『平家物語』が成った時代については、まだ明確な時期の断定がされていません。
『徒然草』に平家物語成立事情を記す段があって、そこに「後鳥羽院の御時」に信濃前司行長が、慈円に扶持されて、『平家物語』を作ったとあります。
兼好は鎌倉末期の人。後鳥羽院の時代は鎌倉初期です。なのでここは兼好が実際に見て知ってのことではなく、そう言い伝えられていたものを書いたのでしょう。
ずっと以前、何かの本で、「後鳥羽院の御時」というのは兼好の覚え違いで、実際は「承久の乱以後」だっただろうと、兼好のこの条を否定する説を読んだことがあります。ですので、私のなかでの『平家物語』の成立は、「行長によって、承久の乱以降、作られた」というものでした。なんとなく、あの壮大な『平家物語』が、行長というような特定の個人だけで作られるものかなあ、という不審を覚えながら・・・
昨年、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」という論文を著し、そこで『源氏物語』の二大写本とされる「青表紙本源氏物語」「河内本源氏物語」それぞれの校訂者である藤原定家と源光行二人が、若いとき平家の人たちと親密に付き合っていて、二大写本はその二人の平家の人たちを鎮魂する思いから生まれた、という内容のことを書きました。
そのとき、光行が『平家物語』の成立に関係していただろう感じにまで肉薄したのですが、私のなかでは『平家物語』は承久の乱以降の成立という固定観念がありましたので、光行の生涯を追うなかで、どうしてもその編纂に立ち会うような時間が見出せませんでした。それで、光行の『平家物語』との関係は、ただ「光行の書いた文章が編纂者によって使われた・・・」程度とあきらめるしかなかったのです。
が、目下「花の蹴鞠」という、『新古今和歌集』成立の時期にかかわる内容の小説を書いていて、その時代の年譜を作成したとき、『平家物語』編纂の場といわれる慈円の大懺法院の建立が、『新古今和歌集』成立へ向けて後鳥羽院が動き出したそのときと重なっていることに気がつきました。
それで、ふっと、ん?、これなら、光行が鎌倉を引き上げて帰洛し、『平家物語』編纂の事業に携わることも可能・・・と思いました。それで、大懺法院について書かれたものを探したとき、筑土鈴寛氏の一連のご著作にたどりつきました。「ちくどれいかん」氏とお読みします。仏教学者でいられます。
私は以前、「白拍子の風」という歴史小説を書いていて、主人公が慈円でした。筑土鈴寛氏が慈円の研究の第一人者でいらしたので、ご著作には大変お世話になりました。慈円の大懺法院については、そのときに知識を得ました。が、そのときはまだ『平家物語』に興味がなかったので、関係が書かれていたかどうかも覚えていません。ただ、今回、『新古今和歌集』の時代の年譜を作っていて、ん?、『平家物語』の編纂の場となった大懺法院の建立は?・・・と閃いたのは、その経験があったからです。
『平家物語』には、光行の叔父季貞が清盛の側近中の側近、「源判官季貞」として、何度も登場します。こんな身近な人物が登場するのに、光行が編纂の蚊帳の外というのも不思議と思っていました。が、『新古今和歌集』と同時代に『平家物語』ができたとするなら、そのころ光行は京都に滞在していますし、編纂に加わるのも可能になります。
では、ほんとうに、『平家物語』が『新古今和歌集』とほぼ成立を同じくしているか・・・、不安と期待にどきどきしながら、筑土鈴寛氏のご著作を手にしました。立川の国文学研究資料館の図書室にそれはありました。『筑土鈴寛氏著作集 第一巻』です。『第二巻』が以前参考にさせていただいた慈円研究の特集です。
目次を開いて目が釘付けになりました。「新古今集と平家物語」など、まさに思っているとおりの題名が並んでいるのです。それらをコピーして帰ってすぐに読ませていただきました。そこには目も覚めるような世界が展開していました。それをご紹介させていただきます。私の説明では心もとないし、もったいないので、筑土鈴寛氏のご文章の引用の列記にさせていただきます。
その前にまず結論を書かせていただきますと、『徒然草』にあるように、『平家物語』は後鳥羽院の時代に編纂されたのでした。後鳥羽院主導のもとで、『新古今和歌集』と並行して。それが何故、冒頭に記したような現代の学者さん方のご研究のような「承久の乱以降」になってしまったかは、浅学の私の推測ですが、現代があまりに「目に見えるものしか信じない」世の中になってしまったからではないでしょうか。文献に残っていないものは論を立ててはいけず、残っている文献だけで判断すると、「承久の乱以降」になってしまうのです。
でも、人間が見えないものでも、真実はいっぱいありますよね。見えていない世界の方が大きいかも知れません。特に平家の関係は朝敵となったしまった人たちのことですから、思っていても言えない、持っているものも隠す・・・ような状況だったでしょう。残っている僅かな文献だけで探ろうとするから誤った判断にもなるし、混迷を深めて決断できないのです。論文としてまとめるには状況証拠で書いてはいけないのはわかりますが、日本文化の根幹にかかわることは、学者さん世界の特権的なことでなく、国民全体が真実を知る権利があります。私はそれを訴えたいのです。
『明月記』に定家が「紅旗征戎非吾事」と記したために、定家はあの源平の争乱など世俗の争いを超越して文人としての孤高を守った・・・と、ずっと長く言われてきました。が、それは定家があえて書いた世をあざむくためのカモフラージュの言だったことは、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」で明らかにしました。この時代はそういう隠匿、カモフラージュが必要だったのです。
同じように、光行の編纂事業との関わりも、私は「隠匿」がはたらいていると思います。後鳥羽院・慈円といったそうそうたる中心人物が曖昧な闇に包まれてしまったように、ほぼ中心にいただろう光行も、隠れてしまっているのです。かえって、信濃前司行長のような、「ばれても」危険性のない人物の方が後世名前が残っているのでしょう。
光行と親交のあった定家が、慈円とも親しいあの定家が、『明月記』に編纂のことも、光行がそれに関わっていることも、何も記していないのはおかしい・・・、というのは、定家もこの隠匿事業の重大性を熟知していて、あえて書かなかったからに他ならないと思います。これを、現代の学者さんだったら、「『明月記』に書いてないから・・・」となってしまうのでしょうね。
人間は人間と人間という触れ合いのなかで事跡を残します。文献がなくても、心の交流として「こうあっただろうこと」「こうはありえないこと」が推察できます。そして、そういうことから、いくら文献上で結論できても、「おかしい」と思わなければならないこともでてきます。
筑土鈴寛氏が素晴らしいのは、物事を「精神」で説いていられることです。仏教学者でいられるからでしょうね。現代は学問があまりに専門に分散されすぎて、国文学の研究者の方が仏教の精神を収めていられる状況がないのではないでしょうか。たまに仏教とかかわる内容を書かれても、それも「文献」としてしか扱われないような・・・。精神で説かれた筑土鈴寛氏はこう断定されています。後鳥羽院の御世は「強くして美しい精神の時代」であり、そういう美学をもった後鳥羽院のもとで『平家物語』は成されたと。
それでは筑土鈴寛氏のご論考を紹介させていただきます。
『筑土鈴寛著作集 第一巻』「序・時代」より
後鳥羽天皇以来、国の文化が一変したことは、日本の文化を考へるにあたつて、細かい心づかひをもつて考へてみねばならぬ。日本文化の本来らしいものが、この以後に育てられてくるが、しかしそれをもつて、本来のものとみることは、後鳥羽院以後の、文化の一変といふことを念頭にせずしてなしてゐるのである。後鳥羽天皇の御代は、ちやうどそのふりわけの時期にあたるのである。
私は、この時代が、古様で美しい精神の時代であり、また困難と悲痛の時代に、これを超えようとした、強くして美しい精神の時代であつたことを、復古とおよびこのあたりの新しい思想の創造といふ点においてみたい。
新古今の成った時、大懺法院が建立され、合戦死者の回向とともに国の鎮めを祈る例となつたが、慈円のその時の歌は、上皇の鎮魂の意味で歌われてゐる。(中略)新古今は国の統一正整の象徴であつた。歌の成つた日に、国の治政は調うたのであるが、その意味で、真の美の統一の姿が現成したのである。これはまた、類ひのない形成であつた。信仰も芸術も治政も一となつて、上皇に帰せられたのである。
平家物語は、承久乱以前に成つたものである。今ある諸本には、その後の書き方で記されてゐるものがあるが、この史詩の永い成長の期間を物語るものである。
おびただしい過去の作品と、その諸形式の綜合の上に、新たなる形式によつたこの物語は、実は、永く忘れた古い代の形式の転生であつたとみられ、この時代の復古精神といふ点にも関係するかと思はれる。
相対対立の劇しかつた世、絶対のものを、移ろひ易い世に、不易のものを思うた時、不変の理法を誰もが思つた。さうした不動のものをせつに願つた時である。(中略)新古今が成つた時、合戦死者を回向しようとした企ては、すでに歴史を超えた立場で、歴史を祭らうといふ心に発してゐる。(中略)国の鎮めを祈るときも、さうした絶対不変の思ひを歌ふ心に発したのである。かうした時期に平家が成長しつつあつたことを思はねばならぬ。無常の理に伴ふ平家の悲哀感といふやうなものは、実は宇宙的な感情に由来してゐて、この作のもののあはれの美しさは、さういふものの、ふと人の世に訪づれる、影の如きものであつたかと思へるのである。かうしたところに、平家物語の愛と詩魂との深さも思はれるのである。
鎌倉幕府の誠実さといふものは、頼朝をもつて絶えたとみたのが慈円らであつたが、平家滅亡ののち、頼朝に寄せた絶大な信頼は、道理と誠実の明かで深かつたといふことによつてゐる。(中略)想像が許されるなら、平家物語の成立は、まださうした信頼と感情とが濃厚であつた頃のものである。古武士の行動が、詩の心に感じられたのは、もう承久のころあたりには失せてゐるやうである。
大きな綜合の心と統一の意志とがあつた世、前後にないみごとな叙事詩的物語は成つて、文学の形式上の綜合はもちろん、また精神的な綜合がみられるのは、やはり偉大な統一の意志が発せられた世のゆゑではなからうか。
この史詩の形式は新しい。だが、やはり古風なものとともにある新な精神によつて成つてゐる。伝統の上の創造の意志が溌剌として働いた時期である。上皇の御意志にそれをみ奉るのである。
新古今の詩と、平家物語の詩と、全く別様のものが同じに存した時代、英雄の心に溢れ、詩精神の高い時代であつたといふ点で、そこに異つた二つの詩が結ばれるものが存したやうに思へるのである。それ以後、かうした物語に、詩が失せてしまつたことを思ふべきである。