2009.8.6 出埼統監督「源氏物語千年紀 Genji」について【まとめ】・・・久しぶりに中孝介さんの歌を聴いて

018  朝、テレビで久しぶりに中孝介さんの歌を聴きました。あまりメディアに堪能する時間がとれないので、出崎監督のアニメ『Genji』のテーマ曲だった「恋」からもここしばらく遠ざかっていました。聴きたいなあって思っても、CDを買ったところでかける時間がないし・・・

 今朝のテレビでは「恋」はほんのサワリだけ。別の二曲が披露されましたが、私には何とももったいない・・としか。「花」もいいし、新曲の「空が空」にも聴き入りましたが、やはり中さんは「恋」です!!

 というのは、ここから出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」について書こうとしていることに触れるのですが、「恋」には「訴える」「ほとばしる」思いがあるんです。別の曲にだってそれがあるといえばあるのでしょうけれど、思いの吐き出し方が違う・・・。それは、よく、「血を吐くような」という形容をしますが、その「血を吐くような切実さ」があるかどうか、なんです。辛いし、苦しいし、それを思いやって切ないし、胸を打つ・・・そういう歌、ドラマ、はいろいろありますが、その胸を打つ打ち方に「血を吐く」ほどの切実さ、ほとばしりがあるかどうか・・・

 「恋」にはそれがありました。そして、出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」にも。

 私はアニメをあまり読まないし、見ないので、それがアニメの世界なんだよといわれてしまえばそれまでですが、私は人間の本質はこの「血を吐くような本物の思い」にあると思っています。でも、日常に埋もれているとそれは必要ないし、見えない。どころか、そんなのあったら邪魔・・・、のみならず、そんなの本質でも何でもないし、社会的問題となんの関係もない・・・・、って、そういうのが一般的社会のようですし、一般的文学でもあるよう・・・

 で、私は目下文学的流浪者で、「血を吐くような本物の思い」を求めてさまよっています。そういう中で巡り合ったのが出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」でした。アニメ未経験者の私にはそれは衝撃でした。何も、放映当初言われたようにアニメなのにエロス満点に衝撃を受けたわけではないんですよ。ぐいぐいともうどうしようもなく登場人物の言葉に引き込まれていくその凄さにです。これを求めていたんだ・・・と思い、毎回が楽しみでした。

 最終回を見終わったらまとめを書こうと意気込んでいました。そして、見ているあいだもそのセリフにぐいぐいと引き込まれて、やはり凄いなあと堪能していました。そして、「まとめ」には録画したビデオからテープ起こしして、冒頭からの光源氏のセリフを長々と引用・ご紹介させていただこうと思っていました。それくらい、最終回にも「血を吐くような本物の思い」が溢れていて凄かったのです。

 なのに、半年がたっても書けないでいたのは、それがアニメだったから・・・。アニメという分野だからというのではありません。アニメという「絵」があったからです。

 最終回を見終わったときの感慨は・・・、「あれ、今日は『平家物語』を見たんだっけ?」

 セリフによる言葉からの感動とは別に、目で見た印象の感慨が、???という疑問符として残り、見ているあいだの感動とちぐはぐ。どうしても素直なままの感動を書けなかったのです。今も、こうして書いていて思い浮かぶ「絵」は、鎧兜をつけてひざまづく光源氏・・・

 私は『平家物語』も好きですし、平家の公達の一人一人のファンです。重衡なんて、それはもう、好きです。だから、アニメに『平家物語』を拒否しているわけではありません。

 ただ、その日、私が見たかったのは、『源氏物語』なんです。史実考証がどうのなんて堅苦しい話をしているのではありません。ムード・雰囲気・その時代・・・に浸りたかったんです。その時代の中で、光源氏の「血を吐くような思い」の吐露を聞きたかったんです。今も思い出すのは、『源氏物語』の世界ではなく、『平家物語』・・・・。それが最終回でした。もったいなかったですね。あんなにいいセリフ、アニメでしたのに。

 それとは別に、やはり私は出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」に喝采です。本質にぐいぐいと錐もみするようにして喰い込んでいく手法、シナリオ。正面から「思い」に向き合って、主人公たちがその「思い」に突き動かされて、ドラマが進みました。

 『源氏物語』自体がそういう内容といってしまえばそれまでですが、ただ、大きく『源氏物語』というと、どうしても先入観的ムードができていて、それを破るのは大変。夕顔・空蝉・浮舟・・・、その三人を無視するなんて、さらにいえば、末摘花を語らないなんて・・・

 出崎監督が奇しくもなさったのは、『源氏物語』の本質部分を、その部分だけを切り取られてダイナミックに繰り広げられたのでした。『源氏物語』の本質・・・、それは紫の上ではありません。藤壺です。『源氏物語』本編は紫の上が主人公で長~い時間が、頁が費やされて進みます。藤壺は光源氏がその紫の上に惹かれる原因として語られるだけです。初恋の人藤壺に紫の上が似ているから・・・と。

 でも、光源氏の心を切り取ったら、思っても思っても届かない相手藤壺は永遠の恋人。対して紫の上は手に入れることのできた現実の人。深さが違います。

 人は「届かない」ものに永遠に憧れ続けます。光源氏の心の中は、一生、遂げられなかった愛・・・、藤壺への愛で、ズタズタに引き裂かれて血まみれになっていたのです。出崎監督の嗅覚はめざとくそれに吸いつけられました。紫の上を中心とする一連の事件、ドラマなんかより、この「一事」こそが紫式部が書きたかった本質だということを見抜かれたんです。今まであったでしょうか、紫の上でなく、藤壺が主人公の『源氏物語』なんて。

 最終回も、出家した藤壺と光源氏のドラマで終わりました。やはり、「最後も藤壺」だった・・・と納得して、やはり凄さを改めて確認して、さあ、では、まとめを・・・と思うと、藤壺がなんと、中世の『とはずがたり』の二条のように、墨染姿で全国行脚をする・・・、そのときに発する光源氏への思いのセリフもよかったのですが、見ている私の眼には、「あれ、今私は『とはずがたり』を見てるんだっけ????」

 やはり、アニメは「絵」の影響が大きいですね。はじめて『源氏物語』に接した方には問題ないかもしれませんが、『源氏物語』世界に堪能したかった私には、どうしてもちぐはぐな、もったいない最終回でした。

 ただ、ここで最初の「血をはくような本物の思い」に戻りますが、現実生活にこれはありません。みんな、これを持っていても、隠して、自分の中に秘めて、生きています。なぜなら、そんなものを標榜して暮したら、「破壊」につながりますから。危ないんです。本物の思いは・・・。

 たしか、それも、朧月夜のセリフにそういう内容のことがありましたよね。そのときも感心して、「深い」なあと思いました。ちゃんと監督は意識されてるんだ・・と思いました。

 人は本質で生きようとしてもできるものではありません。だから、人は文学とか芸術にそれを重ね合わせて消化・・・、昇華するんです。昔はその関係がとても一体化していました。純粋だったし、シンプルでした。今の時代、それがとてもできにくくなっています。というか、そんなことすら見失われているというか・・・。私には今の時代の文化、芸術、文学が、本物の思いから離れて表面的な事象に左右されすぎている気がします。だから、私には魅力ないんです。だから、私はそれを求めて文学的流浪者になっていました。そこに現れたのが出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」でした。久々に胸を打たれました。久々に「血を吐く思い」を思い出させられました。喝采!!!です。

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2009.3.26 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第十一話(最終回)があります!

Ran0026  今夜はいよいよ最終回。先週終わったときから、ああ、もうこの楽しみな時間はないんだ・・・と寂しくて、頭の中ではずっと中(あたり)さんの主題歌の、「あなた~の・・・」がかかりっ放し。しかも、「恋~~・・・でしたぁ・・・」と、終わりまでいって、私の中では最終回を見終わったような。ずっと涙ぐみたいような気分が続いて、変な一週間でした。

 時間がないので、取り急ぎ今日の記事だけ作成しておきます。というのも、今日の放映は時間が早くなっているんです。最終回なのに、いつもの時間と思って録画のセッティングをして出かけてられる方がいらしたら、大丈夫でしょうか・・・

 今日の放映はいつもより10分早く、00:35~です。新聞では・・・です。タイトルは「若紫へ」。どっきりなタイトル! というのも、今までの若紫があまりに幼いばかりの少女で、出崎監督のお好みの女性からはずれてしまいそう・・・。11話の明石に出会うまでの構成と新聞で読んでいたので、紫の上はどうなってしまうのだろうと、ひそかに心配していました。ここまでたどってきて思うのは、このアニメは大人の男たる出崎監督による理想の女性像の品評会みたいな・・・。今夜の放送を待ちましょう。

 先週の感想は、時間を見てここに続けます。写真は世界のラン展で撮影。源氏物語にちなんでほのかに紫色に仕上げました。

■追記:(終了直後)
 最終回、終わってしまいましたね。やはり、最後は「藤壺」!! 明石の君も入りようがありませんでした。納得・・・。出崎監督の愛の一貫性に打たれています。時間をみて、近々このアニメについてまとめます。

 罪は罪。
 されど、愛は愛・・・

■追記(27日午後):
 先週の感想を最終回を見る前にまとめなくてはと焦ったのですが、時間がとれずにとうとう今になってしまいました。ただ、先週の段階では、このアニメが始まる前の読売新聞で、光源氏が明石の君に出逢うまでと読んでいましたので、一応私の中では最終回の予測がついたものとして、その結末へ向かうための「朧月夜との情事の発覚→右大臣家による須磨への左遷」という流れの先に、最終回があるものと思っていました。それで、その線に沿っての感想をなんとかまとめなくては・・・と、四苦八苦して考えていたのです。

 が、昨夜の最終回はまったく私の意表を突くものでした。前半であれだけインパクトのあった六条御息所も、後半の華、朧月夜も登場しないのです。大きく描かれたのは、ひたすら苦しむ光源氏と、ひたすら無垢に慕う若紫、そしてひたすら罪を背負って生きつつも光源氏を思う藤壺・・・

 つまり、出崎監督は、このアニメを、藤壺と、その線上での紫の上と、光源氏という、『源氏物語』の根幹のみをひたすら描ききったのです。途中、ようやく目覚めた夫婦愛の葵上がいましたが、昨夜の妻となった紫の上の葵上に似ていたこと!! それは綺麗でした。

 最終回を見て思ったのですが、先週は最終回に向かうための「つなぎの章」だったのですね。どうりで感想を書こうとしてどうにも気持が乗らなかった・・・。書こうとすると、朱雀帝とか右大臣家との確執とかの説明になってしまうのです。うまくできているのにどうしてだろうと不思議だったのですが・・・。

 最終回を見ての感想は、近々まとめさせていただきます。

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2009.3.5 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第八話があります!

 先週の「葵の上」。葵上の美しさに、思わず、「綺麗!!」と、一人見ている深夜のテレビの前で声をあげてしまいました。今までのどの姫君の描かれ方よりも綺麗。この番組がはじまる前の読売新聞のインタビューで、出崎監督が、「葵上に興味がある」と答えられていて、ふ~ん、と思ったのでした。

 このアニメの葵上の存在は、今までのどの翻訳、解釈の描かれ方よりも最高の美しさではないでしょうか。崇高とさえ思ってしまいました。出崎監督の事前のご発言の内容を知った次第です。これには参りました。だって、藤壷に対する禁断の恋を究極のものとして描きながら、一方で、「夫婦の愛の雪解け」を至上のものとして打ち出す・・・、人生を知った者ならではの描き方ですよね。

 この人生を知った者としての監督への敬服は、六条御息所へのセリフにも感動しました。車争いのあったことを知り、六条御息所の屈辱的な立場を思いやった光源氏のセリフです。「みかけは立派でいられるけれど、誰よりも繊細なところをお持ちでいられるあの方がどんなにか傷つかれたことか・・・」と。(メモできなかったので、うろ覚えですが・・・)

 これにはぐっと来ました。六条御息所がこれを聞いたら、きっとすべてを許して、かつ自身も救われたでしょう。これだけのことを光源氏に言わせる繊細さと充実度をもった女性が六条御息所なのです。そして、光源氏もそれを知っているのです。こんなふうに理解していただけたら・・・、いいですね(?)

 さて、先週の冒頭は光源氏と頭中将の相撲対決。相撲は「すまい」といい、今と違って天皇や神に奉納する神事でした。今とは大分人々の見る目が違っています。それを見事に使ってのシーンと、冒頭早々、面白かったです。

 葵上の登場はそのすぐ後。妊娠して光源氏への愛を素直に表明する葵上。その美しさには冒頭にも書きましたが、ほんとうに感動しました。特に目が無垢で。崇高って、こういうことですよね。(でも、こんなに「お上手」に画が描けるなら、せめてもう少しでも現実的肉薄感をもって夕顔を描いてあげられなかったのかなあ・・・と、改めて思ってしまいました。)

 前に、夕顔の件で、源氏物語正編の巻に「紫上系」「玉蔓系」があると書きました。そのとき、手元になかったので四苦八苦して調べながら書いたのですが、いつも便利に使っているメモがでてきましたので、改めて引用させていただきます。丸谷才一さんと、たぶん、大野晋さんの対談からのコピーです。ここでは「紫上系」をa系、「玉蔓系」をb系とされています。

●紫上系(a系)  ●玉蔓系(b系)
1.桐壺
           2.帚木
           3.空蝉
           4.夕顔
5.若紫
           6.末摘花
7.紅葉賀
8.花宴
9.葵
10.賢木
11.花散里
12.須磨
13.明石
14.澪標
           15.蓬生
           16.関屋
17.絵合
18.松風
19.薄雲
20.朝顔(槿)
21.少女
           22.玉鬘
           23.初音
           24.胡蝶
           25.螢
           26.常夏
           27.篝火
           28.野分
           29.行幸
           30.藤袴
           31.真木柱
32.梅枝
33.藤裏葉

 光源氏の出生から臣下としてこの世の最高栄誉に昇りつめるまでの、光源氏の出世物語の部分です。この次の巻が「若菜 上」で、ここから女三宮の降嫁を許した光源氏の誤算、紫上の苦悩の世界へと、ストーリーも色合いもがらっと変わります。このいわば前篇といわれる部分が、紫上系と玉蔓系とに分かれるわけです。そして、紫上系(a系)を読むだけでストーリーはわかり、玉蔓系(b系)はその合間合間に挿入されたエピソードといった感じなので、一旦紫上系を書いたあとに挿入された巻ではないかともいわれます。枝葉のエピソードを切り落として、光源氏の生涯に専念して読みたい方は試してみてください。

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2009.2.26 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第七話があります!

 今夜は開始時間が変わって1時から。お蔭で今日もすっかり忘れて Photoshop に夢中になっていたのですが余裕です。

 先週は「朧月夜」でした。光源氏が須磨に左遷されることになる危ない情事の相手、朧月夜です。結果としてそうなのだから、原作にいくらしとやかで奥床しいところのある女性に描かれていても、アニメの特徴、出崎監督の特徴の、核心だけを突いて単刀直入に切り込む描き方をするとならば、先週のような性格・行動に描かれるのも納得です。少し、アニメの手法に慣れてきたようです。私も。

 朧月夜という女性に対しては面白い話があります。近藤富枝先生のご著書に書かれていたことですが、先生が教えていられるカルチャーの生徒さんに「どの姫君が好き?」という質問をされたそうです。それも、長く通ってほぼ人員に移動のない同じ人たちのカルチャー初期の頃と、中年のご婦人となった最近とで二回。

 若き主婦だった頃のその方々の好みはたしか「紫の上」や「明石の君」などが主で、「朧月夜」は嫌いといった方が多かったそうです。なのに、10年か20年か経っての二回目の答では「朧月夜」が好きと答える方が何人かいらして、若い頃のような彼女への反発の視線は消えていたとか・・・。さらに、「せっかくの人生なんだから、彼女のような恋をしてみたかった・・・」(表現は違ったと思いますが・・・)、というように、いつのまにか許している・・・。人間誰しも終わりが見えてくると、今までのやり方で本当によかったのだろうかと振り返る傾向の結果でしょうと、近藤先生も面白がっていらっしゃいました。やり残したというのは「危険な恋」。悔いが残るとしたら、多くの女性にとって「危険な恋」をしなかったこと・・・

 そんなふうに、朧月夜という女性は、同性の妬みを買うほど華やかな方です。何しろ光源氏を失脚させてしまうのですから。

 でも、表向きはそうですが、それは結果からのことであって、紫式部は決してそういう女性に彼女を描いていません。それはもう平安絵巻の雅な美しさの極致として描かれています。それでもってして、かの藤原俊成が歌人の心得として「源氏物語を読まない歌詠みは遺恨」と言ったほどに。俊成のこの言葉がめんめんと受け継がれて、現代短歌となった今の歌人の感性にも源氏物語は鳴り響いているのです。

 では、俊成は『源氏物語』のどこをメインに捉えていたのでしょう。

 それは、「花宴」巻。朧月夜というが登場して光源氏との情事がもたれる場面のあるところです。なので、一般的に、俊成は二人の出逢いのこの場面を評して「源氏物語は優艶」と言ったといわれています。

 でも、私はちょっと違って、俊成が評価したのはもう少し先の、光源氏が名を明かさなかった朧月夜の身分を探りあてて再会する二度目の場面ではないかと思っています。

 先週のアニメでも扇が重要な役割を果たしていましたが、最初の逢瀬のときに二人は互いの扇を交換します。その扇の持ち主が朧月夜と知った光源氏は、再会を果たすべく朧月夜邸に乗り込みます。でも、女性は奥床しく十二単の袖を覗かせて「居る」ことを示しながら御簾の奥に侍るだけ。それがずらっと何人も並んでいるものですから、光源氏にはどの袖の人がお目当ての朧月夜かわかりません。

 そこに扇が重要な役割を果たします。光源氏が来たとわかって女性たちはざわめきますが、朧月夜は一人先日の情事がばれたら大変という思いと、すぐにも再会に飛びつきたい思いとの狭間で揺れ動き、苦悩に声も出ません。

 光源氏は伊達男が遊びに来た振りをしてさもいたずらめいた感じで女性陣に声をかけます。咄嗟の応答に知性ある雅な答えをしなければなりませんから、怖気づいて誰も答えられないでいる中で、私こそと思う誰かがそれなりに応じます。すると光源氏は、「うろたえることもなく応じてくるこの人が先夜の女性であるはずはない」と判断するのです。(コワッ!!)

 さらに進んで、朧月夜と思う女性を探りあてた光源氏。声も出ずに溜息をもらすだけの彼女を、「この人こそ」と光源氏が思う・・・。もうそれは優艶な美しさです。洩れた溜息がほのかな桜色に染まって見えるほどに。

 この場面の描き方の凄さ!! 紫式部の感性・筆法満開の場面です。俊成でなくてもあまりの見事さにどきどきします。俊成は後に歌の作風として「幽玄」ということを打ち出しますが、私は朧月夜のこの場面がことに俊成をして感銘せしめたのだろうと思っています。

 紫式部の原文に比しての、私の解説のなんて味気ないこと! 我ながら書いていてもどかしいのですが、とりあえず出崎監督とは違った原著の朧月夜を知っていただきたくてこのことを書いておきます。

 あと5分で一時です。今夜は「葵の上」でしたっけ。車争いもある劇的なこの巻を出崎監督がどう料理されるか楽しみです。

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2009.2.21 王道をゆく、出埼統監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」!!

A002 先日は危うく第六話「朧月夜」を見逃しそうになるまで写真加工に熱中して、続けている「今夜第○○話があります!!」の記事を書き損ねてしまいました。直前に気がついて一応欠落しないまでにはセーフでしたが、前回の感想を書く時間がありませんでしたので、改めて今日ここにまとめておきます。

 先週第五話の副題は「宿世」。「すくせ」と読みます。前世からの因縁で決まっている運命、とでもいうような意味でしょうか。とても重い言葉です。決してあってはならないことなのに、どうしてもそうなってしまった人生・・・みたいな状況で使われます。理性では抑えきれないから、前世からの因縁としか考えられない・・・。ここでは光源氏が継母藤壺と密通し、不義の子を宿してしまうまでになる・・・という大変な事態が描かれます。

 出埼監督の「Genji」は、第一回が「光る君」、第二回が「六条」、第三回は「夕顔」、第四回が「藤壺」、第五回が「宿世」でした。

 内容から推して原作に振り当てると、第一回「光る君」は「桐壷」。第二回「六条」は「帚木」。第三回の「夕顔」はそのまま「夕顔」です。第四回「藤壺」は「若紫」、第五回「宿世」も「若紫」。そして第六回「朧月夜」は「紅葉賀」と「花宴」です。

 源氏物語五十四帖の巻名を順に並べると、①桐壷、②帚木、③空蝉、④夕顔、⑤若紫、⑥末摘花、⑦紅葉賀、⑧花宴、⑨葵・・・です。出埼監督「Genji」では空蝉と末摘花が抜かされてしまいました。

 実は第四週「夕顔」が終わったあと、私は勝手に次週は「空蝉」と決め込んでいました。『源氏物語』を読み始めて早々の、夕顔・空蝉の二人は、10代の光源氏が経験した「深い恋」の重要なエピソードであり、読む私たちにとって印象がもの凄く強い女主人公です。特に空蝉は「中の品」の女として、作者紫式部が受領階級の娘という自身の境遇を重ねて書いただろうとされる女性。この女性を飛ばすなんて思ってもみませんでしたから、私はてっきり「夕顔」のあとは「空蝉」と思いこんでしまったのです。

 が、「空蝉」は飛ばされて、次からは「藤壺」「宿世」。第四週目がはじまったときのタイトルに「藤壺」の文字を見出したとき、私は一瞬茫然とし強い衝撃を受けました。出埼監督のこのアニメに対する姿勢が理解できたのです。出埼監督は『源氏物語』を巻を忠実に追っての制作をなんか考えていないのだ、監督はこのアニメをドラマの王道で成そうと思ってられるのだ・・・と。

 何故、二人とも身分の低い恋人なのに、夕顔は取り上げられて、空蝉は飛ばされたか・・・。答えは簡単です。それは夕顔は六条御息所にとり殺されるから。空蝉は御息所にかかわっていないのです。監督にとって夕顔も描く必要のない、つまり思い入れなど何もない女主人公だったのです。だから、第三回に描かれた「夕顔」は唖然とするほどパターンだったのでした。てっきり監督の趣味で夕顔のような清楚な感じの女性は描けないのだとばかり思いこんで・・・失礼しました。

 ここでいう「王道」を説明させていただきます。つまり、監督が描こうとされている世界は、『源氏物語』の枝葉をすっぱり切り捨てて、物語の核心にぐいぐいと観る者をして引きずり込もうとする意図。つまり、ドラマ制作の「王道」です。その意味で、空蝉も、夕顔も、末摘花も、枝葉です。

 『源氏物語』の構成論はとても興味深い世界です。長い『源氏物語』が一挙に今ある順序とおりに書かれて完成したとは到底あり得ず、登場人物の人間関係や紫式部の筆致から五十四帖のどれから、どのような順で、書かれていったかが多くの学者さん方によって研究されています。私はその中で武田宗俊先生のご論がとても面白く、すっかり影響を受けました。

 簡単にご紹介させていただきますね。まず、『源氏物語』ですが、これは大きく分けて本編と宇治十帖とに分けられます。本編は光源氏が主人公の巻々です。武田先生によると、その本編が「紫上系」と「玉蔓系」に分かれます。「紫上系」が物語の太い幹に相当。物語の中心となって進みます。「玉蔓系」は枝葉のエピソードで、「紫上系」の人物が「玉蔓系」にも登場するのに対し、「玉蔓系」の人物は「紫上系」には登場しません。つまり、物語は「紫上系」だけで成立するのです。

 そして、出埼監督の描く「藤壺」「紫上」「葵上」「六条御息所」はまさにその「紫上系」の主人公。「空蝉」は「玉蔓系」なのです。この系列を「並びの巻」という言い方もあるほどです。つまり物語の本質の流れに並行して、同じ時間に並んであったもう一つのドラマ、ということ。

 光源氏は継母藤壺に恋し、その禁断の恋の苦しみから藤壺ゆかりの紫上を引き取り、六条御息所を不幸に陥れ、正妻葵上とも溝のある夫婦生活を送る。そして再びの禁断の恋、入内することに決まっている朧月夜との恋で・・・、というのがアニメのこれまでの経緯です。ここに空蝉・末摘花の入る余地はありません。

 通常の千年紀記念制作なら、巻の順序とおりに精密に描いていけばよかったでしょう。でも出埼監督はそれをしないで、あっさりと傍系の主人公たる空蝉は切り捨て、重大な密事の行われた「若紫」巻に二夜も費やしました。今週の「朧月夜」などは二巻を一回にまとめてしまったというのに・・・。

 出埼監督の意図は明確です。光源氏の本気の恋、それだけを描こうと!! 光源氏にとっての本気の相手、それは藤壺ただ一人です。それが実らない空洞が心にあるから、それを埋めるために光源氏の恋の彷徨があるのです。毎週の藤壺に対する光源氏のセリフ・・・、それはぐさぐさ観る私にも胸にささってきます。凄いなと思います。描くとき、本気のものを描くなら、セリフはこうも生きてくるのですね。

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2009.2.19 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第六話があります!

A073  危うく今夜の第六話を忘れるところでした。たった今気づいて・・・(10分前です)。昨日、世界ラン展へ行って切り花のランを買って来て、素敵だったので写真に撮って、photoshopでさまざま加工したりしてたものですから・・・。こういうことをしていると、あっという間に時間がたってしまいます。この写真はその一枚です。

 先週の「宿世」は凄かったです。不義の子を宿した藤壺の凛とした女への変貌・・・、見事でした。光源氏の入り込めない強さです。

 冒頭、素敵な言葉があってメモしていましたので書いておきますね。

 「もしもこの愛が許されないものならば、この世に愛と呼べるものは何もない」

 光源氏の心の底からの悲痛な叫びです。人はこんなふうに心底から叫ぶものを持った瞬間、それこそが生きている瞬間だなあ・・・って思ってしまいました。

 そろそろ始まりますのでまた・・・。今夜は確か「朧月夜」です。

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2009.2.12 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第五話があります!

 フジテレビ深夜00:45からの【Genji】です。ほんとうにこの時間は起きて待っているのが大変ですよね。以前は夜更かし組だったから起きていて当たり前の時間でしたが・・・。アニメだから「まだ起きていて当たり前」の視聴者向けなのでしょうね。先週も00時まで待って、やっと「ああ、12時だ・・・」と思っても、それからまだ45分も待つ・・・・、その間に寝てしまわないか戦々恐々でした。一応、録画はしてますが。

 で、その先週ですが、「藤壺」でした。第一回で幼年の光源氏のもとに現われた少女藤壺。父帝の后だから継母になります。少年少女同士の夢のような楽しい時期を過ごし、光源氏の元服と同時に当時の風習として、突然成長した男と女として逢うことも許されなくなった二人。禁じられれば禁じられるほど思いは募りますよね。例によってさすが出埼監督。そこがもの凄くよく描かれていました。

 思うのですが、こんなに見事にせつせつとした切なさを描いて見せる監督って、通常のドラマではいられないのではないでしょうか。ドラマは絵画でいえば具象だから、シリアスが望まれて、「切なさ」なんていう内面の機微は現代ではもう不必要なのでしょうか。

 内容としては、藤壺が光源氏の病の治癒を祈って人知れず深夜にお百度参りをする・・・、あり得な~い!!って思いつつ、アニメだから許されるんだろうな、こんなデフォルメと思いました。そして、回復したと聞いて藤壺が再び深夜にお礼参りをする。するとそこに同じ思いの光源氏がいて再会。驚愕しつつも、そのときは思いをこらえて何事もなくやり過ごし、その為に「なんであの時思いを遂げなかったのだろう」と、光源氏が一層激しく思いを募らせてゆく・・・

 原文では「密通があった」という事実が問題になって舞台は進展します。でも、このアニメでは密通そのものの重大さは棚にあげて、「何故、こんなにも、光源氏が思いを募らせていくのか」という過程をめんめんと描くわけです。これは人間を重視しているからこそなのでしょうね。どうも現代の文学世界は人間重視より社会風潮に流れてしまう状況ですから、わたしにはこのアニメ、実に爽快なのです。ただ、観ているあいだは切なさに胸痛ませてますが・・・

 先週登場の若紫はよかったですね。「雀の子をイヌキが逃がしてしまいましたの」という教科書でお馴染みのシーン。生き生きと活動的で、若紫は完璧です。逆に藤壺は、もう少し貫禄あって欲しいな・・・とは内なる希望。六条御息所をあれだけ大人の女に描けるのだから、「白鳥の湖」に例えるなら、六条御息所を黒鳥とし、対する藤壺は白鳥・・・のように。どうも出埼監督は毒のない女性に興味はお有りでないらしい・・・です。たしか今日は「空蝉」だったですよね(うろ覚えですが・・・)。【訂正:今第五話がはじまってコマーシャルの最中です。今日は「空蝉」ではなく「宿世」でした。】

 ■左欄のカレンダーの下に「世界時計」のブログパーツを加えました。お目当ての地域にポインターを当てるとその場所の現時間がわかります。楽しいので設置してみました。お試しください!!

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2009.2.5 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第四話があります!

 フジテレビ深夜12:45分からの出崎統監督の源氏物語千年紀記念アニメ【Genji】です。第三話の先週は「夕顔」でした。今日は「藤壺」、危ないお話になりそう・・・

 先週の夕顔は、第二話のときの六条御息所での衝撃と逆にちょっと物足りなかったかな・・・? 夕顔があまりに少女っぽすぎて、光源氏の心を虜にする色香のかけらも感じられませんでした。出崎監督はインタビューで葵の上に関心をもたれてらしたから、六条御息所とか葵の上とか、癖のある個性の強烈なキャラクターでないと熱が入らないのかしら。見ていて、主人公の夕顔にはちっとも魅力を感じないのに、生霊となって顕れる六条御息所の凄さ。やはり圧巻で、凄い、凄いと、一人で見ながら内心見入ってしまいました。はかない美しさなんて、大人の監督には興味ないのでしょう。

 この夕顔について、現代人の解釈で遊女説があります。それは、夕顔がみずから歌を光源氏に差し出すから。それによって二人の関係ができていくわけで、光源氏が花に興味をもっても、夕顔が無視すれば何も起こらなかったわけ。

 それを、わざわざ扇に歌を書きつけて花を添え差すなど、手練手管の遊女のすること・・・というのがその説の論法です。はかなげに見せるのもその手管の内と。

 でも、それでは紫式部の書いた意図に反しますよね。夕顔と光源氏のエピソードは、紫式部が仕えた具平親王に実際にあった悲恋がモデルといわれます。具平親王は近藤富枝先生が紫式部の恋の相手だった・・・と書かれたほどの貴人。そういう人をモデルにして、相手が光源氏をだます遊女なんてこと、絶対あり得ません。

 それについて、清水婦久子先生が『光源氏と夕顔―身分違いの恋―』(新典社新書)で何故そういう無謀ともいえる間違った説が生じたかを、歌の事情から解説されています。詳細は記しきれませんが、当時の歌の位置を熟知していれば、夕顔が贈った歌がでしゃばってのことでなく、かえって頭中将の元愛人だったという貴族社会を知ったものの奥床しい知識人だということがわかるとのこと。

 思うのですが、最近の勉強は偏差値主義とかパソコン検索でばかり頭に詰め込まれるから、当時の人の実際の生活感を知らずに解釈してしまう嫌いがありますね。例えば宗教は現代から解釈すると宗派を超えた仏教など考えられないみたいだし、ちょっと近い世界の人はみんなライバルみたいに解釈してはばからないし、・・・・現代と決定的に事情は違うのです。

 夕顔もはかないけなげな人だから歌を差し出した。清水先生はそれを「でしゃばって・・・」ではなく、その前に光源氏からの歌が行っていて、返歌をしないことこそ当時の社会では失礼だから返した・・・。当時の人は物語を読めばそれくらいは察したのに、現代人は書いていないことは「なかった」事として、夕顔が先に歌を送った・・・、図々しい、何が「控え目ではかない」よ!・・・、遊女に違いない・・・、となる訳です。偏差値教育の、マークシート教育の、パソコン検索学習の、決定的な危険を覚えています。(清水先生の説を読み返す時間がないのでうろ覚えで書いています。詳細を間違っていたらごめんなさい。とにかくこのご本は魅力的で一気に読ませていただきました。お勧めします!!)

 夕顔の歌は、それは素敵です。ご紹介しますね。

 心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花

 近藤富枝先生の『紫式部の恋』(講談社)もわくわくする素敵なご著書です。かなりドキッとする部分もあります。これも絶対お勧め!!です。

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2009.1.29 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第三話があります!

 フジテレビ、深夜12:45からの出先統監督「Genji」。先週は「六条」、そう六条御息所が主人公でした。葵の上も登場。凄い迫力で終わるまで「凄い!」「凄い!」と、感心したり溜息をついたり絶句したまま魅入ったり、すっかり虜になってしまいました。出先監督って、ほんとに凄い!ですね。

 『源氏物語』の本文では光源氏と六条御息所のそもそもの出逢いは描かれていません。突然、光源氏がすでに通っていられる高貴な女性として御息所は登場します。そして馴れ染めが説明されていくのです。それを出先監督は真っ向勝負で光源氏が学問を教えて欲しいと願い出て、論文審査の諮問のような厳しい応酬の果てにお眼鏡にかない、晴れて学問の師と弟子になって通いはじめ、源氏に恋心が芽生えて、やがて・・・と手を抜くことなくめんめんと描いていく。

 六条御息所はといえば、源氏よりも先に源氏にどうしようもなく惹かれていく自分を見ていて、立場上、そして、年上というハンディからそれを抑えに抑えている。けれど、生命の根幹から彼女自身を突き上げてやまない愛欲は、賢い彼女をして理性と本能とで真っ二つの苦しみに突き落とす・・・。とてもアニメという範疇では片付けられない深い、というか、重い、それは凄い描き方・・・

 アニメって、いいですね。抽象的・哲学的会話が許される・・・。小説でこんな描き方をしたら顰蹙です。少なくとも、私が新人賞をいただいたときの周囲の反応にはそういうところがありました。すなわち、「小説はリアリズムだからね・・・」と。

 でも、アニメだと、美しい映像とともに、そんな会話がいとも見事に融合していて安心して見られる・・・。ロマンをロマンとして堪能しながら、しかも人間心理の深いところにぐさっと切り込んで止まない・・・。出先監督が大和和紀さんの『あさきゆめみし』のドラマ化を途中で変更してオリジナルでなさった経緯が納得でした。

 こんな『源氏物語』、見たことない! が私の正直なところの感想です。

 今夜は「夕顔」とのこと。深夜というのだけが私にはネックですが、頑張って起きていることにします。

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2009.1.22 今夜は、「源氏物語千年紀 Genji」の第二話があります!

 先週はじまった源氏物語千年紀の記念企画、出崎統監督の「Genji」の第二回の放送が今夜です。先週は見逃してはいけないと眠いのを我慢して必死になって起きていました。0:45からって、中途半端な時間ですよね。でも、綺麗だった・・・。溜息の出る美しさ。久々に堪能しました。さすが出崎監督(といっても、それほどご業績を存じあげている訳ではありませんが・・・)、ストーリーよりも人間と人間の心と心の交流だけに焦点を絞って、アニメとはいいながら通常のドラマよりも綿密に「心情」が描かれていました。

 だから、見終わっての感想は、「あれ? 光源氏と藤壺以外に出ていたかしら・・・」といった感じ。「桐壷」巻だから当然重要なはずの桐壷帝や母君の更衣も、頭中将も、一回か二回、ちょこっと説明役程度に登場しただけ。あとは全編、幼い光源氏が元服して仲良くしていた継母の藤壺と会えなくなるまでの二人の交流。華やかに美しい明るい幼少時代から、だんだん許されない恋と知って暗く切なく苦しくなっていく過程が、ずうっと二人の登場するエピソードで綴られていました。切なさは『源氏物語』の原点です。ここを綿密に描かなければこの物語はただの不純な許せないお話に終わってしまいます。

 今夜の主役の女主人公は六条御息所だそうです。【フジテレビ、深夜0:45~1:15】です。

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