2015.1.12 ツイッターから転載…歴史を発見する原稿「鎌倉で作られた高貴な『源氏物語』の写本」、昨夜書き終わりました!今朝はのんびりです。

1月9日
鎌倉の源氏物語は平家の輝きを抜きにしては語れないのだけれど、ここのところ鎌倉にどっぷり漬かっていたから光行さんと平家の方々の交流に気分が戻れない。実時の自筆問題を終えてこれから光行さん、その後は仙覚さん。この短い原稿に走馬灯のように今までの人が登場する。それぞれが輝きますように。

自筆問題だけで論文的に終始するかと思ったら、突然色合いの違う光行さんの出番となって、今日は平家の資料と格闘です。でも、かつて輝いていたあの頃の光行さん気分が書けたら素晴らしい! (自画自賛でなく、平家の文化が素晴らしいんです!)

熱で体調がすぐれず終日寝てました。が、頭のなかはぐるぐるどうやったら平家と光行さんのことが上手く書けるかしらとそればかり。夜になって少し体力が出たので原稿に向かったら定家と光行が一歳違いの文学の同士で平家の王朝文化の恩恵を受けて育ったと。そこから書いたら進みました。

つまり定家の「青表紙本源氏物語」と光行さんの「河内本源氏物語」は平家の方々を偲ぶために成された写本だったということが重要と。平家が滅びたために光行さんは鎌倉に下り、それで鎌倉で「河内本源氏物語」が作られ、定家は京に残っていたから京都で「青表紙本源氏物語」ができたという構図。

一時は二大写本とまでいわれた「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」が、平家の王朝文化のなかで育った一歳違いの文学的感性鋭い二人により成されたということ。これはたまたまではなく、二人のうちにある平家の方々への鎮魂あってこそのことと。(やっと熱い思いが甦ってきました。)

1月10日
昨夜無事に光行さんと平家の関係を書き終わりほっとしたのも束の間、光行さんの鎌倉下向になったら今度は承久の乱や伊賀氏の乱、頼経の代になっての宮騒動など波瀾万丈の歴史が控えていた事に思いが至って茫然。全部書いたら枚数オーバー。鎌倉の源氏物語は余程世情と表裏一体です。

こんな事を忘れてるなんてと唖然としました。最近一つの事(最近では蘭渓道隆)に集中していると他の事に気が回らなくて、それが全くの忘却で頭のなかは白紙。昨夜みたいに思い出すと芋づる式に甦るのですがほんとうに唖然とします。自分のなかで舞台の暗転が起きてます。

4:09の未明の地震M3.6、私は眠っていたけど娘が起きていて、ママ、地震と。どんと音がして揺れたと。音は二回したと。TVをつけても速報がなく、娘が調べたネットでもわからず、地震でなかったらなんなのだろうと不安でした。震源地の杉並区は隣接なので音がしたらしい。嫌な感じです。

鎌倉の源氏物語はありとある中世の内乱をくぐります。光行さんと親行を書いていて承久の乱と伊賀氏の変を書き、もうすぐ仙覚さんの登場だなと思った時に、あれ、比企の乱はどこに?と。そうなんです。光行さん系統の事跡では比企の乱は入ってこない。仙覚さんの事跡はまったく別に流れていました。

これが源氏物語と万葉集という二系列なんですね。比企の乱の年に生まれた仙覚さんは成長して源氏物語の系統に入ってきます。仙覚さんと親行さんが合流するところから見えてくるのが《鎌倉の源氏物語》です。

鎌倉の源氏物語の原稿は仙覚さんが登場して佳境に入ってきました。眠くないし乗っているこのまま続けたいけれど寝ることにして今までの分を印刷。校正しながら休むことにします。それにしても鎌倉の源氏物語の波乱万丈たるや凄い。そしてその華麗な人脈も凄い!。目も眩むばかりの壮大なドラマです。

鎌倉の源氏物語は世の動乱をかいくぐって生きた人たちの大切な遺産。いつの時代も人は世情に翻弄されるしかないけれど、それでも必死にみんな生きてきました。その証の一つが『源氏物語』の二大写本。悲惨さが繰り返されませんように。

1月11日
鎌倉の源氏物語の原稿、正嘉二年に実時が完成したばかりの「河内本源氏物語」を親行から借りて書写したところまできていよいよという思いで興奮状態。しなければならない仕事もあるのにこのまま書き進みたくて日常生活にも気がいかず困っています(笑)。あとは一気に結論へ、です。

鎌倉の源氏物語の原稿、終わりました。20枚だからこれくらい。最終的に題を「鎌倉で作られた高貴な『源氏物語』の写本」としました。論考はまったくのサスペンスだから書いているあいだの謎解きしてゆく興奮がまだ鎮まりません。これから家事の日常に戻って頭を冷やします。

1月12日
NHK朝井リョウさんと東出昌大さんの対談、なんとなく観ています。手が回らなくて読めないし映画も観られないけど、朝井リョウって作家さんはなんとなく気になって見ます。年を重ねたり研究を重ねたりすると例えばツイッターの字面でさえしかつめらしくなる。それを警戒するのにお手本のような。

エゴサーチってネット上で検索して自分がどう思われてるかを知ることらしいけど、二人ともスルと言われてた。落ち込むよなって。そこに朝井さんが、世の中には幸せにしたい人とさせたくない人がいて、したい人は黙って見てる。させたくない人が悪い事を書き込むんだよねって慰めると。うん、と思う。

さわやかな若い人の対談て、いいなと思いました。さわやかにいこう!と。

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2013.2.13 ツイッターから転載…永福寺跡三堂基壇復元完成現地説明会のこと・鎌倉ペンクラブ新年会に出席したこと

1月25日
昨夜の会話。永福寺現地説明会は雨は決行で雪だと中止なんだってと私。雪だと見えなくなるものねと娘。凄い、よくわかったねと驚くと、(私はそういう現実の事に弱いんです)、娘が「せっかく掘ったのですがまた埋まってしまいましたってなっちゃうでしょ」と言ったので大笑いしました。

という事で無事に晴れて鎌倉の永福寺現地説明会に向かっています。久しぶりの遺跡、楽しみです。

大蔵幕府跡碑。左の道を奥に行くと頼朝の墓があります。法華堂跡も。永福寺跡へは右に進んで、大塔宮を過ぎてさらに行ったところです。

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護良親王ゆかりの大塔宮。

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左の樹木が大塔宮。永福寺跡へはこの道を瑞泉寺に向かって歩いていきます。

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永福寺跡碑。テニスコートが目安の位置にあります。

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工事の案内板。この図の復原を見にきました。もういっぱいいらしてるのが見えます。

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こんな感じ。

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感動の光景!

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阿弥陀堂基壇。「河内本源氏物語」の源光行が鎌倉寺社奉行を担当したのはこのお堂。

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永福寺跡、中央の二階堂基壇。

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【永福寺】二階堂はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍、日にかがやき、鳧の鐘、霜にひびき、楼台の荘厳よりはじめて、林池のありとにいたるまで、殊に心とまりて見ゆ。(『東関紀行』)

1月26日
鎌倉ペンクラブの新年会でした。昨日に続く連日の鎌倉です。終わって鎌倉駅前、現在の月。

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宗尊親王御所跡地に昇る満月。鎌倉雪ノ下教会。下の提灯の列は段葛です。

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鎌倉の帰りです。この頃自分の範疇を越えた方のお集まりに出させて頂くことが多く毎週緊張しています。私個人の事だったら失敗してもどうでもいいのですが、河内本源氏物語の将来にかかっているのでなんとかこなそうと頑張っています。慣れない宮中に出仕した紫式部も最初はこうだったのかななどと。

今日お話したある国文学者の方が、武士文化は公家文化の上に成り立っているんですよ、と。武士だけだったら天下はもたない。山賊が武力で統治したって続くものではない。公家文化の文化を見せつける力、その重要性をトップは知っていた。が、歴史学者も国文学者もそれを言わない。それは学者の怠慢と。

ただ武士文化武士文化というだけでは上っ面ですと、ご自分も国文学者だから含めていうのですが、と。始めて耳にしました。鎌倉の方々が何も知らされないでいることについての、学者の怠慢という言葉。その方とお話しているあいだ、なんだかぞうっとしました。厳しいそのご姿勢に。

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2012.9.18 ツイッターから転載…『吾妻鏡』の発表/文治元年12月6日条は『吾妻鏡』の中でも最重要。何故なら朝幕体制が確立してゆく条だから

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9月1日
こんばんは。とわざわざ記すのも変ですがやっと日常が戻った思いの安堵の吐露です(笑)。校正原稿を無事に投函し昨年からの一連の作業がすべて終了。これで気楽になったと思いきや、突発的に携帯の機種変更をして目下通話もメールも不可の状態です。今夜また四苦八苦で使えるまでにもっていかないと!

ひとつひとつ片づけていくしかないけれど山積していると何かポカするのではないかとずうっと心配。でもひとつづつこなしていたら残すはあとひとつだけとなって、これではもう忘れようがないと気持ちがのんびり。明日が終わったらほんとうにもう心機一転。楽しみです!

9月2日
やっと理解できてきた。この時間にならないと気が入らない。『吾妻鏡』の発表担当。前回の続きをするのだけれど、もういったい何の時代をしているのか、現代語訳を読み返して気分を取り戻したところです。義経が大物の出向に失敗し、頼朝が追討の院宣に激怒して後白河院に奏上した文治元年12月の条。

このあたり凄いですね。勝長寿院の落慶があって、義経が大物出港に失敗して逃げ、吉野で静御前がつかまり、頼朝が守護地頭を申請、議奏公卿の設定、刑部卿頼経の解官等々…。光行や比企に集中していたからすっかり忘れていました。思考は物理的に脳内を占拠するらしく、両立は無理なのが辛いです。

9月3日
『吾妻鏡』文治元年12月6日条について少し連ツイさせていただきます。テキストは寛永版影印です。1回につき1ページ上下二段を割り当てられて輪読していて、このページが今日私の担当になりました。『吾妻鏡』中最重要、白眉の条だそう。

というのは、朝幕国家の天下草創のまさにその生々しいやりとりの部分だから。義経が平家を滅ぼした後、後白河院が義経に頼朝追討の宣旨を出し、それに対して頼朝が後白河院に詰め寄って、院は義経追討の宣旨を出さざるを得なくなる。院は頼朝の強引な守護地頭等の要求を容れ、朝幕体制が確立してゆく…

講師の先生は鎌倉幕府の最大功績者は義経ではとまでいわれます。平家を倒した上に頼朝に謀反を起して頼朝と朝廷の関係を築くきっかけとなったから。というくらい、義経は頼朝政権確立に非常に大きな役割をもった。というのがこの12月6日の背景にある歴史です。

12月6日条は、後白河院に対する頼朝の要求内容です。上段は経房に宛てた折紙で、義経に味方した院の近臣らの解官や一連の処置について。続いて下段は兼実に宛てた書状。義経との経緯やそれに対処してきた思いをめんめんと書き綴っています。

この背景にある歴史が、義経の大物津出港の嵐による失敗。何故義経が大物津から出港しようとしたかというと、豊後守刑部卿頼経が義経に加担して、義経を豊後まで逃がそうとしたから。大物津では頼経の手筈で豊後の大神惟栄らが待っていたらしい。上段解官される一人に刑部卿頼経とあるのはその為です。

平家一門は都落ちし、原田種直らに迎えられて大宰府に落ち着いた。それを知って頼経は大神惟栄に下知し、惟栄が大軍を率いて大宰府を襲ったので、平家は大宰府を離れざるを得なくなった…。この内容を受ける記述が下段うしろから四行目の、種直以下4人の所領が没収されているというところです。

これらのことを今日発表で伝えられたのは、たまたま私が「花の蹴鞠」で飛鳥井雅経を主人公にし、雅経の父刑部卿頼経について調べていたからです。角田文衛先生の「義経と刑部卿頼経」にそれは綿密に考証されていて、資料として皆様にお配りしました。歴史に精通する会の方々ですが、これはご存知なく、

「国文学の人もこんなふうに調べるのね」と新鮮に驚かれていました。以前も岩佐美代子先生の『光厳院御集全釈』をそうそうたる歴史学の先生にこれは凄いと驚かれたことがあります。両方の狭間にあって両方の醍醐味を味わっている「お得」をいつも思います。その分いつもアウトサイダーですが(笑)

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2012.6.19 ツイッターの呟きを転載…川端康成学会(於鎌倉)で伊井春樹先生のご講演を拝聴して六浦路を

6月10日
六浦路探訪再開。感覚が遠のいているので現代語訳吾妻鏡を読んでいる。貴志正造訳で頑張っていたのだけれど現代語訳にしたら小説のように楽。実朝の時代から頼経まで、大慈寺から明王院まで、寺院から探る鎌倉の歴史。と、こう書いていてやっと感覚が戻りそうな感。鎌倉に向かっています。

建永元年6月16日、公暁、鶴岡若宮別当の坊から尼御台所の御邸宅に渡られ、着袴の儀式があった。→たしかこのとき公暁は七歳。三年前比企の乱で両親を殺され、若宮別当の尊暁に預けられた。竹御所は妹。このとき竹御所は政子に育てられていたから、この儀式の時兄妹はほぼ三年ぶりの再会?

宗尊親王の御所があった一帯に拡がる空@鎌倉若宮大路

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川端康成学会、伊井春樹先生の川端康成と源氏物語を拝聴。終わって出てきたところです。充実したいいお話でした。帰ったらご紹介させて頂きます。思いかけずまだ明るいのでどこかに回ろうか、思案しています。

鎌倉からバスに乗って六浦路を。朝比奈の峠にさしかかっています。

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六浦湾が見えてきました。ちょっと暗い…もうこちらは横浜市金沢区です。

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途中下車して上行寺東遺跡に寄り道。京急線を見下ろす高台にあります。遠くに見える尾根の中央のV字に切り取られたところが朝比奈切通。その向こうが鎌倉です。

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↑の写真ので、右手に写っている山中に吉田兼好が庵をあんで住んでいました。徒然草に六浦という海のかねさわというところに、というような段があるその六浦です。兼好は金沢文庫で研鑽を積みました。

帰宅しました。先程携帯からアップの吉田兼好の庵跡がある山中…、コンデジですがもう少し見やすい画像を。左下は日蓮上人ゆかりの上行寺。右手上がライオンズマンションでその前に遺跡のレプリカがあります。

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上行寺東遺跡のレプリカです。樹脂でかたどられて設置されています。保存運動が叶わず遺跡は破壊されてしまい、わずかにこのレプリカが残されました。中世の一大墳墓群です。網野善彦先生・石井進先生方が大集結の保存運動だったのですが。

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6月12日
しばらく動の世界で動いていたらやはりどうにも路頭に迷う感。充実は澄んだ言葉の中にしかないかのよう。今日は終日スラヴァを聴いて過ごしました。思い出すことあって…。日々の記録、なんということもないけれど書いています。ふと気づいて見たら五月中旬から真っ白。それを埋めて過ごしました。

日曜日の鎌倉に意味もなくたまたま手近にあったコンデジを持って出て、またたまたま六浦路を通って帰りたくなり、そうしたらかつて通った懐かしい上行寺東遺跡に立ち寄ることになり…、こんなことなら一眼レフを持って出るのだったと、まだ画質の悪い写真の気分の悪さを引きずっています。

上行寺東遺跡には岩盤で彫られた阿弥陀様があって、西を背に座しておられます。遺跡で判明した常行堂からその阿弥陀様を拝すると沈みゆく太陽に向かって行をすることになり、日輪観の場でした。阿弥陀様は発掘時から首がなく、その阿弥陀様が鎌倉を背に座しておられるのを見ると実朝のような気分に…。

この遺跡も、鎌倉も、写真を撮る目的で撮ったことがないからすべてスナップ。いつかゆっくり写真を撮るだけの目的で周りたいと改めて思いました。

采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く(志貴皇子)…最近呟いている上行寺東遺跡、私にはこの歌と切り離せない思い出が。遺跡を辞める決意をしたとき最後に一人この遺跡を訪ねました。遠く朝比奈切通を見遣っていたら突然風に煽られ、立っているのも危うくヒヤッとしたときにこの歌が

脳裡をかすめたんです。そうしたら突然「白拍子の風」という小説のタイトルが浮かんで、采女の時代と白拍子の時代と、遺跡の室町期、そして現代の、四代にわたる、三島由紀夫のような輪廻転生の構想が浮かんで…。そこには全編通しで風が吹きわたっている、というような。

白拍子の時代はもう書きました。そのときに吾妻鏡を読み京都を調べてそれから中世に嵌りました。嵌り過ぎて采女の時代や室町期にはとても及びそうもありませんが、人の頭上を吹きわたる風への思いは今も。その日地上に戻ったらどこにも風なんか吹いてなくて、一体あれは何だったのだろうと怪訝でした。

あまり考えたことなかったけど通史的な中世史に嵌ったのは小説を書き出してからだったんですね。必要で取材したり調べたから。遺跡にいたときはもっぱら陶磁器に嵌っていました。貿易陶磁といって宋の青磁・白磁など。毎年青学で行われていた貿易陶磁研究集会に行くのが楽しみでした!

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2012.5.4 明王院建立に秘められた謎が解けました! そこには竹御所の深い思惑がありました…ツイッターの呟きを転載

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4月26日
@odayuriko
この度、鎌倉の明王院木造不動明王座像が国の重要文化財に指定されました。それで第四代将軍頼経が建立した当時の記録を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から連ツイさせていただきます。発願は寛喜3年(1231)、頼経は14歳。前年竹御所と結婚したばかりです。

@odayuriko
寛喜3年10月6日 御願寺を建てられるとの審議があり、その場所を永福寺・大慈寺などの内と定められた。(略)永福寺内の場所は、御台所(竹御所)の御願寺の場所として内々に決定されたという。

@odayuriko
寛喜3年10月16日 二階堂の内で五大尊堂を建立することになっている場所は、本堂の場所が犯土となる。その方角を調べるよう命じられた(略)戌の刻に武州(泰時)の御邸宅で、尾藤右近入道を奉行として御堂造営の日時定めが行われた。

@odayuriko
寛喜3年10月19日 二階堂の御堂の地を甘縄に改め、城太郎(義景)邸の南、千葉介邸の北で、西山の側に決定された。寛喜3年10月25日 晩になって大風が吹いた。戌の四刻に相州の公文所が焼失した。(略)炎は飛ぶようで、右大将家(頼朝)と右京兆の法花堂、同じく御本尊などが燃え尽きた

@odayuriko
寛喜3年10月27日 両御願寺の新造については、この火災により延期された。寛喜3年11月18日 将軍家(頼経)の御願である五大尊像が造り始められた。寛喜3年12月26日 五大尊像の御衣木加持(が行われた)。導師は信濃法印道禅。

@odayuriko
貞永元年(1232)5月14日 武州(泰時)が政治に専心されるあまり、御成敗式目を計画され、このところ内々に審議が行われており、今日まさにこれを始められたという。←なんと、明王院の木造不動明王座像造立は御成敗式目のできた時代と一致するのでした!

4月27日
@odayuriko
鎌倉の明王院木造不動明王座像が重要文化財に指定されて明日のお不動さんの日では混雑が予想されるそう。私も行きたかったのですがまたの月にして、明王院建立の記事を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から。昨日は発願まででしたので、今日は建立まで進めたいと思います。連投させていただきます。

@odayuriko
貞永元年10月2日 将軍家(頼経)の御願として寺院を大倉に建立されることについて、今日、日時定が行われた。 10月5日 御台所(竹御所)の御堂の地について審議が行われた。(略)御堂の場所は大慈寺の境内に設けられたという。 7日 今日、御堂の場所である大慈寺の境内で地曳始が行われた

@odayuriko
貞永元年10月22日 将軍家(頼経)の御願として、来年に五大尊堂を建てられる事について、まだその場所が決まっておらず、人々に命じてふさわしい場所を探されていた。(略)大倉の奥の地がよいとの審議があり、(略)この地にしようと思われたという。

@odayuriko
文暦元年3月1日 今日、御台所の御着帯が行われた。 7月26日 御台所が御産所(時房邸)に移られた。(略)子の刻になって産気づかれた。 7月27日 寅の刻に出産された。(死産・略)御出産の後に苦しまれ辰の刻に亡くなられた。←竹御所は明王院の建立を見ずして亡くなっているんですね。

@odayuriko
嘉禎元年(1235)2月15日 五大尊堂の門の木作り始が行われた。来月10日に堂舎を建てられるので、まずこの事が行われた。 2月10日 今日、御堂を建てられた。(略)午の刻になってその儀式が行われた。 6月19日 五大堂の梵鐘を鋳造されようとしたが、今日、鋳造に失敗した。

@odayuriko
嘉禎元年6月29日 新御堂の安鎮法を弁僧正定豪が行い、また梵鐘が鋳造し直された。(略)辰の刻に鐘を(鐘楼に)懸け、同じ時に五大明王像を堂の中に安置した。巳の二点に明王院(五大尊堂)の供養が行われるので、将軍家は…出かけられた。(略)午の二点に供養の儀が行われ、曼荼羅供であった。

@odayuriko
明王院建立の引用はこれで終わりにしますが、ここで竹御所が亡くなっているのはショックでした。彼女の結婚生活は数年に満たず、この間に仙覚ら比企氏の残党が帰省を許され、仙覚は竹御所の菩提を弔うために新釈迦堂の住持となるなど、明王院の建立はまさに仙覚の鎌倉での活動初期と重なっていました。

@odayuriko
そして、竹御所の葬儀の奉行をしたのが北条実時。それから頼経が催した歌会には源親行が参加…と、後年の「河内本源氏物語」完成から『尾州家河内本源氏物語』、さらに『西本願寺本万葉集』へと至る萌芽がここにはありました。

4月28日
@odayuriko
やわらかな夏日といった感じの空が広がっています。鎌倉は六浦路にある明王院の建立についての引用を『現代語訳吾妻鏡』から昨夜終わりましたが、一夜明けてわかってきたことが。明王院の建立に際しては発願の最初から頼経室(竹御所)の御堂建立とセットになっていて???、でした。

@odayuriko
場所も永福寺内とか大慈寺内とか両方が一転二転錯綜して幕府の奔走させられている感じ。頼朝が勝長寿院や永福寺を建てたときの確定感がまるでありません。さらに竹御所の御堂の方は先に大慈寺内に建てられたと思うのに名称とか供養の記述がない…。何なのだろう、これ、といった感じでした。

@odayuriko
一夜明けて見えてきたシナリオはこうです。比企の乱で北条氏に両親を殺されながら政子に引き取られ北条氏によって育てられた竹御所は、両親への思いを口にも出せずにいた。が、頼経と結婚して御台所となったとき、将軍家の力をバックに両親供養の堂を建てようと思った。そのとき一緒に頼経も明王院を。

@odayuriko
というか、将軍が明王院を建てるので御台所のもとカモフラージュだったのでしょう。二人は建立発願の前年に結婚しているのです。竹御所は将軍室の権威を盾に仙覚ら全国に潜む比企氏残党の帰省を許していますから、結婚と同時にというか、結婚自体が北条氏に有無を言わさない将軍家の権力獲得でした。

@odayuriko
それまで竹御所は政子の後継者となるべき女性として大事に扱われていました。まさか北条氏も復讐を抱いているとは思わなかった。が、頼経と結婚したと同時に両親の為の堂建立、残党の帰省と次々に牙をむきはじめた竹御所に、北条氏は危惧をもったに違いありません。それで出産をいい折と利用して暗殺…

@odayuriko
実朝を暗殺した公暁は竹御所の兄。公暁も政子に育てられ、政子の配慮で二人は実朝の猶子になるなど目をかけられています。が、二人の内に潜む怨念は根が深かったのです。誰か二人をそそのかす人物がいたのでしょうか。明王院建立の『吾妻鏡』からこんな小説のような背景が浮かび上がりました。

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2011.2.24 早春の風情近い称名寺の裏山に登り、北条実時のお墓に参拝して参りました

金沢文庫では現在「運慶」展が開かれています。『吾妻鏡』を読む会でもみんなで行こうとなって、今日、行ってきました。ちょうど講座の開催日だったらしく、その方々と重なって館内は物凄い混雑をしていました。

展示を観終わって、みんなで外に出て隧道を抜け、称名寺の創設者北条実時の邸宅があった平場でお昼を食べていたときのこと、トンビが突然舞い降りて隣にいたお仲間の人の上を通ったと思ったら、その人が「あ、とられた!」って。トンビがその人の手から食べかけていたパンを奪って持ち去ったのです。

雪が降った翌朝訪れたときも、庭園のなかで撮っていて、この平場で同じ光景を目撃しています。トンビは後ろから襲って、狙った人の頭を足で蹴って、その人が驚いて手を高く掲げたような隙を狙って奪っていく・・・というのがパターンのようです。

トンビを近距離で撮るなら絶好のチャンスですよ! なんて、カメラマン的には思うのです。誰かにパンかおにぎりを持って掲げていてもらえばいいんですものね。でも、襲われた二人の人が口を揃えて言うには「蹴られて頭が痛い」と。危なくて、そんなモデルを頼めません。

その後、引率の峰岸先生の提案で、称名寺の裏山に登ることに。雨がぽつんぽつんと来はじめていましたが、誰も反対することなく登りはじめました。実時の邸宅跡の平場からだと三重塔があったあたりの登り口からになります。これはその登り口にあった案内板です。真ん中の池の突端にあたるところです。その上の赤い八角堂から右のコースへ進むと実時のお墓があります。

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下は『吾妻鏡』を読む会の方々。金沢文庫の入館料は65歳以上だと100円になります。私以外の方は皆様100円で入られたようなメンバー。でも、このとおりの急な石段もものともせず登っていかれます。歴史をなさる方は荘園を訪ねたりでフットワークが軽快でいられます。しかもこの方々は凄いんです。古文書を読みこなせる方々ばかりです!!

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ちょうど椿の咲く季節。階段にも覆っている枝から落ちて赤い椿が綺麗でした。

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階段の途中から見下ろした称名寺の苑園のようす。

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春を感じさせます! シダの芽吹き・・・

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経塚の碑。以前、経塚研究の第一人者でいられる三宅敏之先生に教えていただいた「称名寺の経塚はここだったんだ・・・」と感慨を新たにしました。

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ところどころに赤い椿の花・・・

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頂上の八角堂の場所から見下ろすと、なんと! 称名寺境内を囲う裏山の向こうに見えたのは八景島シーパラダイスと六浦の海・・・。称名寺って、こんなふうな位置だったんですね。

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ここから北条実時のお墓です。金沢北条氏は鎌倉幕府の滅亡時に滅びるので、当主は初代実時から二大顕時、三代貞顕までしかいません。顕時と貞顕のお墓は、実時の邸宅があった平場の奥にあり、初代実時のお墓だけが裏山の山上にあるんです。それでなかなか参拝もできなかったのですが、峰岸先生が今日はどうしてもみんなを案内したいとの意向で実現しました。入口の門の下に、誰が置いたのか二輪の赤い椿が・・・

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下りてきたところは称名寺金堂の裏手になります。画面左側が称名寺境内で金堂はもうすぐそこにあります。その裏手はこのように開けた場所。かつて講堂とか、そのような建物があったと聞いています。寒々しい枯木の裏山に一本の白梅の木が満開でした。

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2010.12.3 山梨県立博物館【甲斐源氏―列島を駆ける武士団―】展のご案内!!

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現在、山梨県立博物館で【甲斐源氏―列島を駆ける武士団―】展という展覧会が開かれています。といっても、10月からすでに始まっていて、来週12月6日には終了という期間ですから、もう最終週・・・。この展示の企画を聴いたときから私も行きたい心づもりだったのですが、11月27日の講演が迫ったものですからそれが終わったらと考えて呑気にしていました。
http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=127&agent=11&partner=nifty&name=%BB%B3%CD%FC%B8%A9%CE%A9%C7%EE%CA%AA%B4%DB&lang=euc&prop=500&bypass=2&dispconfig

昨日2日、峰岸純夫先生が、鎌倉の講演と同じものをと呼んで下さって、日野市のグループの方々に、「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『尾州家河内本源氏物語』ができるまで―」のプレゼンをさせていただきました。そのときに展覧会の期日が迫っていることを聴いて慌ててしまいました!それで急遽明日行くことにして準備しつつ、この記事を書いています。久々の甲斐路・・・、楽しみです。

日野市といえば、以前私もボランティアで参加させていただいた真慈悲寺のあるところ。真慈悲寺というのは鎌倉時代、源頼朝の御願寺だった寺院で、今はまったく廃寺になったまま長く「幻の」という語が冠せられる存在でした。

それが、日野市の百草園での発掘調査の結果、真慈悲寺はこの百草園内にあったことが明らかになりました。百草園は中に入るといろいろ入り組んで至るところに高さの違う平場が造られています。そして一番高いところはかなり狭い広さの平場で、まるで中世ののろし台のような趣・・・と思ったら、やはりそうなのです。のろし台かどうかは別として、この一帯全部が「山城」だった・・・というもの。真慈悲寺はそこにあったのでした。いわゆる山岳寺院です。

真慈悲寺は『吾妻鏡』に名前が出ていますが所在が不明だったために「幻」でした。それが百草園のここと特定されたのには、一体の阿弥陀様のお背中に「真慈悲寺」の名が記された願文が刻まれていたことに発します。阿弥陀様を造った施主の女性が、おそらく鎌倉は安達氏の安達義景の妻で、小笠原氏の娘・・・、それで、今回の山梨県立博物館の展示では、その小笠原氏の関係として、この阿弥陀様が出展にいらした、というわけです。

阿弥陀様は百草園に隣接する百草八幡社に収められていて、毎年一回だけ九月のお祭りのときにご開帳されます。私も拝観したことはあります。でも、施主の女性の故郷にいらして展示会場におられる阿弥陀様にどうしてもお目にかかりたいから、明日出かけることにしたのでした。遅きに失したお知らせかもしれませんが、一応記事にしておきますね。

真慈悲寺のことをお話するとまた長くなりますから、惜しいけれどまたにします。ただ、私としてはこれだけということを書かせて下さい! 施主の女性が嫁いだ安達義景は、例の安達景盛の子息で、安達泰盛の父。安達義景の妻には飛鳥井雅経の娘がいますから、目下雅経を主人公にした連載小説を書いている私としてはその方のほうに親近感をもっていますよね。

けれど、真慈悲寺関係から小笠原氏を調べて書いていられる峰岸先生にとっては施主の女性のほうが重要・・・と、そんなわけで先生と「義景はどっちの女性を愛したのでしょう」などと語らっています。二人の女性は年がかなり違いますから、浮世の倣いで若い女性に分があるとしたら、雅経の娘のほうが有利・・・。峰岸先生もそれは認められて、「あとの方の子供はみんなそっちの女性が産んでいますからね」と、学者さんらしい言をされてました!!

写真は、昨日のプレゼン会場に、峰岸先生の奥様がご自宅の庭で摘んだお花を籠に生けて飾ってくださったもの。まつぼっくりも奥様が持ってらして、籠の位置を決めたあところころと無造作にころがして・・・。お花もまつぼっくりも風情があって嬉しかったです!!

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2010.10.7 「新田・足利を歩く」撮影で・・・上野国新田群庁跡は国指定史跡として広々とした草原の中に!

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昨日の撮影で訪れた上野国新田群庁跡。青い空に緑の草原が映えて、そこに建物の柱穴郡があって・・・。その写真はまだお見せできませんが、こんな史跡があったなんて・・・と感動しましたので、共有していただきたくてパネルの写真を載せました。詳細は以下のサイトでご覧になってください。

ほとんど人の訪れない道路沿いにその史跡はありました。発掘当時は現地説明会が開かれたりで賑わったようですが、遠く離れて暮らす私にはその賑わいは伝わってきてなくて知りませんでした。このパネルも、広々した光景のなかにポツンと立っていました。でも、当時はここが上野国の中心だったのです。遠くに赤城山が見えるはずなのですが、昨日はあいにく雲がかかっていて残念でした。

でも、古代の遺跡発掘はロマンを感じますよね。それに比べて、中世の遺跡は生活を感じます。同じ遺蹟なのに・・・

http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/nittaguntyoato.html

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2010.9.18 9月16日、どしゃぶりの雨の中、中世の新田を歩いてきました!

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猛暑のあとの雨、それもどしゃぶりの16日、中世の新田の地を撮ってまわりました。去年からいつもいろいろと教えていただいている歴史の先生が、「太平記の里を歩く」というテーマで本を出されるので、それに挿入する写真を一緒に撮ってまわらせていただいています。

どしゃぶりの雨はでかけるのに億劫ですが、建物や風景ではかえって快晴より光と影の強いコントラストを避けられて条件としてはいいんです。ただ、それもほどほどによりますが(笑)・・・、16日はいい時もあり、どしゃぶり過ぎて困った時もあり・・・でした。

こういう撮影でラッキーなのは、まわりながら先生の丁寧な解説を拝聴できること。例えば、「あのポストのあるあたりからずうっとこのあたりまで、本来なら堀が延びていて、それが屋敷の敷地内になるのだけど、暗渠になっていて今は見えない。でも、一応、そういう意図でここを撮っておいて!」というふうな感じです。

すると、私は忠実にその構成でシャッターを切りながら、目から入って心に届くまでのあいだに、その光景が中世というフィルターがかかって記憶される・・・。素敵でしょ! 写真家は結構お得な職業です(o^-^o) なんて・・・、今、撮影した全ショットを確認して整理が終わった段階なので、失敗がなかった安堵の余裕の発言。ここにくるまでは、撮れてなかったらどうしよう・・・のはらはらで気が休まりません。

ご著書は「近刊予告」の広告がでたら詳細をお知らせさせていただきますね。とりあえず、ここでは差しさわりのないショットを載せてみました。だから、看板・・・。ごめんなさい。最後の一枚は、二枚目の江田館跡の堀です。手前の堤状になっているのが土橋です。看板にあるような館があった地・・・、それを実際の地面で確認しながら歩くんです。歴史散歩の醍醐味です!!

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2010.8.30 ツイッターに呟く・・・鎌倉の公家文化のこと/将軍御所の位置など!!

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ツイッターへの呟きをまとめてみます。140字の断章・・・呟くと結構思念が広がります!!

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odayuriko    鎌倉の公家文化の活況は、第四代将軍頼経と第六代将軍宗尊親王の時代。頼経が仙覚に『万葉集』の校訂を命じ、宗尊親王が『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』を制作。その背景の政治史として奥富敬之氏『時頼と時宗』を拝読中。将軍家側と執権側の抗争が凄まじい!!

odayuriko    2008年の源氏物語千年紀、京都では『源氏物語』ゆかりの地にたくさんの標識や説明板が建てられた。鎌倉でも随所に碑や案内があるが、ほとんどが武士の関係。公家文化は皆無の気がする。よく将軍御所はこのあたりかしら・・・と思いつつ歩くのだが、鎌倉でも公家文化の標識を建てて貰えないかしら。

odayuriko    以前、田中貴子先生からブログへ問合せメールを頂き、そのとき、鎌倉にはたくさんのお公家さんが下向されていたから、その方たちの住居を掬いだして公家マップを作りたいと言ったら、面白い、是非、と言っていただいた。京下りの文人も含めると、大江広元なんて雅な庭園をもつ邸宅を作ったし・・・

odayuriko    奥富敬之氏『鎌倉北条氏の興亡』によると、将軍頼経の御所は南門が正門で雪ノ下カトリック教会南の東西路に面し、北門は清川病院北の東西路に面し、西は若宮大路よりやや退き、東は妙隆寺山門あたりに比定。宗尊親王の御所はそれを建て替えてできていて、第二期若宮大路御所という。

odayuriko    『時頼と時宗』によると、宗尊親王の新御所はかなり豪華なものだったらしい。寝殿、広ノ御所、二棟ノ御所、中ノ御所、小御所、持仏堂、御厩、東西の両侍所、車宿、泉殿などのほか、東西南北の四門のうちには、池のある南庭や、蹴鞠用の鞠ノ坪もあった・・・。今の光景からは到底信じられない・・・

odayuriko    宗尊親王には、飛鳥井雅経息の二条教定が仕えていて蹴鞠をしていた。教定はこの鞠ノ坪で蹴鞠をしていたのだ・・・と感慨! 教定の息飛鳥井雅有も少年期から宗尊親王に仕え、北条実時の娘と結婚している。それは実時が小侍所別当で教定と親しかったから。教定は親王の下で源氏物語絵屏風を奉行。

odayuriko    と、書けばキリがないので止めますが、当時、鎌倉にはこんなふうに武士文化一辺倒でない光景が繰り広げられていました。そこに『源氏物語』や『万葉集』など文学面での文化も築かれたのでした。

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写真は白峯神宮で行われた蹴鞠です。

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