2019.4.5 夏の研究発表に向けての備忘録的雑感(1)

4月1日

11:30 新元号「令和」と発表

 

歴史の会の集まりを離れ 一人になってTLを見たら 西本願寺本万葉集 万葉集 の文字のオンパレード 何が起こってるの? と目を丸くしてたら新元号の出典ですって 昨日まで独り籠ってやっていた万葉集 これからやりにくくなるなあと あえて道中のお供に持って出たこのご本に籠ります笑

 

関口研二氏『古筆細見』より: …中国古代の書法の多くは石刻、日本のは肉筆で、様相、趣を異にするが、こうした時代の中核的書法を古法といい、古法に基づく書跡を古筆と呼ぶ← 古筆の世界に入る前の心構えを教えて頂けそうなご本と出会いました

 

昨日のうちにアップしておけばよかった と悔いつつ開いた『冷泉家時雨亭叢書 金沢文庫本万葉集』 図書館で借りてきたのが夕刻だったから明日にしようと呑気にしていて その「明日」になったら新元号発表でTLが万葉集だらけ アップしたらそれに紛れてしまうから深夜まで持ち越していました

 

思惑があって借りてきて 確かめたら やはり思惑どおりだった とても大変なことなのだけれど 全然驚かないのは もうこういうことに慣れてしまっているから それと 思惑が湧いた時 たぶんそうだろうというあえかだけれどなんとなくの自信があるからで 驚きにはならず やっぱり の思いが強い

 

だけど この発見 この先どうするべき?

 

私はやっぱり竹御所を大河にしたい とそう思った 新元号発表の日を終えて 眠りにつくにあたって 出典が万葉集ということで 出版社における万葉集の大量増刷のニュースを見て湧いた思い その印刷される万葉集は総て『西本願寺本万葉集』が底本で それは仙覚さんが校訂した万葉集 その仙覚さんは竹御所

 

が難産で亡くなったのを悲しんだ将軍頼経が 彼女の菩提を弔うために建てた比企谷の新釈迦堂に住持として呼ばれ そこで頼経に命じられて万葉集の研究をした 竹御所の早い崩御がなかったら 仙覚さんの万葉集はなかった 今の活字本の万葉集はできなかった 竹御所の命は 万葉集の中に永遠に生きています

 

4月2日

おはようございます 深夜のこの呟き ほんとに実現させたい その為に仙覚の小説を書いている様なところもあります 竹御所は二代将軍頼家と比企能員娘の若狭局の子 四代将軍頼経の正室になります 源家の血を唯一継ぐ人として御家人たちに慕われ 京にいて崩御の報に接した彼らは急いで鎌倉に帰ったそう

 

昨夜の発見 これはほんとに重大で いつかなんとかしなければならないとわかるのだけれど 論文にはまだ至らない… と悩んでいて ふっと さっき そうだ 夏の学会で発表しよう と思いつきました

 

4月3日

一昨夜だったか発見して学会で発表しようと考えた件 古筆切できっかけを下さった方にご相談したら 発表する価値があると思います とお返事頂きました 古筆切の世界に入るのにあれほどためらったのに いざ入ったらもうこの展開 発表のための応募が今月中旬だからうかうかしていられなくなりました

 

4月4日

おはようございます 写真は金沢文庫本万葉集 古筆切の世界で金沢文庫切という万葉集があると教えて頂いたら その解説に冷泉家本という完全な本があると知って 図書館で借りて見ています 綺麗な筆跡! さっき鎌倉の方からお電話を頂いて しばし古筆切の世界を話してしまいました

 

金沢文庫長でいらした関靖先生の『武家の興學』 Twitterでいつも京都のことを助けて頂いているフォロワーさんから頂きました そうしたら今 古筆切の先生からこの本をお持ちかも知れませんがお送りしましたとメール 沢山の方に助けて頂いています

 

↓RT TVを見ないから西本願寺本万葉集ばかりが写し出されているのを知らなかった 西本願寺本万葉集は尾州家河内本源氏物語と双子のような料紙サイズ共にそっくり同じ写本 それを教えて下さったのが金沢文庫の学芸員さんで 小川靖彦先生がブログにそう書いてられますが どういうことでしょうと

 

私が尾州家本を研究していて それをその学芸員さんが知ってらしたからのお尋ね すぐ小川先生のブログを確認して確かめ そこから尾州家本の研究に西本願寺本万葉集が加わり 源氏物語だけでは行き詰まっていた研究をに新たな展開ができて その過程で私は仙覚という万葉学者の存在を知り 今その小説にとり

 

かかっています 西本願寺本万葉集と仙覚さんの関係は 西本願寺本万葉集が仙覚さんが作った万葉集を底本としているから 西本願寺本万葉集の背後には仙覚さんの業績が厳然としてあります

 

39万のキリ番を撮り逃しました笑 メンテナンスで不具合だったniftyブログ 思いついた時の呟き程度に復活させていたらキリ番に気づき 撮ろうと思ってスマホを出している間にカウンターが一個進んでしまいました

 

都立多摩図書館でコピーしてきた佐々木孝浩氏の『尾州家河内本源氏物語』に関するご論考を ある方にお送りしようと思って探したら 無い と焦って探したら 『源氏物語』の資料の中にありました 当たり前! 金沢文庫本万葉集にかかっているから 『万葉集』の資料の中を探してしまっていたのでした

 

昨日とったコピー これからこれと取り組むのですが さあ どういう展開になるでしょう はらはら

 

最近眠くて 何もしないで早々に寝る日が続いたのにまだ眠くて 日中も疲労感 体力落ちたなあ 研究発表大丈夫かしら と心配しながら でも少しやってから寝ようと 今夜はこうして机に向かったら なんか だんだん快調に 思い出しました 家族との生活優先にしばらく朝型を続けるとこうなるってこと 私は夜型

 

ネットでみつけた「『万葉集』寂印成俊本系統の書式について」をこれから拝読します 昼に冷泉家時雨亭叢書『金沢文庫本万葉集』の解題を読んだから 楽に読めそう (ざっと見て 順が逆だったら 厳しかったと思う) だけど そろそろ一々の事柄を年譜に落とさなければ

|

2012.7.11 プレゼン用に編集したスライド【双子の写本がたどった運命~仙覚と『万葉集』の歴史~】をYoutubeにアップしました。

318709_459164967441422_175412011__2

7月7日に埼玉県比企郡の都幾川と小川町で、午前と午後のそれぞれ一回ずつ、30分ほどのミニプレゼンをさせていただきました。

スライドは全部で42枚。それをスライドショーにしてYoutubeにアップしました。ご覧になっていただけたらと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=ev1vVqCLfl8&feature=youtu.be&a

タイトルは、【双子の写本がたどった運命~仙覚と『万葉集』の歴史~】。仙覚さんの地元で、仙覚さんの偉業をご紹介し、普及して、地元の皆様に仙覚さんを称えて喜んでいただきたい一心のプレゼンです。

午前に行った都幾川の会場は、春に慈光寺を訪ねたときに知り合った寧々房さんのお店。店主の澤井かやさんが都幾川や隣町の嵐山、秩父の方々に声をかけてくださって、18名もの方を集めてくださいました。

澤井さんがブログに当日のようすを載せてくださいましたので、写真を転載させていただきます。

Img_1199094_36183474_4

と、上が店内でのプレゼン光景。
下は、春に行ったときに撮った写真です。

Arsltbdcqai7fdi

Arskvfaciaa3ecl

↑ この仏像さんは澤井様のお作です。この店内が会場になりました。

午後は小川町図書館で。NPO法人仙覚さんの会の皆様に向けてお話させていただきました。

11

1

終わったあと、一人の男性が寄っていらして、「今まで合戦というと誰と誰が戦って…ばかりに興味を持ったけど、合戦によって運命を狂わされた人たちがいて、その人たちによって作られた文化、というお話がとてもよかった」と言っていただいたのが嬉しかったです。

また、他の男性からは、「貴女の視点はとてもいい。思いが伝わってきた」とも。

思いが伝わっていただけたなら大成功!と思いました。

終わって、時間があったので、図書館から近くの仙覚さんの万葉顕彰碑まで行って撮ってきました。論文を書くための取材で一番最初に行ってから何回か小川町を訪ねているのですが、いつも用事を済ませるだけでいっぱいいっぱいで顕彰碑を訪ねる余裕がありませんでした。

久しぶりの再訪。雨のなか、重いプレゼン用の機材を引きながらの登頂(かなりきつい上り道です!)はふうふうしましたが、濡れた初夏の緑がしたたるようなすがすがしさに心も洗われました。

559216_457848637573055_241373111_n

仙覚さんの顕彰碑の場所を検索すると、たいてい「テニスコートを見下ろして建つ」とあります。その状況です。

|

2012.7.4 7月7日に埼玉県比企郡の仙覚さんの故郷で『源氏物語と鎌倉』のプレゼンをさせていただきます!

Axbsizgcmaizejt

20120703

7月7日(土)に、埼玉県比企郡小川町とときがわ町で、午前と午後の二回、「仙覚と『万葉集』の歴史」のプレゼンをさせていただきます。一回30分のミニ版です。

今日はそれに使うパワーポイントの編集の仕上げをしました。上の写真がタイトルスライド。下は最後のスライドでご挨拶です。

内容は鎌倉のときの「光行と『源氏物語』の歴史」と同じですが、光行さんの部分を減らして、仙覚さんをメインにしました。

作っていて、同じ歴史なのに『源氏物語』をメインに作っていたときと、今回の『万葉集』が中心のとでは、作っている気分が全然違うのに驚きました。古典そのものの雰囲気が作用しているんでしょうね。『万葉集』を意識して撮ったり考えたりはしてこなかったので、イメージの膨らませようがなく困りました。

2010年11月に鎌倉で最初の講演をして、2011年10月にやはり鎌倉で同じく講演をし、そして『源氏物語と鎌倉』の刊行。

2010年のときにはまだわかっていなかったり、もしかして…と曖昧に浮かびはじめていたことが、2011年のときには結論としてお話できたり、そして、今回、比企の方々に向けて作ったパワポでは、前の二回と格段の差がついて深みと自信をもってお話できます。

思考は、発表の機会をいただいて成長するかのようです。『源氏物語と鎌倉』は学術書なので難しいとの苦情噴出でしたが、難しいだけでなく、私のなかでもこなれていなかったことは事実。刊行後に論文と掌編と二本、原稿を書いて、ようやく私のなかでもこなれて柔らかくふくよかになってきました。

今回のタイトル「双子の写本のたどった歴史」が浮かんだ今、『万葉集と源氏物語 双子の写本の謎』というのを軽いタッチで書いたら、結構面白くなるのではないでしょうか。「双子の写本」の語は今回はじめて使いました。これも、こなれた結果です!

|

2012.6.3 埼玉県比企郡小川町の図書館に設置された「おがわ仙覚万葉コーナー」…ツイッターの連投を転載

埼玉県比企郡小川町の図書館に昨年設置された「おがわ仙覚万葉コーナー」の写真を10枚連投させていただきます。

1

↓ 展示壁面1 @おがわ仙覚万葉コーナー

2

↓ 展示壁面2 @おがわ仙覚万葉コーナー

3

↓ 展示壁面3 @おがわ仙覚万葉コーナー

4

↓ 昭和三年、仙覚は宮内省より従四位を贈られました。仙覚の偉業がこの時代になってもまだ認められ称えられるなんて!贈位を伝える宮内省からの通知の写真です。

5

↓ 昭和三年に贈られた従四位の位記の写真。これだけの偉業の人、仙覚…。私たちはもっと仙覚を知り価値を共有すべしと痛切に思ってやみません。

6 

↓ パンフレットのなかの「仙覚の偉業」のページ。晩年の仙覚が鎌倉の北条実時に夏梨を贈った自筆書状の写真が載っています。小川町で『万葉集注釈』を完成させた後ですからきっと小川町周辺の梨なのでしょうね。

7

↓ 仙覚が後嵯峨天皇に『万葉集』を奏覧した奏覧状の復刻版も展示されたという展示の新聞記事…この復刻版の存在、知りませんでした。いつか見せて戴きたいもの…

8

↓ 展示壁面4 @おがわ仙覚万葉コーナー…仙覚顕彰碑と万葉の花の写真パネルが飾られています。

9

↓ 最後に小川町図書館の全景を! 新しい綺麗な図書館です。小川町ではNPO法人の方々による仙覚万葉まつりが毎年開催されていて、参加者は小川町特産の和紙で作った万葉の衣装を着て歩きます。

11 

↓ これは昨日小川町で見せていただいた紫草の原種です。二年目のものだそう。

10_2

|

2011.5.19 真鍋俊照先生古稀記念論集『密教美術と歴史文化』(法蔵館)を拝受してきました・・・「北条実時と『西本願寺本万葉集』」を載せていただいています

Photo_6

Photo_7

Photo_8

Photo_11 

5月15日、京都で真鍋俊照先生の『密教美術と歴史文化』のご刊行記念の集いがあり行って参りました。本来ならご刊行の祝賀会となるところですが、東北の震災がありましたので執筆者の会とされたのです。 ここで完成なったばかりのご本を頂戴しました。執筆者も皆会場ではじめて手にして、皆様席につかれると興味津津でページを繰っていられました。

上二枚の写真がその表紙と裏表紙。仏画は真鍋先生ご制作です。
表紙の上辺に配された称名寺の赤い橋の写真は私の撮影。浄土式庭園に惹かれてずっと称名寺を撮っていますので、使っていただきました。撮影はもう10年位前で、現在の称名寺の光景ではありません。私が通うようになってから橋は二回塗り替えられていて、写真はその最初のもの。真鍋先生がまだ金沢文庫にいらした当時のものです。現在のと微妙に趣が違っています。平安の情趣がこちらの方があるでしょうか。とにかく剣菱の金色が夕陽を浴びて池に映えるとかがやいて綺麗でした。

『密教美術と歴史文化』には「北条実時と『西本願寺本万葉集』」を載せていただいています。従来、実時書写といわれてきた『尾州家河内本源氏物語』とまったく同じ装丁をもつ『西本願寺本万葉集』についての考察です。結論は、『尾州家河内本源氏物語』は実時の書写でなく、実時が仕えていた宗尊親王の制作。宗尊親王が更迭されたあと、御所に残されていた『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』を実時が金沢文庫に収めたものとなりました。

ここでは『西本願寺本万葉集』の底本となっている「文永三年本万葉集」を仕上げた仙覚についてかなりの分量で考察しました。これははからずもそういう内容になってしまったのです。

仙覚は万葉集についての貢献大なのに、実際に誰だったのか、まだ特定されていないのです。比企氏のゆかりとされていますので、比企氏の系図から年代・軌跡の合う人物を割り出しました。これは本邦発公開の説です!(*^-^) こんなに著名になっても誰なのか不明だったのは、比企氏ゆかりだったから・・・、何故なら、比企氏は比企の乱で滅ぼされて、その残党とわかると北条氏によって殺される危険があったから・・・、と状況が理に適っていますから、結構自信もっています。

その仙覚が宗尊親王に『万葉集』を献上したのが「文永二年本」。『西本願寺本万葉集』はその翌年の「文永三年本」が底本。そのあいだに宗尊親王が更迭されて帰洛しています。実時は鎌倉幕府の重鎮で宗尊親王のお世話をする立場でした。更迭の評議にも参加しています。おそらく親王が帰洛されたあと、御所を整理していて、残されていた『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』をみつけたのでしょう。

このとき『尾州家河内本源氏物語』は第一次的に完成していました。『西本願寺本万葉集』は未記載で、料紙だけの状態だったのだと思います。「文永二年本」は宗尊親王が帰洛の際に持っていかれたのでしょう。仙覚はまた校訂して「文永三年本」を成し、それを『西本願寺本万葉集』として書写します。

この書写、『西本願寺本万葉集』の完成を仙覚にさせたのが実時と思います。仙覚は前にも書きましたが比企氏の残党ですから、本来なら実時にみつかってはまずいのです。でも、もう仙覚も晩年近くなっていますし、実時は仙覚の万葉学者としての才能を見抜いて重用したのだと思います。おそらくここで仙覚と実時の交流がはじまって、10年後ほどには埼玉県の比企郡から仙覚が実時に「夏梨」を贈るような関係になっていました。

とざっと書きましたが、これが「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の結論です。ここにただりつくまで原稿は相当の枚数をこなしています。できあがったとき、ある歴史の先生にみていただいたのですが、「まるでサスペンスのようだね」とおっしゃっていただきました。ほんとうに犯人は誰かの謎解きです!

下二枚の写真は、ほぼ10年前になりますが、真鍋俊照先生のご還暦記念論集『仏教美術と歴史文化』です。同じく仏画は真鍋先生のご制作。上辺に私の写真を使っていただいていますが、いわき市の白水阿弥陀堂です。平泉からこの地に嫁いでこられた奥州藤原氏の女性が、平泉を偲んで、泉という字の「白と水」を冠してつけた寺院名です。こちらも浄土式庭園で有名な史跡ですが、先だっての震災ではいわき市も被害に遭われていてどうなってしまったか心を痛めました。

このときは「北条実時と『異本紫明抄』」を載せていただきました。私の鎌倉の『源氏物語』文化探究の端緒となったものです。『異本紫明抄』は鎌倉で編纂された『源氏物語』の註釈書です。素寂の『紫明抄』と関係がありそうなのでその異本とされて『異本紫明抄』と呼ばれていますが、実際は違って、編纂者が誰かわかっていませんでした。

それで、笠間時朝説が長くいわれてきましたが、その後北条実時説が打ち出され、それを目にして私が奮起したという事情です。私は国文学専門ではなく、称名寺の側から歴史をみていますので、文献だけでは見えない当時の状況や歴史、人脈などが把握できています。それらからたどっていったら、自然と実時の『源氏物語』との関わりが浮かび上がりました。『異本紫明抄』は実時の編纂です!

それを受けて『西本願寺本万葉集』も実時の書写とばかり思ってはじめた「北条実時と『西本願寺本万葉集』」でしたが、はからずもこちらは否定の結果になってしまいました。でも、そのとき立ち会っていた実時がどう動いたか、どうこれら二つの写本に対処して、仙覚に対応したかが浮かび上がって、これも文人政治家実時あっての知的遺産の保護という結果になりました。

私事ばかり書きましたが、両方のご論集、素晴らしいものです。裏表紙の写真に執筆者のお名前が一覧になっていますのでどうぞご覧になってください。そういえば、15日の会、執筆者の方の大半がご還暦記念論集にも書かれていますから10年ぶりの再会です。なんとなく会場が年を重ねた雰囲気になっているのが実感され、お隣の席の方とこっそり笑い合ってしまいました。スピーチで皆様が真鍋先生を称えられつつ、「卒寿記念論集も是非」とおっしゃられ、先生は苦笑されていましたが、そうなったときにまた記念会がもたれて集まったらを考えたら・・・でした。

■カバー図版について
●『密教美術と歴史文化』
真鍋俊照先生の仏画は
≪表紙≫普賢菩薩と荼喜尼天、≪裏表紙≫長谷寺式十一面観音
デザインは
杉浦康平+佐藤篤司
●『仏教美術と歴史文化』
真鍋俊照先生の仏画は
≪表紙・裏表紙≫応徳涅槃図
デザインは
杉浦康平+佐藤篤司+副田和泉子

|

2010.9.6 鎌倉の『万葉集』研究者仙覚のこと―「花の蹴鞠」外伝として― (歌誌『月光』より転載)

016

鎌倉の妙本寺が建つ地は比企ケ谷といい、かつてここには比企一族が住んでいました。伊豆の流刑時代を支えてくれた恩に報い、頼朝が比企尼にこの地を与えたのがはじまりです。この境内奥に仙覚の万葉集研究を称える碑が建っています。それは寛元四年の校定本奥書に「寛元四年十二月廿二日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊以治定本書写畢」とあることによります。

新釈迦堂は頼家の遺児竹御所が三十三歳で亡くなったあとに建てられたお堂です。竹御所の母は比企能員娘の若狭局。頼家とのあいだに一幡という男児があり、その一幡が将軍を継ぐことになるのを恐れた北条氏によって比企一族は滅ぼされました。それが比企の乱です。竹御所はこの乱の年の生まれです。仙覚もまたこの乱の年の生まれで奇しくも同い年の二人です。寛元四年、仙覚は四十四歳でした。

埼玉県比企郡小川町にも仙覚の万葉集研究の功績を称える碑が建っています。それは『万葉集注釈』第十巻の奥書に「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之了」とあり、「麻師宇郷」がここ小川町の増尾あたりといわれていることから、昭和三年に佐々木信綱博士らによって建立されました。文永六年、仙覚は六十七歳で以後の消息は不明です。

この二つの奥書から仙覚が比企氏に関係ある人物だろうということが推測されますが、明らかなことはわかっていません。

以前私は「北条実時と『異本紫明抄』」という原稿で、金沢文庫創設者である北条実時の『源氏物語』との関わりを書きました。実時には現在重要文化財に指定されている『尾州家河内本源氏物語』の書写という功績があります。この『尾州家河内本源氏物語』とまったく同じ大きさ・装丁の『万葉集』があり、それが『西本願寺本万葉集』です。

この『西本願寺本万葉集』は『万葉集』二十巻約四千五百首の全部を完備する現存最古の写本で、仙覚の文永三年に成された校定本を原本としています。『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁ということから、これも実時書写ではないかといわれています。ではいったいほんとうにそうなのかに関心をもって今私は『万葉集』研究史の森に踏み込んでいます。

長く『源氏物語』ばかりに目がいっていた私には『万葉集』自体が異質の世界で、それでまず『万葉集』について知ろうと調べてすぐに仙覚に出会いました。そして「二十巻約四千五百首の全部を完備する現存最古の写本」がこの東国の鎌倉でできていたことに驚きました。

『源氏物語』二大写本の一つといわれる「河内本源氏物語」も鎌倉で成立しています。古典の世界はどうしても京都が優位で、鎌倉は武士文化一辺倒の武骨で野蛮な地という劣ったイメージが定着していますが、日本文化の二大基層(『古今和歌集』も入れて三大でしょうか……)を成す『源氏物語』と『万葉集』の二つもが現代に通用する写本を残しているのです。どうして鎌倉はこれを誇りとしないのか、業績を埋もれさせたままにしているのかが私には疑問です。もっとこれは知られてしかるべき事実です。

現在私はこの『月光』誌に「花の蹴鞠」という小説を連載させていただいています。これは『新古今和歌集』撰者の飛鳥井雅経の生涯を軸に源平の争乱から承久の乱までを描くものです。雅経が頼朝に仕えていたことから頼朝について書き始め、頼朝が比企尼を呼び寄せ、その娘の丹後局との関わりを書かなくてはならなくなって、しばらく比企氏について調べていました。

比企の乱なんて遠い昔に教科書の片隅にあったほんの小さな私的な内乱としか捉えられていなかったのですが、知ってみて驚きました。もし北条氏によって滅ぼされていなかったら比企氏が将軍の外戚になって権力者の地位につき、北条氏の世はなかったのです。そして比企氏は北条氏と違って京の文化を身につけていますから、武家文化一辺倒の鎌倉ではない世界ができていたのです。仙覚の万葉集研究という業績は比企氏のゆかりならではのという気が私にはします。

さて仙覚ですが、この人物がいったい誰なのか、それもわかっていません。ただ比企氏の歴史をほぼ把握し終わったときにこの『西本願寺本万葉集』について調べることになったものですから、私にはピンとくるものがありました。で、目下その裏付け調査にかかっています。佐々木信綱博士をはじめそうそうたる学者の方が研究されてなお解明されないものがそんなに簡単にわかるはずがないとは私自身思いますが、真実の解明は専門分野だけの視野では到底無理です。今までの方々の限界はここにあると思います。

例えば『平家物語』ですが、この編纂時期についても明らかになっていません。現代の歴史学者の方が文献から「承久の乱後」と書かれていることからそれが定説のようになっています。残っている史料から推すとそうなるのです。

ですが、果たして残っている乏しい文献だけが真実でしょうか。『源氏物語』研究史をずっと探ってきて、「河内本源氏物語」の校訂者源光行の生涯を追っている私には、『平家物語』編纂に関わったとされる光行の生涯のなかでそれが可能な時期はここしかないということが見えています。これも以前『月光』誌で「白拍子の風」という小説を連載させていただいて慈円を主人公にして書いたことからの知識によるコラボレーション的解明です。

慈円は『平家物語』編纂の主導者といわれ、その慈円と光行の接点を探ると、編纂は後鳥羽院のもとで『新古今和歌集』編集と同時期に並行して行われていたことになります。「花の蹴鞠」ではもうじき『新古今和歌集』の時代に突入しますから、これからそれを入れて書くつもりです。

こんなふうにして仙覚の比企一族のなかに占める位置というのもほぼ確実に見えてきています。それは意外にも京の九条家との関係から確信をもてる運びになりました。比企氏ゆかりの小川町の近くに、鎌倉時代当時関東最大の天台宗寺院だった慈光寺という寺院があります。

そこに比企氏ゆかりの子供が入寺させられたと読んで訪ねました。するとそこにあったのは『平家納経』と並んで日本三大装飾経と称される『慈光寺経』。その『慈光寺経』の制作者が九条家だったのです。『新古今和歌集』の仮名序を書いた九条兼実息の良経の急死を悼んでの制作です。

鎌倉で仙覚に『万葉集』の校定を命じたのは良経の孫の第四代将軍頼経です。冒頭に記した竹御所はその頼経室です。仙覚はその竹御所の死のあと比企ケ谷に住んで万葉集研究に勤しみました。このあたりで関係が見えてきませんか? 

混迷は深い森のようですが、時間と空間で捉えると案外明るく陽が差し込んで見えてくるものがあります。慈光寺を訪ねて、『慈光寺経』の存在をそこに見て、その光が射してきました。

時間と空間を照合すると見えてくるというのは、歴史が人間と人間の繋がりでできているからでしょう。但し文献がない限り確信しても証拠はありません。ここに小説という手法が生きてくるのです。小説は時間と空間を追う作業です。

「花の蹴鞠」はじきに比企の乱を書く段階にきています。この年に仙覚が産まれるのですが、「誰」だったかを明かして書くか書かないか、それはそのとき『西本願寺本万葉集』についての原稿が発表になっているかどうかによって決めようと思っています。

|

2010.9.5 仙覚と万葉集の原稿「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の初校校正を終わりました!!

1

2

3

写真一枚目は、埼玉県東松山市の岩殿観音。二枚目は、鎌倉市妙本寺境内にある「万葉集研究遺蹟碑」。三枚目は、埼玉県比企郡小川町の「仙覚律師顕彰碑」です。

春に仕上げた論文の初校が届いていて、早急に送り返さなければならなかったのですが、事情で遅れてしまい、今日やっと仕上げて、夜の時間ぎりぎりにクロネコヤマト便営業所まで持ち込んで、明日京都の出版社に着くよう頑張りました。

きっと、余裕をもって初校が届いたときにかかっていたら、余裕をもって「高いところからの視線」で校正したでしょうから、ゆうゆうできて、写真を追加しようなんて思わなかったでしょう。

けれど、とにかく私的な事情で遅らせている上、いくら余裕をみはかろうとしても無理な状態でしたので、昨日から、「明日は何があっても仕上げて、夕方の便に乗せる」って決めていたんです。それで、朝からクーラーをつけていても汗ばむ外の外気からの熱にタオル片手に頑張って、なんとかとりかかっていました。

そうしたら、終盤になって、「あの写真を入れたいな」って、ふと思ったんです。初校ですから、もちろん編集の割り付けは終わっています。入稿当時、何枚か写真を入れたいとは思っていたのですが、そのときも期限ぎりぎりの送付でしたので、写真の準備をする余裕がなく、とにかく一枚、テーマである『西本願寺本万葉集』の写真を確保して載せる手はずをつけるのがやっとでした。

『西本願寺本万葉集』の表紙の写真は無事、一枚、綺麗に載せていただいていました。それでいいと思っていたのですが、ひととおりの校正をしたあと、ふたたび最初からやりなおしていたら、ふと、「ここにあの写真を入れたい」という思いが湧いたんです。それが一枚目の岩殿観音です。

岩殿観音は、仙覚が過ごしたゆかりの真言宗寺院です。ご覧のように、境内にのしかかる大きな岩盤。こんなふうな原風景を仙覚はもっていました。それは文章だけでは想像していただけません。やはりこれを挿入しよう、と思いました。そうしたら、間に合うならついでに、鎌倉と小川町にある二つの仙覚の碑を・・・と。まにあうかどうかわかりませんが、ともかく三枚のデータを添付して送らせていただきました。

そんなわけで、今日は終日仙覚さんの生涯を追って浸っていました。二校まで届いたら終わりです。今年いっぱいの刊行になるのでしょうか。ぎりぎりどうかなあ・・・というところですね。でも、この原稿が活字にならないと、仙覚さんが誰か・・・を打ち明けられないんですよ。私のなかでは、もうとっくに公然化している気分でいろいろな方とお話しているのですが・・・

鎌倉では・・・、ではなくて、湘南では、「湘南邸園文化祭のキックオフオフイベント」が催されたそうです。主催者の方からご連絡をいただきました。会場は、「侯爵黒田長成侯の別荘で小田原城が眼下、相模湾が一望のできる絶好の場所」だったとか。今はさびれて昔の光今いずこ・・・だそうですが、「大広間の襖の屋久杉の一枚板」に孔雀の絵が描かれていたと、写真を送っていただきました。「孔雀・・・で思いだして」と(o^-^o)

仙覚の原稿も一段落したし、あと一つ写真の仕事をこなしたら、いよいよ鎌倉の『源氏物語』イベントに集中です!! いよいよ秋本番・・・ですね。

追記:
今、京都の編集者さんから「校正が届いた」旨のメールをいただき、写真の掲載も初校なので問題なく載せていただけることになりました。間に合ってよかった!! もう、原稿は一年間苦しんだほど書けなかったし、やっと仕上げて送るときには、『西本願寺本万葉集』の写真を所蔵先からお借りできるか四苦八苦・・・、とても他の写真を載せようなど思う余裕は湧きませんでした。

それにしても、昨夜19:00受付終了のぎりぎりにヤマト便に持ち込んだ原稿・・・。それがもう京都の出版社さんに届いているなんて!! 助かりますが、凄い時代ですね。

|

2010.8.20 仙覚と『西本願寺本万葉集』について書いた論文の初校が届きました!

013

昨日、久々に編集経過の情報が手に入ったと思ったら、今日、初校が届きました。『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁の『西本願寺本万葉集』の成立を追って書いたものです。でも、中は大部分、「仙覚とは誰か・・・」に費やされています。

『西本願寺本万葉集』の底本になっている「文永3年本万葉集」を成した仙覚。『西本願寺本万葉集』は現在活字化されている『万葉集』そのものです。それを成した人物というのに、じつは誰か明らかになっていません。註釈などの詞書から「東の道の果てに産まれた」とあるだけで、あとは換算して比企の乱の年の産まれということがわかっています。

『源氏物語』写本を追って書いていて『西本願寺本万葉集』に巡り合いました。『尾州家河内本源氏物語』が北条実時の書写なら、『西本願寺本万葉集』もまた実時の制作だろうと思ってはじめた論考です。

が、はじめるに際して、『万葉集』についてはまったくの無知ですから、まず『万葉集』がどのようなものかを知るために本を読んだのです。そうしたら、こんな凄い人物というのに仙覚がいったい誰なのかわかっていない・・・、俄然、興味がこちらに移ってしまいました。

仙覚が鎌倉は比企ケ谷の新釈迦堂で『万葉集』の校訂を成し、埼玉県比企郡小川町で『万葉集註釈』を成したことから、仙覚は比企氏に縁のある人物だろうといわれてきました。が、そこまでで、「東の道の果て」というからには常陸の人だろう・・・とか、その程度でした。比企氏のゆかりなら、埼玉県比企郡と考えたほうが自然なのに・・・

私は比企氏系図から該当と思われる人物を探っていったのですが、これが壮大なスケールの放浪で、仙覚一人をとっても大河ドラマができますね!! 『源氏物語』の源光行・親行親子も同じ時代に生きていますし、それこそ、京都では『新古今和歌集』編纂真っ盛りの時代・・・、仙覚も京都にのぼって順徳帝に接したりしています。

面白いので早くこの原稿を皆様に読んでいただきたいのですが、ようやく初校が届いて、これからです!! 校正の期限は今月いっぱい。これからふたたび仙覚の世界に没入できると思うと楽しみです!!

不思議ですね。北条氏と将軍家の拮抗を探ろうとして読書していても眠くなるだけなので、読むのはその章を書くときにすればいいと決め、『忘れられた書物の歴史』の執筆を開始しようと机周りを全部整理したところでした。で、最初の章の源光行を書こうとしてかつての『紫文幻想』など読み返したりしたのですが、なんとなく気が乗らない・・・、困ったなと思っていたときに初校が届いて、「これだ!」と飛びつきました。郵便で送られてくるあいだ中、仙覚さんが「私がもうすぐ行きますよ」とテレパシーを送ってくださっていたかのようです。

|

2010.3.3 仙覚と『西本願寺本万葉集』の原稿が終わりました・・・比企氏の遺産の凄さについて

164

 『源氏物語』の写本を追って鎌倉で成立した『尾州家河内本源氏物語』を中心にいろいろ探っていましたが、ある方から『尾州家河内本源氏物語』とそっくり同じ装丁の万葉集、『西本願寺本万葉集』があると教えていただいて、『万葉集』の世界に踏み込みました。

 昨年一年、資料集めと構想に費やし、今年に入って埼玉県比企郡の現地踏査を行い、二月初旬から書き始めて、二月いっぱいぎりぎりの原稿締め切りに間に合って書き終え、投函しました。

 当初は『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立がメインのテーマのはずでしたが、万葉集について読み始めたら、『西本願寺本万葉集』の底本となっている仙覚という鎌倉の万葉学者の正体が不明というおかしな事実に尽きあたり、俄然、興味がそこに移って、「仙覚とは誰か」の内容の考察になってしまいました。

 経緯についてはこれまでいろいろアップしてますので省略しますが、仙覚がどうも比企氏にゆかりの人物とまでは言われていました。でも、従来のそうそうたる学者さん方が研究されても、あるところまでいくと行きどまり・・・、みたいにしてわからなかったのです。

 たまたま私は昨年来「花の蹴鞠」という小説を連載していて、それが頼朝の時代からはじまって承久の乱までいく時代設定ですから、比企の乱も当然入ってきます。比企氏は、比企尼が伊豆に流されていた頼朝をずっと支援し続けた縁で、鎌倉幕府の成立後、頼朝に重用された氏族です。

 比企尼には男子がなかったために甥の能員を養子にして家督を継がせます。その能員女の若狭局が第二代将軍頼家の側室となり、嫡子一幡を産んだことから、能員はゆくゆくは一幡が第三代将軍となるとその外戚といった地位を持つまでに至ります。 が、それを恐れた北条氏が、第三代将軍には実朝をつけ、比企氏を滅ぼしたのが比企の乱です。

 仙覚は、その比企の乱の年の生れです。『万葉集』を成したのが比企ケ谷、『万葉集註釈』を成したのが埼玉県比企郡の小川町、といったことから比企氏のゆかりとされていますが、比企の乱の年の生まれとなると、これはもう比企氏の残党と考えるしかない・・・というところから私の考察ははじまりました。結果からいいますと、仙覚はたしかに比企氏の残党で、その為に身を隠していたから、正体が曖昧にしか伝わっていなかったんです。隠しているのですから、従来の方法で正面から研究しても追及し切れなかったという状況です。

 私が「仙覚はこの人」と見当をつけた最初のころ、メールである方にそれをお伝えしました。そうしたら、返信に「比企氏の遺産に感じ入っています」といただきました。私はハッとして、それから比企氏という氏族に対する見方が大きく変わりました。

 比企の乱は学校の教科書で習う範囲では、鎌倉によくあった一御家人が滅ぼされた内乱でしかありません。しかも、一般的には和田義盛等他のそうそうたる御家人が滅ぼされてゆく内乱のなかでは小さめの扱いです。でも、事実は比企の乱の方が物凄い大変な意味を持っていたのです。

 和田義盛や梶原景時が滅びてもただの御家人の話です。でも、比企能員が滅ぼされたということは違うんです。滅びていなかったら能員が外戚となって、幕府の権威は比企氏に移るんですから。それまで北条氏がその立場でした。比企氏がそうなったら、北条氏の立場はまったくなくなるわけです。おそらく北条氏は比企氏の復活を恐れて徹底的に打ちのめしたのでしょう。私は専門に歴史を学んでいませんでしたから、比企氏についても、比企の乱についても、一般的な知識として「小さく」しか思ってなくて、ただの滅ぼされた一氏族でした。

 が、「比企氏の遺産」と返信をいただいたとき、はじめて比企氏という氏族がもつ高度な文化に気がついたのです。比企尼は京都で頼朝の乳母をしていた女性です。比企氏の内部には京の文化が定着しているんです。だから、おそらく頼家の側室となった若狭局も優美な女性だったことでしょう。そういう高度で雅な文化をもつのが比企氏でした。仙覚はその一族のなかの人です。滅ぼされた一族の残党・・・という立場の人間はたくさんいるでしょうけれど、『万葉集』の研究に生涯を捧げたような人は他にいません。仙覚の万葉研究は、比企氏の人間ならではの結果だったんです。

 「比企氏の遺産」を心に執筆を続けていると、仙覚の心の軌跡が手にとるようにわかる気がしました。心に「知の遺産」をもって生涯をわたることの素晴らしさを思いました。(原稿は二月中に投稿していますが、華やかな気のするお雛様の日にこれを記します。載せていただくご本の刊行は11月の予定です。)

|

2010.2.25 鎌倉の万葉学者【仙覚】は誰か・・・、の原稿は書き終わったのですが、また難題が!

Rose289 一昨年来、『尾州家河内本源氏物語』と全く同じサイズ・装丁の万葉集『西本願寺本万葉集』について調べています。そこで出逢ったのが「仙覚とは誰か」という問題。『西本願寺本万葉集』は今日私たちが読んでいる万葉集の基となっている本で、仙覚はそれを成した人です。それまで万葉集は大方において訓が付けられてはいましたが、全部ではありませんでした。それを仙覚が知って最後の残りの歌全部に訓を付け終わったのです。鎌倉時代の人です。

 当初は『西本願寺本万葉集』についての考察ががメインになるはずでした。が、これほど重要な人物なのに、なんだかおかしい・・・。不明部分の来歴が多いんです。それで、俄然、仙覚とは誰か・・・を追求する方に興味がいってしまいました。(これについては1月に【万葉集の歴史の森に分け入りましょう】というシリーズをつくって10回に分けてご紹介しました。)

 で、2月に入って本格的に書き出して、一昨日、一応「完」を記すところまでしたんです。最終章を書きあげて、さあ、これで清書をして、編集部宛に投函すれば、ほぼ丸一年、何をしていてもずっと頭の隅から離れなかったこの原稿と、ほんとうに離れられる・・・と、昨日は晴々した心境でした。

 なのに・・・。最後の最後になってまた難題が起きてしまいました。それは、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』そのものについての問題・・・。そもそも『尾州家河内本源氏物語』はほんとうに奥書にあるように「正嘉二年」に「北条実時」が書写したものか・・・

 それについての疑義が最近の研究で浮かびあがってきています。2008年の源氏物語千年紀記念の刊行で源氏物語本文についての論文集がいろいろ出ていたんです。私が『西本願寺本万葉集』について書こうと思った時点ではまだ刊行になっていなかったので、知らないでいました。でも、原稿の最後に『西本願寺本万葉集』のまとめとして『尾州家河内本源氏物語』との関係を書くわけですから、念のためにと最近の動向をみたら新しく本文研究の本が出ていました。(源氏物語千年紀の効果ですね!!)

 で、今日、まとめてそれらに目を通させていただいていたら、なんと、『尾州家河内本源氏物語』は実時の書写本そのものではなさそう・・・。それについては花押等の問題から私もうすうすそう思っていたのですが、なんと、『尾州家河内本源氏物語』は最初から「河内本」でなく、最初は「青表紙本」の本文だったようなんです。それが訂正されて「河内本」の本文になっているのだと・・・。正嘉二年に実時がじきじきに親行から借りた本を書写したのなら、そんなことになるはずありませんよね。『尾州家河内本源氏物語』は実時の書写ではない????・・・

 果たして、そんなことがほんとうにそうなのでしょうか・・・・

 だとしたら、『西本願寺本万葉集』との関係はどうなってしまうのでしょう。2月いっぱいという〆切にゆうゆう間に合うと思って呑気にしていましたが、今日、一気に焦ってしまいました。これから『西本願寺本万葉集』が成立したあたりの状況をゆっくりみて、結論を導きだしたいと思います。

 今日は、「原稿が終わりました!」って、はしゃいでご報告・・・なんて朝は思っていたのですが、とりとめありませんが、更新もとどこっていることですし、ご報告がてら、「終わりませんでした」の記事を書かせていただきました・・・

|

より以前の記事一覧