2009.8.6 出埼統監督「源氏物語千年紀 Genji」について【まとめ】・・・久しぶりに中孝介さんの歌を聴いて
朝、テレビで久しぶりに中孝介さんの歌を聴きました。あまりメディアに堪能する時間がとれないので、出崎監督のアニメ『Genji』のテーマ曲だった「恋」からもここしばらく遠ざかっていました。聴きたいなあって思っても、CDを買ったところでかける時間がないし・・・
今朝のテレビでは「恋」はほんのサワリだけ。別の二曲が披露されましたが、私には何とももったいない・・としか。「花」もいいし、新曲の「空が空」にも聴き入りましたが、やはり中さんは「恋」です!!
というのは、ここから出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」について書こうとしていることに触れるのですが、「恋」には「訴える」「ほとばしる」思いがあるんです。別の曲にだってそれがあるといえばあるのでしょうけれど、思いの吐き出し方が違う・・・。それは、よく、「血を吐くような」という形容をしますが、その「血を吐くような切実さ」があるかどうか、なんです。辛いし、苦しいし、それを思いやって切ないし、胸を打つ・・・そういう歌、ドラマ、はいろいろありますが、その胸を打つ打ち方に「血を吐く」ほどの切実さ、ほとばしりがあるかどうか・・・
「恋」にはそれがありました。そして、出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」にも。
私はアニメをあまり読まないし、見ないので、それがアニメの世界なんだよといわれてしまえばそれまでですが、私は人間の本質はこの「血を吐くような本物の思い」にあると思っています。でも、日常に埋もれているとそれは必要ないし、見えない。どころか、そんなのあったら邪魔・・・、のみならず、そんなの本質でも何でもないし、社会的問題となんの関係もない・・・・、って、そういうのが一般的社会のようですし、一般的文学でもあるよう・・・
で、私は目下文学的流浪者で、「血を吐くような本物の思い」を求めてさまよっています。そういう中で巡り合ったのが出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」でした。アニメ未経験者の私にはそれは衝撃でした。何も、放映当初言われたようにアニメなのにエロス満点に衝撃を受けたわけではないんですよ。ぐいぐいともうどうしようもなく登場人物の言葉に引き込まれていくその凄さにです。これを求めていたんだ・・・と思い、毎回が楽しみでした。
最終回を見終わったらまとめを書こうと意気込んでいました。そして、見ているあいだもそのセリフにぐいぐいと引き込まれて、やはり凄いなあと堪能していました。そして、「まとめ」には録画したビデオからテープ起こしして、冒頭からの光源氏のセリフを長々と引用・ご紹介させていただこうと思っていました。それくらい、最終回にも「血を吐くような本物の思い」が溢れていて凄かったのです。
なのに、半年がたっても書けないでいたのは、それがアニメだったから・・・。アニメという分野だからというのではありません。アニメという「絵」があったからです。
最終回を見終わったときの感慨は・・・、「あれ、今日は『平家物語』を見たんだっけ?」
セリフによる言葉からの感動とは別に、目で見た印象の感慨が、???という疑問符として残り、見ているあいだの感動とちぐはぐ。どうしても素直なままの感動を書けなかったのです。今も、こうして書いていて思い浮かぶ「絵」は、鎧兜をつけてひざまづく光源氏・・・
私は『平家物語』も好きですし、平家の公達の一人一人のファンです。重衡なんて、それはもう、好きです。だから、アニメに『平家物語』を拒否しているわけではありません。
ただ、その日、私が見たかったのは、『源氏物語』なんです。史実考証がどうのなんて堅苦しい話をしているのではありません。ムード・雰囲気・その時代・・・に浸りたかったんです。その時代の中で、光源氏の「血を吐くような思い」の吐露を聞きたかったんです。今も思い出すのは、『源氏物語』の世界ではなく、『平家物語』・・・・。それが最終回でした。もったいなかったですね。あんなにいいセリフ、アニメでしたのに。
それとは別に、やはり私は出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」に喝采です。本質にぐいぐいと錐もみするようにして喰い込んでいく手法、シナリオ。正面から「思い」に向き合って、主人公たちがその「思い」に突き動かされて、ドラマが進みました。
『源氏物語』自体がそういう内容といってしまえばそれまでですが、ただ、大きく『源氏物語』というと、どうしても先入観的ムードができていて、それを破るのは大変。夕顔・空蝉・浮舟・・・、その三人を無視するなんて、さらにいえば、末摘花を語らないなんて・・・
出崎監督が奇しくもなさったのは、『源氏物語』の本質部分を、その部分だけを切り取られてダイナミックに繰り広げられたのでした。『源氏物語』の本質・・・、それは紫の上ではありません。藤壺です。『源氏物語』本編は紫の上が主人公で長~い時間が、頁が費やされて進みます。藤壺は光源氏がその紫の上に惹かれる原因として語られるだけです。初恋の人藤壺に紫の上が似ているから・・・と。
でも、光源氏の心を切り取ったら、思っても思っても届かない相手藤壺は永遠の恋人。対して紫の上は手に入れることのできた現実の人。深さが違います。
人は「届かない」ものに永遠に憧れ続けます。光源氏の心の中は、一生、遂げられなかった愛・・・、藤壺への愛で、ズタズタに引き裂かれて血まみれになっていたのです。出崎監督の嗅覚はめざとくそれに吸いつけられました。紫の上を中心とする一連の事件、ドラマなんかより、この「一事」こそが紫式部が書きたかった本質だということを見抜かれたんです。今まであったでしょうか、紫の上でなく、藤壺が主人公の『源氏物語』なんて。
最終回も、出家した藤壺と光源氏のドラマで終わりました。やはり、「最後も藤壺」だった・・・と納得して、やはり凄さを改めて確認して、さあ、では、まとめを・・・と思うと、藤壺がなんと、中世の『とはずがたり』の二条のように、墨染姿で全国行脚をする・・・、そのときに発する光源氏への思いのセリフもよかったのですが、見ている私の眼には、「あれ、今私は『とはずがたり』を見てるんだっけ????」
やはり、アニメは「絵」の影響が大きいですね。はじめて『源氏物語』に接した方には問題ないかもしれませんが、『源氏物語』世界に堪能したかった私には、どうしてもちぐはぐな、もったいない最終回でした。
ただ、ここで最初の「血をはくような本物の思い」に戻りますが、現実生活にこれはありません。みんな、これを持っていても、隠して、自分の中に秘めて、生きています。なぜなら、そんなものを標榜して暮したら、「破壊」につながりますから。危ないんです。本物の思いは・・・。
たしか、それも、朧月夜のセリフにそういう内容のことがありましたよね。そのときも感心して、「深い」なあと思いました。ちゃんと監督は意識されてるんだ・・と思いました。
人は本質で生きようとしてもできるものではありません。だから、人は文学とか芸術にそれを重ね合わせて消化・・・、昇華するんです。昔はその関係がとても一体化していました。純粋だったし、シンプルでした。今の時代、それがとてもできにくくなっています。というか、そんなことすら見失われているというか・・・。私には今の時代の文化、芸術、文学が、本物の思いから離れて表面的な事象に左右されすぎている気がします。だから、私には魅力ないんです。だから、私はそれを求めて文学的流浪者になっていました。そこに現れたのが出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」でした。久々に胸を打たれました。久々に「血を吐く思い」を思い出させられました。喝采!!!です。