2016.4.21 ツイッターより転載…夏目漱石が参禅した鎌倉円覚寺塔頭帰源院に。そして建長寺禅研究会に。

4月21日
今日は円覚寺様に。山門です。

01

山門の脇の小径を、登ったところに円覚寺様塔頭の帰源院があります。夏目漱石が籠もって禅を学んだところです。

02

帰源院は拝観禁止なので門の外からお庭を撮らせて頂きました。紅い牡丹が目に艷やかでした。

03

紅い牡丹のアップ。今年は夏目漱石没後100年だそうです。神奈川県立近代文学館で記念展を開催中で、チケットを頂いたから、折角なら行く前に円覚寺様を訪ねておきたいと思ったのでした。

04

夏目漱石がたどったコース。右上が帰源院。左下の小径を下りると山門が見えます。

05

夏目漱石が見た山門のある光景。帰源院からの小径を下りきった所です。

06

今日の本来の目的は建長寺様。境内は牡丹が真っ盛りでした。

07_2

見事な牡丹ですが、今の吉田老師様がお好きで、京都の建仁寺から赴任されてから自らお植えになられたとか。周りの人は禅寺に華やかな牡丹なんてと半信半疑だったそうですが、咲いたらまさに中国の雰囲気で驚かれたそう。

10

紫の牡丹をもう一枚。ほんとうはもっとシックな薄紫なのですが…

08

今日は建長寺様の禅研究会。開山蘭渓道隆禅師のお像の修復に携わった方のお話を聴きました。今まで江戸期の修復で紅い漆を分厚く塗られていたのを剥がし、見事に製作当時の厳しいお方の風合いが。素人の私でも漆塗のお姿は異様でした。

09

|

2016.4.7 ツイッターから転載…14日に熊本で震度7を観測する地震が起き、余震が止まりません。そして、北鎌倉駅ホームの洞門にかかる藤のこと。

4月18日
青葉はこんなに繁っているのに@井の頭公園

01

4月19日
井の頭公園にて。

02_2

たんぽぽの綿毛がこんなに。

03_2

4月21日
あることを決意して応募したのですが、そのことでご相談した方からたった今メールが。「特に戦乱のなかで命を削る作業だったことを強く呼びかけて下さい」と。わかって下さる方の一番の応援です。

今日はルドンの誕生日だそうですね。ルドン、色彩が好きです。この写真はルドンではありませんがやはり色彩が凄く魅入ってしまいました。先週行ったある会場で。写真撮影OKのコーナーで撮りました。

04_2

まもなく横浜です。

鎌倉からの帰りです。行きの道中で撮った写真を幾枚かアップさせていただきます。

北鎌倉駅ホームにかかる洞門トンネル岩盤を覆う樹木の中の藤。もっと全山を覆うくらいかと思っていたのですが、いろんな樹木に混じってひっそりと咲いていました。でも咲いているのを観られてよかった。

05

例えばこんな感じです。

06_2

北鎌倉駅の洞門トンネルがどんなになっているか気にしてられる方もいらっしゃるでしょうから揚げておきます。現在の状況です。

07_4

|

2016.5.7 ツイッターから転載…鎌倉さくらの会に同行して慈光寺の桜を観るバスツアーに行きました。

4月10日
やっと慈光寺の桜を観にゆくバスツアー(実際は国宝慈光寺経を観るツアーです・・・笑)のルートを確認しているのですが、昼食は?と見たら、なんと、小川町のお食事処。え!、小川町に寄るの?となって驚いています。そんなだったら仙覚さんの万葉集顕彰碑もルートに入れて欲しかった・・・

鎌倉の古典文学散歩でも通常の観光ルートと違うコースを組むから楽しい。比企を巡るツアーもそんなふうに仙覚碑を組み込んだ文学主体のコースを作ったら面白いでしょうね。(鎌倉では、私の講演を聴いて下さったあと、早速小川町にいらした方が何人かいらっしゃいます。)

一つが片づきそうになると次にすることが見えてくる。慈光寺ツアーのメドがたちふっと湧いたのが「鎌倉の万葉学者仙覚・玄覚は誰かの問題について」。夏の大会に申し込むか来年に先送りするか迷っていました。でもこのタイトルならいいかも。…は誰かの問題について、は始めて浮かんだフレーズです。

私はいろんなことに手をつけ過ぎていて、それが重層的に畳み被さってきていて、どれもどれも片づけなければならないと思えば思うほど何も解決しなくなるのだけど、日程や締切が枷になって一つに取りかかると終わりそうな頃次が浮かぶ。こうやっていつもギリギリのところで間に合いながら進んでます。

4月11日
おはようございます。就寝前にチェックした地図で昼食処が仙覚律師顕彰碑に近くて驚き、これなら抜けだして行ける!などとよからぬ思いが湧くのと戦っています(笑)。バスの中でお話する最初を妙本寺境内の万葉研究碑とこの仙覚律師顕彰碑の関係から始めようと思ってたのに、まさか近くまで行くとは。

小川町の仙覚律師顕彰碑は、晩年の仙覚が「比企郡北方麻師宇郷」で『万葉集註釈』を成したとするその麻師宇が小川町の増尾と比定され、昭和3年に佐佐木信綱博士のご尽力で建てられました。(←と、今、その「昭和3年」を確認したところです。昭和だったっけ、大正だった?と曖昧でしたので。)

鎌倉にいますが、ダウンコートを着てても寒いです。

4月12日
おはようございます。寒い鎌倉の朝です。今日は慈光寺バスツアーの日。早朝の鎌倉発なので昨夜から鎌倉に。仙覚さんの苦難の人生と重ね合わせて何回も自分の足で訪ねて回った小川町と慈光寺…。それぞれに感慨深いです。バスの中でお話して仙覚さんの思いを背景に慈光寺経を観て頂けたらと思います。

バスの先頭から稲村ヶ崎が見えます。

Cfzctu1ukaawf8i

桜と国宝慈光寺経を観る慈光寺ツアー。山岳寺院だから慈光寺様は山頂にあります。着いて、バスを降りた所から撮った光景です。

02

昼食は小川町の玉井屋さん?事前の下調べで、ここがなんと佐佐木信綱博士が建てられた仙覚律師顕彰碑のある山の真下。バスツアー会社の方も、仙覚さんの事をなんにも知らずに決められてのこの偶然にびっくり。玉井屋さんから眺めた碑のある山です。

03

慈光寺様の桜。

04

帰りのバスの車窓から、慈光寺開山堂。本物の開山堂は中にあり、見えているのは覆屋です。

06

途中でツイートできませんでしたが、春の山里の桜の光景を堪能しました。

慈光寺様、般若心経の道は空海や良寛などいろんな方の般若心経が石碑や陶版?で飾られている小径。これは空海筆の般若心経の石碑です!

07

般若心経の道に降りる階段の両脇にもシャガの群生。

08

4月13日
おはようございます。昨日は鎌倉で4時に目覚めて早いとは思ったものの二度寝したらアウトになりそうでしたのでそのまま起きて始動。睡眠時間のサイクルには決まりがありそうで、昨夜は疲れて早々に寝たら今朝もこんな時間に起きてしまいました。徹夜型から早朝型に。このまま上手く移行できればいい。

大切なのは最後に残った152首の歌に訓点を点けて万葉集歌全部が読めるようになったという仙覚の功績。それが鎌倉で成されたという事。そしてそれを鎌倉の方々が誇りに思って下さる事。それを認識した昨日の慈光寺バスツアーでした。話終わって添乗員さんがまず仰った感想の最初の一言がそれでした。

添乗員さん「驚きました。全部知らないことばかり。万葉集が全部読めるようになったのが鎌倉でだったとは」。←私の話はまず「知らなかった」と受け止められます。私も最初そうでした。驚いて呟くと、専門家の方から「知らなかったのはお前だけ。専門家はみんな知ってる」と。一般との乖離が凄いです。

慈光寺ツアーと仙覚の関係は、「慈覚門人」と記した天台宗僧仙覚が出家したのが慈光寺ではないかと思っていること。慈光寺のご住職にお訊ねしたこともありますが慈光寺は戦火で焼けて過去帳が残ってないからわからないと。でも比企で出家するなら当時関東で最大規模の天台宗寺院だった慈光寺でしょう…

井の頭公園、柳と桜。

09

オダマキが咲きました。背景は昨日小川町で購入した小川和紙の紅枝垂染め。

10

4月14日
かつて寄居は桜の町でした。が、老木になり20年前に一斉に伐られて今は面影もありません。それを嘆く寄居の方々が「300品種1万本」の桜を植える活動を始められ反響を呼んでいます。先日のバスツアーで慈光寺に行く前に立ち寄ってお話を聴きました。まだ若木ですが取り組みの写真を数枚ご紹介。

一万本の桜は一箇所でなく、町の至る所に植えられています。まとめて桜の里として、川沿いに、街路に、個人のお宅にも一本等。それで町全体が花を愛する人達になって、これはバスを降りて目に入った個人のお宅の庭です。

11

荒地だった所を開墾して若木を植えている一帯。何十年後かにはここが桜の山になります。今はミヤマツツジが満開。

12

満開のミヤマツツジ。

13

この季節、満開のミヤマツツジにぼんぼりのような枝垂桃の取合せがほんとうに見事です。

14

壊れたリヤカーがあって目にとまりました。花に埋まって同化しています。紅い枝は花ではなく紅葉の若芽です。

15

起伏のある里の風景はいいですね。のどか、の語がぴったりでした。桜の若木はまだ全然目立たないです。

16

以上ですが、ここで午前が終わり小川町へというコースでした。花の里をあまりに堪能してしまって、もう慈光寺へ行かなくてもいいくらいの気持ちになりました(笑)。でも、慈光寺に行ったらそれどころではない感動の充実さ。歴史ある文化の重みは違います。(慈光寺ではあまり写真を撮ってません。)

バスツアーで配られた慈光寺のパンフ。くねくねした山道の参道を登って行った頂上に慈光寺はあります。その山道の両側に桜が植えられています。染井吉野は終わり今は八重が満開でしょうか。

17

パンフの裏側は植樹されている桜の種類と植えられている場所の地図。

18

パンフの裏側に「日本さくら歌十選 七」として光厳院御製が。

19

|

2013.5.17 日野自動車永輝会さまでさせていただいた講演【鎌倉武士と源氏物語】のこと。当日の記事を載せた会誌を送っていただきました。

601919_598465866844664_1726540450_n

Facbookからの転載です。

*************************************

二月に講演させていただいた日野自動車永輝会さまから会誌が届きました。講演当日の記事を載せていただいています。

日野自動車様はバスやトラクターなど大型機種の車を製造されている会社で、永輝会はそのOBの方の集まりです。歴史サークルはじめいろいろな活動をされています。最初、歴史サークルの依頼だったのですが、申請を受けた会長さんが内容をご覧になり、これは全体行事の新春講演会でやろうとなりました。写真サークルの方も関心をもって待たれているとお聞きし、私には手ぐすねひいてのようなちょっとした緊張でした(笑)

歴史サークルの方はともかく、大半が歴史にも『源氏物語』にも興味のない方ばかり。しかも皆様エンジニア出身の理系。わかっていただけるかしらとの思いで、それまでの「河内本源氏物語」がメインの国文学的な内容を払拭して、『鎌倉武士と源氏物語』のタイトルにしました。

ちょうどインフルエンザが流行っているときで10名近く当日キャンセルでお見えになれませんでしたが、総勢57名のご参加者の中で女性はお二人。見渡すかぎりそうそうたる男性ばかりの会場はちょっと圧巻でした!

会誌では私が使ったスライド写真や一頁に渡って講演要旨を載せていただくなど、《鎌倉の源氏物語》を丁寧にご紹介頂きました。懇親会に参加して当日も思ったのですが、理系とか文系とかに関係なく、一線で活躍した企業の方の物事の把握の仕方の的確さは凄いですね。中に下記の一文があり、これが嬉しかったです。

「講演では、平安末期から鎌倉時代初期を時代背景とした、源氏物語をめぐる写本の世界を中心とする京文化と鎌倉文化の関係を、写真家でもある講師ならではの数々の美しい画面を駆使して、講演の進行がなされた。歴史的かつ文学的にも時間の経過を忘れるほどの内容の濃い講演でもあった。」

|

2012.10.5 ツイッターから転載…第29回全国都市緑化フェアTOKYOが始まりました。井の頭公園西園エリアのご紹介

9月30日
第29回全国都市緑化フェアTOKYOが始まりました。会場は井の頭公園の他に上野恩賜公園・日比谷公園・浜離宮恩賜公園・海の森・昭和記念公園です。10月28日まで。突然当地にミニミニ万博という感じのテーマパークが出現しました。

台風一過の青空の下、撮ってきました。これからご紹介する写真は西園エリアです。隣接して三鷹の森ジブリ美術館のある場所です。メインは巨大な《花の庭~命の館~》。天井の一面が色とりどりの花で彩られる空中花壇だそう。

Untitlesd

《月の庭》から《花の庭~命の館~》を遠望。《月の庭》は武蔵野の秋の風景の中に、古より月を愛でる日本人の自然観、文化感を具象化したガーデン。女郎花や桔梗が風に揺らいでいました。

A4fviyzcuaavmr9

月の庭のコスモス。風にそよいでいます。

A4fv0xndcaaauotl

会場の裏側はこんな素敵な休憩所。小さな小さな焼きたてパンとうどんのお店があります。

A4fxftgccdaeecdh 

この木なんの木みたいな木も。今日はまだ早朝だったから人影がまばらで素敵でしたが、木陰が少ないから陽射しが強い日は辛いかも。暑い日は熱中症対策に気をつけていらっしゃいますよう。

A4f2bmgcaaaf2hjm_2

緑化フェアTOKYO、井の頭恩賜公園西園会場のメイン《花の庭~命の館~》の上に昇る十六夜の月@三鷹市

A4iwetrccaaevorr

|

2012.10.5 ツイッターの呟きを転載…9月30日は中秋の名月なのに台風真っ只中でした。そんな中、インタビューの原稿や『解釈』が届いて急に気忙しく

9月28日
玉簾の花が満開。父が清瀬のサナトリウムにいてそこで他界しましたので福永武彦『草の花』は我が事のような愛読書でした。外界と遮断されていても中の療養生活はふつうの暮らしです。園芸は特に。玉簾は母が株分けして持ち帰ったもので今も咲いてくれます。

Untizled

もう前から咲いているのに今日は特別な感じで目に飛び込んできました。と思っていたら『解釈』9.10月号が届きました。早稲田大学名誉教授でいられる中野幸一先生の『源氏物語と鎌倉』のご書評が載っています。拝読してこれほどまでにと胸が篤くなり感涙しました。玉簾はきっと父の眼差しです。

もう先日のインタビューの原稿が届きました。それが、凄い!んです。(談)とあるのは聞書きということですよね。たしかにお答えした内容で書いて下さってはいるんです。なのにふくよかさがそれ以上。とても芸術的(文学的というべき?)。びっくりしました。私にはこうは書けないと落ち込みました。

たった今、撮ってきた夕焼けです。神々しいというよりも稀に見るまがまがしさでした。

Untitqlaed

レーピン展図録です。ポスターにもなっている表紙の絵、モデルは妻。レーピンはトルストイ、ムソルグスキーと親交があって、その肖像画がとてもよかった。レーピンは歴史画、社会画を描いていますがそれらがみんな背景が重厚で暗いのに対し、この三枚は白に近い青灰色。レーピンの気持ちが見えました。

B

9月29日
今日の空。雲が複雑です@三鷹市

R600nx600

公園を通って帰宅しました。鬱蒼と茂る木立の隙間に見える満月に近い朧月。風情があっていつまでも佇みたく撮りたく思いつつ…。でも、帰ってTLを眺めると明日の台風の心配。沖縄も大変とか。無事に過ぎるよう祈らずにいられません。

Uantitled

9月30日
外では相変わらず強風が逆巻き時折近くで何かが落ちたり倒れたりする音がします。雨は殆どありません。階下で外も見ずにずっと外界の音に耳を澄まし息を潜めていると原始の生活ということが思われます。感覚に身を委ねて生活していただろう人たちのことを。研ぎ澄ますということはこういう事だなあと。

明日から十月。台風の被害の最小限に食い止められることを祈りつつ明日を待つのみですが、中旬に「花の蹴鞠」の締切を控えているので明日からそれに。その為の意識の下降。猛暑の中で書く気力も失せていましたが、光行が帰洛を決意したのを書くことに決めたので気分がそこに向っています。

TLで中秋の名月が見えていると知り窓を開けたらもう雨はとっくに止んでいて風だけ。低空の雲の流れが速く、月にかかるとできる紅彩が綺麗でした。満月はさすがに明るいですね。この月のように世の中が清明になりますように。

Untitdled

|

2012.9.11 ツイッターから転載…【鎌倉の古典曼荼羅金剛界 万葉集】制作の途中経過

8月16日
樒(しきみ)の花。密教の潅頂儀式で使う木と習いましたが、近くの農地に咲いているのをみつけ、こんな身近にと驚きました。が、これも万葉の花でした。奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ、の一首だけだそう。

A0cdnjhcmaa4j1f

8月23日
先日作成した【鎌倉の古典曼荼羅金剛界 万葉集】の下図に写真を嵌めてみました。構図も写真もまだ試作ですが、こんなふうにして作っていきます。

418956_475690209122231_1278342916_n

嵌めこむ写真として万葉集の花を考えています。なので目下万葉の植物を勉強中です。『万葉の花』(庄司信洲編著)より…約4500首のうち1700首にはなんらかのかたちで植物が詠み込まれている。これは世界の文学のなかで最も多い数である。万葉集に詠み込まれている植物を「万葉植物」といい、

約160種ほどある。それには木(75種)、草(75種)、竹(4種)、苔(1種)、海藻類(4種)が含まれる。万葉植物のうち最も多く詠まれているのは、萩で142首、次いで梅119首、松80首で、桜は44首と五番目である。

万葉人は、幹・枝・花・葉・実・根といった植物がもつ生態・形・色・香などになかなかの洞察力を発揮して、植物がもつ呪術性を感じ取り、特異な古代信仰を生み出している。

|

2012.9.1 ツイッターの呟きを転載…国分寺の万葉植物園を訪ねて

8月8日

武蔵国国分寺

4bfzo

北院趾と薬師堂

Tmibe

万葉植物園

310uw

そうだ、国分寺があった!と思い出して撮りにきました。鎌倉の二大古典曼荼羅の万葉集編用です。叢に礎石が点在する懐かしい光景が広がっていました。炎天下なので早々に引き上げて、これから国分尼寺趾を撮って帰ります。ちょっと足を延ばせば東山道を見られますが、それも次回に。

国分尼寺金堂趾の前に立つ竿列趾 (ばんをかける竿)

8dudv

武蔵国分寺跡の金堂跡。陽を浴びて礎石が並んでいました。

Az1w_6ocyaawzoc

国分尼寺寺域出土の、銅製観世音菩薩立像。複製品ですが文化財資料室に展示されていて撮影してもよいとのことでしたので。東博の法隆寺館に展示されている観音像にとてもよく似ています。

Az11asucqaaxto6

大好きな灰釉陶器たち…。文化財資料室にて。

Az12crcmaambsx

国分寺の七重塔に納められた経典、『紫紙金字金光明最勝王経』

Az13tqfcmaesqkg

鎌倉街道だそうです。切通しのよう。保存のために車両通行止めになっています。

Az15aducaaaham3

最後に万葉植物園で撮った「さはあららぎ」の花を。はじめて見る花でした。地味で渋いけれど、風情が素敵でした!

Az1_thqcuaegcy7_2

|

2012.8.3 ツイッターの呟きを転載…薊の花の写真をご覧になって高遠弘美先生がブログにお母様の好きな花だったと書いてくださいました

Aygwwcdceaajwcf

7月18日
明日は新月。ひとつひとつ物事が片付いて日々が過ぎてゆくなかで新しいサイクルのはじまりが来る。はからずも昨夜やっとくつろいで溜まっていた夾雑物を整理し、今日それを済ますと、そうか、明日は新月だ!と。明日は久しぶりに一眼レフを出してみようかな。ゆっくり撮ることもできないでいたから。

薊が咲いていました。これは以前撮った写真ですが。薊、なぜかとても好きで、こちらに移ってきたとき、自然に身の回りで咲いているのを見ることができるなんてと狂喜したものです。菫を見たときもそうでした。

Hiromi TAKATO 
またきはめて私事にわたることでブログを更新しました。読み捨てて頂ければ幸甚です。 http://romitak.exblog.jp/15794133/ 
織田百合子さんがリツイート

織田百合子 
そうだったんですか…。今日、一輪、咲いているのが何故か目についてアップさせていただきました。 RT@Thouartmore 薊は亡母が愛した花でした。

織田百合子 
高遠先生、麗しいご文章をありがとうございました。お母様の正確なお言葉は不確かでもその場の情景は目にあざやかに覚えられました。薊には他の花にない凛とした風情がありますね。先生のご文章、日本の失われた…のようでした。@Thouartmore ブログを更新

Hiromi TAKATO 
ふたたび私的な事柄でブログを更新しました。よろしければお立ち寄りください。http://romitak.exblog.jp/ 
織田百合子さんがリツイート

織田百合子 
@Thouartmore 私も薊の花が好きな背景にこのあざみの歌があります。薊と言うだけで最初のフレーズが思い浮かびます。調べてみようと思っていたところ、先に教えて頂きました。こんなに美しい心の国、日本。きっときっと取り返したい思いでいっぱいになりました。

|

2012.7.2 ツイッターの呟きを転載…掌編「竹御所~花、萎れるままに~」を仕上げました

Sdwwf

6月20日
保留にしていた竹御所の短編。今日が〆切なのに気分を取り戻せなくてひたすら吾妻鏡を読んでいました。昨夜ふっと、あれを書いておかなくてはならなかったんだあ、と思い出した事が。これが詰まっていて先へ進まなかったよう。原稿は正直です。それにしても思考が融通効かなくなっています。

吾妻鏡は政子が亡くなったところ。その直後から二条教定が登場。飛鳥井雅経の次男です。母は大江広元娘。雅経と結婚して京に上るまで政子に仕えていたから葬儀に下向して、その際教定を伴ったのだろう。以後教定は鎌倉にとどまって親行や北条実時と交わり鎌倉の源氏物語を盛り上げていきます。

6月21日
安貞2年12月30日 朝から夜中にかけて雪が降り、一尺余り積もった。午後になって輿に乗られ、将軍家(頼経)は急に竹御所に出かけられた。御騎馬であった。駿河守・陸奥四郎・同五郎(北条実泰)…源式部大夫(親行)らが御供した。廻廊から帰られ、近辺の山中の建物を見て回られたという。

↑こんな条があったなんてと私には驚きの条。現在竹御所の掌編を進行中。竹御所は15歳年下の将軍頼経と結婚前から関係があったとするのがわたしの説。そこにこの条。このとき二人は26歳と11歳。二年後に正式に結婚するのですが、頼経は帰っても帰りたくなく近くを放浪なんてこの日恋に落ちた?

そして、供奉している人物に面白い発見。まず北条実泰は実時の父。病気で早く引退して実時に家督を譲ります。そして、こんなところに我らが親行の登場。伊賀氏の乱で一条実雅の上洛に勝手に従って幕府の逆鱗に触れ所領没収にあっているのに、いつのまにか許されて鎌倉に戻っています。

竹御所の掌編、未明まで頑張ったのですが今日はこれから出かけるので中断して少し寝ました。小説は論文と違って妖しいことを書くのでのってきたらもう異次元世界。これってこんな目的だった?と自分で目を白黒させつつ耽溺を楽しんでいます。帰って完成させて送信の予定。ほんとうに書き下ろし…

寛喜元年2月21日 風は静かであった。三崎の海上で来迎講が行われた。走湯山の浄蓮房が駿河前司(三浦義村)の招きにより、(中略)十余艘の船を浮かべてその上で来迎講を行った。見事な装飾は夕陽の光に照り映え、伎楽の音は夕暮れの波の響きに添うかのようであった。(現代語訳『吾妻鏡9』より)

↑ 『吾妻鏡』には珍しく美しい描写の条。竹御所が招かれて乗っています。27歳。頼経と結婚するその前年です。このあたり、美しい条が続きます。なにか二人の結婚に向けて鎌倉がほのめいているかのよう…(あくまでも個人的見解ですが)。この時期、竹御所は政子に代わる鎌倉殿の立場として君臨中。

同じく寛喜元年から綺麗な条をあと2例ほどご紹介。 3月15日 将軍家(頼経)が花をご覧になるために永福寺に出かけられた。水干で御騎馬であった。駿河守(重時)・陸奥四郎(政村)・同五郎(実泰)・周防前司親実・式部大夫(源)親行以下の二十余人が供奉した。

10月26日 将軍家(頼経)が蹴鞠をご覧になるために永福寺に出かけられた。御布衣で、御輿に乗られた。(略)これは相州が紅葉の林の中を選び定め、事情を申されて特別に準備したものである。(略)源式部大夫(親行)らが祇候していたので、蹴鞠が終わった後、その場で和歌の御会が行われたという

今日中に仕上がるはずの竹御所の掌編、日中はどうにも気が乗らなくてこれから。小説はどうしても夜、気配が魑魅魍魎とざわめいてからになってしまう。丁寧に吾妻鏡を読むことで見えてきた竹御所と頼経の不自然な結婚の真実。でも不自然なんかではぜんぜんなく、そこには真摯で美しい愛がありました。

6月22日
終わりました! 竹御所の掌編。我ながら一大スペクタクルシーンを観たあとのよう。最後はほんとうに苦しみました。書けなくて。でも『吾妻鏡』を読んでいて見えてきた世界。どうして今までこういう見方がされてこなかったのかしらと不思議です。ともあれ、これでやっと全部を放出し身動きとれます。

|

より以前の記事一覧