2021.12.29 Twitterから転載…仙覚の『万葉集』にかける思いの根本問題を提示して頂いた大浜厳比古『万葉幻視考』についてまとめました
12月21日
眠くてたまらないのだけれど忘れないためにツイート TLのある方のブログで大浜厳比古という方の『万葉幻視考』を知り もしかしてこれこそ求めていた本 の気がして古書で注文しました 待ちきれない思いで検索して別の方のブログを拝読していたら『万葉集』は非業の死を遂げた人たちへの鎮魂の歌集で
はないかと 衝撃を受けて まさに これだ! と思ったのでした 仙覚さんが『万葉集』に惹かれた意味は これは昨夜呟いたなぜ比企氏が滅ぼされなければならなかったかの解明にある の次元を超えてはるかに深いです 仙覚さんは一族も含めての非業の死を遂げたものへの鎮魂として『万葉集』を見てい
たのだと それを文学の友に語ったら それってエイゼンシュタインじゃないと 粛清された人たちを映画に出すわけにいかないからエンドロールに全員の名前を載せたそう 彼曰く やっと世界文学の次元に入ってきたね だそうです でも とその続き なんで今までそれに気がつかなかったの? と
そうなんですよね 私は『万葉集』のプロでないからそれはもう一心に調べました でも歌の解釈や歴史の解説はあっても琴線に触れるご考察に出会わなかった 水底の歌が初めてです 梅原猛氏曰く「詩心」があるか否か なのです 大浜厳比古氏の『万葉幻視考』には梅原氏が解説を書かれているそうです
12月22日
まだ大浜厳比古『万葉幻視考』を開けていないのですが 予習のためと思って探した何方かのブログに 大浜氏は万葉集巻頭の二首が雄略天皇と舒明天皇で始まる意味として その二人の天皇の間にたくさんの非業の死を遂げた皇子がいるとあって なぜかその一人として有間皇子が心から離れません
12月23日
梅原猛氏序では大浜厳比古氏を詩人の想像力ある人として書き進められてましたが 坂本信幸氏解説を拝読したら 大浜氏は詩人を志した人で 詩人になるか学者になるか悩んだほど 坂本氏が詩作品を挙げてられて拝読したら 震えました 大浜氏ご自身が好きでいらしたという関門海峡 ああ 私ももう好きです!
こういう詩から離れて幾久しくなっていた と なんか 離れていた日々を悔恨
僭越ですが 大浜厳比古氏『万葉幻視考』冒頭の「いまや私は胸底の独語をさらけ出して私の『万葉集』論を問うてみようと思う。それをすることは実は作家を論じ、作品を論ずることにつながるからである」が 『仙覚ー存在を消して生きた男」冒頭の玄覚の独白「体力のある今のうちに、私はこれを書くことにしよう。いつか彼のことを知りたいと思う人は現れる。そのとき、その人たちの知るよすがとなるように、私は書く。そのために、私は、こうして机に向かって筆を執った」に重なって覚えられました なにか 精神構造が似ています
12月24日
大浜厳比古氏『万葉幻視考』から引用させて頂きます:『記紀』に史実として記されたわが古代の生々しさは、『万葉集』では捨象された。しかしそれは決して単なる捨象ではなかった。敏感で、繊細で、優しいわが万葉びとは、悲涙と慟哭のかわりに、『記紀』にさらし者にされているそれら怨霊たちを、『万葉』の世界にいたわりかくまった。そういう捨象であったのだ…… 歌と歌との空白は、実はカタリの世界であった。人々はカタルであろう。ウタのいわれを。カタラれるたびに霊は偲ばれ慰められる。散文のはいる余地などさらさらなかったのである。歌々はその間の空白に怨霊たちをかくまっている。その歌が、鎮魂の歌でなくてなんであろう。
12月25日
捨象 抽象を行う場合にそれ以外の特徴を捨て去ること シャショウ の語を使ったことないし初めて見たばかりなのにまた と気になって検索しました 『万葉幻視考』で大浜厳比古が「『記紀』に記された古代の生々しさは『万葉集』では捨象され」と書き 『牧野虚太郎詩集』の解説で鮎川信夫が「初期の詩では全く捨象されていた人間的な心理の闇」と書く
たまたま私が大浜厳比古氏の詩作品に牧野虚太郎を感じ 本棚の奥から取り出した詩集なのだけれど やはりどこかつながっているよう 早世した牧野作品は12篇しか残ってなくて 作品より解説ページが長い詩集です
その12篇を読んだのだけれど 改めて言葉の繰り出し方が凄いとしみじみ 清水昶先生の詩塾に通っていたとき 文章はつぎにくる文章があっと意表をつく文章が凄いと教えられた それで私は読むときも書くときもそう心がけているのだけれど 牧野作品はまさにそう それがモダニズムなのだとしても
12月26日
深夜 牧野虚太郎の詩のモダニズムについて呟いたら そうだ 吉田一穂もだったと思い出し 久々に白鳥を読みました 牧野虚太郎の復讐をどの詩が一番好きか問われたらこの詩 と先日呟いたけど 白鳥 もありました どちらも一番好きな詩です笑 私はモダニズム詩が好きなのでしょうか 考えたことなかったけど
びっくり! こんなふうに繋がってくるなんて コトバンク「知恵蔵」のモダニズムの解説: モダニズムのピークは、間違いなく、世界的同時性をもって展開された1920年代にあった。プルースト『失われた時を求めて』、ジョイス『ユリシーズ』、エリオット『荒地』、ウルフ『灯台へ』などがあげられる。
詩でしかモダニズムを考えたことなかったけど 散文においてもあったのですね そして まさにそれがプルースト ジョイス…… 小説作法として川端康成とか個々について学んできたけど 結局私はモダニズム体系のなかで文筆修行をしていたということのよう 惹かれるわけですね
言葉の繰り出し方としてモダニズムをもっと知りたいと思いましたが また探及世界の沼に入っていきそうだから止めて 仙覚さんの小説に戻ります 書くこと自体モダニズム世界にいたようだから
なんか気になってやり過ごすことができなくてエリオット『荒地』を検索していました やっとわかったこと それは現代の感性においての危機感の欠如 モダニズムがどうとか そういうことでなく エリオットも田村隆一も おそらく牧野虚太郎も あの西脇順三郎でさえ 戦後の荒廃した大地と人心 そういうことの危機を現実にまざまざと目にして生きていたんです エリオットは第一次大戦後の
私が仙覚を書きながらなんか手ぬるいと感じて書き進めないでいたのは いくら東北の震災とかコロナとか現実が目の前にあってもエリオットや田村隆一のようには自分のこととして感じられてない いつかしら現代人はほんとうに殺伐とした危機 生存の危険 を生々しく感じることのできない人種になってしまっているんですね 比企一族を滅亡に追いやられた仙覚さんの危機感を理屈ではわかっていても書けるわけがありませんでした 反省を込めてこれから考えていきます
と呟いて 昨日の「捨象」が生きてきました 『万葉集』は非業の死を遂げた人々の悔しみ悲しみの生々しさを 牧野虚太郎の詩も現実の生々しさを 捨象することで それらに対しての鎮魂に飛翔 生々しさに決して目をそらさず けれど書かない これだったのです 仙覚さんを書く方法は
自分のなかの生ぬるさを撲滅しなければ・・・ これはかなり難しいです(なぜなら平和のなかに生きているから 平和のなかで育ってしまってきたから いくら先に危険が見えていてもまだ現実として見えてないから)
12月27日
大浜厳比古氏『万葉幻視考』からとても長い時間をかけて『万葉集』における捨象の意味を掴み取った気分なのだけれど ふと手帳を見たらまだ一週間経っていない 先週の明日はまだ仙覚と源氏物語の関係について考えていました その後『万葉幻視考』が届いて 牧野虚太郎にいき 今日のモダニズム たった数日だったなんてと 仙覚の小説を書く根本をつかんだ濃密さに対して驚いています 結局数年近く書けなかったのはこの根本をつかんでなくて ただ仙覚は誰かを広めるため などという表面的な事柄でしか書こうとしていなかったからなんですね 急転直下の意味の変容でした