漢籍に親しみ、その教養を基に『蒙求和歌』『百詠和歌』『新楽府和歌』三部作を成すなど、学問の分野で功績大の光行なのに、日記や心情を推し量ることのできる歌集が残されていないために、その解明については未だ研究が成されていないのです。そこで事跡をたどり、周辺の事情からせばめていって、動機と時期の見当をつけてみたいと思います。

 光行については、池田利夫氏作成の『河内本源氏物語成立年譜攷』という詳細なご研究があります。以下、多くをそれにより、時に別の資料を交えながら足跡をたどることにいたします。

 まず、光行の生年は長寛元年(一一六三)です。これは奇しくも「青表紙本源氏物語」を成した藤原定家の生年の翌年にあたります。没年は寛元二年(一二四四)で、定家の没年から三年後。享年は定家が八十歳。光行は八十二歳でした。ですから、「青表紙本源氏物語」「河内本源氏物語」と並び称される二大写本の校訂者が、ほぼ同じ時代を生きて呼吸していたことになります。しかも、平家文化という同じひとつの狭い文化圏で……。

 二人が平家一門の方々と密接に交流する仲だったことはあまり語られてきていません。けれど、平家が都落ちした寿永二年(一一八三)、定家は二十二歳、光行は二十一歳です。ということは、二人は感受性ゆたかな十代の思春期を、平家の王朝文化真っ盛りの時代に過ごしているのです。「平家にあらずんば人にあらず」とまで豪語された時代、二人がその時代を染める文化と無縁だったと考える方が不自然でしょう。

 光行の祖父季遠は平忠盛に仕える青侍でした。つまり、光行の家系は武士としてはじめて昇殿を許された忠盛の代から平家に仕えているのです。

 叔父は『平家物語』に度々重要な役割を担って登場する源大夫判官季貞という、平清盛の側近中の側近です。例えば、延慶本『平家物語』には、治承元年(一一七七)の鹿ケ谷謀議の発覚の際、季貞が藤原成親らを捕縛に赴いたと記されていますし、平重盛が死去する前兆として書かれた熊野詣の条で、維盛・資盛ら子息の浄衣が重服に変わったのを見咎めたのも季貞でした。

 季貞は歌人で、『月詣和歌集』や『千載和歌集』に入集しています。『月詣和歌集』の成立は寿永元年(一一八二)で、この前年に清盛が亡くなっており、季貞の哀傷歌が載せられています。
    六波羅入道太政大臣かくれ給て後のわさの夜雨の
    ふり侍りけれはよめる             源季貞
  春雨もおつる涙もひまなくてとにもかくにもぬるるゝ袖かな
『月詣和歌集』における清盛への哀傷歌は季貞のこの二首だけです。如何に季貞が清盛に近い存在とみなされていたかが窺われます。

 この年、光行は二十歳でした。光行もまた『月詣和歌集』に四首入集しています。若くして歌人と認められていた証でしょう。季貞とは歌人どうし意気の合う叔父・甥だったでしょうか。

 季貞は最後まで平家に忠誠を尽くし、都落ちしたときには宗盛に従ってみずからも都落ち、ともに生捕になって帰って市中引き回しにあっています。光行の気持ちは如何ばかりだったでしょう。

 光行の父光季は季貞ほど目立ちませんが、それは季貞が季遠の実子だったのに対し、光季は養子だったことに由来するのかもしれません。建春門院滋子の侍に補せられたり、建礼門院徳子の出産を二日後に控えて安産祈願のための田楽奉納が行われたときに神主代を務めるなどしていますから、中宮職に近い任務にあったのではないでしょうか。

 のちに光季が平家加担の罪で捕われたとき、同じ中宮職にあった三善康信が光行を伴って鎌倉に下り、頼朝に直訴して光季の命乞いをしています。平家が都落ちした翌年で、光行が二十二歳のときのことです。

 康信は母が頼朝の乳母だった関係で、頼朝にとっては乳母子、頼める兄貴のような存在です。源平の争乱にあっては京中の情報を逐一頼朝に報告し、勝利に貢献しました。その康信の頼みとあって光季は助かります。二人はおそらく中宮職の同僚として、康信がその子息を伴い嘆願に走るほど親しい間柄だったのでしょう。光季が滋子・徳子ら後白河院ゆかりの女性に仕えているのに対し、康信が仕えたのは二条天皇の中宮育子です。

 光行はこのときはすぐに帰洛しますが、これが最初の鎌倉下向となりました。康信はこれを機に鎌倉に移住。初代問注所執事となります。

 いずれにしても、光行の父光季は平家加担の罪で捕われるほど平家に近い人物であり、光行の生い立ちの原点はそうした平家文化のなかにありました。

 徳子が入内した承安元年(一一七一)、光行は九歳でした。光季が徳子の安産祈願に神主代を務めた治承二年(一一七八)は十六歳です。仕事を終えた夕餉の席などで、父親が語る雲の上の女人徳子の存在が、芽生えはじめた異性への興味と相俟って甘美な想像を引き起こし、光行の心に強い憧憬の念を引き起こしたとしておかしくありません。おそらくこうした環境にあって、徳子は光行にとっての永遠の女性像となったのではないでしょうか。

 これはおいおい書いていきますが、光行には生涯を通して徳子を守り通そうとした節が見受けられます。徳子はおそらく光源氏にとっての藤壺です。光行の『源氏物語』への執着は、この手の届かない高みの女性への叶わない恋の問題が本質として存在すると私は思っています。

《参考文献》
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会 一九七七年
三島義教『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』新風書房、二〇〇〇年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(6) 第一章.4 藤原俊成の『源氏物語』礼賛 

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

四.藤原俊成の『源氏物語』礼讃

 藤原俊成が最初に認められたのは崇徳院の歌壇でした。三十代のころです。崇徳院は俊成より五歳年少ですから、退位された二十三歳のとき、俊成は二十八歳でした。なので俊成の崇徳院歌壇での活動はそれ以降、そして、保元元年(一一五六)の保元の乱で崇徳院が讃岐に流されるまでとなります。乱の年、崇徳院は三十八歳、俊成は四十三歳です。

 崇徳院歌壇には平忠盛がいて活躍していました。忠盛は晩年で五十代です。乱の年にはすでに故人になっていました。白河院、鳥羽院と仕え、内の昇殿を許されたのが鳥羽院のときです。

 が、鳥羽院には歌の嗜好がなく、崇徳院が歌壇を率いて、そこに俊成や忠盛らが集ったのでした。院には、
  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
の百人一首の歌があります。

 貴族の嗜みとされる歌を、武士である平氏で最初に読みはじめたのは忠盛です。白河院の院宣による『金葉和歌集』に撰ばれ、勅撰歌人になっています。崇徳院の信頼も篤く、若い俊成にとって忠盛は仰ぎみる存在だったことでしょう。

 忠盛の歌には、従来の歌人のような「さらりときれいに流し」て歌うことができず、「何か堪えがたく切ないものを主体的に抒情し、強く訴えようとしている」ものがあると『平家の歌人たち』で谷山茂氏は書かれます。

 三代集以降、理を追求したり形を整えることを優先する作風のなかにあって、心情を吐露し抒情性ゆたかな忠盛の歌は異質でした。
  外面なる楢の枯葉に霰降り寝覚めかなしき冬の山里
が忠盛の歌で、これを「さらりときれいに流し」て作ると、「楢の枯葉に霰降るなり」となるそうです。「かなしき」が心情語です。

 その抒情性を復活させた勅撰集が『千載和歌集』で、後白河院の院宣で俊成の撰です。俊成は崇徳院歌壇で忠盛をみていますから、そこで吸収するものが多かったのでしょう。

 『千載和歌集』を編んだとき、俊成は忠盛の歌のほかに、忠度、経盛、経正ら、朝敵となった平家歌人の方々の歌を「読人しらず」として入集させています。

 忠度、経盛は忠盛の子で、経正は経盛の子。経盛は平家一門で最大の歌人です。忠度が都落ちに際して自選歌を収めた巻物を俊成に託し、俊成がそこから、
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
を入集させた話は有名ですが、俊成の平家一門との繋がりは歌人としての出発の時点でできていました。

 俊成の抒情性の先に『源氏物語』礼讃があります。

 建久四年(一一九三)か、あるいは五年にずれ込んで、後京極良経の主催で『六百番歌合』が催されました。十二人の歌人から百首歌を募り、集まった千二百首を六百番ずつ左右に番えて勝負を競うといった、大変な規模の歌合でした。

 この歌合には、俊成率いる御子左家と、顕昭率いる六条藤家の、歌の家としての名誉をかけた熾烈な争いが背後にありました。判者は俊成。俊成は良経の歌の師です。

 その良経が、
  見し秋を何に残さむ草の原ひとえに変わる野辺の景色に
と読んだことに対し、六条藤家の歌人から、「草の原、聞きよからず」と難癖をつけられます。

 それに対して俊成は、「草の原は『源氏物語』の中の歌に用いられている語で、聞きよからずどころか、艶そのものである。その歌は花宴巻にあり、この巻は五十四帖中でも特に優艶な巻である。『源氏物語』を読まない歌人は遺恨である」と返したのでした。

 「草の原」は『源氏物語』の「花宴」巻で朧月夜が歌った歌にある語なのです。それは、
  憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問わじとや思う
というもので、思いがけず光源氏と情を交わした朧月夜が、動揺しながらも相手を光源氏と察しているのに対し、光源氏は朧月夜が誰かわからない。それで問い詰めるのですが、入内することが決まっている朧月夜にはうかつに身分を明かすなどできない。それでなおも問い詰められたときに答えたのがこの歌でした。

 光源氏と朧月夜のこの情事は、ゆくゆく光源氏の須磨流謫へとなっていきます。良経の歌の背景には、これだけのシチュエーション、人間の心理・葛藤、人生の何があるかわからない危うさがあるのであり、「草の原」の一語を聞いてそれが思い浮かぶのでなければこの歌の良さはわからない、と俊成はいい放ったのでした。

 これでみると、当時、少なくとも六条藤家歌壇では『源氏物語』を今ほど読んでいなかったようです。俊成のこの判詞以降、『源氏物語』に精通していることが歌人としての必須のようになり、今日まで引き継がれています。

 この両派の決着がつくのは、後鳥羽院が定家を重用して『新古今和歌集』を成す過程のなかでですが、それまで六条藤家歌壇が主流を成し、俊成の苦戦が続きます。
 ほんとうに、『源氏物語』は読んでみなければその美しさ、切実さ、文学の極みは理解できません。

 思いの複雑さ、錯綜した心理劇、それが『源氏物語』です。そして、それがただ人間と人間のあいだの葛藤として描かれるのでなく、人間存在そのものが美しい自然のなかに置かれて、季節の移ろいのなかで推移します。華やかで危険な情事「花宴」が春の桜や藤の花に彩られて進行したように。

 『源氏物語』が書かれた時代は、現代のように文学がリアリズムの人間主体ではありませんから、悩みも、苦しみも、もろもろの不条理、複雑怪奇な人間世界のありようも、一切が客観的な距離を置いて、一歩引いた形で、自然という大きな世界のなかの一存在として描かれています。

 自然に包まれて、自然の移ろいの一つとしてあることのそこはかとなさ、それを感じることができなければ、『源氏物語』をほんとうに理解したことにならないのではないでしょうか。『源氏物語』が美しいのは、単に十二単や、華やかな宮廷行事が描かれているからではありません。ときめく恋愛小説だからではありません。感性で感じる世界だから美しいのです。俊成の『源氏物語』礼讃の本質はそこにあると私は思います。

《参考文献》
谷山茂『谷山茂著作集 六 平家の歌人たち』角川書店 一九八四年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(5) 第一章.3 国宝「源氏物語絵巻」から国宝「平家納経」へ

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

三.国宝「源氏物語絵巻」から国宝「平家納経」へ

 平清盛には白河院のご落胤説があります。事実のほどはわかりませんが、清盛はたしかにそういわれておかしくない生い立ちをしています。

 清盛の父は、平氏ではじめて内の昇殿を許された平忠盛ですが、母は祇園女御の妹と推測されています。彼女が白河院に仕える女房だったために、院のご落胤説が生じます。この女性が早世したので、清盛は祇園女御に養育されたようです。

 祇園女御は白河院の寵妃でした。女御の宣旨は受けていませんが院の寵愛を独占していて、「天下美麗過差」と人々を驚かす寺院を建立するなど、相当な権勢家です。院が掌中の珠と慈しんで止まない待賢門院璋子を養女にしており、院が通ったことは先の章で記しました。

 永久五年(1117)、璋子は入内して鳥羽天皇妃となります。十七歳でした。白河院は六十五歳。鳥羽天皇はその白河院の孫です。院は孫の后としたあともなお璋子への愛執を断たず関係を続けます。

 清盛が産まれたのは元永元年(1118)。璋子入内の翌年です。この年、璋子は中宮になっています。翌元永二年(1119)、崇徳天皇が誕生。白河院の子といわれます。この皇子誕生と重ね合わせるようにして、白河院と璋子のもとで、不義密通が根幹にある物語の、国宝「源氏物語絵巻」の制作という妖しいプロジェクトが進行しました。

 清盛が母を亡くしたのは三歳のころのようです。ですから、祇園女御に引き取られたとき、彼女は中宮の母という地位になっていました。

 祇園女御を介して、璋子は清盛にとって姉のような存在になります。幼い清盛の最も身近だった女性は、中宮と中宮の母なのです。つまり、清盛の生い立ちには、のちに平家が王朝文化を築いて当然の環境があったのです。清盛の出世の蔭にはこの二人の女性の力があったといわれます。

 保安四年(1123)、鳥羽天皇が退位させられ、五歳の崇徳天皇が即位。白河院の院政は続きます。

 大治二年(1127)、後白河天皇誕生。清盛は十歳です。残されている法皇姿の肖像画から、どうしても後白河院は清盛より風格ある年配の人物に思ってしまいますが、実は清盛からみると九歳も年下なのです。

 それだけでも清盛の叔父と甥の関係のような精神的優位は想像つきますが、後白河院は二十九歳まで皇位につく可能性のない皇子でした。それが、運命のいたずらで即位して天皇に。清盛にとっても青天の霹靂だったと思います。後年の清盛の後白河院を侮ったような横暴は、そうした心理的遠因があるのではないでしょうか。そうでなくて、ただの臣下が突然法皇を幽閉したりするでしょうか。

 大治四年(1129)、白河院崩御。璋子は二十九歳です。崇徳天皇は後ろ盾を失って孤立。ここから鳥羽院の院政がはじまります。清盛は十二歳でした。

 璋子もまた後ろ盾を失い、鳥羽院の寵愛が美福門院得子に移って失脚。永治元年(1141)には崇徳天皇が退位し、得子の子の近衛天皇が即位。失意の璋子は康治元年(1142)、みずから建立の法金剛院において落飾します。四十二歳でした。このとき、清盛は二十五歳です。その三年後の久安元年(1145)、璋子は生涯を閉じました。

 久寿二年(1155)、後白河天皇が即位した年、建礼門院徳子が産まれています。祇園女御や璋子といった最高の女性をみて成長した清盛。その清盛が育てた徳子が二人のような女性になっただろうことは容易に想像がつきます。

 徳子を考えるとき、武家の娘が入内という立脚点から離れないと真実は蔽われます。徳子は入内する前から天皇家にふさわしい高貴さを身につけた女性だったのです。それを知っているからこその後白河院の執着だったのではないでしょうか。

 日本三大装飾経の一つに国宝「久能寺経」があります。「久能寺経」「平家納経」「慈光寺経」とあるなかで年代的に一番古いものです。国宝「平家納経」は清盛の制作。国宝「慈光寺経」は鎌倉時代のもので九条家が制作しました。

 国宝「久能寺経」は璋子の落飾を悼んだ西行が勧進して作られたそうです。法華経の各品を一品ずつ分担した結縁者のなかに璋子も入っており、「譬喩品」を担当しています。西行の璋子に対する永遠の思慕を最初に指摘したのは白洲正子さんでした。瀬戸内寂聴さんの『白道』は西行の足跡を追うかたちでそれを描いています。

  なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて(『山家集』)
の歌に西行の秘めた恋が読み取れるのだそうです。「芹を摘む」には故事からくる「高貴な女性に叶わぬ恋をする」意があるそうです。

 西行にとっての高貴な女性は璋子でした。西行は出家してからも法金剛院を度々訪れていますし、璋子に仕える女房とは歌を遣り交わす仲でした。保元の乱で璋子の子の崇徳院が讃岐に流され、そのままそこで崩御すると西行は訪ねて菩提を弔っています。如何に深く西行が璋子の周辺と関わっていたかの証でしょう。

  しらざりき雲井のよそにみし月のかげをたもとにやどすべしとは……

 装飾経というのは美麗な装飾を施した料紙に経文を書いたもので、国宝「源氏物語絵巻」と同じ仕様の華麗な巻物です。おそらく国宝「久能寺経」は、西行の勧進でありながらも、国宝「源氏物語絵巻」の制作に携わった璋子の経験が生かされているのでしょう。

 国宝「平家納経」は長寛二年(1164)に清盛によって作られ、厳島神社に奉納されました。三代装飾経のなかでもっとも華麗なもので、平家の王朝文化の精髄といっていいでしょう。清盛四十七歳のときの制作です。これは、国宝「源氏物語絵巻」国宝「久能寺経」を間近にみてきた清盛故の自然な着想だったと思います。

《参考文献》
五味文彦『平清盛』吉川弘文館 一九九九年
高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社 二〇〇七年
瀬戸内寂聴『白道』講談社 一九九五年
良知文苑『国宝 久能寺経の歳月 駿州秘抄』和泉書院 二〇〇八年
小松茂美『平家納経 平清盛とその成立』中央公論美術出版 二〇〇五年

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(4) 第一章.2 国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

2.国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

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 国宝「源氏物語絵巻」は、のちに平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった建礼門院徳子の所有するところとなります。ここにも光源氏をみずからに投影させた天皇の影が見え隠れします。後白河天皇です。

 整理するために皇統を記しますと、白河天皇―堀河天皇―鳥羽天皇―崇徳天皇―近衛天皇―後白河天皇、となります。

 後白河院は鳥羽天皇の皇子で、崇徳天皇の弟、近衛天皇の兄です。崇徳天皇のあと近衛天皇になったとき、これでもう後白河院が天皇になることはないと誰しもが思いました。それが近衛天皇の急逝で即位したのです。高倉天皇は後白河院の皇子ですから、徳子は後白河院にとっては息子の嫁にあたります。

 後白河院が即位したのは異例に遅く、二十九歳でした。白河院と同じく長く帝位につけない皇子だったのです。母は待賢門院璋子。ということは、後白河院は、国宝「源氏物語絵巻」を制作した女性の子、鳥羽天皇妃となったあとも白河院と密通を続けたような妖艶な女性の子なのです。後白河院もまた生まれながらにして『源氏物語』の環境と密接にあり、しかも心情的に光源氏に我が身を投影して生きる条件を備えた天皇でした。

 後白河院には建春門院滋子という寵愛する妃がいました。高倉天皇の生母でいられます。この方の姉が平清盛の妻時子。ここに後白河院における光源氏と同じ構図が浮かびあがります。つまり、光源氏と藤壺の関係が後白河院と滋子とすると、藤壺の姪の紫の上が、滋子の姪の徳子となるのです。

 滋子は聡明な女性でした。藤原定家の姉の健御前が女房として仕えていて、その日記『たまきはる』には、滋子の御所の秩序保たれた美しい日常が書かれています。そういう滋子がいることで、後白河院と清盛との関係は上手く保たれていました。が、滋子の逝去で関係が悪化、平家の衰運へと繋がり、源平の争乱にまでなっていくのです。

 後白河院は相当徳子に執着していたようです。兆しは高倉天皇崩御より以前からありました。安徳天皇の御産に際し、不自然なほど熱心に後白河院みずから祈祷しているのです。古い女房達をして批判めいたささやきを交わさせるほどに。さらに、高倉院崩御のあと、徳子は後白河院と平家のあいだを結ぶ手立てとして入内させられそうになっていますが、これは院の心を見透かしての平家の深慮遠望でしょう。

 そして、清盛が没したあとの養和元年十二月十三日の夜、後白河院の法住寺御所に徳子が渡った記録があり、これを水原一氏は『延慶本平家物語論考』で、「おそらく一時にせよ建礼門院はいわば平家の失地回復の生贄として後白河院の法住寺御所に据えられたのであったろう」と書かれます。

 『平家物語』では、壇ノ浦で生捕されたあと、落飾して籠もっている大原寂光院の徳子を院が訪ねる「大原御幸」という段があります。これは単に息子の嫁だった徳子を慰めるための訪問とみるには、院の立場を考えると少しく異常です。院は大原を訪ねたく思っていたのですが、二月、三月のあいだは風が激しく寒さも未だ尽きず、峰の雪は消えず、谷のつららも融けないから、春は見送り、四月の葵祭が過ぎたころ、夜を込めてようやくお忍びで行くことができたというのです。このご執心……

 院の一行が寂光院に着いたとき、徳子は山へ花を摘みに行って不在でした。院は、「人やある、人やある」と召されるのですが、誰も答えません。そこに老いた尼が一人来たので、「女院はいずくへ御幸なりぬるぞ」と問うと、「この上の山へ、花積みに入らせ給ひて候」と答えます。院は、「さようのことに、仕え奉るべき人もなきにや。さこそ、世を捨つる御身といいながら、御いたわしうこそ」と仰せられます。

 さらに、濃い墨染めの衣を着た尼二人が、「岩の崖路を伝いつつ、下り煩い給」うのをご覧になり、それが徳子と女房の二人と知ると、「世に哀れげに思し召して、御涙せきあえさせ給わず」という状況。

 徳子は、「さこそ、世を捨つる御身といいながら、今、かかる御有様を、見え参らせんずらん恥ずかしさよ。消えも失せばや」と思うのですが、どうしようもありません。ここに情を通じた者どうしの心の通いがあると感じてしまうのは、私の深読みのし過ぎでしょうか。徳子は顔を赤らめて恥じらうのです。

 院は、徳子がまだ都にいるときにすでに徳子を訪ねたく思っていたのですが、頼朝を憚って我慢していました。それで大原御幸となるのですが、「そもそも当初法皇が大原御幸を思い立ったのは、建礼門院に同宿せんとしてであった」そうです。

 この徳子が国宝「源氏物語絵巻」を一時期所持していました。そして、絵巻は突然、ずっと後年、鎌倉の第六代将軍宗尊親王の所持となって歴史上に再び現れるのですが、徳子は西海に逃れるときに絵巻を都に残していったのでしょう。

 「白河院か後白河院の周辺で作成された源氏絵巻が、建礼門院の所有となり、やがて平家滅亡後に将軍家へ伝来したものと考えられる」と、伊井春樹氏は『源氏物語註釈史の研究』に書かれています。

 おそらく国宝「源氏物語絵巻」は、待賢門院璋子から後白河院に譲られ、後白河院から建礼門院徳子に贈られたという経緯なのでしょう。

《参考文献》
水原一『延慶本平家物語論考』加藤中道館 一九七九年
伊井春樹『源氏物語註釈史の研究』桜楓社 一九八〇年

◆冒頭のフローチャートはパワーポイントで編集したスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(3) 第一章.1 国宝「源氏物語絵巻」を作った天皇

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

1.国宝「源氏物語絵巻」を作った天皇

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 『源氏物語』とはいったいどのような文学なのでしょう。これほど長く後世の人々をして引きつけて止まないのには、それ相応の理由、魅力があるはずです。それに対する答えは人によってまちまちでしょうけれど、私は『源氏物語』は喪失の文学と思っています。

 喪失は人を深くします。特に本人の知らない幼いうちに受けた喪失は、止まない憧憬という傷を残します。人はその傷を癒そうとしてあがき格闘することを終生義務づけられます。求めて求め得ないものを求め続ける人生を運命づけられるのです。それは生の根幹として熱情の原動力となり、その人の行動を決定します。『源氏物語』はそうした喪失からはじまる物語です。

 主人公光源氏は、母桐壺更衣と三歳のときに死別します。それは父桐壺帝のあまりの愛の深さゆえの死でした。それを聞いて育った光源氏は亡き母を思慕しながら、同時に美しい女性への憧憬を募らせざるを得ない運命に置かれます。とりわけ桐壺更衣に似ていると父帝までもが認めて入内させられた女性、継母藤壺への恋慕は尋常ならざるを得なくなります。何故なら、それは生の根源から尽きあげてくるものだから。

 そしてその姪、紫の上。叶わない恋の相手藤壺の代理として紫の上は登場します。光源氏はおのれの手で母桐壺更衣、高みの恋人藤壺を、この世に再現させ、我が身の傍に置きたい一心で、少女だった紫の上を誘拐同然に引きとって養育します。そして、理想の女性に育てあげるべく、手習や音楽など、貴族の女性に必要なあらゆる嗜みを、みずから手塩にかけて教え込みます。

 紫式部もまた幼いときに母を失っています。どんなにか彼女は母を求めて過ごしたことでしょう。恋して止まない母に二度と相逢うことのない絶望を、彼女自身が抱えているのです。そうした作者の手になる作品が、成就という大団円で終わるはずがありません。紫の上は愛を失い、光源氏は紫の上を失い、薫は浮舟を失って、物語は終わります。

 『源氏物語』に人々が魅かれるのは、原点が喪失だからです。喪失は心に大きな空洞を穿ちます。例えそれが読書という疑似体験であっても、人はそのブラックホールのような空洞に身体ごともっていかれてしまうのです。

 たいていの読者はこれは架空の物語なのだからと、危うく現実の淵に踏みとどまる理性をもち合わせていますが、何をしても許される立場の天皇となると、『源氏物語』に触発された欲望を現実のものとすることに何の障害もありません。院政をはじめて敷いた白河院がそうでした。

 白河院は、紫式部が仕えた中宮彰子の子の後一条天皇の子の、後朱雀天皇の子の、後三条天皇の子であり、二十歳で即位したころ、彰子はまだ存命でした。そのすぐあとに彰子は崩御するのですが、成長する段階で、白河院が彰子から、紫式部が『源氏物語』を書いていた当時の話、『源氏物語』そのものの話を聞いて育っただろうことは当然考えていいでしょう。

 しかも、二十歳までのあいだ、白河院はもしかしたら帝位につけないかもしれない皇子でした。これは、帝の子でありながら臣下に下って源氏姓を名乗らなければならなかった光源氏そのものの状況です。打ちひしがれる思いのなかで、白河院が自身を光源氏になぞらえて物語に浸っただろうことは容易に想像つきます。

 皇位継承だけでなく、白河院には女性問題でも光源氏を踏襲して生きたのではと思われる節があります。光源氏における紫の上、それが待賢門院璋子です。紫の上は幼いころから引きとられて光源氏に養育されます。璋子もまたそうでした。璋子は藤原公実の娘で、母は白河院の子の堀河天皇と孫の鳥羽天皇の乳母です。

 白河院には祇園女御という寵愛する女性がいて、幼い璋子はその祇園女御の養女となって引きとられ、そこに四十八歳も年が離れた院が通って孫娘のように溺愛したとあります。この異常ともいえる行動の裏には刷り込まれた光源氏の存在があって、それが白河院の理性を凌駕しての結果なのでしょう。

 『今鏡』には「幼くては、白河の院の御懐に御足さし入れて、昼も御殿籠りたれば」とあり、大人になってからはさらに特別な関係となっていきます。それがゆくゆく『古事談』の「待賢門院は、白川院御猶子之儀にて入内せしめ給ふ。其間法皇密通せしめ給ふ。人皆これを知るか」という状況になるのです。

 白河院は寵愛する璋子をみずからの猶子として孫の鳥羽天皇に入内させ、なのにその後も関係を続けたのです。鳥羽天皇の中宮となった璋子は、崇徳天皇と後白河天皇を生みますが、崇徳天皇はじつは白河院の子という、『源氏物語』を彷彿とする深刻な人間関係がそこに生じたのでした。

 徳川美術館と五島美術館に所蔵されている国宝「源氏物語絵巻」は、この白河院と璋子の二人の企画で制作されたというのが今のところの有力な説です。あたかも崇徳天皇が生まれた時期で、この時期的符合は妖し過ぎます。

 「白河院と待賢門院は光源氏と藤壺の関係を模倣しているのであり、そのことの居直りにも似た宣言がこの源氏物語絵の制作だったと考えられる。光源氏と藤壺の密通の息子が冷泉帝という天皇になったように、白河院と待賢門院の密通の子は、わずか四歳で天皇の位に即けられることになった」と、『源氏物語絵巻の謎を読み解く』で三田村雅子氏は書いていられます。

 国宝「源氏物語絵巻」の詞書は、今に残る『源氏物語』の原文中最古で、紫式部自身の本文にもっとも近いとされています。おそらく白河院所持の『源氏物語』は彰子から譲られたもので、紫式部直伝に近いものだったのではないでしょうか。

《参考文献》
角田文衛『椒庭秘抄 ―待賢門院璋子の生涯』朝日新聞社、一九七五年
美川圭『白河法皇 中世をひらいた帝王』日本放送出版協会、二〇〇三年、
三谷邦明・三田村雅子『源氏物語絵巻の謎を読み解く』角川書店、一九九八年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(2)・・・はじめに

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◆はじめに

 書物というのは、それ自体光りかがやく知の遺産を有していながら、みずからの意志を放つ有機的原動力をもちあわせていないので、人が、誰かが、手にし、開いて、目を通し、価値を認めて、伝える、あるいは広める、そういう行為を経ないと、どんなに素晴らしい内容の存在であっても、忘れられ、時間に埋もれたまま、薄埃をかぶって、朽ちて、失われていってしまいます。

 あまり知られていませんが、『源氏物語』は現在この世に紫式部が書いた原本は存在しません。それでも読むことができるのは、累々と書き継がれてきた写本があるからです。印刷技術のない時代、書物は書写する人々の手になる写本によって広まりました。鎌倉時代初頭にはもう紫式部の原文はわからなくなっていたらしく、そこからいわゆる注釈などの源氏物語研究や、書写・校訂が活発になり、多くの写本がつくられていきます。

 ですからそこには当然書き落としや写し違いなどのミスが生じ、また、読み違いからくる文章の変化・変遷、さらには書写する人の意志や思惑まで入っての訂正・変革、省略や加筆までが加わって、幾通りもの本文ができてしまいました。

 私自身容易に信じ難いことでしたが、それぞれの冊子で文章が違うというおかしな事実が、世界に誇る古典として親しみ、何の疑いもなく読み耽っていた『源氏物語』というテキストの裏側にあったのです。同じひとつの作品でありながら、異なる文章の『源氏物語』がこの世のなかに存在していたのでした。

 現在残されている『源氏物語』の写本には、大きく分けて三つの系統があるとされます。京都で成立した藤原定家校訂の「青表紙本」と、鎌倉で成立した源光行・親行親子校訂による「河内本」と、それ以外の別本とです。呼称の由来は「青表紙本」は定家校訂の写本の表紙が青かったことから、「河内本」は光行・親行親子がともに河内守だったことからだそうです。

 鎌倉時代から室町時代中期に至るまで『源氏物語』河内本系統が主流でした。室町中期以降、定家の歌人としての評価があがるとともに、青表紙本系統にその座をとって替わられ、以後、河内本系統の写本は影をひそめていきます。江戸時代には名のみで実態を知る人はいなかったようです。

 「河内本源氏物語」の発見は、大正十年(1921)、山脇毅氏によって成されました。その後、河内本系統でもっとも由緒正しい写本とされる『尾州家河内本源氏物語』の所在が確認されたのが昭和五年(1930)。これを山岸徳平氏が調査され、『尾州家河内本源氏物語開題』として刊行されたのが昭和十年(1935)です。そして、昭和二十年代に池田亀鑑氏の『源氏物語大成』が刊行され、河内本系統の本文についての詳細な研究も載せられました。

 河内本系統の『源氏物語』が発見されたとき、国文学の世界では一時的に熱狂が湧き起こったそうです。というのも、河内本さえみつかれば、不明だった紫式部自身の手になる原文がわかるかもしれないという密かな望みがそこに託されていたからです。が、河内本も光行・親行親子による校訂の手が入っていることがわかると、急速にその熱は冷めていきました。

 そして現代、活字化され印刷されて一般に流布しているのが青表紙本系統であるために、青表紙本系統の本文だけが爆発的に広がり、今ではすっかり河内本系統の本文に注意を払う人がいなくなってしまいました。国文学の世界でも研究の対象とする人がいないのが現実です。

 さらに、二〇〇八年の源氏物語千年紀に多くの別本が発見されたことから、現在の研究の主流はそれら別本に移っています。

 おそらく、もう絶対に、河内本系統の本文がかつてのように青表紙本系統と並んで一世を風靡することはないでしょう。ですけれど「河内本源氏物語」の校訂に光行はほぼその生涯をかけていますし、それでも終わらずに子息の親行が引き継いで、それからまた二十年の歳月を費やして五十四帖のすべてを完成させています。

 何故、光行はそれほどまでにして『源氏物語』にこだわったのでしょう。何故、光行はそれほどまでの情熱を『源氏物語』の校訂という大変な作業に降りそそぐことができたのでしょう。親行は父親の何を見てそれを継承したのでしょう。歳月の長さが単に地位や栄誉を目指してのそれでなかったことを証明しています。

 いったいに書物が忘れ去られるということは、その書物が抱える文化、その書物を内包する時代の真実が忘れ去られていくことにほかなりません。光行の「河内本源氏物語」の価値が見失われようとしている今、それに付随してどういうことが忘れ去られようとしているのでしょうか。そして、それは果たして、ほんとうに忘れ去ってしまっていいものなのでしょうか。書物を見失うことで現代の私たちがその時代のほんとうの姿を見失っているということはないでしょうか。見誤ったり、知らずに終わるということがないでしょうか。

 写本には写した人の思いが込められています。その人の生きた時代、関わった人たち、それらを解くことでそれは見えてきます。この本の世界はそうして見えてきました。

《参考文献》
池田亀鑑『校異源氏物語』中央公論社、一九四二年
阿部秋生『源氏物語の本文』岩波書店、一九八六年
山岸徳平『尾州家河内本源氏物語開題』尾張徳川黎明会、一九三五年
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会、一九七七年
三田村雅子『記憶の中の源氏物語』新潮社、二〇〇八年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(1)・・・タイトルと目次

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】

◆目次

はじめに

第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
    第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで
    第二章 平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代
    第三章 源光行の鎌倉下向と「河内本源氏物語」の着手
    第四章 藤原定家の「青表紙本源氏物語」完成
    第五章 源親行の「河内本源氏物語」完成

第二部 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立
    第一章 第四代将軍頼経の時代
    第二章 仙覚の生涯と『万葉集』研究
    第三章 第六代将軍宗尊親王の時代
    第四章 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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