2010.10.2 連載小説【花の蹴鞠】 第八回

 「どうかなさいました? この頃」
と、典子がいった。
 「いや、何も」
と雅経は答えたが、典子にはわかっていた。雅経は歌で悩んでいるのだ。それを察して典子はすでに二条院讃岐のところへ行って相談していた。蹴鞠の名手として後鳥羽院に愛でられて雅経はここまできた。が、その寵臣の座が揺らごうとしている。院の関心が歌に移っているからだ。

 発端は院が歌人二十三名に百首歌の詠進を命じたことにあった。正治二年(一二〇〇)秋のことである。院に歌を教えたのは育ての親の通親である。辣腕を振るう政治家通親だが、文人としても優れ源氏物語には精通するし、歌は私邸で影供歌合を催すほどだった。のちに柿本人麻呂影供に発展するこの歌合には院も参加して育った。が、それは通親が親しい六条藤家の歌人が率いる古い伝統の歌合だったから、特別に院が熱心だったわけでない。「正治初度百首」の試みも通親らの進言によってのことだった。

 最初、そこに定家は入っていなかった。御子左家に対立する六条藤家によってはばまれていたのである。定家は建久九年(一一九八)に守覚法親王に詠進した「仁和寺宮五十首」で新境地を開拓していた。が、「大空は梅のにほひに霞みつつ曇りも果てぬ春の夜の月」「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空」を含むそれらの歌は、六条藤家の歌人らによって新儀非拠達磨歌、すなわち禅問答のようにわけのわからない歌と揶揄されていた。心情や抒情を詠む従来の歌からかけはなれた作風の歌はまだ受け入れられていなかった。詠進に漏れて定家は落胆するが、俊成が「年老いた者ばかりに限定するものではない」との意見書を院に提出して認められ参加することになったのだった。

 「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」を含む定家の百首をご覧になった院は、その鮮烈さに驚愕され、歌に開眼する。即刻定家の内の昇殿を許し、以降、院は定家と二人三脚で『新古今和歌集』への道を突っ走る。六条藤家は失墜し、通親もこと歌に関するかぎり院の信頼を失う。定家の新たな重用は、鎌倉からのぼってきて院に蹴鞠を披露し妙技に驚愕されて、寵臣として愛でられてきた雅経のそっくりたどった道だったから、今後の経緯も手にとるように想像でき、雅経が心配するのも無理なかった。院の嗜好は家臣の栄枯盛衰につながる。特に院にはそれが激しい。時代が歌一色になろうとしている。が、そうだからといって雅経が今更歌に励もうと追いつくものではない。

 雅経にしても歌を詠まないわけはない。それどころか刑部卿頼輔の名で知られる祖父は本朝蹴鞠一道之長と称されながら、一方で勅撰集に二十八首も入集する歌人である。雅経はこの祖父に蹴鞠を鍛え込まれたのであり、歌も同様であった。院からも度々歌を賜っているし、それだけの贈答ができる身ではあった。だから、よもや、自分が歌で苦しむことになろうとは夢にも思っていなかった。が、その雅経にして定家の歌はわからない。口にすれば六条藤家の歌人並になってしまうからいわないが、これが新しいのかと茫然として眺め入るばかりである。何が後鳥羽院をしてそれほどに歓喜させるのか。

 典子は讃岐に自身が思っているとおりのそれらを伝えた。讃岐は、
「形から入っていくようお伝えなさいな」
 と、余裕の笑みを浮かべて典子にいった。讃岐はすでに六十歳になっている。任子が宮中を去ったあと自身も宮仕えを止めて出家もした。そうして静かな余生に入ろうとした矢先、また讃岐は歌で現世に呼び戻された。女流歌人がいないと華がないとの院の意向からだった。新しい時代の女流はまだ育っていず、平家全盛の時代から源平の争乱時にかけて歌壇は低迷していたから、女流といえば二条院時代の讃岐たちしかいなかった。

 「歌は命がけでなければできませんでしょ。後世を弔って生きると決めた身には念仏の妨げでしかありませんわ」
 と讃岐は愚痴ったが、ふたたびはじめた作歌が讃岐を甦らせているように典子には見えた。実際、雅経も讃岐の活躍を「決して古びていない」と感嘆していた。「正治初度百首」に召された女房には讃岐の他に小侍従、宜秋門院丹後がいる。なお院には叔母にあたる式子内親王も参加しているが翌年亡くなるのでこの百首歌が最後の作品となった。新しい時代の女流、宮内卿や俊成卿女が登場するのはこのあとになる。

 「三十一文字しかない歌を工夫するには、組み方を変えるしかありませんのよ」
 と讃岐はいった。それには紙に書いた歌を五と七と五と七と七それぞれに切り分け、従来の歌の作りにこだわらずいろいろ並べ替えてみるのがいいという。
 「例えばですが、『有明の月を眺むる』という五七ではじまる歌があるとすると、それを『有明の』と『月を眺むる』に分けてみます。そうしてこれを最後にもっていくの。するとおのずと最後の七は『有明の月』となりますでしょ。これが定家殿の新しい歌……」

 典子は雅経の折をみて讃岐伝授の歌の作法を伝えた。「有明の月」を最後にもっていくだけで俄然歌が引き締まる。斬新な世界が見えてくる。雅経は目の覚める思いがした。それから雅経はその方法にこだわって、定家の歌を分解しては深奥を探り、それが身につくまで練習した。その甲斐あって雅経の歌は後鳥羽院の認めるところとなり、晴れて歌人の列に加わることができた。琵琶に秀でて雅経同様院の寵臣だった鴨長明も、やはりこの秘策をもって和歌所寄人になることができた。もちろんまだ出家していない。鎌倉にいた光行はこの潮流に乗れなかったどころか、こういう新しい潮流の起きていることも知らなかった。

 守成親王(順徳天皇・四歳)の御母でのちの修明門院となる二位殿の御産が迫っていた。典子が仕える兼子の邸が御産所となり、二位殿が移ってこられていたために、「秋のけはひ入り立つままに土御門殿のありさまいはむかたなくおかし」という『紫式部日記』の記述さながらの光景を日々まのあたりにし、典子は忙しいなかにも興奮と感動をもって眺めていた。典子もまた妊娠しており、周囲は気遣って休むよういうのだが、こんなまたとない経験を逃すのは惜しいとばかりに率先してはたらくので、すっかり強い東国女の異名をとってしまっていた。

 兼子は慈円をして「西の兼子、東の政子」といわしめた女権勢家である。鎌倉で政子に仕えていた典子は、奇しくも京で兼子に仕えることになり、いつかしら二人の女性の影響を受けて似てきていた。鎌倉幕府の重鎮広元を父にもつ典子のもとにはそこかしこから付け届けが届く。最初は雅経と二人で困惑したものだったが、断って断り切れるものでないと悟ると以後はもう気にかけなかったので、定家らにその羽振りの良さが驚異に映るほどになっていく。二位殿の御産は無事親王の誕生となり、典子もまた長男教雅を授かった。

 この年、鎌倉では安達盛長が亡くなっている。亨年、六十六歳だった。  (つづく)

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2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第七回

 正治元年(一一九九)一月、相模川の橋供養の帰途落馬して床に伏した頼朝が生涯を閉じた。あまりのことに鎌倉中が呆然自失、右往左往するなか、逸早く立ち直って政子が指揮をとり落ち着く。政子は出家し、尼御台所となっていた。京で訃報に接した雅経夫妻はとるものもとりあえず下向。葬儀には間に合わなかったが二十一日の法要に列席した。頼朝にはどんなに助けられたか。頼朝との出逢いがなかったら今の自分はない。雅経の胸には頼朝の恩恵の篤さだけが去来し、典子は雅経の泣くのをはじめて見た。

 明子もまた政子に次いで出家していた。挨拶に出向こうと思ったが盛長から拒否され、明子の失意の深さを知った。明子は甘縄の盛長邸から一歩もでず、ひたすら仏事に専念する日々という。もう以前の明子ではなく、記憶の彼方の、追憶のなかの、ただ現在もない、未来もない、まっさらな世界に生きているという。典子はここでも言葉がなかった。

 次期将軍には頼家が就いた。鎌倉に来て久々に頼家に会った雅経はそのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての初々しい若き獅子といった面影がまったく失われている。代わりにあるのは荒んだ目で人を見下すような猛々しい驕りだった。かつて兄と慕った雅経に対してでさえ、臣下の礼を尽くして臨むことを要求した。京で奔放過ぎるほどに人々に胸襟を開く後鳥羽院に接している雅経には、頼家のそれはかえって卑屈に思われた。院は前年譲位し、在子の産んだ土御門帝が三歳で即位していた。

 その前年の春、景盛は京から琴子を呼び寄せていた。景盛にとって琴子ははじめての恋だった。雅経夫妻が順調に京での生活をすべりださせたのを見届けて、盛長一家は鎌倉に戻った。その際、余程景盛は琴子を伴いたかったが泣く泣く断念した。しかし思いは日を追う毎に募り、苦悩の影は深まるばかりだった。明子にはそれはかつての頼朝と自分のすがたに他ならず、見ていられなかった。明子は盛長と相談し、琴子を鎌倉に迎え入れた。こうして甘縄に於いて景盛と琴子のささやかながら幸せな生活がはじまっていた。

 可憐な琴子の評判が広まるのに時間はかからなかった。それは頼家の耳にも達し、景盛に対する敵意を一層激しく煽った。同時にそれは琴子に対する興味でもあった。興味は執着に変わり、頼家は琴子を差し出すよう書簡をもって景盛に度々要請した。景盛はこればかりは応じることができず困惑した。このとき頼家には去年若狭局とのあいだに一幡が産まれている。

 七月に入って参河で騒動が起こり、頼家は景盛をその始末に向かわせた。景盛は頼家の真意が琴子にあるのを察し固辞したが逆らい切れずに十六日に進発した。二十日は午後から激しく雨が降り、雷鳴が轟いた。夜になってそれは上がり、明るい月夜となった。頼家は甘縄に人を遣ると強引に琴子を連れ去った。そして家臣の家に預け、日々通った。寵愛甚だしという。その後琴子は御所の石の御壺に移され、そこに出入りできるのは決められた五人のみ、それ以外は禁止という厳重警戒がなされる。

 八月十五日、景盛が参河から戻り、あまりのことに愕然とする。頼家は景盛の逆襲を防ぐ先手に、琴子の件で恨んで景盛が謀反を起こそうとしているとし、十九日、景盛を誅すべきの沙汰をだす。靡いた御家人らが旗揚げ、鎌倉中の武士が競って集結、市内は人馬で騒然となった。それを知った尼御台所政子は急いで甘縄に赴き、盛長宅に立て籠もると、人を遣わして「頼朝亡きあと幾許もないのに闘争などもっての外。殊に景盛は頼朝にとっては特別の人物。その人物を討つならこの政子をまず殺してからにせよ」と諌めた。

 二十日、ふたたび政子は盛長邸を訪れ、「昨日は一旦頼家がわたしの忠告を聞き入れたにしても、わたしももういつまでそなたを庇い切れるかわからない。そなたに野心の意はないと起請文を書いてわたしに預けなさい」と言った。ここに及んで景盛には成す術もなく政子の言に従うしかなかった。景盛の失ったものは埋めようがなく、傷ついた心の癒しようもなく、眼差しの影はいよいよ濃くなった。

 典子はことの次第を父広元の手紙で知った。広元は「こういうことは先例のないことではなく、鳥羽院が源仲宗の妻を仙洞に召して寵愛し、仲宗は讃岐に流された例があるにしても、辛くて景盛を見ていられない」と書いてきた。雅経も典子も書状を手にしたまま茫然と顔を見合わせた。典子は琴子を鎌倉に遣るのではなかったと悔やみ、雅経は頼家への杞憂が現実となったとしてもここまでひどくなろうとはと暗澹とした。

 辛い話は京にもあった。通具(みちとも)の妻妙子が通親の手で離縁させられたのだ。妙子の母は俊成の娘で、妙子が七歳の頃、夫盛頼が鹿ケ谷の陰謀に連座して離婚。妙子は俊成のもとに預けられた。定家とは叔父と姪の関係だが、姉ばかりに囲まれて育った定家には急にできた妹のようで可愛くてならずよく面倒を見た。とはいうものの妙子は定家よりも姉たちに似てしっかり者で、成長すると十歳近く年が違うのに定家の方がやり込められていた。その妙子が離縁させられたのである。定家は通具を恨んだ。

 権謀家の通親により次に通具は土御門天皇の乳母按察局(あぜちのつぼね)と再婚させられた。通具は優しい男だった。妙子もそれを知っていたから、父親に逆らえない通具の決断を受け入れた。俊成の家で定家とともに歌に明け暮れ、歌を通して早くから人生を見てきた妙子は、耐え忍ぶことが女の真価ということを知っていた。『源氏物語』にも精通して育った。そのために妙子は通具を客観的に見ることができ、人が思うほど自身を不幸と思っていなかった。通具が後ろ髪を引かれるようにして離婚し、新しい伴侶を得ても妙子を忘れずにいることが信じられたから、それで良しとする肝が据わっていた。

 時々このときのために歌を学んできたのだと思うほど、妙子は自身の運命を見通していた。宮中で通具に会って帰宅した定家が怒りを吐き出すと、逆に妙子はそういう境地を説明してなだめた。定家には歌は作るものだった。目に浮かび、心に思うことを言葉にすることだった。しかし、妙子は違った。歌はみずからがどう処世していくべきかを教える生きた指針だった。妙子は歌に女の一生を学んでいた。古来女は待つことをのみ詠い、詠うことで苦しみを昇華させた。妙子は今度は自分がそれをするのだと思っていた。

 典子には妙子の深い思いの知る由もなかった。ただ明子とともに訪れた日の通具夫妻の円満だった姿を思い、ひどい、と憤った。定家が内の昇殿を許されるのは翌年だから、院の寵臣雅経とはまだ別世界にいた。雅経にとっては定家よりも通具の方が毎日顔を合わせる親しい仲だったから、仕方ないと通具を擁護した。すると典子は、じゃあ、雅経様も誰かがもっと力のあるお方に乗り換えなさいと言ったら、わたしを離縁なさるのですか、と詰め寄った。雅経はその迫力にたじたじとし、断じてそんなことはないと言った。典子はそれでも気が治まらずに雅経に起請文を書くよう言い、それで済むならと雅経は書いた。それを聞いた通具は寂しく笑って羨ましがった。こののちしばらくして曹洞宗の開祖道元がこの世に生を受けるが、父はこの通具ともそうではなく通親ともいわれている。
 後鳥羽院率いる『新古今和歌集』時代の幕開けは翌年に迫っていた。(つづく)

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2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第六回

 建久八年(一一九七)二月四日、雅経と典子は鎌倉を発ち、二月十九日に京に入った。駿馬十二疋をはじめとする後鳥羽天皇への献上品を頼朝が揃え、その守りに盛長を付けてくれたために、一行はものものしい行列になった。しかし、中に盛長妻の明子と子息景盛が加わっていたので典子は安心できてかつ楽しかった。本来なら母親が同行するところを、広元の意向で明子が付き添うことになったのである。十四歳になっていた景盛(かげもり)は経験のために両親が伴った。もちろん陰で頼朝の意がはたらいている。落ち着き先はかつての雅経の住居で荒れ果てていたのを通親(みちちか)が手配して整えていてくれた。現在白峯神宮が建っているその地である。

 景盛が付いてくると決まったとき、雅経は頼家を心配した。雅経は頼家の景盛に対する異常なまでの敵愾心を知っていた。腹違いの弟である。その弟に対して自分は京へのぼったことがある、お前はないだろう、というような見下した態度をとることがあるのを雅経は見ていた。二年前、東大寺再建落慶供養に上洛したとき、頼朝は政子ともども大姫と頼家を伴っていた。その権威が損なわれてしまうのだ。果たして頼家は怒り、それを察して雅経は常以上に蹴鞠の相手に時間を割いた。雅経は自分が上洛したあと誰が頼家を助けてやれるかそれが気がかりでならなかった。

 入洛しての翌日早々、後鳥羽天皇から参内して蹴鞠を披露するようお達しがあった。しかしさすが旅の疲れでそれは無理とお断り申し上げた。再三のお召しののち、二十五日にはじめて雅経は参内した。装束や車の手配も自らの猶子の上洛として頼朝がすべて仕切り準備万端整えていた。供には盛長が従い、謁見の場でも傍に控えていた。兄宗長はすでに伊豆から戻っていて、上鞠を務めるなどひと足早く蹴鞠で復帰していた。その日見せた雅経の華麗な技は帝をして感嘆せしめ、一躍雅経は寵臣となった。

 典子は明子に付き添ってもらい、範子に挨拶すべく通親邸に行った。雅経上洛を促す御教書は範子によって発せられていた。範子は父親が早く亡くなったために妹の兼子と二人叔父の藤原範季によって育てられた。範季が後鳥羽天皇を養育していたからおのずと姉妹は乳母となった。範子は最初清盛の妻時子の異父弟にあたる能円と結婚し、在子という女子をもうけていた。しかし能円が平家の都落ちに従ったとき離縁して都に残り、通親と再婚したのである。在子は通親の養女となり、後鳥羽天皇妃となって土御門天皇を産むと、通親は外戚としての地位を確立した。雅経が上洛した年、後鳥羽天皇は十八歳で、土御門天皇は二年前に産まれている。妹の兼子も後鳥羽天皇女房となって仕えていて、典子は宮中に出仕して兼子のもとではたらくことになっていた。

 後鳥羽天皇は父帝高倉院と二歳のときに死別している。のみならず平家全盛の時代にあって兄安徳天皇にのみ世は靡き、帝位につく可能性のない四の宮は忘れられた存在だった。しかし乳母の夫となった通親は誠意をもって養育にあたり、四の宮も父同然に信頼し切って成長した。和歌の嗜みも文人政治家通親の手ほどきである。その関係は帝が定家と出逢い、新しい作風の和歌に目覚めると同時に主体性をもつ新古今前夜まで続く。

 典子にとってはじめての都は見るもの聞くもの興味津津の連続で毎日が楽しく嬉々として飛び回っていた。明子も、
「わたしが付いて来なくても大丈夫でしたね」
と言ったほどだった。通親邸でも典子は臆することなく堂々と接し、通親夫妻や同席していた兼子に好感をもたれた。逆に典子にはこういう高官の前にあっても風格どころか優艶さにおいて引けをとらない明子が驚きだった。しかもそれが兼子のような女性をさえ引き込んで魅了している。明子のようには絶対なれないと、改めて典子は感嘆した。

 平家全盛の時代、通親のもとでは光行がはたらいていた。福原に都を造るときには通親采配のもと、光行が丈尺をとった。以来光行は通親家に親しむ。何かの拍子で範子の口からその光行の名前がでた。すると突然典子が、
「光行様ったら、何につけても『源氏物語』『源氏物語』なんですの。なのに、蹴鞠は少しもお上手でなくて」
と、不平たらたらの様子で言ったので、通親をはじめ一同が笑いこけた。範子は、
「まあ、あの光行が。蹴鞠を……」
と、唖然として言ったので、かえって典子が不審がって、
「光行様と蹴鞠って、おかしいのですか」
と問い返すと、
「そうね。さもお似合いとは言えませんわね」
と、また笑いこけた。        

 そこに子息の通具(みちとも)夫妻が訪ねてきて話に加わった。通具は通親の先妻の子ですでに成長して一家を成している。妻の妙子は後年俊成卿女の名で歌人として知られる女性だが、このときはまだ通具の妻として平穏な日々を送っていた。俊成の娘とはいうものの実際は孫で、定家には姪にあたる。典子には兼子や明子といった女たちの前で、妙子は如何にも目立ちそうにない大人しやかな女性に思われた。
「ご立派な方たちでした。鎌倉よりずっと楽しくていいですわ」
と、帰宅して典子は雅経にそう報告した。

 典子に自宅で人を迎える経験をさせる意味もあって、明子が雅経邸へ以前二条天皇の宮廷に仕えていたときの同僚讃岐を招いた。車で乗りつけた讃岐を降ろすところから明子が手本を見せるようにして出迎え、讃岐もことの次第を承知で、面白半分宮中の南庭さながらに演じて見せたりした。明子が鎌倉に下ったあと、讃岐は九条兼実の娘の任子に仕えた。当時通親と兼実は熾烈な権力争いをしていた。任子が入内すると通親も養女在子を入内させた。ほぼ同時期に二人の妃は妊娠。そして任子が産んだのは皇女で、在子が産んだのが土御門帝ということで、通親が外戚としての地位を獲得。兼実は失脚し、任子は宮中を追われた。それが去年のことだったから讃岐の語る話は生々しく、任子への同情とともに苦渋に満ちていた。通親邸でのひとときが楽しかっただけに、その裏にこういう悲劇があったのかと典子は慄然とするとともに京の怖さを知った。

 典子は身の回りの世話をする役として琴子という可憐な少女を傍に置いた。その琴子に景盛が恋した。景盛には眼差しに深い影がある。その眼差しが一層濃くなっていた。
「景盛様は、薫ですわね。生い立ちが複雑だからでしょうね。薫も仏道に志深かったでしょ。あの若さであの思慮深さは普通じゃありませんわ」
と言った。雅経は一回読んだだけの『源氏物語』を典子がそんなふうに理解できていることに驚いた。男とは違う感がはたらくらしい。精通しているはずの光行や自分より余程しっかりと人間関係を見据えた発言を折に触れする。この頃では雅経は内心典子に舌を巻いていた。   (つづく)

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2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第五回

 盛長に嫁したとき、明子は妊っていた。そして産まれたのが景盛(かげもり)である。頼家にとっては二歳下の腹違いの弟となる。聡明な政子は頼朝と明子の愛の質を知り、また景盛の資質を見抜いて自分の入るべき筋合いでないことを悟り、自身もまた頼朝の心に沿って彼らに接することを固く決意すると、以来終生それを崩さなかった。

 頼家は父時政に似ていた。北条の血を継いでいるのである。それに対して景盛は伊豆に流されてきた当時の頼朝だった。明らかに源氏の血を継いでいる。政子は頼朝を愛していた。誰にも犯すことのできない棟梁としての気品を備えた頼朝に心から惹かれていた。それを景盛は備えて産まれたのである。政子は我が子ながら頼家に失望し、ひそかに景盛に対し頼朝にもつのと同じ信愛の情をもった。頼家はそれを感じて育ち、景盛を憎んだ。後年、景盛の愛妾を頼家が奪う事件が起きるが、その背景にはこのような兄弟間の事情がある。そのときも政子は景盛を気遣い、頼家を責めた。

 政子が頼家を懐妊していた寿永元年(一一八二)、頼朝は亀の前という女人を囲った。前年伊豆を訪れた際に見初め、呼び寄せたのである。人目をはばかり御所から遠い小窪という地に住まわせた。現在の逗子市である。臨月に入った政子が比企尼邸に移るといっそう繁く頼朝は通った。政子がそれを知ったのは御所に戻ってからで、時政の後妻牧の方の告げ口による。政子は怒り、牧の方の父宗親に亀の前が身を寄せている家を襲撃させた。頼朝は激怒し、宗親を召し出すと自らの手で髻を切り落とすという恥辱を与えた。今度は時政が怒り、牧の方をはじめ一族郎党ともども伊豆へ引き上げてしまった。その頃明子はすでに鎌倉に下って政子に仕えていたから事の始終を見ていた。頼朝をよく知る明子はさもあろうと達観しながら、出産という大事を乗り越えたばかりの政子を労わったので、政子も明子に感謝しつつ信頼した。

 寿永二年(一一八三)七月、都では平氏一門が安徳天皇を奉じて西国に都落ちするという非常事態が起きた。京中が大混乱に陥るなか、八月には高倉天皇の第四皇子が践祚する。四歳の後鳥羽天皇である。そして木曽義仲に平氏追討の宣旨がだされ、あれほど栄華の絶頂を極めた平氏一門が今は朝敵となって運が尽きようとしているという。これらの報を頼朝にもたらしたのが三善康信だった。彼は母が頼朝の乳母の妹だったために、明子同様頼朝と少年期をいっしょに過ごして育った。七歳年長だったから、頼朝にとっては兄のような頼れる存在だった。明子との関係も康信が時にかばい時に便宜をはかったから無事くぐりぬけたのである。頼朝への忠誠は伊豆に流されてからも続き、源氏追討の沙汰を急報したり、清盛の死去など京の情勢を逐一知らせていた。

 頼朝は伊豆で十四歳から三十四歳までの二十年の歳月を過ごした。その間清盛は太政大臣にまで昇りつめ、娘の徳子が高倉天皇の中宮となって安徳天皇を産むと晴れて外戚となった。かの道長に匹敵する望月の欠けたることのなしと思えばといった勢いの清盛。それに比しての我が身を思うと暗澹たる心地に陥らないことはなかった。二度と浮かび上がれないかもしれないという不安が離れることはなかった。その一門が滅びようとしている。鎌倉に幕府を開き棟梁となって安定したといっても、京に一門がはびこる限り頼朝に真の勝利はなかった。その勝利を頼朝はつかんだのだ。

 しかし頼朝の心は浮き立たなかった。そのときがきたら如何に万感の思いが湧くかと想像していた感慨に浸れない。何故だろう。書状を携えた使者や居並ぶ御家人たちの手前その場は鷹揚に構えて対処してみせたが、内心頼朝は戸惑っていた。そして、その夜、頼朝は寝付けなかった。

 その夜、明子もまた寝付けないで、御所の内の与えられた局で一人過ごしていた。夜は更けて邸内はすでに寝静まっている。鎌倉に下る話があったとき、明子はすべての思いを封印した。私は頼朝様とは違うのだ。私はただの乳母の子。あの頃は幼かったから身分の違いも知らずに愛し愛され無邪気に戯れていた。でも今や頼朝様は東国の大将。たくさんの女子も知っておられる。頼朝様は変わっておられるだろう。私はお仕えする身の一人に甘んじるのだ。今更再燃すべくもない愛を断じて望んではならない。その覚悟で明子は下向した。

 平氏一門都落ちの報が明子の気持ちを砕いた。平氏によって二人は引き裂かれた。その平氏という間にはさまっていたものが取り払われて、明子の心に甦ったのは頼朝と過ごした時間の最後の最後だった。今の時間が引き裂かれたときの時間と直結したのだ。伊豆に流されていくことが決まったときの絶望。見送ったときの悲しみの絶叫。泣いて泣いて泣いて過ごした苦悩の日々……。

 逢いたい。かつてのように親密に二人だけで話したい。話して話して失った日々を埋めたい。そうではなく、抱かれたい。かつてのようにむさぼり合いたい。今すぐ……。明子の肉体の内側から熱く激しい欲求が突き上げていた。

 そのとき背後に衣ずれのような人の気配を感じて明子は振り返った。そこに思いもかけず頼朝が立っていた。立って食い入るように明子を見下ろしている。頼朝の目もまた明子を求めていた。頼朝にもわかったのだ。平氏によって失われたものは源氏の棟梁としての未来ではなかった。明子という自分の生の拠って立つ基盤そのものを失ったのだ。何よりも一番に取り戻さなければならないのは明子だった。それが叶ってはじめて長かった孤独が癒される。思いがそこに至ったとき頼朝の足はおのずと明子の局に向かっていた。

 言葉はもういらなかった。頼朝は両手で明子を抱き寄せると深く深く包み込んだ。懐かしい匂い。懐かしい温もり。求めていたもののすべてがここにある。もう二度と離さない。いや、離してはならない。頼朝は固く決意した。明子のなかに入ったとき、これほどまでの安らぎがあったかと身震いした。失ったもののすべてを取り戻した思いがした。こんなにも愛おしい女。この女のためになら自分は何を失ってもかまわない。武家の棟梁としての地位もいらない。こんなふうに思ったことが未だかつてあっただろうか。この女への愛は次元が違う。これまでの誰とも比べようがないほどこの女は大切だ。と、次から次へと思いが湧き、そして満ち、溢れ、感動が全身を貫き、その夜二人は終わりのない抱擁を重ねた。力が尽きて顔を見合わせたとき、二人は互いの目に究極の満足ともいうべきものが広がっているのを見た。外はしらじらと夜が明けはじめていた。

 鎌倉に下向した雅経が頼家に蹴鞠の指南をすることになったとき、景盛は十二歳の少年に成長していた。頼家が嫌がったので蹴鞠に加わらなかったが、雅経にも景盛がただの家臣の子でないことは察しがついた。立居振る舞いに凛とした風格のようなものがあった。頼家が雅経を慕ったので御所で景盛と接触することはなかったが、盛長の家に行くようになって自然親しくなった。雅経や典子の前で明子と景盛母子の仲睦まじさは微笑ましく、自分たちも子供をもったらあのように育てたいと話し合ったりした。 (つづく)

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2009.8.31 連載小説【花の蹴鞠】 第四回

Sakuratopa_2
 安達盛長妻の明子は、後年比企尼と呼ばれることになる母親の泰子が頼朝の乳母だった関係で、頼朝とは姉弟のようにして育った。のみならず明子が少し年長だったから泰子を真似て、さながら自分が母親ででもあるかのように、おしゃまな女の子特有の使命感をもって頼朝に接していた。

「明子が一生守ってさしあげる」
 それが幼いころからの明子の口癖だった。遊ぶときもいつも頼朝が困ることがないか気を配ったし、頼朝がころんだりするとさっと駆けつけて世話をした。それで武士の子として厳しく躾けられ、棟梁としての風格をもつよう育った頼朝だったが、明子にだけは心を許し年相応に無邪気に甘えてみせるのだった。

 例えば四、五歳のころ、泰子はよく二人を連れて清水の観音様の参拝に出向いたが、本堂にのぼる長い坂道の途中になると必ず頼朝は「もう歩けない」とぐずりだし、すると明子が「しようのない鬼武丸さま。明子がおんぶしてさしあげる」としゃがんで背中を向ける。頼朝はいそいそと明子の首に手をまわしておぶわれた。鬼武丸が頼朝の幼名である。ふだんは厳しい泰子も、明子にだけは弱みをさらけだして甘える頼朝が微笑ましく、黙って見ていた。

 その清水寺に頼朝が三歳のとき泰子は参籠した。二十七日後、霊夢のなかでお告げがあり、忽然として二寸の銀の正観音像を授かった。泰子はそれを「これは貴方様をお守りするみ仏です。生涯肌身離さずお持ちくださいますよう」と頼朝に与えた。頼朝はそれを忠実に守り、平治の乱で捕えられ清盛に処刑されそうになったところを池の禅尼に助けられたのはこのみ仏のお陰と信じた。しかし、治承四年(一一八〇)、以仁王の令旨を得て挙兵したものの石橋山の合戦で敗れたとき、結いこんでいた髻(もとどり)のなかからそれを取りだし籠った岩窟の奥に置き去った。死を覚悟した頼朝の、首をかかれたときみつかって敵に神仏にすがる女々しい奴と侮られないための配慮からだった。これは後に探し出されて無事頼朝の手元に戻っている。

 頼朝は終生信心深くいたが、それにはこの泰子の影響が大きかった。泰子は頼朝のためなら命をかけていたし、伊豆に流された頼朝に二十年間仕送りをつづけ支援したのも泰子だった。明子はそういう母親のもとで育った。とはいうもののそこは幼い子供どうし、互いの体の違いに興味をもつのは自然の成りゆきで、いつしか二人は厩の蔭に隠れて睦み合う仲になっていた。
「鬼武さまのここ、ぷにゅぷにゅしてちっちゃくて可愛い」
と明子が言い、それから着物の裾をひらいて下腹部を出し、
「ね、わたしのここに当ててみて」
と誘うと、頼朝は恥ずかしそうに従った。最初はそうした他愛のないただの遊びではじまった行為だったが、頼朝が伊豆に流されることが決まった十四歳のころにはすでに二人は大人の関係になっていた。伊豆の流刑は二人にとって永遠の別れと思われた。

 頼朝はその後伊豆で政子と出逢い結婚する。明子は二条天皇のもとに女房として出仕し成人する。が、思いもかけず二条天皇の早い譲位、崩御にあって宮中をさがり、後白河上皇に仕える惟宗広言に嫁して忠久をもうけた。後年、明子とともに鎌倉に下り頼朝に仕えて薩摩国の守護に任じられ、島津家の祖となる人物である。

 明子が出仕した二条天皇の宮廷には、のちに「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」と詠んで「沖の石の讃岐」の名で親しまれることになる二条院讃岐がいた。源頼政の娘で明子より数歳上。頼政が歌人として秀でていたからその血を引いて讃岐もまた歌の上手だった。

 この讃岐が四十年を経たのちふたたび出仕することになるのが後鳥羽院仙洞で、『新古今和歌集』成立に向けて異様な熱気に包まれるなか、讃岐は新しく台頭してきた若手の女流歌人、俊成卿女・宮内卿らに引けをとらない活躍をする。後鳥羽天皇に蹴鞠の腕を買われて上洛した雅経だが、院の関心の歌への移行とともに雅経も歌をやらざるを得なくなり、讃岐とも親しく交わることになる。

 頼朝は幕府を開いて落ち着いたとき、武蔵国比企郡にいた泰子を鎌倉に呼び寄せた。泰子の夫は比企の代官で、頼朝が伊豆に流されたあと夫婦は領地に下り、そこから泰子は二十年間頼朝を支援しつづけたのだった。すでに後家になって比企尼と呼ばれていた泰子に頼朝は材木座のとある谷戸(やと)を与えた。以後この地は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれるようになる。現在、妙本寺が建つ地である。

 鎌倉に来て比企尼が驚いたのは幕府を開いたとはいえ、文化の香りの何もないことだった。頼朝を取り巻くのは何かといえば大声で怒鳴り合うむくつけき田舎武士の集団ばかりである。京に育った頼朝がどんな思いを抱いているか、誰よりも頼朝を知る比企尼には胸の潰れる思いがした。のみならず御台所の政子である。気質はいいし大器の器の持主であることは認めるが、鎌倉主の御台所としてあまりに品位がなさ過ぎた。比企尼は京から明子を呼ぶことを頼朝に進言した。

 頼朝は明子の名を耳にした途端、世界が変わったことを知った。それまで何をして生きてきたのか何も思い出せない、何も考えられない状態に陥った。如何に自分が長く孤独に一人で生きてきたかだけが思われた。二度と会えないと思っていた女人……。頼朝にとって明子はこの世で誰よりも大切な女人だった。優しい姉であり、母親のようであり、初恋の人であり、初体験の相手であり、すべてだった。今後どのような女人と巡り合うことがあろうと、明子にだけは終生思いが変わることのない……、そういう女人だった。

 じきに明子が広言と別れ忠久を連れて下向してきた。宮中の女房経験をもつ明子の存在は、鎌倉中の誰しもの目をみはらせた。これが京というものかと文化の神髄を人々はまのあたりにする思いだった。人目をはばかっての手前、頼朝と明子はかつての関係の片鱗も見せなかったが、二人には同じ空気を共有しているだけですべてを分かり合っている安堵があった。明子は政子に仕えて丹後局と呼ばれる。

 しかし人は一度封印した思いを解いたあとは、二度とふたたび封印するなどできはしない。いつしか二人はまた愛し合うことになり、政子の知るところとなる。が、伊豆の流刑時代の比企尼の貢献を見ている政子は、明子に対して単純に嫉妬したり非難することもできず、苦しんだ。それを知って頼朝は明子の政子への出仕を止め、盛長を呼ぶと、
「丹後局を預ける」
と言い渡した。盛長はすべてを察し、
「畏まりました」
と答えた。明子は盛長の妻となり、甘縄の盛長邸に移った。そしてそこに時折ごくごく内輪に頼朝が訪れ、盛長はそれを受け入れた。(つづく)

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2009.8.29 安達景盛は頼朝のご落胤?・・・『保暦間記』をコピーしてきました!

P1070024_2 連載中の小説【花の蹴鞠】の第4回が載っている歌誌『月光』が届きました。隔月刊ですので偶数月毎に載ります。そうしたらこのブログに転載することにしています。

 【花の蹴鞠】は飛鳥井雅経・典子夫妻の生涯を追う予定ではじめました。それで、知り合って結婚してという鎌倉での状況を書き終わり、蹴鞠の腕を買われて後鳥羽天皇に京へ召される・・・というところまで書いたのが第三回でした。なので、第四回はもう上洛して後鳥羽天皇にお目もじ・・・を書く予定でした。

 が、どういうわけか筆が進まず、若い夫妻の面倒をみる安達盛長・明子夫妻に筆がこだわって、とうとう、第四回は盛長・明子夫妻が主人公みたいになってしまいました。

 というのには理由があって、これからもうずっと先のことになりますが、夫雅経に先立たれた後、典子は明恵上人に帰依します。その間をとりもったのは安達景盛(かげもり)という盛長・明子夫妻の子息ではないか・・・というのが私の設定です。

 景盛は実朝が暗殺されたときに出家して覚智となり、高野山に籠ります。そして明恵上人と親交を結ぶのです。典子が盛長・明子夫妻との縁から、京で覚智と親交をもつようになったとしても不思議はないでしょ!

 それで、雅経夫妻が上洛する頃はまだ景盛もまだ少年で親交もなにもないのですが、ゆくゆく重要人物になる景盛の生い立ちを書いておくのも必要かも・・・といった背景が第四回にはありました。それで、比企尼の長女の明子(仮名です)を追って書いたら、乳母の子だから、頼朝とは姉弟のようにして育ったことは容易に想像でき、それを書いていたら、では、伊勢物語の筒井筒のような関係もあって不思議はない・・・と発展し、とうとう、頼朝・明子の初恋同士の関係からはじまる生涯の恋・・・に結論がいってしまいました。

 というのも、頼朝の盛長妻に対する不思議な熱意は『吾妻鏡』に実際書かれているのです。例えば明子が病気になったときの頼朝の心配、回復したときの安堵・・・が、あの歴史書たる『吾妻鏡』に「なぜ?」といった感じで記録されているんです。頼朝が泊りにいった・・・とか。

 安達景盛の頼朝ご落胤説は『保暦間記』に書かれています。保元(1156)から暦応(1339)に至るまでの間の歴史書です。保元の乱から後醍醐天皇の死去までだそうです。ここにご落胤説があるのは有名なのですが、誰も半信半疑。安達一族の箔をつけんがための虚飾・・・みたいな感じで、今まで誰も事実として認めてはいないようです。

 が、【花の蹴鞠】第四回で、頼朝・明子の関係を、幼少時から、後年の『吾妻鏡』の記載に至るまでをずうっと追ってみたら、景盛は頼朝の子以外はあり得ない結果になってしまいました。明日、ブログにアップしますので、詳細はそちらをご覧ください。

 で、私も今まで『保暦間記』を信じていなかったし、読もうとすら思わなかったのですが、これは読んでおかなければいけないという気になって、今日、立川の国文学研究資料館に行って、コピーしてきました。そして、どこにそれが書かれているか探して、ありましたのでご紹介させていただきます。

 泰盛が嫡男、秋田城介宗景と申しけるが、驕りの極みにや、曾祖父景盛入道は右大将頼朝の子なりけるなればとて、俄かに源氏に成りにける。
(『校本保暦間記』から現代仮名遣いに直しました。)

 これは安達泰盛が平頼綱によって滅ぼされたときの原因を書いた文章です。頼朝の血を引く一族だからと、宗景が源氏の姓を名乗ったのを、頼綱によって「将軍になろうとする謀反の意思」とされ、霜月騒動となって安達氏が滅びるといった経緯です。

 ご参考までに安達家の系図を書かせていただくと、「盛長―景盛―義景―泰盛―宗景」となります。義景の妻に雅経・典子夫妻の娘がなっています。が、泰盛の母ではなくて義景には別に正妻がいました。このあたりもいずれ【花の蹴鞠】に登場させます。安達家で蹴鞠が盛んだったのは、こういう縁戚関係があったからでした。

 『保暦間記』の話は今まで聞いてはいましたが、ほんとうに私も軽く聞き流していました。でも、頼朝・明子の関係を掘り下げた今、たったこれだけの短い記述が、短いゆえに揺るぎなく、当時の人には周知の事実だったろう真実に思えました。有り得たなんていう話ではなく、いとも自然に書いている文章にしか感じられないのです。

 後世の人はとかく権威付けのための虚飾と貶めがちなのは、源光行を追っている事例で経験しています。光行のような地下の役人に、後徳大寺実定や後京極良経のような中央のそうそうたる人脈があるはずがない、だからこれは子孫の箔付けのための虚飾・・・。これが従来の考え方でした。

 でも、執筆中の『紫文幻想ー源氏物語写本に生きた人々ー』で光行を追っていたら、光行は平家文化圏の中で育っていますから、若いときからこういう人脈の下で働いていたことが判明。決して不自然ではなかったのです。

 どうして後世の人は身分が低いと歴史書に書かれているのに信じないで貶めるのでしょう。私は光行の場合と同様、今回も、頼朝・明子の関係を年譜をつくって追っています。年譜は嘘をつきません。それで、景盛の生まれる原因となる関係のあった年まで推測ができました。それは第五回にまとめます。(景盛は没年は明確に記載されていてわかるのですが、生年未詳。没年の記事に母が丹後局ということも明確に記されています。)

 不思議なことに、その、頼朝・明子の関係を記した記事があるはずの部分の『吾妻鏡』は欠落して存在しません。こんなところに、もしかして故意の削除が?・・・なんて思ってしまいました。

■写真は稲村ケ崎の下の岩場。遠くに江の島が見えています。

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2009.4.29 連載小説【花の蹴鞠】 第三回

Sakuratopa
 建久八年(一一九七)正月七日、京から飛脚が来て雅経に後鳥羽天皇の御教書をもたらした。そこには至急上洛せよとの仰せが書かれていた。十二月二十七日付で一条高能(たかよし)の判があった。頼朝の甥で、前年九条兼実が失脚して後、政権の中枢を一手に担うようになった源通親(みちちか)のもとで参議となった人物である。伏し拝みながら雅経は驚愕を禁じ得ず、茫然とするしかなかった。そこを決然として即刻行くべしと勧めたのが頼朝だった。事態はそれしかなかった。

 十一日、再び内裏より御教書が届いた。今度は後鳥羽天皇の乳母刑部卿三位局、すなわち通親の妻範子からのものだった。そこには早く上洛するべしとあった。事態は緊急を要していた。雅経は決意し、典子にそれを伝えた。広元女典子はさすが肝が据わっていて動じなかった。即座にそれを受け入れると同時に、自分も伴うよう雅経に伝えた。雅経はそこまでは考えていず、落ち着いたら呼び寄せるつもりでいたが受諾した。

 この年、後鳥羽天皇は十八歳。譲位一年前のことだった。雅経の一行が鎌倉を発つのは二月四日。入洛は十九日である。それまでの日々の慌ただしさは、典子をして渦中にありながらとうてい他人事としか思えないほどだった。準備に典子は自分が何をしているのかわからないほどあらゆることをこなしつつ動き、体が幾つあるかわからないくらいだった。

 雅経は気が晴れなかった。すでに鎌倉の生活に馴染んでいる。下向してすぐだったら栄光の思いいっぱいで飛びついただろう。雅経には頼朝という人物のもとを離れてはいけない思いが多分にあった。それは頼朝のなかにある鎌倉の主という悲哀を少しでも自分が埋めてさしあげているという感覚だった。都人雅経は、折にふれて感じる鎌倉の御家人たちの粗雑さに頼朝が密かに抱いている悲しみを見ないわけにいかなかった。蹴鞠がどれほど頼朝を慰めているかを雅経は知っていた。しかしその頼朝が率先して自分を送り出してくれようとしている。頼朝という人物の深さに改めて雅経は心打たれていた。

 さらに雅経は自分を兄同然に慕ってついてくる頼家を心配した。生き生きとした未来が開けようとしているその矢先、突然指針を失うことになる少年頼家……。この雅経の杞憂は現実となる。後年将軍となった頼家が蹴鞠ばかりに身を持ち崩して糾弾されることになるやる気のなさはここにはじまるのである。

 が、非情にも出発の日はみるみる迫る。そんなある夜、光行が訪ねて来た。上洛される前に『源氏物語』のなかで蹴鞠について書かれている部分の不審を質して置きたいというのである。こんな忙しいときに幕府の急用ならともかくと典子はあきれた。だいたいに典子は光行という人間を解せないでいた。同じ京からやってきた人間でありながら雅経のような鷹揚さが光行にはない。口を開くといつもしかつめらしい歌や漢籍、『源氏物語』である。広元は娘に嗜みとして『古今和歌集』を与えていたが典子が身を入れたことはない。

「『源氏物語』って何ですの?」
雅経がよく光行を伴って帰って酒肴の支度をさせるので、典子も同席する。そこに度々『源氏物語』の話が出るのであるとき典子は雅経に訊いた。それは物語なのだが、主人公が帝の子でありながら臣下に下って源氏となった光源氏という男で、その男の華麗な恋愛絵巻を描いたものだと雅経は答えた。
「そんな物語に光行様がどうしてあんなにご執心なさるのかわかりません」
と典子が内心の不服を抑えつついうと、雅経は、
「舞台が宮中だから、光源氏という男が宮廷でどう行動したかが細かく描かれていて、出仕する者の規範になるのだよ。なにしろ宮中はしきたりの世界だからね」
と答えた。

 雅経は『源氏物語』は実際に中宮に仕えた女房の手で書かれたから人間関係の機微にも詳しいのだと典子に教えた。だが古い物語だからすでにわからなくなっている習慣や有職故実が多く、光行はその解明に励んでいるという。そして、
「貴女も都に行ったら宮中にあがることになるだろうね。そうしたら何よりのお手本になるから読むといい」
と付け加えた。

 そのときは実感なかったが、上洛が目前に迫っている今、雅経の宮中にあがることになるという言葉が俄然真実味を帯びて浮かびあがってきた。雅経は典子に読ませたいからと光行から『源氏物語』五十四帖の冊子を貸り、出発までの限られた時間のなか、夜を徹してほとんど血眼になりながら典子は『源氏物語』を読んだ。

 このときの雅経と光行の関係では歌や教養は光行で、雅経は蹴鞠の人だった。光行は幼少にして漢籍を学び、十代のころから歌才を認められ、寿永元年(一一八二)成立の『月詣和歌集』では雅経の祖父頼輔と並んで歌人として名を連ねている。雅経はそれを知っているから公卿と侍の身分を超えて光行を敬っていた。しかし雅経は上洛することで後鳥羽院のもとで『新古今和歌集』旋風に巻き込まれ、撰者にまでなっていく。鎌倉に残った光行は新しい時代の歌風に乗り遅れるのである。

 上洛には盛長が付き添うことになっていた。頼朝がなにくれとなく気配りしてくれて、後鳥羽天皇に献上する馬や装束など数々の品まで調えてくれた。そして盛長を付けてくれたのである。それで典子は自然甘縄に行く機会が多くなり、二条院に仕えたことのある明子は実の母親以上に頼りになった。
「そう、『源氏物語』を読んだの。それはよかった……」
と、明子が言った。
「で、どう思った? あの物語を」
「どうって……。あまりに驚いてしまってまだ何も感じられません」
 正直に典子は答えた。ふふ、と明子は微笑んで、
「都へ行ったらあんなものではないわ。光源氏の君はまだ真面目」
と言った。

 典子は唖然とした。そしてふと以前そんなばかなと一笑に付した噂話を思い出し、もしかしたら噂ではないのかもしれないと思った。それは頼朝が何度も甘縄の盛長邸を訪ねるのは明子が目当てだというものだった。そういう目でみれば明子の妖艶さにあの頼朝様が惹かれないはずがない。いくら盛長の妻ではあってもそれはあり得る……。『源氏物語』を読んだことで、典子は自身の見る目が変わったことを知った。不思議な気がした。するとそのとき、明子がそっと典子の顔を両の手で挟み、
「わたしをご覧なさい」
と言うと、典子の唇に自身の唇を重ねてきた。そして離すと目を覗き込んで、
「どう、気持ちよかった?」
と訊いた。
「都に行くなら、これくらいの経験はしておいたほうがいいのよ」
と、目を丸くしてどきどきしている典子に明子が言った。   (つづく)

■所属する短歌結社、福島泰樹氏主宰月光の会の歌誌『月光』に始めた連載です。2008年11月号から隔月刊で書いています。新古今和歌集』で藤原定家と並ぶスター歌人飛鳥井雅経の生涯を追います。雅経は鎌倉幕府の重鎮大江広元女と結婚しています。それは源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向していたから。そこで雅経は頼朝に蹴鞠の腕を買われて頼家に教えて過ごします。それが評判になって後鳥羽天皇のもとに届き、京に召されます。それから新古今歌人になってゆくのです。また、広元女が鎌倉と繋がっている関係で、子息教定は鎌倉幕府に仕え、そこに同僚として金沢文庫創設者の北条実時がいたために、教定息(つまり雅経の孫)の飛鳥井雅有が実時の娘婿となるのです。私のこのあたりの探求は、この「何故東国の片隅の金沢北条氏の家系に新古今歌人の孫の雅有が婿になっているの?」から始まりました。

織田百合子のHP http://www.odayuriko.com/

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2009.2.1 連載小説【花の蹴鞠】 第二回

165c_3 典子が恋に墜ちたことは誰の目にも明らかだった。それは傍で見ていておかしいほどに一目瞭然で眩しいくらいに輝いていた。

 が、典子自身はまだ誰にも悟られていないと思っていて、何をするにも雅経様、雅経様なのに、「これはお役目なの」「だって私は雅経様のお世話をするよう言い遣ってるのですもの」と一々に用向きを作って言い訳するのがまた可愛かった。口の悪い御家人たちもこれには参って「そうか、そうか」と騙された振りをして見せ、久々の楽しみとばかりに相手になってやっていた。

 しかし雅経はそんな典子の思いに気づいた様子はなく、来たときと変わらない態度で礼節を守って暮らしていた。ふしぎなことに典子の父広元と頼朝・政子夫妻は、耳に届いていないことはないのに一切何も触れなかった。

 建久六年(一一九五)も末の頃、頼朝が翌年の春に鞠会(まりえ)をすることの達しを出した。頼家に蹴鞠を教える名目で幕府内に一室を設けられた雅経だった。運動能力に秀でた少年頼家の上達は早かった。頼家は雅経を兄のように慕い、かつてなく嬉々として蹴鞠だけでなく武芸にも学問にも打ち込むようになった。それが頼朝を喜ばせたのだ。

 頼家に教えるに際し鎌倉にはまだ蹴鞠をする風習がなかったため、準備は雅経が一人でしなければならなかった。鞠や沓は早々に京都から取り寄せた。頼朝は寝殿造りの御所の一画にある南に面する手頃な庭を鞠庭(まりにわ)専用に決めて雅経に与えた。そこに雅経は四本の懸(かかり)の木を植えた。通常懸には桜の他、柳・楓・松を植える。桜を東北、柳を東南、楓を西南、松を西北に植えるのが飛鳥井流の正式である。が、特別な晴れの儀礼でもない場合はそれにこだわらずに木を決める。雅経は桜を愛した。それで頼朝から与えられた鞠庭には迷わず桜を四本と決めた。

 枝ぶりや高さなど手頃な木を選ぶのに尽力したのが盛長だった。盛長は長く京都で過ごしており、そのために「何が蹴鞠だ」と内心冷やかに見ている他の御家人たちと違って蹴鞠に理解があった。鎌倉近辺のこれならと思う木を探し出して雅経を連れて訪れ、この木とこの木とこの木というふうに木が決まると移植する手配までしてやった。このときも典子は手伝う名目でいそいそと二人に従った。植えた木の枝ぶりを整えるときも盛長は手伝ったし、傍らに典子がいた。懸かった鞠の落ちる流れを考慮して枝を剪定するのである。

 こんなことから雅経は日常生活においても盛長と親しく接するようになり、盛長が雅経を甘縄の屋敷に招くようになった。盛長の妻は宮中の出仕経験もある京女で、都が恋しいだろうとの配慮から会わせようと思ったのだ。当然のように典子もお供して甘縄へ行った。典子は広元から馬に乗れるよう躾けられて育った。それで御所から遠い甘縄へは二人して馬に乗って出向いた。鎌倉の北の端の御所から由比ガ浜に近い甘縄までの二人の騎乗姿は市中で目立った。それで二人の恋は鎌倉中の知ることとなった。それでも典子はお役目という大義名分があるから堂々としていた。

 盛長の妻の明子は典子が今まで見たことのない美しさだった。典子は政子に仕えていたが頼朝の正妻とはいえ東国を出たことのない政子に対し、起ち居振る舞いの上品さにおいて自分の母親の方が勝ると思っていた。が、明子の気品あふれる優艶さは母親の比ではなかった。それは仕方なかった。同じ京女ではあっても、京都での広元は九条兼実に仕える役人に過ぎず母親はその妻でしかなかったし、片や明子は二条院に出仕した女房経験をもっていた。幾度か通っているあいだに典子は見るともなしに見て学ぶこと多かった。

 盛長の屋敷の背後には鬱蒼と樹木の茂る見輿ケ嶽(みこしがたけ)があった。そこに立つと鎌倉の市中がはるかに見下ろせた。いつものように二人で立って眼下に広がる光景を眺めていたあるとき、典子がふと見ると遠い目をして立っている雅経がそこにいた。それは典子の見たことのない雅経だった。傍にいるのに手が届かない遠いところにいる人の気がして典子は愕然とした。都を思っているのだと思った。

 鞠会をするには鞠足(まりあし)を八人揃えなければならなかった。それで雅経は頼家の他に人を増やして早急に教え込まなければならなかった。そこに雅経と同じく源平の争乱で運命を狂わされて下向し、頼朝に仕える源光行がいた。光行は漢籍を嗜み数理の才にも長けていて幕府の中で一目置かれていた。春の東大寺再建落慶供養に頼朝が上洛した際には広元と共に早々と上洛し、頼朝のための六波羅宿所を新造するなど手配に活躍した。が、蹴鞠の腕は一向に上がらず、「また光行様が」と典子にぼやかれることしきりだった。

 年が変わっての春、鞠会は盛大に行われた。頼朝の意向でそれは幕府における晴れの行事に匹敵する触れ込みだったから、鎌倉中がその日を待ってさんざめいた。雅経は花の咲き具合を気にし続け、典子も同様祈る思いだった。しかしそれは杞憂に終わり、鞠会当日花は見事に咲き誇って見せた。一度ならず鞠が木にかかると花は大量の花吹雪となって散り、それを足で受けて蹴り返す雅経の神業がかった妙技は一座を感動させて止まなかった。頼家の少年らしいきびきびした動きは見る者の目を奪い、幕府の二代目将軍となった暁の若き獅子王を予感させた。頼朝の満足は計り知れず、雅経への覚えは深まった。

 その夜雅経がいないことに気がついた典子は、もしかしてと昼間競技の行われた鞠庭へ行った。そこに桜の木を見上げて雅経がいた。月明かりの下でも花は満開だった。
「雅経様」
 と、声をかけると雅経が振り向いた。典子の胸がどきっと疼いた。絵に描いたような美しい風情の都の公達がそこにいた。典子はひるみ、いつもなら踏み出す足を踏み出せないでいた。すると雅経が寄って来て包み込むように典子を抱いた。そして、
「有難う。貴女のお陰だ」
 と言った。典子は身動きできないまま雅経の装束の匂いにくるまれていた。

 翌日、典子は頼朝に呼び出されてお前に出た。そこには政子がいて、傍らに広元が侍っていた。典子は驚いた。その席で告げられたのは雅経と結婚せよということだった。雅経にはすでに言い渡してあるという。雅経が落人の身でと憚るので頼朝が養子にし我が子として送り出すというのだ。そこまでしてと典子は嬉しさよりも驚きで何も考えられなかった。それから婚儀はとんとん拍子に運び、晴れて典子は雅経の妻になった。

 頼朝には鎌倉で鞠会を開いたことで至福の思いが広がっていた。京都で育った頼朝には雅の力がわかっていた。いくら幕府を開いて御家人たちの棟梁になったといっても、文化の嗜みのない鎌倉に真の力がないことを知っていた。鞠会の成功は頼朝に格段の自信をつけた。以後、頼朝は京から使者が来る度に鞠会を開いてもてなした。長い旅の疲れの果て強面の武士に囲まれて緊張しつづけの使者たちに、雅経の華麗な妙技は目を和ませた。鎌倉で雅経様の蹴鞠を見られるとはと、蹴鞠の家飛鳥井家を知る使者たちは喜んだ。そして京へ帰ると口々にその話をしたので、雅経の蹴鞠はやがて後鳥羽天皇の知るところとなった。 (つづく)

■冒頭の写真は【花の蹴鞠】のために作ったイメージ画像です。photoshopによる処理過程は「2009.1.10」の記事をご参照ください。

織田百合子のHP http://www.odayuriko.com/

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2008.1.10 Photoshopで写真を合成してみました。「花の蹴鞠」のimage写真出来上がり!!

049 165a 165b 165c  ホームページに連載小説「花の蹴鞠」のページを作る準備をしています。それにはそのページの基本となるイメージ画像が必要。昨年web講座の終了直後からどんな画像にしようか考えていましたが、やっと思案がまとまりました。

 それには素材となる画像の他、Photoshopによる加工技術が必要です。今まで写真の明るさなどの補正程度しかしたことがなかったので、年明け頃からPhotoshopのマスター本を読んでいました。

 といっても、そんな専門的な本ではないんですよ。購入したのは『一週間でマスターする Photoshop CS3』(杉浦未羽著・毎日コミュニケーションズ刊)という超初心者のための本。娘には「なんでこんな本・・・」とあきれられましたが、これが超超使いやすかったんです。書店で何冊かパラパラと見て、一目でこれ!と決めてしまいました。

 で、私が必要だったのは複数の写真の合成の技術と、合成するための透明化。それをこの本で探すと木曜日の項に「レイヤーを使って複数の画像を合成しよう」があり、その手順どおりに進めたら、できました!! これからそれを説明させていただきます。

 まず、イメージ写真を仕上げるにはできあがった状態のイメージが自分の中にあることが必須。小説「花の蹴鞠」は主人公飛鳥井雅経が桜を愛した話ですから、まず桜の写真を用意しました。それが一枚目。

 それから、古風な中に華やかさを出したいので基調色を臙脂色と決め、それにふさわしい写真を探し出して用意しました。それをPhotoshopの「編集→変形」で加工してイメージどおりにしたのが二枚目。この「編集→変形」技術もこの本の「画像を変形する」項目に説明されてあったのを実行したものです。

 そして、合成するには桜の花の写真の背景を透明にしなければなりませんから、木曜日の手順を忠実にそのとおり実行して作り、最後に二枚を重ねたのが三枚目。四枚目はそれをさらに色調整して希望の色調にしたものです。

 これからこの画像を使って、ホームページに「花の蹴鞠」ページの作成にとりかかります。でも、まだ関門はあって、それがサイトのデザイン。私は今主流となっている「中央に細長く、縦に長いデザイン」が嫌いなんです。画面いっぱいに広がって見えるいわゆる画面全体が一枚の絵のようになっている方式にしたい。でも、web講座で習った基本が「中央に・・・」の方式で、自分流にするにはまた工夫しなければなりません。それをこれから頑張ります。

 目下、webの世界の無限の可能性に魅せられています。その第一歩がこの画像の加工。写真は一枚の写真で充分世界を訴えられますが、「中世」に目を向けている私にとって一枚の写真でそれを訴えるのは至難の業。だって、中世の景色は現代のこの世に存在しないんです。遺跡の写真を撮っていたころはまだデジタルになる前で、その頃からそれに苦しんでいました。エッセイ「寺院揺曳」のための写真を撮ろうと鎌倉に行っても、すでに廃寺になってしまい、現在はふつうの民家が密集する住宅地になっている「佐々目遺身院」の写真は撮れません。

 これはもうコラボレーションしかない・・・、それには撮るときに露出を計算し尽くしての合成写真が・・・と思っていた矢先にデジタル時代に突入。複合技術が簡単にできるようになりました。写真学生だったころ、それはもう綿密な計算をして合成写真を撮っていました。ここに画像を入れるには、重ねるもう一枚のその部分は黒くなるよう撮らなくては。。などと。それがPhotoshopでマスターさえすれば誰でも簡単にできる時代になって、私には脅威以外の何物でもありません。

 素材となる写真はあきれるくらいにいっぱい持っていますので、これからこういうイメージ写真をたくさん作っていきたいと思います。できたら壁紙配信してもみたいし、サイトでの展覧会なども考えていて、楽しみです。

織田百合子のHP http://www.odayuriko.com/

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2008.12.14 連載小説第一回 【花の蹴鞠】

Top1sakura花の蹴鞠 一                                    

 それは、嵐になってかなわなかったという。もし、あのとき、義経が摂津の国の大物(だいもつ)の津から船出できていたら。そして、無事、豊後の国に逃げのびて、そこで態勢をととのえて巻き返しにでていたら。そうしたら今のわたしの人生はなかった……と、よく典子は思う。だから、みもしない嵐の夜の大物の津の海原を、まるで自分の人生の象徴のように瞼に描くことができる。人生は波にもまれるものなのだ。荒々しく……。でも、そのお陰で雅経(まさつね)さまと巡りあうことができた、と典子はいつも思う。

 文治元年(1185)五月、義経は平家一門を壇ノ浦で滅ぼした。そして、生捕りにした宗盛父子を護送して鎌倉の入口の腰越につく。が、兄頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかった。後白河院と親密な関係をもったことが頼朝の逆鱗に触れたためである。義経は忠誠を訴えるべく頼朝に書状をしたためた。そして、頼朝の腹心大江広元にそれをとどけ、とりつぎを頼んだ。しかし、広元はそれを握りつぶした。義経は失意のなかで京へ引き返す。そのことが結局は典子の人生を決めた。広元にしてもこれが後年おのれの娘婿となる若者を生むことになったなど知る由もなかった。もし、このとき、広元が頼朝を説得して義経との不和をとりのぞいていたら。そうしたら、雅経が鎌倉まで落ちてくることはなかった。

 十一月、頼朝は後白河院より義経追討の院宣をとる。義経は京を去って九州は豊後の国へ向かうべく大物の津から出航する。が、折悪しく嵐にあって遭難。豊後への逃亡計画はあえなく挫折し、義経は吉野の山中をさまよったあと藤原秀衡をたよって奥州へ逃れた。

 なぜ、義経が豊後を目ざしたか。それは知行国主の難波頼輔(なんばよりすけ)と頼経(よりつね)父子が義経を庇護した数少ない公卿だったから。寿永二年(1183)、平家が都落ちして西海にでたとき、太宰府に落ちつき九州を拠点とするのをはばんだのが頼輔だった。頼輔は国司代として赴任していた頼経に使いをだしてそれを指示した。頼経は土地の実力者を駆って一門と戦わせた。そのために一門は海原をただようことを余儀なくされ、壇ノ浦で滅びた。大物の津のときも頼経は出航を助けるべく手を打っていた。乱のあと頼経は義経加担の罪で子息の宗長ともども伊豆へ配流が決まった。頼経は雅経の父。頼輔は祖父で蹴鞠の家を確立した人物である。頼輔に蹴鞠の腕を磨かれて育った雅経はのちに蹴鞠の家の飛鳥井家の祖となる。兄宗長は難波家の祖となった。

 文治五年(1189)三月、頼経と宗長のふたりは伊豆に流された。が、雅経に咎めはなく京に残った。しかし、ここは推測になるが、雅経もまたしばらくして伊豆に赴いたのではないか。そして、そこでおそらく宗長と軋轢があったのではないだろうか。雅経はひとり鎌倉にやってきた。その時期は明らかでないが、建久七年(1196)の末には鎌倉で頼家に蹴鞠を教えている。建久七年、雅経は二十七歳だった。これらから推して雅経の鎌倉下向は建久六年(1195)、二十六歳のころだっただろう。

 大倉幕府の一画にある御所の一室で頼朝は政子とくつろいでいた。はじめて頼朝がこの屋敷に入ったのは治承四年(1180)十月だった。八月に伊豆で旗揚げして石橋山の合戦で敗れるなどしたあとのようやくの入御だった。壇ノ浦で平氏が滅びるのはそれからまだ五年後のことだ。争乱の一部始終を頼朝はここでみていた。感慨深く頼朝が思ったそのときだった。
「伊豆の紹介状をもった人物が来ておりますが」
と、盛長がとりついだ。安達盛長は頼朝が伊豆の流人だった時代からずっと仕えている家人である。政子も知っている人物からの紹介ということで、その若者との面会に政子も同席した。

 頼朝がその若者がひれ伏して待っている部屋へ入ったとき、頼朝はふと都の匂いを嗅いだ。不意をくらった思いで頼朝は政子を振り返ったが、政子には何事もなくみえた。気をとりなおして頼朝は若者の前に座った。

「顔をあげよ」
 と頼朝がいった。頼朝をみた若者の目には優美があった。都の匂いは若者の存在それ自体から発散されていた。それは十四の年まで京にいた頼朝には馴染みの深いものだった。関東の御家人たちにはついぞみたことのないものだった。懐かしい匂いだった。ずっと頼朝が封印してきたものだった。なぜならそれは関東には不要のものだったから。求めてはいけない類(たぐい)のものだったから。求めればそのときから頼朝が周囲と隔絶した人間になってしまう類のものだったから。頼朝はいつも使い慣れている部屋が、見慣れているはずの部屋が、違ってみえることに気がついた。なよやかなのだ。空気が。そして、気配が。頼朝は和んだ。
「名前は?」
 頼朝が訊いた。
「藤原雅経と申します」
 と若者は答えた。雅経は父のあとを追って伊豆に下ったが居辛いことがあり、親切にしてくれていた老人が頼朝をたよって鎌倉にでるのを勧めてくれたと言った。
「特に秀でたものをもつか?」
 と、頼朝が言うと、
「蹴鞠(けまり)にございます」
 と、雅経は胸を張って答えた。頼朝が控えていた広元に目をやると、広元は大きく頷いた。

 その日から雅経は御所に一室をもらって住むことになった。名目は十二歳になった頼家への蹴鞠の指南だった。政子は武家の子に蹴鞠は必要ないと思ったが、あえて反目することもないからと黙っていた。後年、将軍となった頼家が蹴鞠に熱中するあまりに政務を怠ったとき、あのとき反対しておけばと悔やむことになるなど夢にも思わなかった。政子は広元から雅経が京の公卿の家の出と聞き、頼朝の丁重な扱いぶりも仕方ないと許した。

 雅経が与えられた部屋はかつて平重衡(たいらのしげひら)が千手の前とともに暮らした部屋だった。治承四年十二月の南都焼打ちの罪で重衡はつかまり、鎌倉に護送されて京へ送還されるまでの一年と少しのあいだをここで過ごした。政子の配慮でつかわされた千手の前は重衡を愛し、こまやかに世話をした。それは確実に死を控えている重衡にとって束の間の平和な日々だった。穏やかに、待っている苛酷な運命にはふたりのどちらからもひと言も触れずにただ淡々と過ごした日々。永遠に、果てしなく続くと思われた日々。だが容赦なく悲劇は訪れ、送還された重衡が南都へ送られ斬首されたのを知ると千手の前は出家してその後短い生涯を終えた。

 典子は政子から、そして父広元からそれらの話を聞いていた。広元が琵琶・朗詠にたけた重衡を評して「牡丹の花」と称えたことも知っていた。典子は十代まで京で過ごした。父の下向に随(したが)って鎌倉に住んで十年になる。都の記憶はすでに遠いが、関東の男には肌にあわないものを感じていた。典子はひそかに重衡に憧れ、千手の前を羨ましく思っていた。もし自分がそういう立場になったら千手の前同様はかなく死んでもいい。そういう恋をしたいと思っていた。都の男とはどういうものだろう……。そこに雅経が突然あらわれ、重衡が使った部屋の新しい住人となった。政子から彼の世話を言いつかったとき、典子は運命の大きなうねりを感じた。 (つづく)

■所属する短歌結社、福島泰樹氏主宰月光の会の歌誌『月光』に始めた連載です。これは11月刊行の分です。これから隔月刊で書いていきます。一昨日第二回を書いて編集部に送りました。『新古今和歌集』で藤原定家と並ぶスター歌人飛鳥井雅経の生涯を追います。雅経は鎌倉幕府の重鎮大江広元女と結婚しています。それは源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向していたから。そこで雅経は頼朝に蹴鞠の腕を買われて頼家に教えて過ごします。それが評判になって後鳥羽天皇のもとに届き、京に召されます。それから新古今歌人になってゆくのです。また、広元女が鎌倉と繋がっている関係で、子息教定は鎌倉幕府に仕え、そこに同僚として金沢文庫創設者の北条実時がいたために、教定息(つまり雅経の孫)の飛鳥井雅有が実時の娘婿となるのです。私のこのあたりの探求は、この「何故東国の片隅の金沢北条氏の家系に新古今歌人の孫の雅有が婿になっているの?」から始まりました。

織田百合子のHP http://www.odayuriko.com/

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