2013.1.6 明日の講演用に送っていただきました!八木書店様刊行の『尾州家河内本源氏物語』影印本の抜刷とカタログです。

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建長寺様での講演が明日に迫ってきました。

『尾州家河内本源氏物語』は2010年から八木書店様でカラー版の影印本が刊行されています。全10巻で、現在7巻まで進みました。私も欲しくてたまらないのですが、分売不可で一冊3万円近くするので個人での入手は無理。都立図書館へ行って拝見しています。

いくら『尾州家河内本源氏物語』のお話をしても、実際にどんなに凄いものかご覧になってみないと実感できないと思います。それで、八木書店様にお願いして今回の講演用にカタログと抜刷を送っていただきました。会場でいらした方に実際に手にとってご覧いただこうと思っています。

写真の抜刷は「若菜上」巻の部分です。その下にあるのが裏表紙の部分です。

では、明日、会場でお目にかかれたら嬉しいです!

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↑ 講演で上映するスライドの一枚です。

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12月25日 ツイッターから転載…11月8日の京都日帰り旅行まとめ【修学院離宮・慈鎮目和宝塔など】

いざ決戦、のツイッターへの呟きではじまった11月。毎週土曜日、計四回鎌倉に吉田秀和を讃える講座に通い、8日には京都日帰り旅行。そして鎌倉の世界遺産登録へ向けての三館連携特別展…など、慌ただしく動き回りました。そのあいだに「花の蹴鞠」の連載分も仕上げたりして。大変でしたが充実していました。終わってほっとしたところです。

どれも忘れては惜しいことばかり。ツイッターでは時間の経過とともに消えてしまいます。その点、ブログは残っていいですね。これから少しずつブログに記録していきます。まずは単発の京都日帰り旅行から。

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11月8日
浜名湖の向こうに棚引く横雲。新幹線の車内から。京都に向かっています。久々のプライベート。ざっと行きたい場所だけ決めて出てきたので、座席で今コースを調整しています。スマホで検索して危うく見逃して後悔するところだった寺院を発見し、ヒヤッと。

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祇園女御供養搭。昨日、知恩院の前を通って高台寺界隈に抜ける通りで見つけました。祇園女御の邸宅はこの一帯にあったんですね。

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さらに進むと西行庵。西行が晩年に構えた庵跡で終焉の地だそう。ここは角田文衛先生が建礼門院徳子の終焉の地とされる鷲尾界隈。高台寺では秀吉、知恩院では法然と親鸞といった方々が有名ですが、大河清盛に登場する方々ゆかりの地でもありました。

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慈鎮和尚供養碑@長楽寺の近く 吉水弁財天境内。重要文化財。 隣接する安養寺は慈円が中興の祖だそう。新幹線の車内で発見した寺院です。これで今日はもう充分満足というくらい嬉しい!

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紅葉の水鏡@修学院離宮 最高の景色でした。修学院離宮が一番源氏物語世界に近いと言われる意味が分かりました。

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東寺の五重塔が見える夕景

修学院離宮の写真を一枚FBにアップしました。今日の京都日帰り旅行は充実していました。明日以降少しずつ写真をアップしていきます。

11月9日
おはようございます。昨日は一日京都で過ごしましたが、修学院離宮の散策で一緒に歩いた京都の方からの情報。陽射しの関係で京都を巡るには、午前は嵐山、午後に東山、というコースがいいそうです。はからずも昨日の修学院離宮は午後。苑内の紅葉が見事に池に映っていました。

もうひとつ、修学院離宮のことで。修学院離宮を訪ねるには事前に宮内庁への申込が必要です。そこまでは知っていても、苑内に入ると総勢60人がずうっと一緒で係の方の説明を聴きながらというのは驚きでした。自由な散策ではありません。そして、かなりハード。足の悪い方には相当きついでしょうね。

宮内庁への申込ですが、同じ京都の方からの情報で、ネット申込は当選枠が小さいので殆どダメ。葉書は可能性高いです。あと、直接窓口にという手もあって、そうするとキャンセル分が入手できたりするそうです。私もネットがダメで、葉書で当選しました。

11月14日
修学院離宮の中に建つ客殿の霞棚です。桂離宮の桂棚、三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚と称されているそうです。FBページにこの離宮の写真を数枚アップしました。

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■修学院離宮の写真はまとめてFacebookページにアップしました。

http://www.facebook.com/odayuriko.f

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2011.12.10 満月の、そして皆既月食の日に刊行! 『源氏物語と鎌倉―「河内本源氏物語」に生きた人々―』…書物がこれから一人歩きします。どうぞよろしくお願いいたします。 

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ほぼ十年かかっていた鎌倉の源氏物語。決着がついてここに上梓の運びとなりました。『源氏物語と鎌倉 ―「河内本源氏物語」に生きた人々―』は今日12月10日初版発行になりました。出版社は鎌倉の銀の鈴社さま。大変に丁寧に心をこめて作ってくださいました。届いたばかりの本を載せさせていただきます。これから末永くおつきあいくださいますよう。

今日は満月。まさに満願の日。しかも皆既月食。お天気も晴れて清明な空。こういう日に出版の記念の日が重なるなんて、と嬉しいです。

さらに、映画「源氏物語 千年の謎」の上映初日・・・

銀の鈴社さま
http://www.ginsuzu.com/

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2011.2.9 図書館で『万葉集註釈』をみつけて・・・久しぶりに仙覚のことを 

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『吾妻鏡』の発表のための資料を探しに図書館に行って、たまたま全集の棚に揃った『万葉集』を見て、その最後に索引と並んで別巻のようにして『万葉集註釈』があったので、思わず借りてきてしまいました。

『万葉集註釈』は晩年近くなった仙覚が埼玉県比企郡小川町で成した大部の『万葉集』の註釈書です。『万葉集』の四千五百首全部に訓点をつけ終わったのが鎌倉時代の万葉学者仙覚です。それまでもずっと頑張って万葉仮名を読めるように読み下しの労は成されていたのですが、鎌倉時代になってもまだ百五十何首かが読めないままでした。それを完成させたのが仙覚なのです。ですから、現代活字化されて全集などに収められている『万葉集』の底本は全部仙覚の校訂本です。

それほどまでに功績のある仙覚ですが、その人物が一体誰なのか、明確にわかっていません。鎌倉の比企ケ谷新釈迦堂で『万葉集』の校訂をし、埼玉県比企郡で『万葉集註釈』を成したことから、比企氏に関係があるといわれているだけです。それを記念する碑が鎌倉と小川町の両方に建っていますのでご紹介しますね。

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上が鎌倉は比企ケ谷の妙本寺境内、新釈迦堂跡に建っている碑。下が小川町の碑です。

小川町で『万葉集註釈』を成したというのは、この『万葉集註釈』のなかの奥書に仙覚が記しています。先年、仙覚を調べていたときにこの『万葉集註釈』のことを知り、興味をもっていました。それで、こんな身近な図書館にこれがあったのが嬉しく、思わず借りてきてしまいました(*^-^)。数冊の『吾妻鏡』関連の著作といっしょに・・・

でも、これは副題に「本文扁」とあって、私が読みたい仙覚の生涯に迫る文章は省略されてるみたい・・・。探せど探せどなくて、ちょっとがっかり。でも、なんとなくこの本が家にあることで心なごんでいます。

これ、いいかも・・・、と思うのは、何しろ四千五百首全部の歌と詞書が、口語訳や説明なしにずらっと、ほんとうにずらっと並んでいるのです。小さな活字で、全部・・・

全集本で註釈がついているのは有難いけれど、ついそちらに気をとられて、歌に専心することを忘れてしまいますよね。だから、これだけ無機質に活字だけが並んでいるのは豪快!! 期限までしばらく借りていて、ぱらぱらと眺めさせていただこうと思っています。

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2010.7.7 親行が七夕にこだわった意味がわかりました! 桐壺巻にその答えが・・・

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源親行が「河内本源氏物語」の完成日を【建長7年7月7日】と、あえて七夕の日にこだわって奥書に記したことから、七夕の何がそれほどまでに親行の心を捉えたのか不思議で、ずっとその意味を探っていました。単純に織姫・彦星のロマン溢れる行事だからというのには、かなり物足りなく思っていたのです。まして親行は大人の男・・・、建礼門院右京大夫とは違います。きっと深い意味があるはず・・・と、そんな気がしてなりませんでした。

四苦八苦しながら何もつかめないまま、結局今日が七夕・・・。それで、仕方なく意味がわからないまま、それでも親行にかけて行事だけは祝っておきたいから、朝、ツイッターに、「今日は七夕。親行は七夕にこだわって奥書を書いた」内容のつぶやきを書き込みました。

すると、ある方からRT(リツィート)があって、「長恨歌の7月7日を思い出しますね」・・・と

桐壺巻では、長恨歌の玄宗皇帝と楊貴妃が、桐壺帝と桐壺更衣に重ね合わせられています。「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」の部分が引用されているのです。その前の詩句が、「それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった」だったのです。

別れに際し、ていねいに重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけにわかる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%81%A8%E6%AD%8Cより)

光源氏は、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の結果として残された皇子です。その悲恋の象徴が長恨歌なのです。その長恨歌のさらに核となっている言葉が源氏物語に引用され、それが「比翼の鳥と連理の枝」。そして、それが玄宗皇帝によって楊貴妃にささやかれたのが七夕の日・・・。親行はここにこだわったのでした。おそらくそうです。ただの五節句としての七夕の儀式にこだわったのではないんです。おかしいおかしいと思っていた親行の七夕へのこだわり・・・。ツイッターのお陰で謎が解けました。

それにしても親行の思いの深さ。ツイッターでのRTを拝見してすぐに長恨歌を読み、ここに触れたとき、親行もまた、おざなりに学問としての権威・名誉の目的でなく、真に源氏物語を読み込んで、真に源氏物語の心に深まっての校訂だったことに打たれ、ほろっとしてしまいました。

親行は11歳のころ、光行の使いで俊成に源氏物語の不審の箇所を訊ねに行かされてます。光行が鎌倉在住のときで、ほんの一年かそれよりも短い期間、上洛したときのことでした。短いあいだの旅路で光行自身がでかける間も惜しんでのことだったのでしょう。それは「楊貴妃をば芙蓉と柳とに例え、更衣をば女郎花と撫子に例う。皆二句ずつにてよく聞こえ侍るを、御本(俊成の本)、未央柳を消たれたるは、如何なる子細の侍るやらむ」という内容の質問でした。

光行は俊成から借りた『源氏物語』に、ふつうなら対句にして残すはずの「大掖の芙蓉未央柳」の一句が、見せ消ちになっているのに疑問を覚え、親行を使いにして質問させたのでした。このときの親行の得た回答が満足のいくものでなかったので、その中途半端さに光行が怒り、読んでびっくりしたほど激しく親行を叱責します。

おそらく親行にはそのときの思い出が強く残っているのでしょう。後年、光行から校訂を引き継ぐほど大人になっても、桐壺巻の「楊貴妃」の語は格別だった・・・。格別の長恨歌だったのです。

奥書のたった「7月7日」の書き込みに込められた、『源氏物語』の根幹を成す玄宗と楊貴妃の悲恋をとおしての親行の思いを、ツイッターをしてなかったら読み取ることはできなかったでしょう。七夕の日にとても深い感動と余韻をいただきました。よかった・・・、奇しくも七夕の日に謎が解けて・・・、というか、これが星に願ったから叶えられたってこと?

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2010.6.26 まもなく七夕・・・、7月7日は源親行が「河内本源氏物語」を完成させた日でもあります!!

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「河内本源氏物語」を完成させた源親行は、奥書に「建長七年七月七日果其篇」と記しました。即ち、その日に『源氏物語』の校訂作業のすべてを終わったのです。その後手を入れたりして正式には七月七日を過ぎての完成ですが、親行はこの日付にこだわって残しました。たぶん、「七夕」だからでしょうけれど、親行がそれほどこだわった七夕の中世での実態がどういうものか、考えてみるとあまり知られていませんよね。まして、親行のような立派な成人男子がこだわったなんて・・・

そんなことがずっと疑問でしたので、この際、今年は中世における七夕行事がどんなものだったか、少し追ってみようという気持ちになっています。できれば、親行がそんなにこだわってその日に完成させた「河内本源氏物語」を、七夕にちなんで・・・・、【7月7日は鎌倉の源氏物語の日】みたいな記念日にできたらいいな・・・という気持ちも湧いてきています。

で、昨夜は、七夕の歌というと真っ先に思い出す『建礼門院右京大夫集』を取り出して読んでみました。この痛切な日記とも歌集ともとれる集にあって、一連の七夕の歌のだけが大量にあって異質です。七夕だから作った行事の歌で、彼女の人生と密着した内容でないから、今までは読み飛ばしていたのですが・・・

歌は「彦星の行き合ひの空」という括りで、51首。最初の歌と最後のにだけ詞書があって、あとはただ歌だけが並んでいます。滅び去った平家の公達を恋人にもった女性の歌集として、生きた『平家物語』の実況中継のような意味合いが濃い歌集にあってのこの無造作な羅列・・・、とても不思議でした。

七夕の歴史をざっとみたのですが、現在のような短冊に願いを書いて笹の葉につける風習は江戸時代からなんですね。中世では冷泉家の乞巧奠(きっこうでん)にみるように、梶の葉に古歌を書いて飾ったもののよう。右京大夫の最後の歌をみると、毎年七首作ったようですから、中世での儀式は七首を梶の葉に書いたのでしょうか。『建礼門院右京大夫集』の51首は、そうして毎年溜まっていった歌からの抜粋のようです。深く読むと、そこにはやはり織姫彦星にかけて彼女みずからの資盛との悲恋を思う切なさが込められているのがわかりますが、この構成はもったいないですね。

幾首か引用させていただくつもりですが、今はまず一首だけを!!

 なにごとも変りはてぬる世の中に契りたがはぬ星合の空

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2010.2.5 昨日は立春でした・・・、古今集「春立つ日の歌」から万葉集の仙覚へ

221 昨日は立春でした。一年のうちで一番好きな日です。何かそれらしいお花を撮ってアップしようと思っていたのですが、時間がとれずに今日になってしまいました。写真も撮っていたなかから探して水仙の花を・・・。小さな鼓はお正月の飾り用に売っていた小物です。いたずらに乗せてみたら意外とマッチしてパチリ・・・と。春を寿ぐ写真になりましたでしょ!

 立春ということばを思うと頭のなかで「春立つ日に詠みたまいける・・・」みたいな文言が離れなくなって、そしてすぐに「年のうちに春は来にけり・・・」と続きます。歌は特に意識しているわけでないのに、こうして日本人の感性の基層になっているのですね。

 ちょうどいい機会なので古今集のこの歌のあたりを見てみました。「巻一 春歌上」です。

     ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
一. 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
     春たちける日よめる 紀貫之
二. 袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
     よみ人しらず
三. 春霞たてるやいづこみよしのの 吉野の山に雪は降りつつ
     二条のきさきの春のはじめの御うた 二條のきさき
四. 雪のうちに春は来にけり鴬の こほれる涙いまやとくらん
     よみ人しらず
五. 梅がえにきゐる鴬春かけて 啼けどもいまだ雪はふりつつ

 万葉集研究の歴史をひもどいていて、歌集の書き方に、題詞を高く書くか、歌を高く書くか・・という流派のような経緯があるそうです。

 例えば、
「題詞を高く」の場合は、
 ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
   年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
 となり、
「歌を高く」の場合は、
   ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ

となります。

 第四代将軍頼経によって最初に万葉集の校定を命じられた源親行の本は「歌を高く」だったそうです。これはその当時の普通の形式で、親行が底本にした万葉集もそうなっていたようです。これはどうも歌が上の場合の方が歌を一行に書き切れるという合理性から普遍的になったようです。

 その後、再び頼経の命によって今度は仙覚が万葉集の校定にかかります。いわゆる寛元本です。そのときは親行が成した本を底本にしたので「歌を高く」でした。が、そのとき、仙覚の心のなかにはある思いが湧いていたようです。それは、「万葉集の古い時代にあっては題詞が高いのが正しいのではないか・・・」というものでした。

 そして、宗尊親王のもとで再度万葉集の校定にかかったとき、仙覚は「題詞を高く」を採用しました。これが文永二年本、文永三年本です。この問題に言及されている小川靖彦氏はご著書『万葉学史の研究』のなかで、「『万葉集』本来の姿を復元を強く志向する仙覚の万葉学の性格からすると、(中略)、仙覚は題詞の高い体裁こそを『万葉集』本来のものと考えていたのであろう」と書かれています。

 古今集の歌を引きながら、話がついつい万葉集にいってしまいました。万葉集で有名な春の歌って何でしたでしょう・・・。春の野にすみれ摘みにし、が思い浮かびますが、これは立春の歌ではないですね・・・

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ 

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2009.12.22 明日朝にBS2で「私たち、草食系武士です。~新・平家家族物語~」の再放送があります!!

380 392 421  写真は、京都の梅小路公園。昔、平家一門の邸宅が一帯にはありました。京都市都市緑化協会HPより引用させていただきますと、「平安末期には、平清盛の「西八条第」(にしはちじょうてい)が南北は八条大路と八条坊門小路、東西は大宮大路と坊城小路の方6町に造営され、また同時期に八条女院御所も八条大路を中心に造営されていました。しかし、西八条第は寿永2年(1183)7月25日に平氏一門自らの手で火を放たれ焼失しました」のだそうです。
http://www.kyoto-ga.jp/umekouji/history.html

 高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』には、西八条殿の他、重盛邸、頼盛邸、宗盛邸、重衡邸等の位置が明確に書き込まれた地図が載っています。

 私は2008年の源氏物語千年紀の年に、【写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―】と題した写真展を開きました。そのときに40枚ほどの写真を並べました。『源氏物語』ができた道長の土御門邸宅跡から、『源氏物語』を踏襲した平家文化、源氏の世に移っての鎌倉、そして『河内本源氏物語』の舞台となった金沢文庫の称名寺・・・という流れです。

 古典や資料としての文献を探っているときにはそれほどと思わなかったのですが、長い間に撮り溜めた写真の中から選びに選んで抜粋した40枚を一挙に並べたときに、『源氏物語』が書かれた900年代から、『河内本源氏物語』の成った1200年代までの間の文化で、平家文化の占める比重のとても大きいことに気がつきました。10枚のパネルを用意して、それぞれにテーマを決めて4枚ずつ貼っていったのですが、平家文化だけはパネルが2枚になってしまったのです。それから私の中で平家文化、ひいては平家一門の人たちの、人たちとの、人間関係への興味が広がりました。そうして見ていったなかで、従来言われていたような「奢れる平家」という印象が実はがそうではなかったことに気がついたのです。

 こういったことは今までもこのブログで事あるごとに書いていますので重複を避けますが、先週放送されたNHKの歴史秘話ヒストリア【私たち、草食系武士です。~新・平家家族物語~】では、最近私が思っているのと全く同じ平家観が打ち出されていたわよ、と知人からのご報告がありました。私は見損ねたので再放送がないか探したら、23日朝にあることがわかりました。もう明日の朝なのですね。楽しみに見ようと思っています。内容は、タイトルから察せられると思いますが、「草食系・・・」とは!! 現代風な解釈をするとまったくそのとおり、なのかもです。

 知人に教えられて興味をもったのは、誰の監修なのだろうということ。従来の学者さん方の示唆でこういう内容になるわけがありません。それで、再放送を調べたページで見たら、参考文献に高橋昌明氏のご著作がメインに取り扱われていたことがわかり、納得したのでした。タイトルの「福原の夢」が示すように、ここには従来の清盛の福原遷都が清盛の「横暴」でなく、「夢」だった、というような新しい、温かい、美しい、視点があります。私にとって出逢えて嬉しかった大切なご著作です。http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/28.html

★ご参考までに過去ブログを・・・
2008.2.1 平清盛と「福原の夢」と『源氏物語』
2008.5.7 京都紀行8・・・平家一門の西八条第があった「梅小路公園」
カテゴリー・・・写真展【写真でたどる源氏物語の歴史】

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!ただ、私のブログは写真が多くて容量が重いので、全部をご覧になるのに時間がかかります。以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

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2009.11.6 筑土鈴寛氏「新古今集と平家物語」について・・・『平家物語』編纂の時期は後鳥羽院の御世でした!!

160 『平家物語』が成った時代については、まだ明確な時期の断定がされていません。

 『徒然草』に平家物語成立事情を記す段があって、そこに「後鳥羽院の御時」に信濃前司行長が、慈円に扶持されて、『平家物語』を作ったとあります。

 兼好は鎌倉末期の人。後鳥羽院の時代は鎌倉初期です。なのでここは兼好が実際に見て知ってのことではなく、そう言い伝えられていたものを書いたのでしょう。

 ずっと以前、何かの本で、「後鳥羽院の御時」というのは兼好の覚え違いで、実際は「承久の乱以後」だっただろうと、兼好のこの条を否定する説を読んだことがあります。ですので、私のなかでの『平家物語』の成立は、「行長によって、承久の乱以降、作られた」というものでした。なんとなく、あの壮大な『平家物語』が、行長というような特定の個人だけで作られるものかなあ、という不審を覚えながら・・・

 昨年、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」という論文を著し、そこで『源氏物語』の二大写本とされる「青表紙本源氏物語」「河内本源氏物語」それぞれの校訂者である藤原定家と源光行二人が、若いとき平家の人たちと親密に付き合っていて、二大写本はその二人の平家の人たちを鎮魂する思いから生まれた、という内容のことを書きました。

 そのとき、光行が『平家物語』の成立に関係していただろう感じにまで肉薄したのですが、私のなかでは『平家物語』は承久の乱以降の成立という固定観念がありましたので、光行の生涯を追うなかで、どうしてもその編纂に立ち会うような時間が見出せませんでした。それで、光行の『平家物語』との関係は、ただ「光行の書いた文章が編纂者によって使われた・・・」程度とあきらめるしかなかったのです。

 が、目下「花の蹴鞠」という、『新古今和歌集』成立の時期にかかわる内容の小説を書いていて、その時代の年譜を作成したとき、『平家物語』編纂の場といわれる慈円の大懺法院の建立が、『新古今和歌集』成立へ向けて後鳥羽院が動き出したそのときと重なっていることに気がつきました。

 それで、ふっと、ん?、これなら、光行が鎌倉を引き上げて帰洛し、『平家物語』編纂の事業に携わることも可能・・・と思いました。それで、大懺法院について書かれたものを探したとき、筑土鈴寛氏の一連のご著作にたどりつきました。「ちくどれいかん」氏とお読みします。仏教学者でいられます。

 私は以前、「白拍子の風」という歴史小説を書いていて、主人公が慈円でした。筑土鈴寛氏が慈円の研究の第一人者でいらしたので、ご著作には大変お世話になりました。慈円の大懺法院については、そのときに知識を得ました。が、そのときはまだ『平家物語』に興味がなかったので、関係が書かれていたかどうかも覚えていません。ただ、今回、『新古今和歌集』の時代の年譜を作っていて、ん?、『平家物語』の編纂の場となった大懺法院の建立は?・・・と閃いたのは、その経験があったからです。

 『平家物語』には、光行の叔父季貞が清盛の側近中の側近、「源判官季貞」として、何度も登場します。こんな身近な人物が登場するのに、光行が編纂の蚊帳の外というのも不思議と思っていました。が、『新古今和歌集』と同時代に『平家物語』ができたとするなら、そのころ光行は京都に滞在していますし、編纂に加わるのも可能になります。

 では、ほんとうに、『平家物語』が『新古今和歌集』とほぼ成立を同じくしているか・・・、不安と期待にどきどきしながら、筑土鈴寛氏のご著作を手にしました。立川の国文学研究資料館の図書室にそれはありました。『筑土鈴寛氏著作集 第一巻』です。『第二巻』が以前参考にさせていただいた慈円研究の特集です。

 目次を開いて目が釘付けになりました。「新古今集と平家物語」など、まさに思っているとおりの題名が並んでいるのです。それらをコピーして帰ってすぐに読ませていただきました。そこには目も覚めるような世界が展開していました。それをご紹介させていただきます。私の説明では心もとないし、もったいないので、筑土鈴寛氏のご文章の引用の列記にさせていただきます。

 その前にまず結論を書かせていただきますと、『徒然草』にあるように、『平家物語』は後鳥羽院の時代に編纂されたのでした。後鳥羽院主導のもとで、『新古今和歌集』と並行して。それが何故、冒頭に記したような現代の学者さん方のご研究のような「承久の乱以降」になってしまったかは、浅学の私の推測ですが、現代があまりに「目に見えるものしか信じない」世の中になってしまったからではないでしょうか。文献に残っていないものは論を立ててはいけず、残っている文献だけで判断すると、「承久の乱以降」になってしまうのです。

 でも、人間が見えないものでも、真実はいっぱいありますよね。見えていない世界の方が大きいかも知れません。特に平家の関係は朝敵となったしまった人たちのことですから、思っていても言えない、持っているものも隠す・・・ような状況だったでしょう。残っている僅かな文献だけで探ろうとするから誤った判断にもなるし、混迷を深めて決断できないのです。論文としてまとめるには状況証拠で書いてはいけないのはわかりますが、日本文化の根幹にかかわることは、学者さん世界の特権的なことでなく、国民全体が真実を知る権利があります。私はそれを訴えたいのです。

 『明月記』に定家が「紅旗征戎非吾事」と記したために、定家はあの源平の争乱など世俗の争いを超越して文人としての孤高を守った・・・と、ずっと長く言われてきました。が、それは定家があえて書いた世をあざむくためのカモフラージュの言だったことは、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」で明らかにしました。この時代はそういう隠匿、カモフラージュが必要だったのです。

 同じように、光行の編纂事業との関わりも、私は「隠匿」がはたらいていると思います。後鳥羽院・慈円といったそうそうたる中心人物が曖昧な闇に包まれてしまったように、ほぼ中心にいただろう光行も、隠れてしまっているのです。かえって、信濃前司行長のような、「ばれても」危険性のない人物の方が後世名前が残っているのでしょう。

 光行と親交のあった定家が、慈円とも親しいあの定家が、『明月記』に編纂のことも、光行がそれに関わっていることも、何も記していないのはおかしい・・・、というのは、定家もこの隠匿事業の重大性を熟知していて、あえて書かなかったからに他ならないと思います。これを、現代の学者さんだったら、「『明月記』に書いてないから・・・」となってしまうのでしょうね。

 人間は人間と人間という触れ合いのなかで事跡を残します。文献がなくても、心の交流として「こうあっただろうこと」「こうはありえないこと」が推察できます。そして、そういうことから、いくら文献上で結論できても、「おかしい」と思わなければならないこともでてきます。

 筑土鈴寛氏が素晴らしいのは、物事を「精神」で説いていられることです。仏教学者でいられるからでしょうね。現代は学問があまりに専門に分散されすぎて、国文学の研究者の方が仏教の精神を収めていられる状況がないのではないでしょうか。たまに仏教とかかわる内容を書かれても、それも「文献」としてしか扱われないような・・・。精神で説かれた筑土鈴寛氏はこう断定されています。後鳥羽院の御世は「強くして美しい精神の時代」であり、そういう美学をもった後鳥羽院のもとで『平家物語』は成されたと。

 それでは筑土鈴寛氏のご論考を紹介させていただきます。

『筑土鈴寛著作集 第一巻』「序・時代」より
後鳥羽天皇以来、国の文化が一変したことは、日本の文化を考へるにあたつて、細かい心づかひをもつて考へてみねばならぬ。日本文化の本来らしいものが、この以後に育てられてくるが、しかしそれをもつて、本来のものとみることは、後鳥羽院以後の、文化の一変といふことを念頭にせずしてなしてゐるのである。後鳥羽天皇の御代は、ちやうどそのふりわけの時期にあたるのである。

 私は、この時代が、古様で美しい精神の時代であり、また困難と悲痛の時代に、これを超えようとした、強くして美しい精神の時代であつたことを、復古とおよびこのあたりの新しい思想の創造といふ点においてみたい。

 新古今の成った時、大懺法院が建立され、合戦死者の回向とともに国の鎮めを祈る例となつたが、慈円のその時の歌は、上皇の鎮魂の意味で歌われてゐる。(中略)新古今は国の統一正整の象徴であつた。歌の成つた日に、国の治政は調うたのであるが、その意味で、真の美の統一の姿が現成したのである。これはまた、類ひのない形成であつた。信仰も芸術も治政も一となつて、上皇に帰せられたのである。

 平家物語は、承久乱以前に成つたものである。今ある諸本には、その後の書き方で記されてゐるものがあるが、この史詩の永い成長の期間を物語るものである。

 おびただしい過去の作品と、その諸形式の綜合の上に、新たなる形式によつたこの物語は、実は、永く忘れた古い代の形式の転生であつたとみられ、この時代の復古精神といふ点にも関係するかと思はれる。

 相対対立の劇しかつた世、絶対のものを、移ろひ易い世に、不易のものを思うた時、不変の理法を誰もが思つた。さうした不動のものをせつに願つた時である。(中略)新古今が成つた時、合戦死者を回向しようとした企ては、すでに歴史を超えた立場で、歴史を祭らうといふ心に発してゐる。(中略)国の鎮めを祈るときも、さうした絶対不変の思ひを歌ふ心に発したのである。かうした時期に平家が成長しつつあつたことを思はねばならぬ。無常の理に伴ふ平家の悲哀感といふやうなものは、実は宇宙的な感情に由来してゐて、この作のもののあはれの美しさは、さういふものの、ふと人の世に訪づれる、影の如きものであつたかと思へるのである。かうしたところに、平家物語の愛と詩魂との深さも思はれるのである。

 鎌倉幕府の誠実さといふものは、頼朝をもつて絶えたとみたのが慈円らであつたが、平家滅亡ののち、頼朝に寄せた絶大な信頼は、道理と誠実の明かで深かつたといふことによつてゐる。(中略)想像が許されるなら、平家物語の成立は、まださうした信頼と感情とが濃厚であつた頃のものである。古武士の行動が、詩の心に感じられたのは、もう承久のころあたりには失せてゐるやうである。

 大きな綜合の心と統一の意志とがあつた世、前後にないみごとな叙事詩的物語は成つて、文学の形式上の綜合はもちろん、また精神的な綜合がみられるのは、やはり偉大な統一の意志が発せられた世のゆゑではなからうか。

 この史詩の形式は新しい。だが、やはり古風なものとともにある新な精神によつて成つてゐる。伝統の上の創造の意志が溌剌として働いた時期である。上皇の御意志にそれをみ奉るのである。

 新古今の詩と、平家物語の詩と、全く別様のものが同じに存した時代、英雄の心に溢れ、詩精神の高い時代であつたといふ点で、そこに異つた二つの詩が結ばれるものが存したやうに思へるのである。それ以後、かうした物語に、詩が失せてしまつたことを思ふべきである。

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2009.10.1 塚本邦雄『 定本 夕暮の諧調 』について・・・

123連載中の小説「花の蹴鞠」が、『新古今和歌集』の時代に突入しますので、その準備に関係の本を読み漁っています。

 『家長日記』についても書いておきたいのですが、時間がないままに過ぎてしまいそうです。一つだけ記しておきたいのですが、コピーした全釈を読み始めて、何だか妙に後鳥羽院のことばかりがリアルに書かれているなあと驚いたら、なんと、『家長日記』は、家長が後鳥羽院を讃美する目的で記されたのだそうでした。

 家長は自分をとりたててくれた後鳥羽院に対する感謝・恩を忘れずにいて、紫式部が道長を讃えるために『紫式部日記』を残したのに倣って、自身も日記を書いたのだそうです。こんなところにまで紫式部というか、源氏物語世界が浸透していると、驚きました。

 で、『新古今和歌集』に話を戻しますと、私の最初の『新古今和歌集』体験は塚本邦雄氏によってでした。地元の図書館に、『新古今新考 ―断崖の美学』があって、それはもう目も覚めるような言葉のあやかしの世界でした。なので、私の『新古今和歌集』感は塚本邦雄氏の「断崖」感に染まってもう離れられません。良経も、塚本氏との出逢いがなかったら、その良さを知らずに通過していたでしょう。

 この『夕暮の諧調』は、塚本氏にすっかり虜になってしまった頃購入したものです。夢中になって読んで、「こんな凄い本は他にない!!」とばかりに燃えました。昨日、久々にこれを取り出して、ぱらぱらと拾い読みしたら、面白い箇所がありましたのでご紹介させていただきます。それは、「紅葉非在」という章の中にありました。

 氏は、なんと、数名の親しい友人の方に、「新古今集ベスト・3」のアンケートを試みられたのです。氏も書いていられますが、これは「暴挙」です。十二巻二千首に近い歌数のなかから三首を抜き出せ・・・、なんて。

 でも、その暴挙だから、楽しいですよね。なんか、本質が浮き出る感じで。結果として選ばれた歌人は八名。歌数は二十一首。それを列挙してご紹介させていただきましょう。

●春日井建・選
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(定家)
大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月(定家)
駒とめて袖打ち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮(定家)

●寺山修司・選
忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野べの露のあけぼの(式子内親王)
かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(式子内親王)
生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮をとはばとへかし(式子内親王)

●岡井隆・選
時鳥ふかき嶺より出でにけり外山の裾に声の落ち来る(西行)
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかり行く(西行)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山(西行)

●菱川善夫・選
風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢(俊成女)
うちしめりあやめぞかをる時鳥鳴くや五月の雨の夕暮(良経)
夕暮はいづれの雲の名残とて花橘に風の吹くらむ(定家)

●原田禹雄・選
今日もまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ(和泉式部)
風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢(俊成女)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)

●山中智恵子・選
樗咲く外面の木蔭露落ちて五月雨晴るる風渡るなり(忠良)
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの声(式子内親王)
遥かなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや(西行)

●塚本邦雄・選
夕暮はいづれの雲の名残とて花橘に風の吹くらむ(定家)
見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ(後鳥羽院)
ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ(式子内親王)

 皆様はどう思われたでしょう。この結果に対しての感想を塚本氏自身が記されていて、それも興味をそそりますが、長いのでご紹介できないのが残念です。ただ、私個人としては、「花の蹴鞠」に俊成女を登場させているところなので、菱川先生が彼女を筆頭にあげてらっしゃるところが嬉しかったです。菱川先生にはもっと生きてらして「花の蹴鞠」をご覧になっていただきたかったですね・・・。

 というか、春に発表した論文「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」は、菱川先生にこそ読んでいただきたかったんです。というのも、あの着想を得て書いた最初の原稿を読んでいただいていて、「驚きましたね。平家文化の余光のなかで、源氏物語と平家物語がドッキングし、定家と光行が見えない糸で結ばれて・・・」とお手紙をいただいていました。と書いて今更に驚きましたが、あれを書くまで定家と光行、『源氏物語』と『平家物語』が、密接に関係あるなんて、どなたもまだ知らなかったんでした・・・。(菱川先生は短歌評論者でいられる前に、国文学者でもいられました・・・)

 完成したものを見ていただけなかったのが、かえすがえすも残念でたまりません。でも、最後になったお葉書、それは今思うと力を振り絞って渾身の思いを込めて書いてくださったのですが、「必ずや詩神が天恵を与えてくれると信じています」と書いて下さった・・、それが「花の蹴鞠」で実るよう、頑張ってます!!

 菱川先生も、塚本邦雄氏も、すでに幽明界の方です。『夕暮の諧調』から思わず菱川先生の思い出に入ってしまいましたが、素晴らしいとしかいいようのないお二方の、せめてご生前に接しさせていただいたことを幸運と思っています。

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